日本がアメリカ・中国などの連合国と戦った太平洋戦争(1941~45)。それはナチス・ドイツと連合国(イギリス、ソ連など)の戦争と合わせて、第二次世界大戦(1939~45)の一部分である。日本が大戦争に至るまでの経緯を、5分で読めるくらいにごく簡単にまとめた。
そこには、大きく2つの段階がある。①中国との戦争(日中戦争)→②アメリカとの戦争(太平洋戦争、対米戦争)というものだ。この流れをおおまかに述べていこう。
この記事は、第二次世界大戦全体を扱った、当ブログのつぎの記事からの抜粋です。この記事は2万文字を超える長文なので、全部を読み通すのはかなり大変かと思いますが、初心者の方が世界大戦の全体像を知るには役立つと思います。本記事の「日本が戦争に突入していった」くだりは、その大きな「全体」の一部なのです。
目 次
日中戦争の開始
満洲事変(1931)
日本では、1930年代に「アジアでの領土拡大」という野望が政治をつよく動かすようになった。大恐慌(当時の世界的な大不況)の影響で不況に苦しむ中、満洲(今の中国東北部)などへの領土拡大によって、さまざまな問題を解決できるという考えが、力を持つようになったのである。
1931年(昭和6)には、陸軍の主導で、満洲の広い範囲を支配するための本格的な軍事行動が始まり(満洲事変)、翌32年(昭7)にはその地域に満洲国という、日本政府に従属し操られる「傀儡(かいらい)」の国家を建設した。
日露戦争(1904~05、明治37~38)の結果、日本は満洲の南側の遼東半島の一部(関東州)や、満洲を走る鉄道路線(南満洲鉄道)の沿線地域を、「関東軍」という軍隊を駐留するなどして支配していた。これはロシアから獲得したものだったが、その勢力範囲を大きく広げようとしたのだった。
日本の国連脱退(1933)
アメリカやイギリスを中心とする国際社会は、日本の行為を非難し、満洲国を認めなかった。それに抗議して、1933年(昭和8)3月、日本は国際連盟を脱退した。なおドイツも、同年(33年)10月に国際連盟を脱退している。ヒトラーが、ドイツが一方的に軍備を制限される状況に抗議したのである。
五・一五事件(1932)
政治家や国民は、このような軍部の動きを追認した。また、1932年(昭和7)5月には、当時の首相の犬養毅が、一部の過激な軍人によって暗殺されるというテロも起こった(五・一五事件)。しだいに世の中の「空気」が変わり、日本の政府は軍部にひきずられるようになっていった。
二・ニ六事件(1936)
さらに、1936年(昭和11)2月には、陸軍の一部の将校が兵士1400人ほどを率いてクーデターを起こし、高橋是清(大蔵大臣)などの複数の政府高官を射殺し、国会や首相官邸等を占拠した(二・二六事件)。これはまもなく鎮圧されたが、この事件以後、政治家たちにとって軍部は一層恐ろしいものになった。
日中戦争開始(1937)
そして軍部は、さらに中国の中核地域である華北などにも勢力を広げようとした。1937年(昭12)7月には北京(当時は北平〈ほくへい〉と呼ばれた)郊外の盧溝橋という場所での軍事衝突がきっかけとなって、中国との戦いである日中戦争が本格的にはじまった。当時の中国は、列強に屈服するかたちで、列強の軍隊が一定の地域に「自国民を守る」という理由で駐留することを認めていた。それで駐留する日本軍と中国軍のあいだで緊張が高まり、衝突が起こったのである。やがて、日本と中国の戦いは、中国の主要部全体にも拡大していった。
当時の中国は「中華民国」といい、中国国民党の蒋介石(1887~1975)が率いる「国民政府」の時代である。首都は南京だった。ただし、国民政府は中国全体をまとめきれてはいなかった。
日中戦争の泥沼化
その後、日本軍は中国のおもな都市を攻略していったが、各地での抵抗に苦しみ、中国での支配を確立することができなかった。国民政府のほかに、毛沢東(1893~1976)が率いる中国共産党の勢力も、日本軍と戦った。中国共産党は、のちに中国で勝利して1949年に現在の中華人民共和国を建国するが、当時は一部の地域を拠点とする反政府勢力だったのである。
