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人類は壁をつくってきた メソポタミア、万里の長城からメキシコ国境のトランプの壁まで

トランプ大統領は、アメリカとメキシコの間の国境に壁を建設・整備しようとしている。このような、文明の中心部へ周辺の人びとが侵入するのを防ぐための壁は、有史以来くり返し建設されてきた。そして、そのような壁は、長期的にみればくり返し破られてきたのである。「壁をつくること」は、「外敵から社会を守る」ということの象徴であり、安全を求める人間の深い欲求と結びついている。人類の「壁をつくってきた歴史」をざっくりみわたしてみよう。

 

目 次

 

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メキシコ国境のトランプの壁

トランプ大統領は「アメリカとメキシコの国境に壁をつくる(費用はメキシコに負担させる)」と言い続けている。すでに両国の国境にはフェンスなどがかなりあるので、それをさらに強化するということだ。

それは、トランプの選挙公約のひとつだったが、今のところほとんど実現していない(2019年9月現在)。壁の建設に反対する勢力が訴訟を起こし、連邦裁判所の判断は壁の建設のための予算措置(ほかの予算を転用する)を認めないというものだった。しかし2019年7月に連邦最高裁は、壁建設のための予算の転用を認めた。そこでトランプ政権は、壁の建設を急速にすすめる動きをみせている。

アメリカとの国境近くにあるメキシコの町には、アメリカへの入国を希望する人たちが、大勢やってくる。夜の闇にまぎれてフェンスを越えていく人も多くいる。そしてかなりの場合、アメリカの国境警備隊につかまって強制送還されたりしている。

国境を越えようとする人の中には、貧困に苦しむだけでなく、犯罪組織の脅威から逃れてきた人も少なくない。メキシコでは麻薬組織などのマフィアが一般市民に金銭を要求し、拒めば恐ろしい報復をする、といったことがある。アメリカをめざす人の多くは、アメリカ社会の、より安全で快適な環境を欲しているのだ。しかし一部には、麻薬などの犯罪を持ち込む人間もいる。

メキシコとアメリカの国境にあるフェンスは、「安全で快適な社会」と、そうではない外部の世界を隔てる「壁」なのである。壁の内側の人びとが、自分たちを守ろうとして築いたものだ。


中国の万里の長城

このような「壁」を、有史以来人間はつくり続けてきた。中国の万里の長城は、そのうち最も有名なものだ。秦の始皇帝(紀元前200年代)は、以前の春秋・戦国時代からあった、匈奴(きょうど)などの北方の遊牧民が「中華」に侵入するのを防ぐ壁を、計画的に整備しなおした。高さは2~3メートルの、おもに土壁による簡素なものだが、長さは数千キロに及び、所々に兵士が配置された。当然ながら、長城というのは、兵士によって守られないと機能しない。

このような「壁」の伝統は、その後の中国に受け継がれていく。秦のあとを受けて成立した漢王朝では、武帝(紀元前100年頃)の時代に、始皇帝以後荒廃していた万里の長城(長城)を再建した。この時期の長城の総延長は、7900キロ余り。始皇帝の頃と同様、おもに土壁によるものだった。

しかし漢が衰退して以降、中国の王朝の多くは長城を維持できなかった。唐(700年頃最盛)、宋(1000年頃最盛)など、長城による防衛に関心をもたなかった王朝もある。一方いくつかの王朝は、長城の建設を積極的に行った。現在残っている万里の長城のほとんどは、明王朝が1400~1500年代に築いたものだ。これはレンガ造りで、高さは7~8メートルに及ぶ。

 

ローマ帝国の長城

ローマ帝国(1世紀~200年代にとくに繁栄)でも、万里の長城ほどの規模ではないが、一部の辺境地域で「蛮族」の侵入を防ぐ壁をつくっている。そのうち最も有名なのは、西暦100年代にケルト人を防ぐために建設された、イングランド北部の長城である。これは、当時の皇帝の名にちなんでハドリアヌスの長城と呼ばれる。それから一世代後には、さらに北方のスコットランドに、アントニヌスの長城といわれるものもつくられた。

また、ライン川の中流からドイツ南西部を横切ってドナウ川まで続く、全長550キロに及ぶ長城も、1世紀末に建設された。これは、ゲルマン人への対策である。最盛期のローマ帝国は、このほかシリアや北アフリカなどでも長城を建設している。

 

世界最古の長城

さらにさかのぼると、4000年ほど前のメソポタミア(今のイラクなど)でも、異民族を防ぐための壁はつくられた。チグリス川とユーフラテス川の間に挟まれた地域のなかで、両方の川のあいだをつなぐ形でつくられた壁である。これは、世界最古の長城といえる。

