そういち総研

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ゲルマン人の「民族大移動」と西ローマ帝国崩壊の経緯。また、なぜ西ローマは滅び東ローマは残ったか

西暦400年代後半の、ゲルマン人の侵入や内乱による西ローマ帝国の崩壊。これは、「巨大な世界史的変動がどのように起きるか」についての重要なケース・スタディである。世界の「中心」として繁栄してきた超大国が、周辺民族の圧力などによってそれまでの体制を維持できなくなる。そして民族間の力関係や、繁栄の分布が急激に変わっていく――西ローマ帝国の崩壊は、こうした出来事のうち最も有名なものだろう。

そして、今の私たちは、ローマ帝国とゲルマン人の関係を、現代の欧米先進国と発展途上国の関係に重ね合わせて考えることもできるはずだ。ゲルマン人の大移動は、現代の移民や難民の問題を思わせるところがある。民族大移動と西ローマの崩壊のことは、「これからの世界」を考えるための大事な材料なのだ。

目 次

  

ローマ帝国の「西半分」の崩壊

西暦400年代後半に、ローマ帝国の西半分である西ローマ帝国が、周辺のゲルマン人の侵入や内乱によって体制崩壊するということが起こった。476年に西ローマ皇帝に仕えていたゲルマン系の軍人が反乱を起こし、皇帝を廃位してしまったのである。これが一般に「西ローマ帝国の滅亡」とされる出来事である。

ただし、この事件によって「時代が一挙に変わった」ということではない。400年頃以降、西ローマ帝国の衰退は明らかだった。476年の「滅亡」は、すでに「死に体」の帝国がついに完全消滅したということに過ぎない。また、ローマ帝国の東半分=東ローマは、依然として皇帝が支配する帝国が存続した。だから、西ローマ帝国の滅亡は、あくまでローマ帝国の「西半分」の体制崩壊であって、ローマ帝国がすっかり滅びてしまったということではない。

なお、ここでローマ帝国の「西」「東」ということについて説明しておく(ご存知の方はとばしてください)。ローマ帝国は、紀元前1世紀末に地中海を囲む広大な領域を支配するようになって、西暦100年代に最盛期を迎えた。そして200年代になると、軍人出身の権力者たちが皇帝の座をめぐって争う内乱が続くなどの「三世紀の危機」といわれる状況となったが、300年代前半には再び安定をとりもどした。

 

ローマの西と東(そういちの著書『一気にわかる世界史』日本実業出版社より) 

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ただし、300年代からは、巨大な帝国を東西に分けてそれぞれに皇帝を置くという「分割統治」が行われるようになっていた。それでも、300年代には一部の有力な皇帝が東西を統一して支配することがあったのだが、300年代末以降は二度と統一されることはなく、完全に「西」と「東」に分かれていった。

たしかに、「ローマ帝国の西半分の体制崩壊」に過ぎなかったとしても、それでも西ローマ帝国の滅亡は、あとで振り返れば歴史の大きなターニング・ポイントだった。西ローマ帝国が滅んだあと、その跡地にローマ帝国が再現されることはなく、いくつかのゲルマン人の国家が並び立つ、それまでとは異質の世界が展開していった。たとえば、かつてのローマ帝国では、経済や文化の拠点として多くの都市が栄えたが、西ローマの跡地では都市はすっかり衰退してしまった。その状態から、その後数百年かけてドイツ、フランス、イギリスなどの西ヨーロッパ諸国が形成されていった。

一方、ギリシアを中心とする帝国の東半分=東ローマ帝国は、皇帝による支配が西の体制崩壊の後も存続したのである。しかし、500年代の一時期を除き、最盛期のローマと比べれば領土も縮小して国の勢いは衰えてしまった。それでも東ローマは長期にわたって大国のひとつであり続け、発達した文化・経済は周辺諸国の羨望を集めた。都市の繁栄も、西ローマの跡地のような全面的な衰退はなく、一定程度続いた。

