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最初の近代的巨大都市・1800年代のロンドン

1800年代のロンドンは、最初の近代的巨大都市である。人口が「数百万人」という規模の都市は、イギリスのロンドンが史上初めてだった。1800年代のロンドンについて、インフラなどの、おもにハード面の整備状況をみてみよう。今の都市生活の基本になるものの多くが、当時のロンドンで初めて形を整えたのだ。

目次

 

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1800年頃の100万人都市ロンドン

1500年代のヨーロッパで最大級の都市は、人口10万~15万の規模だった。ナポリ、ベネチア、フィレンツェといったイタリアの都市のほか、パリなどがそうだ。当時のイタリアは「ルネサンス」の時代で、新しい文化がおおいに栄えていた。

しかし都市の規模では、すでに数十万~100万の規模だった同時代のイスラムや中国の都市にはまったく及ばなかった。とくに中国では巨大な都市が発達していた。たとえば1200年代後半、南宋王朝の首都・臨安(杭州)は、人口150万人に達したともいわれる。

ヨーロッパ最大の都市の人口が50万人を超えるのは、1600年代後半のパリとロンドンが最初である。つまりこの頃、ヨーロッパにもイスラムや中国の最大級の都市に匹敵する規模の大都市が生まれたのである。
 
その後1750年頃、イギリスで「産業革命」が始まった。蒸気機関による動力が実用化され、その技術を核として、生産や輸送の機械化がすすめられた。大量生産の機械、鉄道、汽船などによって、生産や輸送のあり方が大きく変わった。産業革命は1800年代前半のうちにはイギリス以外の西ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国にも広まった。

産業革命が始まった1750年頃、ヨーロッパで最大の都市はロンドンだった。その人口は70万人ほどで、すでに世界的な大都市だったといえる。同時期のパリはこれに次ぐ50万人の規模だった。

そして1800年頃には、ロンドンの人口は100万人に達した。1801年には、イギリスで最初の「国勢調査」が行われた。これは、世界でも最も初期の国勢調査のひとつだった(ただし1790年にはアメリカ合衆国ですでに最初の国勢調査が実施されている)。それ以前の時代には国全体の正確な人口統計というものは皆無で、人口については、限られた情報から現代の学者が推定したものである。しかし国勢調査が始まって以降は、信頼度の高い人口のデータが存在するようになった。

 

1800年代に圧倒的な巨大都市に

そして1800年頃から、産業革命の成果が積み重なって、イギリスの産業や技術が世界のなかで圧倒的にすすんでいることがはっきりしてきた。

その後も、ロンドンの人口は急速に増えていった。1851年の国勢調査によれば、ロンドンの人口は270万人である。当時の世界において圧倒的に大きな都市だった。これに次ぐ規模の都市というと、ヨーロッパではパリが100万人。あとはイスラムや中国の大都市が数十万~100万人、江戸が100万人。当時のロンドンの規模は、2位以下を大きく引き離していた。

なお、1850年頃のアメリカ合衆国のニューヨークは70万人だった。アメリカは1776年に独立宣言を行い、イギリスとの独立戦争を勝ち抜いて建国された。その後急速に発展し、1850年頃には工業も盛んになり、世界のなかで大国として台頭しつつあった。しかし当時はまだ「新興勢力」というポジションである。その時代のアメリカの中心都市ニューヨークが、ロンドンの約4分の1に過ぎなかったということだ。しかし急速な発展が続き、1860年頃にはニューヨークの人口は100万人を超えたのだった。

1883~1884年には、ロンドンの人口は500万人に達した。同じ頃のパリの人口は230万人、ドイツのベルリンやオーストリアのウィーンは120万人ほどで、ロンドンにははるかに及ばない。その後も、ロンドンの人口は伸び続け、1895年には600万人、1907年には700万人を超えた。

都市人口の割合をみると、1850年代の時点で、イギリスの全人口の半数が都市に住んでいた。そのような国は、都市国家のような小国ではなく、一定の領域と千万人単位の人口を抱える規模の国では史上初めてだった。1880年代には、イギリス国民の3分の2が都市に住むようになっていた。なお、1890年の時点で都市人口が占める割合(都市化比率)は、西ヨーロッパ諸国の平均で31%、日本16%、中国4%だったというデータもある。イギリスの都市化は、きわだっていた。

