そういち総研

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ルソー的文明批判の現代版 『サピエンス全史』の「農業は詐欺」

2016年に日本語版が発売されたユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史(上・下)』(河出書房新社)はベストセラーとなった。この本の「文明によって人類は幸福になったのか?」という問いかけを新鮮に感じた人は少なくない。そして、その「根本的」な文明批判のスタンスに惹かれた人もいる。この本には「農業は史上最大の詐欺だった」という印象的なフレーズがある。本格的な農業の開始という世界史上の大きな革新を「詐欺」と批判したことに驚いた読者がいたのである。しかし、このような文明批判は、基本的には1700年代の思想家ルソーも述べている古典的なものだ。『サピエンス全史』は、ルソー的文明批判の現代版なのである。

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ルソー

目 次 

 

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文明によって幸福になったか

「文明によって人間は幸福になったのか?」という問いかけが、たまになされる。
多数派の一般的感覚では「文明というのはいいものだ」ということになるのだろう。5000年余り前のメソポタミアで一般に「最古」とされる都市文明を築いたシュメール人の主流派も、その考えだった。


シュメール人は灌漑農業の技術などをもとに、数万人規模の、当時としては空前の巨大都市を築いた。その都市は、住民の大多数が農耕に従事する農業中心の社会だったが、大昔の「自然とともに生きる、のどかな世界」などではない。灌漑農業で自然を大規模に改造し、国家の組織、文書記録のシステム、さまざまな資源を輸入し工芸品を輸出する貿易等々――こうした要素を備えた、正真正銘の「文明社会」だった。シュメール人の官僚や技術者を、現代のオフィスや工事・生産の現場に連れていったとしたら、そこがどんな場所で何をしているのか、本質的なところはすぐに理解できるだろう。


当時のシュメール人はコムギやオオムギなどでつくったパンを食べ、ビールを好んだ。それらを日常的に口にできることは、都市での文明生活における大きな喜びだった。

シュメールの代表的な物語で最古の文学ともいわれる「ギルガメシュ叙事詩」には、そのような価値観が表現されている。ギルガメシュは、紀元前2600年頃に実在したと考えられる、シュメールの都市・ウルクの王である。ウルクは紀元前3500年頃に成立した、シュメール人の都市のなかで最古の代表的な都市だ。ギルガメシュ叙事詩の最古の写本は紀元前2000年頃のものだが、その原型や素材の成立はさらにさかのぼるとみられる。


この叙事詩のなかに、登場人物のエンキドゥという裸で暮らす野生児の男に、文明人の若い女性が、パンやビールをすすめる一節がある。パンは「人間の生きる糧」だと、女性は言った。そして、腹いっぱいパンを食べ、ビールを7杯飲んだあとで、エンキドゥウは汚れた身体を油で拭いた。それでこざっぱりと文明人らしくなったということだ。

このように、ギルガメッシュ叙事詩では、パンを食べビールを飲む文明生活を推奨している。しかし、それは人間とって本当に幸せなのか?

 

ルソーの『人間不平等起源論』

1700年代のフランスで活躍した思想家ルソー(1712~1778)は、この問題に関わる古典的な考察を残した一人だ。ルソーは『人間不平等起源論』(1755)という著作で、「文明以前の自然状態の人間は平等だったが、文明や国家の発達にともなって不平等が拡大し、さまざまな苦痛が大きくなってしまった。とくに、暴虐な専制的国家のもとではそうなってしまう」というストーリーを語っている(「専制的」とは、政治学的な用語で独裁的ということ)。

  
ただしルソーは、これはあくまで仮説的なストーリーであり、史実かどうかはわからないとあらかじめ断っている。また、「自然状態に帰れ」とは断言していない。彼は文明を全面的に否定するのではなく、文明社会が生んだ究極の不平等社会である専制国家を批判したのである。また、そもそも「自然状態」そのものが事実として存在したかどうか不確かだと断っている以上、「そこに帰れ」という主張を展開することは理屈にあわない。


ここでは、ルソーの思想の主旨がどうだったかよりも、ルソーの思想のひとつの側面――「文明批判」的な側面を取り出して問題としたい。つまり「文明によって人類は、文明以前のときよりも不幸になったのではないか」という主張である。


ルソーに直接・間接に影響を受けた人びとの多くは、その思想に「自然状態に帰れ」的なメッセージを感じて、強く惹かれたのだった。またルソー自身も、最初のうちは人類の「自然状態」は仮説的な「憶測」だと述べているが、その「憶測」について展開するにつれ、確信に満ちたトーンで語るようになっていく。

農耕の開始や金属器の使用などの、文明の基礎となった技術革新にについて、ルソーはこう述べている。

冶金と農業とは、その発明によってこの大きな革命(そういち注:新石器革命や都市革命にあたる変革)を生み出した二つの技術であった。人間を文明化し、人類を堕落させたものは、詩人からみれば金と銀であるが、哲学者からみれば鉄と小麦とである
(『人間不平等起源論』岩波文庫、96~97㌻、本田喜代治・平岡昇訳)