おおまかにみて400年代~600年代に、地中海沿岸、西ヨーロッパ、西アジアの広い範囲で、民族の勢力関係、当時の中心的な大国であるローマ帝国の政治体制などで、大きな変化が加速していった。繁栄の中心も変化した。400年代後半の西ローマ帝国の滅亡は、一連の変化を象徴する、重要な事件なのである。

 

ゴート人の侵入・「民族大移動」の開始

「西ローマ帝国の滅亡」についての具体的な経緯に入る前に、まず確認しておきたいことがある。それは、ローマ帝国は、紆余曲折はあったものの、300年代の後半までは超大国としての勢いがあり、おおいに繁栄していた、ということだ。

たとえば320~330年代のコンスタンティヌス1世(東西の帝国を支配した有力な皇帝)の時代にも、ローマ帝国の領域は最大の頃(西暦100年代)と比べて、かなり近い規模を保っていた。こうしたことはローマ史の本で「通俗的な理解とはちがうが」という前提でときどき指摘している。それが、300年代末からの大変動によって、西ローマ帝国は400年代後半には崩壊してしまった。ローマ帝国は、地中海を囲む広大な領域を支配するようになってから300年以上繁栄していた。その大帝国の、首都ローマを含むほぼ半分の地域が、数十年で外部からの侵入者に占領されてしまったのである。

こうした大変動の始まりは、ゲルマン人によるローマ帝国への侵入が激化したことだった。

ゲルマン人とは、ローマ帝国の外側のヨーロッパの北部や東部で暮らす、印欧語族のゲルマン語派(ドイツ語などの言語系統)の人びとを指す総称である。いわゆる「ゲルマン人」というのは、「ゴート人(族)」「フランク人(族)」などのさまざまな個別の部族を含む、かなり多様で漠然としたものなのである。時々の状況に応じた集合離散もくり返され、各部族を構成する人びとにも流動的な面があった。

そもそも、古代のギリシア人やローマ人が「ゲルマニアの人」というときには、自分たちからみて北側の辺境であるゲルマニアに住む人びと全般をさすもので、特定の民族を意味するものではなかった。 そこで近年は、一般に個別の民族や国民をさす「〇〇人」という言い方を避けて「ゲルマン(系)諸族」ということもある。

376年には一般に「民族大移動」といわれる変動が始まった。その先駆けは、376年にゲルマン人の一派であるゴート人が、数万人規模の大集団でドナウ川を渡って帝国内のバルカン半島北部に移住してきたことだった。

ゴート人は、おそらくポーランド北西部が原住地とみられるが、のちに黒海北岸に移住して暮らすようになった。しかし、370年代に入ると「フン人」という騎馬遊牧民の襲来を受け、その大半はフン人に征服されてしまった。そして、フンから逃れたゴート人がローマ帝国内にやってきたのである。

フン人については、どこからやってきたのか、またどの民族系統・言語系統に属するのか、はっきりしたことはわかっていない。中国北部で活動した「匈奴(きょうど)」とフンを同一視する見解もあるが、定説ではない。しかしトルコ系、モンゴル系を中心とする複数の系統の人びとの集団ではないかという説が有力だ。そして王といえるリーダーに統率され、相当な軍事力を備えていた。それが300年代の後半にヨーロッパ東部に進出してきた。

その後、378年にゴート人はローマ帝国側の対応への不満から反乱を起こした。たとえばゴート側は、当面必要な食糧などの物資の供給をローマに求めたが、ローマ側はこれに十分に応じず、ゴート人に食糧を高値で買い取ることを要求したりしたのである。

そして、ゴート人の反乱を鎮圧するためにローマ軍が出動したが、大敗した。さらに、総指令官のローマ皇帝・ウァレンス帝も戦死してしまった。バルカン半島南東部で行われた「アドリアノープル(ハドリアノポリス)の戦い」でのことだ。ゴート人の集団には女性や子どもも含まれていて、「難民」といえる面があったが、一方でローマの脅威になるだけの力を持つ兵士の集団でもあった。

