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感染症によって、世界はどう変わってきたか。新型コロナ以後どうなるのか

当ブログでは、このところ「感染症とは人類にとって何か」というテーマに沿った記事を続けてアップしています。2020年4月19日の記事では「感染症は、文明に必然的に伴う副作用」であるという、基本となる見方を述べました。4月23日には「とくに知っておくべき、甚大な被害をもたらした世界史上の感染症の事例」について述べています。今回は「感染症によって世界はどう変わってきたか」「今回の新型コロナウイルスの場合はどうなるか」ということについて述べていきます。一応の「まとめ」といえるものです。

(2020年8月14日付記)コロナ後の世界について、考えをさらにすすめた、より新しい見解をまとめた記事をアップしました。 

  

  

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目 次

 


中世のペスト大流行以後の変化

大規模な感染症の被害は、その後の社会に影響を確実に残します。1300年代のヨーロッパでのペストの大流行では、ヨーロッパの全人口の3分の1にあたる2500~3000万人が犠牲になりました。そして、人口が大きく減ったために労働力の不足が起こって、農民や労働者の賃金・待遇が改善されました。一方、隷属的な農民を支配していた従来の領主の力は後退していきます。さらに、多くの庶民の消費水準が上がって、品質の良い衣類への需要が高まり、毛織物産業の発展が後押しされる……そんな変化がありました。

そして、行政の組織・国家権力の発達ということも、その後すすんでいきます。感染症のような社会の危機に(たとえ限界があっても)対処できるのは、やはり国家の行政です。1300年代のペスト大流行の直前の時代は、ヨーロッパ(西欧)ではカトリック教会が大きな権勢を持っていましたが、ペストの流行に対して当時の教会は、当然といえば当然ですが、なすすべはありませんでした。そのことは教会の権威低下につながったのです。一方で、国家の株は上がったわけです。ペストの惨禍のなかで、神に救いを求める人も当然いたわけですが、大きなすう勢としては現世的な組織の強化がすすみました。

国家権力の強化には、このほかに戦争や経済発展なども深く関わっていますが、ペストなどの感染症もそれを後押ししたひとつの要因といえるでしょう。1300年代の大流行以後、1700年代初頭まで、ペストはくり返しヨーロッパを襲ったので、その影響は深く長期的なものでした。

1800年代後半には、イギリスのロンドンで上下水道などの衛生インフラの整備が進み、その後欧米をはじめとするほかの国ぐににも広がっていきました。このインフラ整備は、汚染された水から広がるコレラなどの感染症の蔓延が背景にあります。

そして、積極的なインフラ整備は、国家・行政サービスの強化ということです。これに対しては、国家の介入を最小限にとどめるべきという、当時の「自由放任主義」の立場から反対もありましたが、社会は国家・行政の強化へと動いていったのです。

 

命や健康を大切に扱う

以上は、中世や1800年代といった昔のことですが、「甚大な感染症被害による社会変化」の一般的な傾向を示していると思います。未発達なかたちではありますが、現代社会にも通用する面がある。つまり、感染症の大きな被害を受けると(とくにそれがくり返されると)、命や健康というものを前よりも大切に扱うようになるということです。

それはまず、生活の志向・消費、労働市場の変化ということにあらわれる。そして、産業構造の変化をもたらす。医療、食品、住居、水道・電気・情報通信などのライフライン、生活必需品の流通・販売、命や健康にかかわる情報・教育など、「命や健康を守ってくれるもの」の重要性がつよく認識され、そこに以前よりも多くのお金、知恵・労力が投じられるようになる。

この傾向は、とくに先進国では顕著になるのではないでしょうか。ただし、社会の誰もがこれに同調するのではなく、命や健康への志向が強い人たちと、それ以外の人たちとのあいだの差が大きくなることも十分考えられるでしょう。そして、その「格差」は、おもに貧富の差を反映したものになるのではないか。これは今までにもあったことだとは思いますが、さらに拍車がかかっていく。

なお、人が集まり移動することを前提にした、店舗での販売・飲食、観光、シアター系のエンタメ、トレーニングジムや教室、航空などの運輸といった産業は、少なくとも当面のあいだ深刻な被害を受け続けるにちがいありません。これは、多くの人が心配している通りだと思います。しかしこれは、比較的短期の変動になるはずです。もちろん、だからといって「重大ではない」というのではありません。また、それなりの回復があったとしても、後遺症は残るはずです。ただ、ここでは中長期の変化をテーマにしたいので、これらの「当面大打撃を受ける経済」に関しては、またの機会に。

