そういち総研

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古代・中世・近代という世界史の時代区分(三区分法)についての基礎知識

時代区分とは、歴史的な時間の流れをいくつかに区分することだ。多くの場合、その区分ごとに名前がつけられる。最もおなじみなのは、日本史の「奈良」「平安」「鎌倉」「室町」…といった「〇〇時代」の区分だろう。世界史の時代区分では、「古代―中世―近代」の「三区分法」というのがおなじみだった。ところが、近年はこの「三区分法」や、さらには時代区分の考え方そのものが軽視・否定される傾向が有力になっている。

しかし、筆者(そういち)は、時代区分の否定はまちがいだと思う。歴史を理解するうえで、時代区分の考え方はきわめて重要だ。たとえばもしも日本史で「〇〇時代」といった区分が存在せず、世紀や年号だけで話がすすむとしたらどうだろうか?それは内容に応じた章立てがされていない本のようなもので、じつにわかりにくいはずだ。

時代区分は、歴史的な知識に構造や体系を与えるうえでカギとなるものなのだ。

「古代―中世―近代」という区分は、世界史の5000年余りの期間を、ごくおおざっぱに分けたもので、いわば世界史の「大区分」といっていい(なお、日本史の「〇〇時代」は、この「大区分」よりもやや細かい区分である)。そして「大区分」というのは、最もマクロな視点でざっくりと全体の構造をとらえたものである。これは、ものごとを理解するうえで欠かせないことだ。

少なくとも、以下に述べることは、「世界史の時代区分」という考えに賛成するかどうかにかかわらず、議論の前提として知っておいていい。

2024年2月5日、PHP文庫でブログの著者(そういちこと秋田総一郎)の新しい本が出ました。『一気にわかる世界史』(日本実業出版社)を大幅に増補・改訂して文庫化したものです。本記事でテーマとした「世界史の時代区分」についても、この記事をもとに増補してより深く論じています(文庫版オリジナルの内容です)。

記事目次

 

古代―中世―近代の三区分法

世界史に関する大まかな時代区分、つまり大区分といえば、かつては「古代―中世―近代」というものが一般的だった。これを「三区分法」という。その改訂版といえる「古代―中世―近世―近代―現代」という区分もある。ただし、あとで述べるように、このような時代区分は、最近の教科書や概説書ではあまりみかけなくなった。

本や著者によって多少のちがいはあるが、その三区分法とはつぎのようなものだ。

【古代】紀元前3500(3000)年頃~西暦500年頃
【中世】500年頃~1500年頃
【近代】1500年頃~

 

これを図(年表)であらわすと、こうなる。(そういちによる作図)

 

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近代については、より細かな区分(下位の区分)として、1945年(第二次世界大戦終結)以後を「現代」と呼ぶことも多い。30~40年以上前には1918年(第一次世界大戦終結)以後を「現代」とすることも多かった。

また、同じく近代の下位区分として、1500年頃~1800年頃を、「近代の初期」「中世から近代への過渡期」という位置づけで「近世」と呼ぶこともある。

また、古代について、ギリシア・ローマの文明が栄えた時代をとくに重視して、それを「古典古代」と呼ぶこともある。「古典古代」は、おおむね紀元前500年頃~西暦400~500年頃である。

 

古代と中世の境目

古代の始まりである「紀元前3500(3000)年頃」は、メソポタミアやエジプトで最も初期の大規模な文明が繁栄し始めた時期である。一方、古代の終わりの「西暦500年頃」は、当時の世界を代表する超大国だったローマ帝国の西半分(西ローマ帝国)が、周辺の異民族の侵入などで滅亡した時期を目安としている。この「西ローマ帝国の滅亡」は、西暦476年のことだ。

古代の末期(200年代~)から中世の初期(500~700年頃)には、ヨーロッパからアジアにかけての広い範囲で、従来の重要な超大国であるローマ帝国や漢帝国などが衰退・滅亡した。漢(後漢)の滅亡は、西暦220年である。そして600年代にはアラビア半島でイスラムの勢力が急速に台頭して、700年頃までには巨大なイスラムの帝国を築いた。

つまり、古代から中世への移行期には、何百年も栄えた大帝国が消えていく一方、それまで周辺的だった騎馬遊牧民やゲルマン人などの新興の民族の台頭ということが、大きな流れとしておこったのだ。その結果、民族や国家の勢力分布が大きく変わり、新しい文化や経済も生まれた。イスラムの帝国を築いたアラブ人も、もともとは周辺的な民族だった。