 

「大移動」以前にもゲルマン人の移動はあった

376年以前にも、ゲルマン人の集団が帝国の外部から帝国内に移住してくることは何度かあった。すでに1世紀のアウグストゥスの時代から、そうした事例がある。そして、それらはローマ側の承認を得てのことだった。こうした移住は、ローマにとっては新たな労働力や兵士がもたらされるというメリットがあった。

その一方、200年代後半にはローマ帝国周辺のゲルマン人のいくつかの集団が、まとまった勢力を構成するようになり、国境地帯であるライン川やドナウ川沿岸への攻撃をさかんに行った。これは「三世紀の危機」の時代のローマにとって、東に国境を接する大国ササン朝ペルシアと並ぶ脅威だった。

しかし、200年代末以降、「三世紀の危機」の混乱を終わらせたディオクレティアヌス帝などによる立て直しで、ローマは勢いを取り戻し、300年代前半のコンスタンティヌス1世の時代にはゲルマン人に対する軍事的優位を確立した。それとともに、ゲルマン人の集団のあいだで、ローマの皇帝政府やその他の権力者の兵力となるケースが増えていった。そうした兵力が権力争いや内乱鎮圧の際に動員された。

つまり、ゲルマン人は「民族大移動」以前からローマ帝国を攻撃したり、中へ入りこんだりしていた。

376年のゴート人の場合は、ドナウ川を渡る直前に、部族のリーダーがウァレンス帝に移住の許可を求める手紙を送り、了承を得ている。帝国の属州(トラキアという地域)に自分たちを迎え入れ、土地を与えてほしい。見返りにローマ軍に兵士を提供するから、と。そのうえで彼らはドナウ川を渡ってきたのである。

しかし、今回のゴート人の「移住」は、鎮圧が難しい反乱をひき起こしてしまった。そしてゴート人は、皇帝政府がコントロールできない脅威となって、ローマ領内に入りこんで留まり続けた。そのようなゲルマン人の集団は、前例のないことだった。 そこで376年のゴート人の侵入は、重要な転換点とされるのである。さらに、フンやそのほかの周辺の騎馬遊牧民がゴート人と連帯するようにもなった。その後、ゴート人以外のゲルマン人による侵入も起こった。

 

ローマ帝国の東西分裂

紀元前395年には、ローマ帝国は東西に分裂してしまった。これは内紛によるものではなく、当時の有力な皇帝・テオドシウス1世(在位379~395)の政治的決断である。テオドシウス1世はその死に際して、長男に帝国の東半分を、次男に西半分を与えた。

「東半分」とはギリシアとその周辺のバルカン半島、アナトリア、シリア、エジプトなどであり、「西半分」とはイタリア半島や今のスペイン、フランス、ドイツ、イングランドなどにあたる西ヨーロッパ、今のチェニジアやモロッコなどの北アフリカである。

これは、当時のローマ帝国の衰退や混乱を乗り越えるために、巨大すぎる帝国を2つに分け、それぞれの帝国ごとに立て直しをはかろうとしたのである。かつて帝国を分割して統治することを始めた200年代後半のディオクレティアヌス帝と、基本的な発想は同じだ。

ただし300年代には、帝国を東西に分けて統治すること自体は常態化していた。東西を1人の皇帝が統一支配したのは、権力が強かった一部の皇帝の治世の、さらに限られた期間でのことだった。

テオドシウス1世は、ローマ帝国の東西を統一して支配した最後の皇帝となった。あとで振り返ると東西の分裂が決定的となった時点が、395年だったということだ。東西分裂後の、イタリア半島を中心とする西側を西ローマ帝国、ギリシアを中心とする東側を東ローマ帝国というのである。

 

「東」と「西」の違い

また300年頃から、ローマ帝国の繁栄の中心は、ギリシアを中心とする東ローマの側にしだいにシフトしていった。その傾向は「危機の三世紀」である200年代の内乱の頃からある程度みられたが、300年代にはそれがより明白となった。