 

政府への期待とその強化

それから、政府・行政に対する期待や依存心が高まり、その強化がすすむということがあるでしょう。

そこには、ITの技術を用いて個人の行動を把握するような、プライバシーに深く踏み込むようなことも含まれます。一方で、「緊急事態」の際の金銭的支援も強化される可能性があります。何かあったときに、すぐに政府からの支援金が受け取れるといった制度が整備されるかもしれない。いわば「緊急事態限定のベーシックインカム」です。これは、人びとが政府からより厚く守られるということです。

日本での「各人に10万円支給」のように、国民全員などのきわめて広い範囲にこれだけのお金を一挙に支給するというのは、現代の先進国が歴史上初めて行ったことです。その内容や支給のスピードなどについて課題があるとしても、これほどの役割が政府に期待され、政府がそれをある程度は果たし得たというのは、画期的なことだと思います。政府はこれからも、いろいろなことを期待される。

 

平常時からパンデミックによる緊急事態を織り込む

このような変化は、さらに言えば、社会が「平常時から、パンデミックによる緊急事態を織り込んだ社会運営をする」ようになる、ということです。それは、いざというときに人びとの行動が制約されても、混乱やダメージを最小限にできるように、さまざまなインフラや社会的ルールを整備しておくことです。

つまり、「感染症の蔓延がこういう事態になったら、こうする」ということを、国家レベルから職場、個人のレベルまであらかじめ計画し、平常時から準備しておく。

たとえばテレワーク、遠隔診療、オンラインの授業やミーティングといったことを、社会のさまざまな場所で普段から多くの人が行うわけです。そのための道具や設備を、誰もが使えるように準備しておく。飲食的や小売業などの店舗では、営業が制約されても可能なネット通販や宅配のようなビジネスを普段から開拓しておく、といったこともある。個人は「緊急時にどうするか」について、さまざまな備えをしておく。

政府や自治体は、さまざまな救済策のメニューをあらかじめ策定し、いざとなったら一定の要件のもとに粛々と実行する。今回の日本政府のように「いつ緊急事態宣言を出すか」「困窮世帯に30万円か、各人に10万円か」で紛糾したりしないようにする。

もちろん、医療や検査、保健衛生の体制については、緊急事態に備えた組織の強化、そして必要物資の備蓄、供給体制の構築などが必要です。非常時において医療の現場を社会が支える体制を、きちんと準備しておく。高齢者施設などの福祉の現場も同様です。今回、韓国や台湾はこのような準備が、日本とくらべてできていたわけです。

また、今回の緊急事態で起こったような人権侵害(たとえばDVの増加、感染した人への差別、「自粛警察」的ないじめ・リンチなど)への対処についても、あらかじめ用意が必要でしょう。中世ヨーロッパのペスト流行のときには、「ユダヤ人が井戸に毒をまいたのがペストの原因」といったデマが広がり、ユダヤ人への激しい迫害がありました。感染症が蔓延すると、とくに不利な弱い立場の人びとに対する人権侵害が起こりやすくなるのです。

 

「社会の進歩を促す」側面

以上の備えは、社会にとって相当な労力・コストを要します。政府の施策については、財源確保のための増税ということも議論されるでしょう。そして、これらの課題は多くの国で検討されるはずですが、どこまで実現できるかは、それぞれの国の政府や国民しだいということになる。

ここで述べた「命や健康を守る」ための変化は、社会として「人びとの命や健康を非常時にも守ることができる体制」を築くということです。そしてそれは、これまでにないレベルでの安全を実現する「社会の進歩」といえるでしょう。感染症には「社会の進歩を促す」側面がある、ということです。正確には「感染症はすでにある程度進んでいた変化を加速させる」ということかもしれません。もちろん、感染症がもたらす変化は良いことばかりではないでしょうが、ここではポジティブな面に、とくに注目したいと思います。