そして、1920年代にはロンドンの人口は800万人を超え、1939年には900万人弱となる。これがロンドンの人口のピークだった。

その後、ロンドンの人口は減少し、1980年代には700万人弱となり、2010年代現在の人口は、840万人となっている。以上の1850年代以降の人口は、「グレーターロンドン(大ロンドン)」という、1965年に設定された行政区画(1500平方キロ、東京23区の2.5倍ほど)の範囲における人口である。グレーターロンドンの周辺の郊外まであわせた都市圏全体の人口だと、2010年代現在で1500万人ほどになる。

ロンドンは、1800年半ばから1920年代まで世界最大の都市だった。1930年代にロンドンを追い抜いたのは、アメリカのニューヨークである。

 

産業革命が生み出した

ではなぜ、1800年代のロンドンのような数百万規模の大都市が出現したのだろうか? 一言でいえば「産業革命以後の技術と社会の変革が、このような巨大都市を生み出した」ということである。

ロンドンの人口増加で大きな比重を占めるのは、外部からの流入である。流入の大部分は、イギリス国内のほかの地域からの移住者だが、外国からの移民も一定の割合を占めていた。外国からの移民は、1881年にはロンドンの人口の3%で、1911年には5%となっていた。

ロンドンに移住した人たちは、仕事やビジネスチャンスを求めてやってきたのである。急速に発展した工業における労働者、そこに関わる事務員、多様化した工業製品の流通・販売、さまざまなサービス業、高度の専門家・技術者、官僚・役人、学者や文化人、資本家……工業の発展を核として、さまざまな仕事やビジネスが増え、それに従事する、あるいは従事したい人びとがロンドンに集まったのだった。

1851年のイギリスの国勢調査によれば、ロンドンの労働人口の内訳は、こうなっている。まず、裕福な資本家・高度の専門家・高級官僚などの恵まれた階層の割合は4%。いわゆる「上流階級」と「上層中産階級」を合わせた人びとである。そして、より下位の専門家や公務員、小規模の事業主・経営者といったいわゆる「中産階級」あるいは「小ブルジョワジー」の割合は17%だった。以上を合わせると21%、約2割である。

残りの79%、約8割はいわゆる「労働者階級」の人びとだった。その「8割」のうちの40%(ロンドンの全体の30%)が「熟練労働者」である。一定のスキルや専門性を持って工場や店舗などで働く人たちで、多くが男性だった。また(「8割」のうちの)18%(ロンドン全体の14%)はメイドや召使などの家事労働者で、事務員が2%、半熟練・非熟練労働者が合わせて17%を占めていた。

国内の広い範囲から人びとが集まるうえでは、交通の発達が重要だった。具体的には鉄道の発明と普及である。鉄道に乗れば、それまでの馬車や徒歩よりもはるかに少ない時間や労力で、ロンドンなどの都会に行くこともできる。仕事やビジネスチャンスを求める人びとにとって、ロンドンは圧倒的に魅力的な街だった。そのような大都会へ、鉄道を使えば遠くからも容易にアクセスできるようになった。

世界初の鉄道の営業は、イギリスで始まった。1825年にストックトン~ダーリントン間を蒸気機関車が走ったことが、鉄道の先駆とされる。ただし、より本格的な鉄道営業は、1830年のリバプール~マンチェスター間が最初であり、こちらを「世界初の鉄道」とする場合もある。

その後、鉄道はイギリスの国中に急速に広がっていった。1850年頃にはイギリスの鉄道の総延長は1万キロに達した。この時点で、主要都市を結ぶ鉄道網が一応は完成していたといえる。その後、イギリスの鉄道の総延長は、1920年代にピークの3.8万キロとなる。その後は自動車の普及などによって、多くの鉄道の路線が廃止されていった。2000年頃には、イギリスの鉄道の総延長は1.6万キロにまで減っている。