 

ルソー的な「文明批判」の現代版

ルソー的な「文明批判」の思想は、さまざまなかたちでくりかえしあらわれ、現在も一定の力を持っている。たとえば、「一般的な狩猟採集民の栄養や健康の状態はかなり良かったが、農耕中心の生活では、労働はきつくなったのに、多くの人びとの栄養状態は悪くなった」という主張がある。ルソーも『人間不平等起源論』で、「自然状態の人間の健康状態は良好で、ほとんど薬も医者も必要なかった」という主旨のことを述べている。


近年のベストセラーであるユアル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』も、そのような見解に立って書かれている。この本には、「農業は詐欺だった」という印象的なフレーズがある。

“人類は農業革命によって、手に入る食料の総量をたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は史上最大の詐欺だったのだ
(『サピエンス全史』上巻107㌻、柴田裕之訳、太字はそういちによる)

 

これは、「鉄と小麦が人類を堕落させた」というルソーの主張の現代版といえるだろう。


そして、農耕の暮らしが多大な苦痛をもたらすようになっても、人びとはそれに慣れきって後戻りできない状態になっていたので、農業は放棄されることなく存続した。さらに、どんどん深みにはまっていった結果、文明が発展して今日に至っている、というわけである。『サピエンス全史』では、“贅沢品は必需品となり、新たな義務を生じさせる”と述べる。贅沢品とは、文明のさまざまな産物である。そして、現代文明の家電や情報機器などを例にあげている。農業が詐欺ということは、文明は詐欺ということなのだろう。(同書上巻117㌻)


たしかに、一度靴をはく暮らしに慣れたら、もう裸足には戻れない。また、初期の農耕社会の多くの人びとが、一般的な狩猟採集民よりも食物の多様性が乏しく、栄養的に劣った食生活をしていたということについても、一定の学問的な説がある。(例えばマーク・N・コーエン『健康と文明の人類史』人文書院  1994年、コリン・タッジ『農業は人類の原罪である』新潮社  2002年など参照)

つまり、狩猟採集生活と比較した農耕生活のデメリットについては、先行するいくつもの説や主張があり、『サピエンス全史』はそれをふまえているのである。


そして、農耕が発展した結果生まれた都市文明にも、人びとに苦痛をもたらす面があったことはたしかだ。たとえばウルクのような過密な都市での暮らしが、衛生面などでさまざまな問題を生み、健康に悪影響をもたらしたということはあっただろう。だからこそシュメール人の都市でも排水設備は重要であり、一定の下水など当時としては最先端のインフラが整備された。都市における衛生の問題は、都市文明以後の人類の歴史において深刻で普遍的な問題だった。農耕や都市文明には、狩猟採集社会と比較して一定のデメリットが存在するのである。

 

「詐欺」というには長続きしたスキーム

しかし、だからといって「農業は(そして文明も)詐欺だ」というのは、飛躍した話ではないだろうか。一般に詐欺というのは、たとえばマルチ商法のような偽のビジネスのように、一度踏み込むと抜け出せなくなるような仕掛けがある。なお、「偽のビジネス」とは、真の顧客や収益源が存在しないということだ。しかし、そのような偽のビジネスは比較的短期間のうちに破たんして、スキームが成り立たなくなってしまうものだ。


だがもしも、そのスキームが何十年も存続して加入者を増やしていったとしたら、それは正当な「ビジネス」だったということになるだろう。たとえば成功したフランチャイズチェーンや投資ファンドというのは、そのようなものだ。

メソポタミアのウルクなどを皮切りに、世界で初めて全面展開するようになった都市文明というものも、ずいぶんと長期にわたって破たんすることなく存続し続けた。


このスキームでは、ビールやパン、そのほかの快適さや娯楽、身の安全といったメリットで多くの人びとを都市にひきつけ、人びとはそこから離れられなくなった。さきほど引用した『サピエンス全史』の一節でいう“飽食のエリート”が権力者や専門家として都市をコントロールした。都市を成立させ支えたのは、おもに灌漑農業の発達だった。


都市はますます巨大化し、ウルク以外にもメソポタミアだけでも十指に余る数の大規模な都市ができていった。都市というスキームに参加する人びとの数はどんどん増えていった。

そして、その行きつく先は破たんや崩壊だったのか? そんなことはない。個々の都市の興亡ということはあったが、都市を核とするメソポタミアの文明は、ウルク以来少なくとも3000年もの間、連続性を保ったまま存続した。

たとえばウルクで生まれた世界最初の文字である楔形文字は、最後は細々とだが紀元前1世紀まで、西アジアで使われ続けた。ウルクにかぎってみても、少なくとも2000年ほどの間(紀元前1500年頃まで)は、メソポタミアの主要都市のひとつであり続けた。ウルクが完全に消滅するのは、西暦200年代にイランやメソポタミアを支配するようになったササン朝ペルシアの時代のことだ。