メソポタミアは5500年ほど前から、最古の都市文明が栄えた地域である。4000年ほど前のメソポタミアは、考古学者が「ウル第三王朝」と呼ぶ王国が支配していた。その周辺には、メソポタミアという「中華」からみれば「蛮族」の人びとがいて、メソポタミアに侵入する動きがあったのだ。

とくに、メソポタミアの北部に侵入したマルトゥという民族は、当時のウル第三王朝にとって脅威だった。それを防ぐために、当時のシュシンという王が、さきほど述べた最古の長城――「マルトゥの城壁」を建設させた。マルトゥの城壁の遺構はみつかっていないが、建設についての記録(粘土板文書)が残っている。なお、マルトゥは騎馬遊牧民ではない。当時はまだ騎馬遊牧民というものは存在しない。マルトゥの城壁は、メソポタミアの中でも南部のほうの、とくに古くから文明が栄えた中心的地域を守るためのものだった。

 

シュメール人の中華意識

ウル第三王朝は、シュメール人といわれる人びとが支配する国家だった。当時のシュメール人は、周辺の異民族に対し、自分たちこそが世界の中心、つまり「中華」であるという意識を持っていた。たとえばマルトゥについて「火で料理しないまま肉を食べ、生きるときは家を持たず、死んでも葬られない」と述べ、別の有力な異民族グディについては「その知恵は犬のごとく、その顔は猿のごとし」などと述べている。あいつらは都市生活を知らない、文化を知らない野蛮人だ、というのである。

そして、シュシンの次の、ウル第三王朝最後の王イッピシンの時代には、マルトゥの城壁は破られてしまった。当時、マルトゥに対する防衛の前線にいた地方政権の王がイッピシンにあてた手紙が残っている。

「いまやすべてのマルトゥが(ウル第三王朝の)国土に入り込んでいます。多くの大いなる城壁が占領されました。……彼らの強さに私は対抗できません」

そしてこれに対し、イッピシン王が叱責した手紙についても記録が残っている。国王は「お前は何でマルトゥの侵入を許したのだ、国土には無力なものしかいないのか、なぜ、マルトゥに対抗できないか」と、国王は嘆いている。異民族の侵入で国家が危機に瀕したときに、いかにもありそうなやり取りだ。その世界最古の事例といっていいだろう。

メソポタミアでは、異民族の侵入は防ぐことができず、支配的な民族の交代がおこっていった。ウル第三王朝は、おもに異民族の侵入で滅亡し、それ以後シュメール人が有力な国家を築くことはなかった。

 

都市を囲む壁

さらに、当時のメソポタミアでは、いくつかの大きな都市ができていたが、それらの都市は日干しレンガの壁で囲まれていた。シュメール人が築いた代表的な都市のひとつであるウルクは、4900~4700年前頃には人口数万~10万人の規模に達していた。その面積は600ヘクタールほどで、都市を囲む城壁は全長9.5キロメートルにおよんだ。

その壁の内側では、当時の世界では最先端の安全や快適さ、豊富な食料や、美しいさまざまなモノが存在していた。そして、そのような都市へ入ろうとするよそ者は、あとを絶たなかった。その中には「ならず者」もいたので、野放図に入れるわけにはいかない。壁をつくらないことには安心できない。

今、トランプがめざしていることは、5000~4000年前のメソポタミアで行われたことと本質的には同じである。こういうところでは、人間は変わっていないのだ。

つまり、その時代なりに魅力的な高度の文明が栄えると、その外部から自分たちを守るための「壁」をつくる、ということが有史以来くりかえされてきた。「中華」へ侵入しようとする人々を防ぐ壁である。それは今も続いているのである。

 

壁の限界

そして、そのような「壁」は長期でみると、結局は維持できずに放棄されるか、破られてきた。メソポタミアの最古の長城は、まさにそうだった。中国では始皇帝の時代から数百年以上経つと、北方の遊牧民による王朝ができるようになった。

前述のとおり、漢が衰退すると長城は放棄された。西暦200年代に漢(後漢)王朝は滅亡し、以後中国は300数十年にわたり、隋・唐による再統一までさまざまな国が分立する状態が続いた。そのなかで多くの北方の異民族が「中華」に侵入してきた。