鋼鉄とガラス

1800年代後半のロンドンは、石造りやレンガの建築がびっしりと立ち並んでいたが、建築に高さの規制があり、最高でも4~5階建てが限度だった。高層化はそれほどすすんでいなかった。しかし、鋼鉄製の巨大な橋(陸橋もあれば川にかかる橋もある)のような、これまでにはなかった新しい建造物もみられた。

鋼鉄とは、一定量の炭素を含んだ鉄の合金の一種で、古典的な鉄以上に硬く丈夫な素材である。鉄器の時代が始まった時代から鋼鉄はつくられてきたが、もともとは量産が難しく、その用途はとくに強度が要求される刀剣などに限定されていた。しかし1850年代にイギリスで鋼鉄を量産する技術(発明者の名にちなんだベッセマー法など)が開発されて以降、さかんに製造されるようになった。そして、現代においても機械や建築の素材として、鋼鉄は最も重要なものといえる。近代の文明を代表する素材なのである。

また、1800年代後半のロンドンの街角では、窓ガラスが多くの窓に使われるようになった。産業革命以降に、ガラス工業が発展した結果である。それ以前のガラスは高価であり、とくに板ガラスの製造は困難だったので、窓ガラスはあまり普及していなかった。商店の窓にはとくに大きな板ガラスがはめられることもあった。今のショーウインドウの原型である。

 

水晶宮とパリのエッフェル塔

鋼鉄やガラスに象徴される素材産業の発展を象徴する建物が、1850年代のロンドンで建設されている。「水晶宮」(クリスタル・パレス)という、鋼鉄製の鉄骨とガラスを素材とする巨大建築で、1851年の第1回万国博覧会のメイン会場となった。

水晶宮の大きさは幅124メートル、長さ563メートルにもなる。プレハブ工法という、あらかじめ工場で部材を完成させ、現地で組み立てるという方法でつくられたものだ。これまでの文明では考えられなかったような建物を、この時代のロンドンでは実現したといえる。

また、この時期(1850年頃)に、今も続く「万国博覧会」という、さまざまな国が参加する国際イベントも始まったということだ。これは「グローバル化」の出発点といえる出来事のひとつだ。

なお、水晶宮は万博終了後に一度解体されたが1854年にはロンドン郊外で再建され、植物園・ミュージアム・イベントホールなどの複合商業施設となった。その後利用者が減少して1900年代初頭に政府(軍)の施設となったが、1936年に焼失してしまった。

また、1889年には当時の世界で「2番手」といえる大都市のパリで、エッフェル塔が完成した。エッフェル塔もパリで開催された万博(第4回)にあわせ、そのモニュメントとして建設された。エッフェル塔の高さ(建設時)は312メートルで、当時の世界で一番高い建造物だった。鋼鉄ではなく、鋼鉄よりも炭素の含有量が少なく、強度ではやや劣る古典的な鉄=錬鉄でできていた。

世界史において、最も高い建築物は長いあいだ紀元前2500年頃に建てられたエジプトのクフ王のピラミッドで、その高さは140メートル余りだった。この記録は、1300年代以降に西ヨーロッパで巨大なカトリックの大聖堂(高さ140~160メートル台)が建てられるまで破られなかった。

1800年代には、一種の「高層建築ブーム」がおこって、欧米の主要国で昔の大聖堂を超える高さの建築(キリスト教の聖堂のほか、アメリカのワシントン記念塔など)も競って建てられたが、いずれも140~160メートル台の高さで、これまでの記録を大きく超えるものではない。エッフェル塔の高さ300メートル余りというのは、建造物の歴史において画期的なものだった。それは、近代の技術の飛躍的な発展を、わかりやすく象徴したものだといえる。

 

大英博物館・図書館

そして、1800年代のロンドンを代表する施設のひとつに、大英博物館がある。水晶宮はイベントのために、当初は期間限定で建てられたものだが、こちらは恒久的なものだ。大英博物館は、1700年代末のロンドンで設立された。設立当初は、今にくらべるとはるかに小さな施設である。現在のような巨大な施設の基礎は、1850年頃につくられた。