まず西ローマでは、多くの都市が徐々に衰退していった。ローマ帝国の経済や文化で圧倒的な比重を占めていたのは、都市だった。その都市が衰えたということは、西ローマの経済や文化が大きく後退したということだ。遠距離の貿易は減少し、地域ごとの自給自足の比率が高まった。

富裕な権力者は郊外や田舎に、荘園のような独立の拠点を構えた。荘園とは、農地を中心とする大規模な私有地で、国家の支配が十分に及ばないものをいう。社会が変動するなかで、そこには有力者の保護を求める農民などが多く集まった。そして、隷属的な立場で働くようになった。キリスト教の修道院も、そのような荘園を保有した。皇帝政府による行政機構は弱体化し、地域ごとに有力者が割拠する傾向が強まった。西ローマでは、東ローマのように専制的(独裁的)な皇帝を頂点とする新たな体制を築くことができなかった。

このことについて、ローマ史の研究者・南川高志はこう述べている。“帝国東半では皇帝政府の権力が強いのに比して、西半では在地の有力者が強い力を持っており、皇帝政府が地域を把握していなかった。そのため「帝国」という看板のもとに力をまとめ上げて外部に対抗できるようなメカニズムが働かなかった”(『新・ローマ帝国衰亡史』岩波新書)

ゲルマン人の移動の影響を最初に受けたのは東ローマの地域だったが、その影響はのちに西ローマにも広がった。そして、持ちこたえられずに体制崩壊したのは西ローマのほうだった。そのおもな理由は、こうした東西の政治体制の違いにあった。

また、300年代以降、西ローマの皇帝はローマ市を離れてイタリア半島北部のミラノやラヴェンナに宮廷を置くようになり、ローマ市の重要性は低下した。このような遷都は、いつの時代にも政治が行き詰まると行われることがあるが、「永遠の都」といわれたローマ市を皇帝が離れるのは、行き詰りがそれだけ深刻だったということだ。

 

新しい「中心」としての東ローマ

一方、皇帝コンスタンティヌス1世(在位306~337)は、320年代から今のトルコのイスタンブールにあたるビザンチウム(ビザンチオン)という都市を大規模に再開発していった。将来は帝国の都にすることを意識してのことだった。これは、繁栄が東側にシフトすることをさらに後押しした。なお、当時のコンスタンティヌスは東西の帝国全体を支配する、単独の皇帝だった。

この都市は、再開発が一定の完成をみた330年に皇帝の名にちなんでコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)と名づけられた。300年代末には皇帝が常駐する「首都」といえるようになり、人口も20万には達していた。コンスタンティノープルは、のちに東ローマ帝国の都として長いあいだ繁栄した。

東ローマでは、300年代以降もコンスタンティノープルをはじめとする都市の繁栄は続いた。従来の市民による自治は後退し、さらに一部の都市は衰えていったものの、西ローマのような全面的な都市の衰退はなかった。

そして、官僚機構の強化がすすみ、専制的(独裁的)な皇帝を頂点とする国家のまとまりは維持された。東ローマでは、異民族の侵入や攻撃に対して、国家の力を結集して対処することができた。

ただし、東ローマでも西ローマより200年近く遅れて、かつての「民族大移動」のようなことがおこった。500年代後半、北方からスラブ人(印欧語族のスラブ語派の人びと)が東ローマの領域であるバルカン半島に大規模に侵入し、多くの都市が占領・破壊されてしまったのだ。それでも、700年代末には東ローマによる支配が回復し、都市も(規模は縮小したが)再建された。

 