たしかに文明の始まりの時代に生まれたメソポタミアの都市は、最後には消えてしまった。しかしそれは詐欺的なものが破たんしたのではなく、100年200年と続いた老舗企業が時間をかけて衰退し、倒産あるいは廃業したようなものだ。


そして、ウルクやその他のメソポタミアの都市が滅びたあとでも、その伝統を受け継ぐさまざまな文明が、世界史のなかで展開していったのである。


それにしても、これほど長続きしたスキームを「詐欺」と呼ぶのは、詩のような文学的表現としてはともかく、現実を理解するための学問としては無理な話ではないだろうか。


たしかに、文明にはデメリットや副作用、あるいは限界といえるものがある。しかしだからといって「文明は詐欺」だというのは、「根元的で深いこと」を述べているようにもみえるが、やはり飛躍した話なのだ。

 

まず神殿ありき?

また、考古学者のなかには、都市や国家の誕生において、宗教的な動機を重視する人たちもいる。この「宗教重視」の立場からは、「まず神殿ありきで都市や国家が発達した」という主張がある。『サピエンス全史』にも、その傾向がみられる。


メソポタミアの都市文明における「まず神殿ありき」の説として、神殿都市論(神殿経済論)というものがある。都市文明の初期の時代には、耕地はもっぱら神殿の所有であり、神に仕える神官たちが経済を仕切っていた。そして、その後世俗の経済がとってかわったというのである。


さらに、宗教重視の立場からは「宗教的なことを書き記すために文字が生まれた」と考えることもできるだろう。しかし先ほど述べたように、ウルク古拙文書という最古の文字記録をみるかぎり、書き記した側のおもな関心は世俗的なことにあったようだ。

ウルク古拙文書とは、ウルクで最初の文字システムが生まれた紀元前3300年頃から2900年頃にかけての文書である。粘土板に刻まれた当時の文書が5000点ほど発見されている。その8割は、穀物や家畜の管理のための、モノ・数量の記録である。あとの2割は「語彙リスト」といわれる、さまざまな単語が記されたものだ。当時、読み書きは専門的な知識であり、読み書きの専門家=書記をめざす生徒が「語彙リスト」で勉強したとみられる。

 

当時の社会において、宗教が重要な役割を果たしていたことは十分にあり得る。しかし、「まず神殿ありき」のような過大評価をしてはいけないのではないか。


シュメール人の都市では、それぞれの都市の「都市神」というものが信仰された。たとえばウルクの都市神は、イナンナという豊穣や美などをつかさどる女神だった。こうした都市神は、イナンナもそうだったが、ほかの都市でも崇拝の対象となったので、シュメール人の宗教は一種の多神教である。そして、各都市では神をまつる神殿があり、神官の組織によって運営されていた。その「神殿」についての位置づけ・評価は、専門家によって意見が分かれている。


神殿都市論は目新しい説ではない。1920年代にダイメルとシュナイダーという学者が唱えて以来、「旧説」といわれながらも、かなりの影響力がある。しかし、神殿都市論への反対者は少なくない。たとえば初期のメソポタミア史を専門とする考古学者・前田徹は、神殿都市論を“同時代資料の安易ともいえる利用による”説だとつよく批判している。(「初期メソポタミア社会論」『岩波講座 世界歴史2 オリエント世界』岩波書店、1998年)


前田のように数多くの粘土板文書を慎重に読み解いてきた研究者からみると、神殿都市論は、十分な証拠に基づかず想像をふくらませてつくりあげたフィクションに思えるのだろう。

 

「反常識」の魅力

「まず神殿ありき」という説は、「物質的な生産を基礎に文明が成立する」という通説的な見方に真っ向から異をとなえるところがある。その点で「農業は詐欺」というのと共通している。こういう見解に「常識をぶっ壊す」主張としての魅力を感じる人も多い。授業で先生が言っていた退屈な話を超える、より深い真理を得たような気持ちになれる―ーそういう魅力があるのだ。『サピエンス全史』のなかにある「反常識」も、文明のさまざまな副作用に対し問題意識を持つ、まじめな多くの人たちを惹きつけた。

「文明は詐欺だ」という主張に対立するものとしては「文明の問題は文明によって解決するしかない」という考え方があるだろう。たとえば都市の過密が衛生や健康に悪影響をもたらすなら、上下水道を整備したり、予防接種を行ったりするということだ。常識的で退屈かもしれないが、ほかに何があるのだろう?

じっさい、人類はそのような「文明による文明の問題の解決」を積み重ねてきた。それが世界史の歩みだったともいえる。

しかし「文明は詐欺だ」という見方にハマってしまうと、そのような世界史の歩みがみえなくなってしまう。文明について真剣に考えたいという人たちの問いかけが歪んでしまうのである。残念な、困ったことだと思う。しかしそれでも、ルソー的な文明批判というのはこれからもリニューアルされながら、何度もあらわれるのだろう。文明というものにさまざまな副作用がある以上、そうならざるを得ない。

 

 

シュメール人の都市文明については、当ブログの次の記事を。 blog.souichisouken.com