大英博物館には読書室(図書館)も設置されている。この「大英図書館」は、1857年に今も使われている大規模な施設がオープンして、現在につながる基礎ができた。

大英図書館のリニューアル当初(1860年頃)の蔵書数は50~60万冊だったが、1881年には、130万冊ほどになった。1900年代前半には、その蔵書数は数百万冊に達した。当時の世界で最大の図書館である。そして、それまでに人類が築いたどの図書館もはるかに凌駕するだけの質と量を備えた施設だった。このような施設は「最初の近代的巨大都市」ならでは、といえるだろう。

 

発達したオイルランプとガス灯

また、1800年代におけるロンドンの街並みの窓ガラスが画期的なら、ガラス窓の向こう側の室内照明も、さまざまな進歩があった。

産業革命の初期の時代、1700年代後半にイギリスの家庭で一般的だった照明器具は、油を燃やして火をともす「オイルランプ」だった。それは、紀元前の時代にあったものと、原理的には同じである。

ただし、産業革命の時代のオイルランプは、ガラスのホヤ(火を覆う円筒)があり、高級品はオイルの燃焼装置にさまざまな工夫によって安定した質の高い光を発し、燃費も追及されていた。そうした高性能の品は、5000年もの歴史を重ねてきたオイルランプの「到達点」といえる。

こうした近代的オイルランプは、1900年代に電灯が普及するまで、世界各地で一般的に用いられた。その燃料には、1700年代から1800年代半ばまでは、鯨油という、クジラからとった油が多く用いられた。この時代の欧米では、鯨油を得るための捕鯨がさかんに行われた。1860年代からは、アメリカで石油が採掘されるようになり、ランプの油には石油がおもに用いられるようになっていった。

その一方、1800年代にはヨーロッパの先進国では、都市部で「ガス灯」が普及した。産業革命の時代の主要な燃料であった石炭に関連して発生するガスを燃焼させて明かりをとるランプである。ガス灯は1790年代に発明された。

ガス灯を市街地や一般家庭で用いるには、燃料のガスを工場で量産し、それを送るガス管を地下に埋めるなどして都市のなかに張り巡らせる必要がある。電灯の場合の電線と同じようなことだ。このようなインフラ整備に基づくガス灯は、1807年にロンドンの一画で街灯として用いられたのが最初である。

その後1820年代までにはロンドン以外のイギリスの主要都市にも、ガス灯が導入された。ガス灯は比較的恵まれた一般家庭にも、ある程度普及したが、とくに街灯などの公共空間での照明として一般的なものとなった。ただし、その普及はヨーロッパやアメリカの都市部にかぎられる。1900年代の電灯の時代の前段階として、「発達したオイルランプとガス灯の時代」があった

 

巨大化による環境の悪化

このように、かつてない規模の巨大都市として繁栄した1800年代のロンドンだったが、巨大さゆえの問題も発生した。人口集中に伴う環境の悪化である。

1899年にロンドン駐在の中国(清)の大使に、ロンドンについて見解を聞いたところ、「あまりにも汚い」とそっけなく答えたという。

当時のロンドンは、“大通りは、どろどろした…馬糞を主体とする汚泥で沼地のようになり、大気は煤まみれで、汚れのかけらが…地上に落ちてくる。独特のいやなにおいが街中に漂う”といった状況であり、「汚い街」として定評があった。ロンドンを流れるテムズ川の汚染も、工場や家庭からの排水や廃棄物によって、ひどい状態となっていた。(リー・ジャクソン『不潔都市ロンドン ヴィクトリア朝の都市浄化大作戦』)

すでに1842年には、チャドウィックという行政官が主体となって議会(国会)に提出した報告書で、ロンドンの環境悪化の問題が本格的に論じられている。報告書では、コレラなどの伝染病の発生率の高さ、ロンドンをはじめとする都市労働者の平均寿命の短さなどの原因は、上下水道の不備などによる不衛生な環境が原因であると述べている。