西ローマ帝国の崩壊

一方、西ローマは国家としてのまとまりを失って、地域権力の寄せ集めのような状態だった。そこで、外部からの侵入や攻撃には弱かった。

410年にはローマ市が、東ローマの領域から西へやってきたゴート人の勢力に占領されてしまった。ただし、その後ゴート人は短期間でローマ市を離れ、イタリア半島を荒らしまわったあと西方へと進んでいった。なお、この時代には皇帝が常駐する都はローマではなく、イタリア北部のラヴェンナだった。この時点で西ローマ帝国は完全な崩壊には至らなかったが、その衰退は明らかだった。

ゴート人は、401年から412年にかけてイタリア半島の各地で破壊や略奪を行った。同時期にほかのゲルマン系の集団もイタリアを攻撃した。その被害は甚大だったので、413年にゴート人がイタリア半島を離れたとき、西ローマの皇帝政府はイタリア半島の中央部と南部の属州に対し、向こう5年間の大幅な税の免除を認めている。復興のための減税措置である。

400年代を通じて、西ローマの領域であるガリア(今のフランスなど)やイベリア半島(今のスペインなど)では、さまざまな系統のゲルマン系の集団が、地域の支配をめぐって争った。430年頃以降には、北アフリカにまでヴァンダル人というゲルマン人の一派がやって来て、その土地を征服してしまった。また410年頃には、ローマ帝国は「帝国の最北端」といえるブリタニア(今のイングランド)からも撤退している。その跡地は、ケルト系(ゲルマン系とは異なる、ケルト語派の人びと)のブリトン人が支配するようになった。

こうした混乱・戦乱のなかで、多くの都市が破壊などの被害を受けて、衰退していったのである。 そして、ガリアなどの周辺部の有力者は皇帝政府からの独立性をさらに強めたり、侵入してきたゲルマン系勢力の支配化に入ったりした。

東ローマの皇帝政府は、こうした西ローマの窮状に対し軍事支援などを行っていた。政府が分かれたとはいえ、「ローマ」としての連帯感はあったのだ。しかし460年代に北アフリカのヴァンダル人に対する大規模な攻撃が失敗してからは「もうお手上げ」という感じになり、西ローマへの関心を失っていった。

400年代後半には西ローマ皇帝の権力がきちんと及ぶのは、宮廷のあるラヴェンナとその周辺に限定されるようになっていた。皇帝はしばしば有力な軍人の操り人形になった。そのような「死に体」の状態にとどめを刺したのが、皇帝に仕えていたゲルマン系の軍人オドアケルによる謀反だった。

300年代のコンスタンティヌス1世以降のローマ帝国では、ゲルマン系の人びとが軍人・兵士や官僚として登用されることが増えていた。ローマ帝国で外部の諸民族を登用すること自体は、1世紀からあったことだが、300年代以降はそれが一層さかんになっていた。それで人材不足を補ったのだ。

476年のオドアケルの反乱で、西ローマ皇帝は廃位となり、西ローマ帝国は完全に崩壊した。「廃位」とは、西ローマ皇帝が倒されて、その地位を受け継ぐ者がいなくなったということだ。オドアケルは西ローマ皇帝ではなく、イタリア半島とその周辺を支配する「王」となった。なお、このときオドアケルは「西の皇帝はもう不要」という書簡を、東ローマの皇帝に送っている。そういうこともあるので、「廃位」という言い方をするのである。

そして、オドアケルがそんな書簡を東ローマに送ったということは、当時まだローマ皇帝の権威やローマ帝国という枠組みが、それなりに意味を持っていたということだ。オドアケルが「王」になったのも、一応は東ローマ皇帝に伺いをたててのことだ。つまり、西ローマ帝国が崩壊しても、まだローマ帝国は滅びていなかった。しかし、オドアケルの反乱以降、「西半分」において「ローマ皇帝」の支配は失われたのである。これはやはり大きなことだった(ただし、500年代の一時期、東ローマが旧西ローマ領の一部を征服した。しかし、その支配は長続きしなかった)。

 