これらの動きは数世紀にわたる長期のものだったが、あえて区切るなら西ローマ崩壊の頃の切りのいい数字ということで、「500年」を古代と中世の境目とすることがかなりある(本記事はその方針)。

著者や本によっては、境目を「400年頃」(400年頃から西ローマの衰退は明らかだった)としたり、明確な境目を置かなかったり、ということもある。また、200年頃~700年頃について、古代でも中世でもない独自の特徴を持つ時代であるとして、「古代末期」という概念でとらえるべきという見解もある。

 

近代の始まり

1500年頃を近代の始まりとするのは、ルネサンスの時代のヨーロッパ(とくに西ヨーロッパ)の国ぐにが新しい文明(いわゆる近代文明)の担い手として、世界のなかで台頭した時期だからである。

たとえば、1400年代末にコロンブスが米大陸に到達して、その後ヨーロッパとアメリカを結ぶ航路がひらかれたことは象徴的だった。大洋を超えてこれほどの距離を(一時の冒険ではなく)継続的に行き来することは、これまでのどの文明にもできないことだったが、ヨーロッパ人は実現したのである。

ただし、1500~1600年代にはヨーロッパが、イスラムや中国を圧倒する力を持ったとはいえない。当時はイスラムの超大国であるオスマン朝や、中国の明・清王朝が繁栄しており、ヨーロッパ人はその力に畏れやあこがれを抱いていた。

ヨーロッパがイスラムや中国をはるかにしのぐ力を持つようになるのは、産業革命以降のことだ。産業革命とは、蒸気機関などの動力を軸とした一連の技術革新に基づく、産業・経済の変革のことである。その変革は1700年(とくに後半)のイギリスで始まり、1800年代に入ると、ほかの西ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国にも波及していった。1800年代には、イスラムや中国というかつての最強の超大国に対しても、ヨーロッパのほうが優位にあることが明らかになった。そして、ヨーロッパ人が生み出した近代文明(その文化や機械などの文明の利器)は、世界じゅうに広まっていった。

以上の経緯から、1500年頃~1700年代を「近世」、つまり「中世から近代への過渡期」「近代初期」とする見方がある。そしてこの見方によれば、本格的な「近代」は1800年頃から始まるということだ。

なお、「現代」というのは、近代の下位区分である。「今現在の世界に直接つながる出発点以降」のことだ。これは、ほかの区分よりも便宜的・相対的な性格が強く、最近になるほど「現代」の始まりも時代が下る傾向がある。世界史全体のなかでは、「現代」の始まりは第二次世界大戦の終結(1945年)とされることが、近年は一般的だ。しかし30~40年以上前には、「現代」の起点を第一次世界大戦の終結(1918年)とすることも多かった。将来は、たとえば東西冷戦終結(1990年頃)以降を「現代」とすることも有力になるかもしれない。

 

三区分法の提唱は1600年代

「古代―中世―近代」という三区分法が提唱されたのは1600年代のことだ。ルネサンス以来の人文主義者(ギリシア・ローマの古典を研究し、人間の本質について考察した知識人)の間にあった「偉大な文化が栄えた古代」「それが衰えた〈中間の時代〉が中世」「文化が復興した、〈進歩の時代〉が近代」という見方が、その基礎にある。

1600年代末には、ドイツのケラーという歴史学者が、三部作の「古代史」「中世史」「近代史」というタイトルの本を著している。これが明確なかたちでの「古代―中世―近代」という区分の発案だった。(以上の三区分法の歴史については、岡崎勝世『世界史とヨーロッパ』講談社現代新書、2003年による)

その後、1800年代後半の歴史研究では、中世への関心が高まった。その結果、中世は「中間の時代」などではなく、「封建社会」といわれる、独自の性格を持つひとつの時代として位置づけられるようになった。それによって、近代的な三区分法が確立したといえる。

しかし、「文化が衰えた中世」というのは、ヨーロッパの特殊事情である。じつは「中世」においては、世界の繁栄の中心は、ヨーロッパではなくイスラムや中国にあった。そして、当時のイスラムや中国は絶頂期にあり、文化がおおいに栄えた時代だった。アッバース朝時代のイスラムの帝国、唐、宋時代の中国はまさにそうだった。「封建社会」というのも(その内容についてはここでは省略するが)、ヨーロッパに特有なものという面が強い。