ただし、(くりかえしますが)これからの社会が「命や健康を守る」ための変化をどこまで実現できるかはわかりません。社会がその方向で合意し、実行するかどうかにかかっています。今の新型コロナの流行が沈静化し平穏な状態が何年か続けば、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということで、さまざまな準備や変革への関心は失われてしまうかもしれない。

 

社会不安から「反文明」の高まりもあり得る

なお、「感染症が社会の進化を促す」というのは、中世以降のヨーロッパや、最近までの現代世界のようなある程度以上活気や成長性のある社会にはあてはまるでしょうが、いつもそうなるとはかぎりません。

1500年代のアステカやインカの場合は、侵略者であるスペイン人が持ち込んだ天然痘などの感染症が蔓延し、それが国家の崩壊や人口激減(百数十年で9割近い減少)の大きな原因になったといわれます。この場合は、侵略の圧力はありましたが、アステカやインカの社会は感染症の蔓延という事態に耐えられず、崩壊してしまったということです。

また、古代のローマ帝国でも、中世ヨーロッパや近代社会とは異なる社会の反応がみられます。マクニールは著書『疫病と世界史』のなかで、西暦100~200年代のローマ帝国では感染症の蔓延が続いたが、感染症の蔓延とその時期にキリスト教が帝国内で広まったことは関係があると述べています。恐ろしい病が蔓延する時代のなかで、キリスト教は不安な人びとにとって救いとなる教えだった。また、キリスト教徒が感染症の流行時にも、信者のコミュニティやその周辺で献身的に病気の人たちを助けたことも、キリスト教への支持を増やしたのだと。

これはマクニールの仮説であって、確かとはいえませんが、あり得るとは思います。当時の医療や国家の力では、パンデミックに対してなすすべがなかった。そこで、宗教的なものに救いを求めるのはやむを得なかったのかもしれません。

だから、現代においても、もしも感染症の蔓延に対して期待に応える十分な対応を医療や国家ができなかったら、科学や国家に背を向ける反文明的なイデオロギーや宗教が力を持つことはあり得るでしょう。感染症による社会不安から「反文明」の動きが高まるということですが、これは避けたい。

 

私たちに求められること

今回のコロナウイルスへの対応で、大事なのは「科学的に理になかった、なすべきことを行う」ことでしょう。「科学的に問題に対処する」ということ。あたりまえといえばあたりまえですが、それしかない。

私たちは、古代や中世の人びとには想像もつかない、感染症に対応するさまざまな手段を持っています。たとえば今回の新型コロナでも、流行が始まってからあっという間に病気の原因となるウイルスを特定してその遺伝子を解析したりしているのです。有効性が期待できる薬もすでに開発がすすめられている。行政や病院の組織も、課題はいろいろあるにせよ、少なくとも先進国では相当に発達しています。

しかし、かつてはそうではなかった。たとえば1720年頃のフランス南部では、ヨーロッパで最後となるペストの流行がありましたが、そのときに流行の中心となった人口10万のマルセイユでは、内科医は11人、外科医は30人しかいませんでした。

この流行でマルセイユでは4万人が死亡し、医師の多くも病に倒れて、あわせて数人ほどになってしまった。市役所も、大勢の役人が市外に避難したり病気で亡くなったりして、組織はほとんど機能しなくなった。当時の医療も行政も、ある程度は発達していたとはいえ、現代からみればささやかな組織しかなく、感染拡大ですぐに崩壊してしまったのです。なお、この当時(1700年代)は、古代や中世の頃よりもはるかに多くの記録が残っているので、このようにある程度具体的な様子がわかります。

 

指導者は「科学的な対処」ができているか

だから、「現代の文明が持つさまざまな道具や組織を、科学的にうまく使う」ということが、とにかく大事です。でもその「あたりまえ」は、いろんな要素によって妨げられてしまうかもしれません。

今までの状況をみるかぎり、たとえば国家の指導者にしても「科学的に問題に対処する」こと以外の何かを大事にしている様子がみられないでしょうか? 何がその「妨げ」になるかは、国によってちがいがあり、そこにそれぞれの国の特徴があらわれています。

独裁体制の中国では、感染拡大の初期に情報の隠ぺいがありました。こうした隠ぺいは、独裁国家では日常的です。アメリカでは、今年の選挙を意識した大統領が、自分の経済政策の成果に暗雲を投げかける新型コロナについて、当初は極端に過小評価しようとしていました。こうしたことは、それぞれの国の権力のあり方を反映しています。