1800年代半ばのロンドンは200~300万人規模の都市になっていたが、それに見合う上下水道などのインフラ整備ができていなかった

チャドウィックは報告書で、行政がインフラを整備して、環境改善を行うべきだと主張した。これは、今の私たちからみれば「当然」のことだと思えるだろう。しかし、当時のイギリスでは(そして世界の先進国における全般的傾向として)、政府が人びとの生活に関与するのは最低限であるべきだという「自由放任主義」の考え方が有力だった。このため、報告書の主張は多くの批判を浴びた。当時は、「行政がなすべきこと」についての考え方が、非常に限定的だったのである。それに対応して行政の組織や能力も現代とくらべればはるかに未発達だった。

空前の規模に巨大化した都市を快適に維持するだけの対応力が、当時の政府や行政には不足していた。チャドウィックの提言は、なかなか実現しなかった。

 

上下水道の整備

しかしその後、1848~49年と1853~54年に二度にわたるコレラの大流行があり、1858年には「大臭気」といわれる、テムズ川からのかつてない異様な悪臭の発生といった事件が起こった。たしかに当時のロンドンは、ある種の「限界」に達していた。これらの出来事がきっかけとなって、ようやく政治や行政が本格的に動き出した。

上水道については、1852年に成立した首都水道法に基づいて、ロンドンの水道の水源は、汚染されていないテムズ川上流とすることなど、水の品質を確保するための措置がとられた。なお、当時のロンドンの水道は、「水道会社」という許認可を受けた民間事業者が運営しており、当時のロンドンには8つの水道会社があった。

下水道の建設は、1855年の立法に基づいて進められた。建設工事は1858年から始められ、7年かけて全長132キロのレンガづくりの地下水路が建設された。

海の近くに下水の放流口が設けられたが、当初は放流口付近に汚泥が堆積してさまざまな障害が発生した。そこで1889年には、汚水をいったんためる沈殿池をつくって、そこで薬品による処理で汚泥を沈殿させ、上澄みの水だけを放流するようになった。沈殿させた汚泥は、汲み取って専用の貨物船に積み、北海沖に捨てることにした。

このようにロンドンの下水処理システムは、1800年代末に一応は軌道に乗った。このシステムには、大規模な建設の技術、化学工業、大型の船舶(汽船)による輸送力、大きなプロジェクトを運営する行政組織といった、近代的な文明の力が用いられている。

しかし、巨大都市に適合した上下水道の整備は容易ではなく、相当な時間がかかった。それでも、その効果は確かにあった。1866年のコレラの大流行を最後に、1870年代以降のイギリスではさまざまな伝染病が減って、国全体の死亡率も下がっていったのである。

しかしまだ、この時点では環境改善はスタートしたばかりであって、中国の大使が1899年に言ったように当時のロンドンはまだまだ汚かったのである。

また、上水道の供給能力も、1800年代にはまだ大きな限界があった。1800年代半ばには、ロンドンでは水道会社が水を供給できるのは、1日2~3時間、それも週3回程度だった。1881年でも、いつでも水が供給できる水道の普及率は53%である。また、多く労働者階級の家庭では、各戸に水道があるのではなく、共同水道を使っていた。

しかし、今からみれば限界はあっても、数百万の人びとの水をまかなう水道網は、空前のものだったといえる。

水を常時供給する水道が本格的に普及するのは、水道事業が国有化される1900年代初頭以降のことだ。「蛇口をひねればいつでも水が出る暮らし」が世界で最初に成立してから、まだ100年余りしか経っていないのである。

 

地下鉄の整備

また、1800年代のロンドンの環境改善にかかわるインフラの整備として、市内を走る地下鉄の建設もある。

1850年ころ、鉄道網は都市と都市を結ぶもので、都市内の鉄道網は未発達だった。ロンドンは、全国各地の都市に向かう鉄道の起点となっていたが、行先の方面によって異なるターミナル駅が、ロンドンの各地に分散していた。それぞれのターミナル駅を結ぶ鉄道はなかった。ロンドン市内の移動手段には大量の馬車が用いられ、大通りには馬糞があふれていた。新たな鉄道網を市内につくろうとしても、建物が密集しており、用地取得などの点できわめて困難だった。

そこで、「地下鉄」というプランが採用された。世界最初の地下鉄は、1863年に営業を開始した。ロンドンのパディントン駅~ファリンドン駅の約6キロの区間(メトロポリタン線)である。