その後・500年代のイタリア半島

オドアケルの王国は長続きせず、490年代からはイタリア半島にはゴート人の一派が支配する「東ゴート王国」が成立した。なお、同時代に西側のイベリア半島(今のスペイン)には、ゴート人の別の一派による「西ゴート王国」ができていた。また、今のフランスの大部分は、ゲルマン系のフランク人が支配するようになった。

そして535年にはイタリア半島をいわば「取り戻そう」とする東ローマ帝国と東ゴートのあいだで激しい戦争が始まった。「ゴート戦争」といわれるこの戦乱は20年続き、その結果イタリアは東ローマ領となった。しかし、その後568~572年にはゲルマン系のランゴバルド人がイタリアに攻め入って、半島の北部・中部に王国を築いた。

このような一連の戦乱で、イタリア半島の社会は大きなダメージを受けた。イタリアは、西ローマ帝国の跡地のなかで、400~500年代にとくに混乱の激しかった地域である。

ローマ市の人口は、410年のゴート人による占領・略奪の直前には、80万人だった。ローマ市の人口は西暦100年代に、およそ100万人のピークに達していた。「80万人」はそれよりは小さいが、依然として世界最大の規模だったとみられる。しかし410年以降、人口は20~30万人に減少した。そして、400年代の間はその水準だったものの、500年代半ばのゴート戦争の影響でさらに人口は激減し、8万人ほどになってしまった。 時代を代表する世界の「中心」としてのローマ市の繁栄は、完全に終わった。

 

現代世界と重ね合わせると

以上のようなゲルマンと西ローマの関係は、現代世界で起きていることを考えるうえで参考になるのではないか。「ローマ帝国」あるいは「西ローマ」は「欧米」に、「ゲルマン」は「アラブ・イスラム」あるいはその他の新興国に置き換えることができるだろう。あるいはローマ人の主流を、現代のアメリカ合衆国の白人になぞらえると、ゲルマンにあたるのはヒスパニック、アジア人などの白人以外の人びとだ。

現代の世界では、新興国や発展途上国から多くの人びとが欧米先進国へと流れ込む動きがある。たとえば近年の西ヨーロッパでも、中東などからの移民や難民の増加がみられる。つまり、「文明の中心」に向かって「周辺」から多くの人びとが流れ込む動きがあるのだ。

ゲルマン人が帝国の内部へ流れ込んできた「大移動」も、こうした「周辺から中心へ」という動きの一種である。前に述べたように、1世紀以降、ゲルマン人は、たいていは平和的にローマへの移住を行ってきた。300年代になると、軍人や官僚へのゲルマン人の登用が一層さかんになった。この時期にはゲルマン人が軍司令官などの高官に登用されることも珍しくなかった。それらの高位のゲルマン人は、高いレベルのローマ的な教養やスキルを身につけていた。これは、近年のアメリカで、白人以外から政府高官や先端的な大企業の経営者などが続々と出ているのと似ている。

ローマ史の研究者弓削達によれば、“すぐれた高位のゲルマン人に対するあこがれも生まれ、ローマ市内でローマ人が……ゲルマン風毛皮コートを着用し、ゲルマン人風の長髪をなびかせるなどの流行さえ生まれた”という。(『ローマはなぜ滅んだか』講談社現代新書)


「反ゲルマン」「反移民」の感情

そうなると、一方で「反ゲルマン」の感情も高まっていくものだ。当時のローマ人のあいだでは「あいつらは、所詮は野蛮人だ」「あいつらのせいでローマの伝統が失われる」「ローマにとって危険だ」という見方も有力になっていった。

このように、「周辺」からの移民が文明の「中心」に浸透して力をつけていくことに対し、従来の「中心」の住民のあいだで反発が高まるというのは、ご存知のように現代世界でもみられることだ。今の欧米社会では、「反移民」の主張はかなり力を増している。それはトランプ大統領の当選やイギリスのEU離脱の決定を後押ししたりしているのである。