日本では、さまざまな組織・関係者のあいだの思惑や利害の調整に手間取って、政府の意思決定のペースが遅い傾向がみられます。これは独裁的な権力が存在せず、一方で法律による系統だった規制も弱い日本の社会や政治のあり方を写し出しているのです

私たちは「科学的に問題に対処する」ということを大事にして、そこから逸脱する動きが政府や指導者にみられたら、批判的な目を向けるべきでしょう。そして、現場で「科学的に問題に対処する」ことに真剣に取り組んでいる人を応援していきたいものです。

たとえば、1800年代半ばにイギリスのロンドンでコレラの流行があったとき、スノウという医師は、どこで患者が発生しているかを詳細に調査して、史上初の「感染地図」といわれるものをつくりました。スノウは、特定の水源を利用しているエリアでとくにコレラが蔓延していることなどを示し、それまで知られていなかった「水の汚染とコレラの因果関係」を明らかにしていきました。彼の研究に対し、当初は無理解や批判もありましたが、それをのり越えて重要なことを解明したのです。私たちは、こういう人の足を引っ張ってはいけない。

そこで、私たち一般人が「何が科学的か」を知るうえでマスコミの役割は重要です。正しい内容をいかにわかりやすく、効果的に伝えるか――深刻で急を要する問題のなかでは、高いレベルが要求されるのでしょう。そのレベルの仕事ができるマスコミ人は、貴重な存在です。なかなかいないかもしれません。

そして、世の中を見わたすかぎり、「科学的に問題に対処する」という姿勢を持っている人は、社会のいろんな場所にいると、私は感じています。感染症の歴史をみても、そういう人たちが大勢いて重要な仕事をしたからこそ、今日があるわけです。十分希望は持てると思います。つまり、この危機に対処できると。

 

文明の副作用は文明の力で対処する

感染症の歴史が私たちに教えてくれることをひとつあげるとしたら、「文明の副作用は、文明の力で対処するしかない」ということではないでしょうか。感染症は、都市化や広域での交流(貿易や戦争など)といった文明に必須の要素・条件のもとで大きな被害をもたらします。その意味で、文明に必然的に伴う「副作用」だといえる。決して文明の進歩によって撲滅できるものではない。しかし、文明の力で一定の対処ができるはずです。

近代以前には、その対処力はきわめて弱いものでした。だから感染症の流行はとんでもない悲惨をもたらすしかなかった。しかし、現代ではかなりの対処ができるようになった。歴史はそれを示している。これはありがたいことです。だったら、その文明の力をうまく使うことです。

 

文明のありがたみ

「文明の力で問題解決を」などというのは、古臭い考えだと言われるかもしれません。しかし、今の状況では「自分たちは文明社会に守られている」ということを、多くの人が切実に感じているはずです。ふだん、薬の害毒を強く主張する人、医療というものに否定的な人がいますが、今度の新型コロナで身の危険を感じたら、そんなことはあまり言わないでしょう。効く薬があれば「早く投与して」と言うはずです。重大な非常時は、そういうものなのだと思います。つまり、文明のありがたみがよくわかるのです。

しかし、危機が去ったら、感染症というものの「文明の副作用」という側面が強調されて、「だから文明というものは問題なのだ」という主張が強くなるかもしれません。とくに、国家や社会が今回の危機に十分に対処できなかった場合には、文明そのものへの失望が広がるでしょう。それを回避できるかどうかは、私たちや、私たちが選んだリーダーの行い次第なのです。

 

参考文献

ここでは、ほかの「感染症の歴史」関連の記事で参考文献としてあげた、マクニールの著作のほか、山本太郎の著作をあげておきます。このほかにもありますが、それは下記関連記事で紹介しています。

 ①マクニール『疫病と世界史』(上・下)中公文庫、2007年

疫病と世界史 上 (中公文庫 マ 10-1)
 

  

疫病と世界史 下 (中公文庫 マ 10-2)
 

 

②山本太郎『感染症と文明』岩波新書、2011年 

感染症と文明――共生への道 (岩波新書)

感染症と文明――共生への道 (岩波新書)

  • 作者:山本 太郎
  • 発売日: 2011/06/22
  • メディア: 新書
 

 

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