ただし、当時の地下鉄は蒸気機関車が走るものだった。そして、トンネルの建設方法も、まず堀割をつくって、その上にフタをしてトンネルにする「開削工法」というものだった。フタをする際には空間を適宜残して、そこから機関車の煙を排出した。

1880年代末までに地下鉄網は、その中核である環状線(サークル線)が完成するなど、おおいに発達した。最初の地下鉄路線であるメトロポリタン線(当初の区間からさらに延伸された)の利用者は、1880年には年間4000万人(1日あたり11万人)に達した。

地下鉄によって、ロンドンの交通システムは大きく変わった。その分、馬車の利用は減り、大通りの汚れも緩和されたのである。

そして1890年代になると、「シールド工法」という、深い地下にもトンネルを掘ることができる技術で地下鉄建設が行われるようになった。シールド工法の基礎は、1800年代前半からあったが、それが発達して広く用いられるようになったのである。深い地下のトンネルでは、蒸気機関車を走らせるのは無理なので、電化された車両が走った。その電力供給のための発電所も建設された。つまり、現在のような「深い地下を電車が走る地下鉄」の原型は、1800年代末のロンドンで生まれたのである。ロンドンで下水道インフラの基礎が固まったのと、ほぼ同時期のことだった。

このように、1800年代末には「電気の時代」が始まろうとしていた。エジソンの白熱電球の発明は1879年である。

そして、1900年代の電気の時代を代表する都市はロンドンではなく、ニューヨークとなった。人口1000万に達した初めての都市は、1930年代のニューヨークである。

ニューヨークは、ロンドンで発達した近代的都市の基礎(鉄道、地下鉄、上下水道、鋼鉄とガラスの建造物など)に対し、新たに超高層ビル、自動車の混雑、イルミネーション(電飾)等々の要素を付け加えたといえるだろう。ニューヨークについては、また別に述べる。


関連記事

都市文明に必然的に伴う副作用といえる、感染症の歴史について。本記事で述べた1800年代のロンドンのコレラについても触れています。

  

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参考文献

①アンガス・マディソン『経済統計で見る世界経済史2000年史』柏書房、2004年

②B.R.ミッチェル『イギリス歴史統計』原書房、1995年

③川北稔『イギリス近代史講義』講談社現代新書、2010年 

イギリス近代史講義 (講談社現代新書)

イギリス近代史講義 (講談社現代新書)

 

④松村伸一「19世紀末文化の環境としてのロンドンと女性たち」青山女子短期大学総合文化研究所編『青山学院女子短期大学総合文化研究所年報14』2006年12月25日

⑤大澤昭彦『高層建築物の世界史』講談社現代新書、2015年 

高層建築物の世界史 (講談社現代新書)

高層建築物の世界史 (講談社現代新書)

 

⑥松村昌家『水晶宮物語 ロンドン万国博覧会1851』ちくま学芸文庫、2000年 

水晶宮物語―ロンドン万国博覧会1851 (ちくま学芸文庫)

水晶宮物語―ロンドン万国博覧会1851 (ちくま学芸文庫)

 

⑦乾正雄『ロウソクと蛍光灯』祥伝社新書、2006年

⑧リー・ジャクソン『不潔都市ロンドン ヴィクトリア朝の都市浄化大作戦』河出書房新社、2016年 

不潔都市ロンドン: ヴィクトリア朝の都市浄化大作戦

不潔都市ロンドン: ヴィクトリア朝の都市浄化大作戦

 

⑨長島伸一『世紀末までの大英帝国 近代イギリス社会生活史素描』法政大学出版局、1987年 

世紀末までの大英帝国―近代イギリス社会生活史素描 (叢書・現代の社会科学)

世紀末までの大英帝国―近代イギリス社会生活史素描 (叢書・現代の社会科学)

 

⑩A.ブリッグス『マルクスインロンドン ちょうど100年前の物語』社会思想社、1983年

⑪ウェブサイト「英国をもっと好きになるニュースダイジェスト」(www.news-digest.co.uk)2013年1月9日「誕生から150年  ロンドンの地下鉄 その歴史に迫る」

(以上)