そして、ローマ帝国の場合、「反ゲルマン」の感情は大規模な迫害や虐殺を生じさせるところまでいってしまった。

400年代初頭には、当時の西ローマ帝国で最も権限をふるっていたスティリコというゲルマン人の高官に謀反の疑いがかけられ、処刑されてしまった。この事件の頃から、ローマにおけるゲルマン人迫害の動きは急速に高まっていった。帝国内に住む、ローマと同盟関係にあるゲルマン人の部族の人びとを、ローマ人が虐殺するという事件も起こった。300年代末の「大移動」の開始以降、高まっていたゲルマン人と従来のローマ人とのあいだの緊張関係が、極に達したということだ。

この「虐殺」の結果、それらの部族の兵士3万人以上が、「大移動」で侵入してきたゴート人に合流してその軍勢に加わった。それによってさらに強大化したゴート人の軍勢が410年にローマ市を占領・略奪したのである。

この場合は、ゲルマン人への感情的な迫害が、より大きな災いとなって自分たち(ローマ人)にはねかえってきたといえるだろう。そもそも、ゴート人が制御不能な「反乱者」になったきっかけも、こうした反ゲルマン感情がかかわっていたはずだ。フン人の脅威から逃げてきた人びとに、食糧の供給などで誠意ある対応をしなかったことに、ゴート人は反発したのである。このときのゴート人への対応にあたったローマの当局は、明らかにゴート人を見下していたのではないだろうか。

 

西ローマの失敗

そして、410年にローマ市が占領されたときにも、ローマ人(西ローマ)は同じような失敗をしている。ゴート人の軍勢がローマ市を包囲した際に和平交渉が行われたのだが、このときラヴェンナの西ローマ皇帝はゴート人を侮辱する書簡を送っている。今の私たちからみれば、なんと愚かなことだろう。ゴート人を率いるアラリックという王はこれに激怒してローマ市内に軍をすすめたのだった。

処刑されたゲルマン人の高官スティリコは経験豊富で有能だったが、彼のような人材が当時の西ローマにはいなかった。そのため、弓削達によれば “外交交渉の拙劣さが目立った”という。(『ローマはなぜ滅んだか』)

当時の西ローマは、皇帝の権力が弱体化し、地方の権力者が割拠する傾向が強くなっていた。つまり「ばらばら」になりつつあり、国の力を結集しての防御態勢がとれなくなっていた。それなのに、重大な脅威となった異民族に対し、柔軟性のない傲慢な態度をとって、敗北していったのである。

 

「寛容」と「柔軟さ」を失ってはいけない

これは、明らかにゲルマン人への対応を誤ったといえるだろう。西ローマの政府は、もっと冷静に対応すべきだった。まず、ゲルマン人をとにかく「人間」として認める。そのうえで、自分たちに敵対しない、あるいは有益であるなら、それなりの処遇をする。説得や妥協をすべき対象として、交渉する。

聖人のようである必要はない。自分たちの立場や利益を優先し、自らの有利な点は利用するズルさがあっていい。

とにかく、損得を度外視したヒステリックな感情に走るのは、よい結果を生まないだろう。要するに「柔軟さ」や「寛容」を失ってはいけないのだ。そのことを「大移動」における西ローマのケースは教えてくれる。

最盛期のローマ帝国は、この「柔軟さ」や「寛容」を、少なくとも当時としては高いレベルで備えていた。
だからこそ、さまざまな民族を含む広大な地域を長期にわたって支配できたのである。

ローマが征服した、ローマの「拠点」といえるイタリア半島以外の「属州」には、生粋のローマ人からみれば「異民族」といえる人びとがいた。しかし、それらの人びとも帝国の権威に従うかぎりは、「ローマ人」になり得た。

ただしローマ人のなかの特権的な立場である「市民権」は、(西暦200年代以前には)おもにイタリア半島出身の一部の人たちのものだった。しかし、ローマ帝国に対してとくに従順で協力的な属州(征服された地域)の人びとには市民に準じた資格が与えられたし、一定期間以上軍務に従事した者は、民族を問わず市民権を得ることができた。