西暦300~400年代の「五胡十六国時代」には、華北(中国北部)に遊牧民の王朝が分立するようになった。「五胡」とは北方のさまざまな民族をさすもので、「胡」には蔑称の意味合いもある。そして、中国人の主流である漢人の王朝は、南部に追いやられてしまった。その後400年代半ばには異民族の一派による北魏という王朝が一時期ではあるが華北を統一した。そして、この北魏はひさびさに長城を復活させた。もともとは辺境の民だった人びとも、自分たちが「中華」の支配者になれば、長城を築くのである。

その後、1100年代には女真族(じょしんぞく)という北方の異民族による金王朝が、当時中国を統一していた漢族の宋王朝を倒して、華北全体を支配するようになった。宋の支配者たちは南へ逃れて、王朝を存続させた。そして金王朝も、もともとは北方の異民族でありながら、唐から宋にかけて途絶えていた長城を復活させた。しかし、1200年代には強大な騎馬遊牧民のモンゴル人に滅ぼされてしまった。

モンゴル人の元王朝は、長城による防衛を採用しなかった。その元を倒して1300年代後半に成立した明王朝は、総力をあげてかつてない高さの頑丈な長城を建設した。もう二度と北方からの侵入を許さないぞ、ということだ。しかし、1600年代には北方から攻めてきた女真族によって、明の支配は終わる。その女真族は、中国最後の王朝である清を建国した。

ローマ帝国も、その西半分(西ローマ帝国)は、多くのゲルマン人の侵入によって崩壊していった。西暦375年に西ゴート族というゲルマン人の一派が大挙してローマ帝国内に侵入してきた。この頃から、「民族大移動」といわれる動きが加速した。西ゴート族は、410年には一時期ローマ市を占領している。476年には、すでに衰退しきっていた西ローマ帝国が完全に滅亡した。

 

「壁」は根本的な欲求に訴える

アメリカとメキシコの国境にある「壁」も、同じ末路をたどるのではないだろうか。つまり、長期的には多くの人々の侵入を防ぎきれずに終わる。近年も、メキシコとの国境からのアメリカへの不法入国者は、年間で数十万人から100万人にのぼるという。

「壁」を頑張ってつくっても、穴だらけになってしまうものなのだ。そもそも、国を超えた交通や交流の発達した現代においては、辺境の「壁」にかつてほどの意味はない。また、不法入国を徹底的に防ぐには多大なコストや労力がかかるので、今後のアメリカの国力しだいでは、それらを負担しきれなくなるかもしれない。

しかし、だからといって「壁」など無意味だ、愚かなつまらないものだ、といって片づけてはいけない。文明のはじまりの時代から、人は自分たちの文明社会を守る「壁」をつくってきた。だとすれば、それはきわめて根本的な欲求や感情にうったえるものだといえるだろう。

もしも、メキシコとの国境に堅牢な壁がつくられたら、「これで守られる」という安心を感じる人たちが、アメリカには大勢いるはずだ。その「安心」にたいした根拠などなくても、である。そして、壁をつくった権力者への信頼は高まるのである。

「壁をつくること」は、「外敵から社会を守る」ということの象徴である。それは人々が権力者に求めることのうち、最も基本的な事項なのだ。トランプや彼の周辺の人たちは、そのあたりをよくわかっているのだろう。

 

コンスタンティノープルを守った城壁

以上で取り上げた「壁」(長城)は、100年単位の時間のなかで、いずれも放棄されるか破られてしまった。しかし世界史上の「壁」のなかには、ほぼ1000年ものあいだ防御の役目を果たし続けたものがある。

それは、東ローマ帝国(ビザンチン帝国ともいう)の首都コンスタンティノープルを守った城壁である。この城壁は413年につくられた。

これは、410年にローマ市が西ゴート族に占領されるという惨状をみた東ローマの人びとが、防御を固めるために築いたのである。突貫工事で、立派な城壁がコンスタンティノープルの郊外に建設された。当時の皇帝の名にちなんでテオドシウスの城壁といわれるものだ。

コンスタンティノープルは、三角形の半島の先端に市街が広がっていて、三方は海に囲まれている。テオドシウスの城壁は、海に面していない陸地側をカバーする7キロほどのものだ。この城壁以前にも一定の城壁はあったが、新しい城壁がその外側につくられた。また海岸部にも、テオドシウスの城壁ほどの規模ではないが、相当な城壁を築いている。

そして、テオドシウスの城壁は、447年には大規模に改修・補強された。この年、フン族という騎馬遊牧民の大軍がコンスタンティノープルの近くまで攻めてきた。そしてその時に、なんと大地震が起きて、テオドシウスの城壁は大きな被害を受けてしまった。東ローマの皇帝政府はフン族の王アッティラに大量の金を贈り、以後毎年一定の金を支払う約束をして懐柔した。そうして時間かせぎをして、大急ぎで城壁を修復し、さらに城壁の外側にもう一重の城壁や堀を築いた。