つまりもともと三区分法には、ヨーロッパ(とくに西ヨーロッパ)史の時代区分を世界史にあてはめる発想があった。つまり「ヨーロッパ(欧米)中心主義」という、「ヨーロッパは特別」「なんでもヨーロッパが優れている」という価値観が含まれているのである。

 

『岩波講座 世界歴史』における時代区分の否定

しかし、現代ではこのような歴史観は問いなおされるようになった。そして、それにともなって「古代―中世―近代」という時代区分も問いなおされ、捨てられてしまった。「ヨーロッパの時代区分にすぎないものを、世界史の時代区分とするのはおかしい」というわけだ。

そして、三区分法だけでなく、時代区分そのものの否定ということもあった。日本では、少なくとも1970~80年代までは「古代―中世―近代」という世界史の時代区分は,一般的なものだった。たとえば、1969年から71年にかけて出版された『岩波講座 世界歴史』(全29巻、岩波書店)というシリーズ本の構成は、つぎのとおりである。このシリーズには、当時の日本の有力な歴史学者が大勢参加し、その後の世界史の教科書にも影響をあたえた。

 第1巻~第6巻  古代1~6 
 第7巻~第13巻   中世1~7 
 第14巻~第23巻  近代1~10
 第24巻~第29巻  現代1~6 *30巻 別巻 31巻 総目次・索引

しかし、1990年代に出た、のちの世代の学者による『岩波講座 世界歴史』の新版(全28巻、1998~)では、上記のような時代区分は示されなくなった。この新版では、各巻タイトルは「古代」「中世」「近代」ではなく、「○世紀」「○~○世紀」といった表記がなされている。

このシリーズの第1巻の「時代区分論」という一節で、歴史学者(中国史)の岸本美緒は、この「講座」新版の大きな特徴は“前講座の根幹をなしていた「古代―中世―近代―現代」という四部構成が無くなっていること”だとしている。そして、“時代区分というものを,学問的な是非・真偽を争い得る命題ではなく一種の便宜的な方法にすぎないと考えている”と述べている。

現代の歴史学者の主流は、時代区分そのものについて消極的あるいは否定的なのである。今の教科書や学習参考書は、その影響を受けている。

 

知識の体系化の否定ではないか

しかし、世界史の時代区分は、完全に捨て去られたわけではない。「古代」「中世」「近代」という言葉は、「古代ギリシア」「中世ヨーロッパ」「近代国家」など、いろんな場面で使われ続けている。また、教科書・参考書をみると、「古代―中世―近代」という区分が前面に出ていなくても、結局はそれに近い線で項目の分類・配列がなされていることがある。

まとまった書籍では、全体を「章」などで区切っていくことが必要である。そうでないと、読みにくい。そこで、捨て去ったはずの時代区分を使ってしまう、使わざるを得ないことがある。なかには、「時代区分不要」の主張をまっとうしようと、新版の『岩波講座 世界歴史』のように「○世紀」「1500年代」など、暦の区切りで押し通している本もある。しかし、それでは全体の流れがわかりにくい。辞典や資料集のようになってしまう。

時代区分の否定は、分類・整理の否定である。ややむずかしい言い方をすれば「歴史知識の体系化・構造化の否定」といってもいい。それでは、世界史は雑多な知識の寄せ集めになってしまう。そんな世界史では、ますます人が寄りつかなくなるだろう。ただでさえ世界史は「とっつきにくい」と思われがちなのに。

 

新しい「大区分」について議論すべき

ほんとうは歴史学者たちは、時代区分を否定してしまうのではなく、世界史の時代区分の問題について、さらに議論を深めるべきだったのではないか?従来の三区分法に問題があるならば、それにかわる新しい大区分について議論してもよかったはずだ。しかし、そうはならなかった。少なくともさかん議論されたということはなかった。「新しい世界史の時代区分(大区分)」などというテーマは、まったく一般的ではないはずだ。

私そういちは、このブログで「新しい世界史の時代区分」について、ぜひ議論したいと思っている。それについては、またあらためて。この記事では、従来の世界史の三区分法(古代―中世―近代)について、基本的なことを述べるだけにしておく。

  

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