また、中国(国民政府)に対しては、もともと中国に利権を持っていたイギリスなどの列強が援助を行った。1940年の後半からは、アメリカがその支援に積極的に加わるようになった。
日米戦争の開始
真珠湾攻撃・日米開戦(1941)
そして1941年(昭16)12月8日には、日本軍がアメリカのハワイ(真珠湾)を奇襲攻撃して日米戦争(太平洋戦争)もはじまった。日米戦争の開始をうけて、ドイツがアメリカに宣戦布告し、イタリアもこれに続いた。日本、ドイツ、イタリアは、同盟を結んでアメリカ、イギリスなどに対抗していた。
1939年9月には、ヨーロッパでナチス・ドイツとイギリス、フランスなどのあいだの戦争が始まっており、その戦争の始まりを第二次世界大戦の開始とするのが一般的だ。つまり日米戦争が始まった時点で、第二次世界大戦は、アジア・太平洋からヨーロッパまでの広がりを持つ、文字どおりの「世界大戦」になったといえる。そこで「第二次世界大戦」の開始を、1941年12月の時点だとする説もある。
日中戦争の泥沼化とアメリカ・イギリスの制裁
1941年当時の日本は、日中戦争が泥沼化して苦しんでいた。その日本に対しアメリカやイギリスは、経済制裁を行っていた。日本のアジアでの軍事行動は「侵略」であり、制裁を受けるべきだ、ということだ。
日本は満洲・中国だけでなく、1940年9月には仏領インドシナ北部(今のベトナム北部)に軍をすすめ、1941年7月にはさらに仏領インドシナ南部に侵攻した。国民政府を支援するイギリスやアメリカの物資が仏領インドシナ経由で輸送されていたので、それを阻止しようとしたのである。当時のフランスは、ドイツに負けて弱っていたので「今がチャンス」という発想が、軍部のなかにあった(なお、国民政府を支援する列強の輸送ルートは、ほかにもあった)。
アメリカによる石油禁輸措置(1941)
そして、アメリカなどによる一連の経済制裁のなかでも、1941年8月の日本への石油輸出禁止は、とくに深刻なものだった。これは、直接には日本が仏領インドシナ南部に侵攻したのをうけてのことである。
1930年代には、日本が輸入する石油の大半はアメリカからのものだった。石油が手に入らないと、日中戦争を戦うことはできない。なお、当時はまたアラブの石油は未開発で、アメリカは最大の産油国だった。
日米交渉決裂→東南アジアの石油を攻略するという発想、有力に
1941年4月以降は、外交交渉で日米の関係を改善しようとする取り組みもあったが、日米の主張は対立し、交渉はすすまなかった。アメリカの主張は、とにかく日本は中国から完全に撤退せよということであり、軍部が主導する当時の日本としては、それはまず受け入れられない話だった。
そんな状況のなか日本では、相当な規模の油田があるインドネシアを攻略しようという考えが、国の方針として真剣に検討されるようになった。また、マレーシアにも油田はあった。そして、油田の支配を確実にするために、周辺の東南アジア各地も支配するのである。それができれば、石油だけでなく、東南アジアのさまざまな資源が手に入る。満洲にしても、資源の開発が最大の目的だった。
当時のインドネシアはオランダの植民地(オランダ領東インド)であり、ほかの東南アジア各地はイギリス、フランス、アメリカなどの支配・勢力下にあった。これらの欧米列強をアジアから追い出し、日本の勢力圏を築くという「大東亜共栄圏」の構想が打ち出された。
アメリカを先に叩く→真珠湾攻撃
しかし、東南アジアに侵攻すれば、アメリカが本格的に介入してくる。そこで、先にアメリカ軍を叩いておきたいと考え、太平洋におけるアメリカ艦隊のおもな基地がある真珠湾を攻撃したのである。真珠湾攻撃と同じタイミングで、日本軍は東南アジア(イギリス領だったマレー半島)への侵攻も開始している。
こうして、日本と、アメリカ、イギリス、フランス、オランダなどの連合国との全面戦争が始まったのである。
参考文献
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日本が日中戦争を起こした社会的背景については、当ブログのつぎの記事を。
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