この工事には市民1万数千人が動員され、わずか2か月で完成した。政府と市民が一体となって必死に成し遂げたことだ。工事が完成したとき、コンスタンティノープルの人びとは「これで大丈夫」と安堵したことだろう。

その城壁は、空前のきわめて堅牢なものだった。一番外側にある堀の幅は10数メートル、深さは深いところで6~7メートル。外側の城壁は高さ8メートルで、100メートルごとに高さ10メートルの塔が置かれた。その内側には「本体」といえるさらに大規模な城壁がある。その高さは平均12メートル、幅は5メートル、ほぼ均等に96の塔が配置されていた。塔の高さは18メートル。それが数キロにわたって続くのだ。

 

1000年間機能した

この城壁は「どんな攻撃にも耐えられるように」と、当時可能な限りの技術と物量を投入してつくられた。そして実際のところ、近代以前の軍事技術でこの壁を正面突破することは、不可能だった。そのことは、歴史が証明している。コンスタンティノープルは、その後ほぼ1000年にわたって外敵の侵入を許さなかった。

ただし、コンスタンティノープルも1200年代に西ヨーロッパの軍勢に占領されたことはあった。しかしこれは、海上からの攻撃に屈して開城したり、もともとは味方として招き入れた軍勢が寝返ったなどの事情があり、城壁が正面から破られたわけではない。のちに東ローマの皇帝政府はコンスタンティノープルを取り返している。

コンスタンティノープルが最終的に陥落したのは、1453年のことだ。イスラムの大国オスマン朝(オスマン・トルコ)の攻撃による。そしてこのときが、東ローマ帝国の滅亡だった。

末期の東ローマ帝国は、すっかり衰退して、コンスタンティノープルとその周辺のかぎられた範囲を支配するだけになっていた。そのような状況になっても、テオドシウスの城壁は防御としてかなりの有効性を保っており、オスマン軍は攻撃におおいに苦慮した。

外敵を防ぐ壁が1000年にわたって機能したというのは、おそらくテオドシウスの城壁くらいではないか。少なくともそのような事例の最大のものだろう。

 

未来における「テオドシウスの城壁」

このように、エリアを限定して、そこに徹底的に物量を投入し続けることができるならば、相当な長期にわたって「壁」は維持できる。少なくともそういうことがあり得る。もちろん、その壁を突破する技術が存在しないということが条件だ。巨大な大砲や、飛行機やミサイルのない時代だからこそ、テオドシウスの城壁は役目を果たした。

メキシコとの数千キロにわたる国境線につくった壁は、たしかに万里の長城のような運命をたどるかもしれない。しかし、もっと限定された範囲、たとえばニューヨーク・ワシントン周辺、あるいは日本の首都圏のような一定のエリアだけを防御する壁ならば、どうだろうか?もしも、未来のすごい技術で、突破が不可能な「バリア」のような何かができたら? 

それを用いれば、現代の「中華」は外敵から守られるだろう。これは未来における「テオドシウスの城壁」だ。

現代世界の「中華」の人びとは、いつかそのようなバリアで都市を囲うかもしれない。そのときには、末期の東ローマのように、「壁」で守られた首都以外の広い範囲は、「蛮族」が支配する世界になっているはずだ。しかし「蛮族」というのは「バリア」の内側による偏見であって、かつての「蛮族」たちは相当に発展して、新しい文明を築いていることだろう。コンスタンティノープルが陥落した1400年代にも、城壁の外側ではイスラムの国ぐにが繁栄し、西ヨーロッパではルネサンスの時代を迎えていた。

未来における「テオドシウスの城壁」はSF的な空想だが、可能性がないわけではないと思う。ただ、もしもニューヨークや東京で、そのような「壁(バリア)」の建設があるとしたら、なんらかのものすごい惨事や混乱をふまえてのことだろう。だからそれは、もちろん避けなければいけない未来なのだ。

 

参考文献

①マルトゥの城壁については、前田徹『初期メソポタミア史の研究』早稲田大学出版部、2017年 による。 

初期メソポタミア史の研究 (早稲田大学学術叢書)

初期メソポタミア史の研究 (早稲田大学学術叢書)

 

 

②コンスタンティノープルのテオドシウスの城壁については、井上浩一『生き残った帝国ビザンチン』講談社現代新書、1991年 による(講談社学術文庫版あり)。 

生き残った帝国ビザンティン (講談社学術文庫 1866)

生き残った帝国ビザンティン (講談社学術文庫 1866)