そして、市民権がなくてもさまざまな民族・集団に属する人びとが、ローマ帝国を構成する臣民(支配下にある民衆)として、水道などのインフラや治安維持などの行政サービスの恩恵を享受した。公共浴場は権力者から下層民(奴隷も含む)まで、あらゆる階層の者が安価に利用できた。また、ときには外部からのゲルマン人の集団的な移住も認められてきたのである。そして212年には、帝国内のすべての自由人(市民権はないが奴隷ではない人びと)に、ローマ市民権が与えられた。

ローマ帝国という枠組みは、最盛期には多くの多様なものをとりこむ柔軟さや器の大きさを備えていた。しかし、300年代後半あたりから、その点が劣化していったのだろう。とくに、西ローマではそれが顕著だったのかもしれない。

この状況は、やはり現代のアメリカ合衆国や西ヨーロッパ諸国と重なるのではないだろうか。近年の欧米先進国では、ここでいう「柔軟さ」「寛容」、さらにいえば「したたかな狡猾さ」といったものが失われつつあるのではと心配になる。それにかわって「頑なさ」「傲慢」「感情的な対応」といったネガティブな面が強まっているのではないか。

また、ここでは踏み込まないが、「頑な」になることと社会の成長性や活力の低下は結びついているかもしれない。たとえば現代の先進国でも、経済の低成長が続くなかで(少なくともかつての高度成長のような活況はない)思うような職や地位を得られず、「移民に仕事を奪われた」「あいつらさえいなければ」と思う人たちがいるのだ。

頑なで傲慢な姿勢を強めて「周辺」の人びとに対応し続ければ、どうなるか?いずれは「周辺」の人びとの、大規模で激しい反乱が起きるかもしれない。そして、もしもそのときに国をあげての強力な防御ができなければ、かつてない被害を欧米社会(さらに日本も含めた先進諸国)にもたらすだろう。

そして、「柔軟さ」「寛容」が失われることと、社会の成長性・活力の低下が結びついているとすれば、そのような「周辺」の人びとの反撃があったときには、それに対処する国家の力――行政機構や軍事力、国民の結束なども衰えている可能性が高い。末期の西ローマはまさにそうだった。

「ローマ帝国のような文明の中心といえるような大国であっても、柔軟さや寛容を失えば崩壊への道を歩む」ということは、歴史の教訓として忘れてはならないはずだ。しかも、条件さえそろえば、それまで長い間繁栄していた国家も短期間のうちに崩壊してしまうのである。西ローマの場合は、社会が「柔軟さ」「寛容」を失って異民族との深刻な対立を招き、しかも国家としての結束を欠いていたために、その脅威に対処できずに体制崩壊してしまった。

それでも現代の「文明の中心」の人びとは、古代のローマ人よりは賢いはずだ、うまくやれるはずだと期待するが、どうだろうか?

 

参考文献

ゲルマン人の大移動の経緯や、当時のローマの状況など、多くの点は以下の南川高志の著作による。

①南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』岩波新書、2013年 

新・ローマ帝国衰亡史 (岩波新書)

新・ローマ帝国衰亡史 (岩波新書)

  • 作者:南川 高志
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2013/05/22
  • メディア: 新書
 

  

ゲルマン人とローマの関係を、現代の先進国と発展途上国の関係に重ね合わせる視点、スティリコの処刑、ローマ市占領の経緯については、おもに弓削達の著作による。30年以上前の本だが、重要な視点を提示していると思う。弓削のこうした見解については、①の南川の著作でも紹介されている。

②弓削達『ローマはなぜ滅んだか』講談社現代新書、1989年 

ローマはなぜ滅んだか (講談社現代新書)

ローマはなぜ滅んだか (講談社現代新書)

  • 作者:弓削 達
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1989/10/20
  • メディア: 新書
 

 
近年は、ゲルマン人の侵入による変動について、その影響を穏健で限定的なものだったとする見方が研究者のあいだではかなり有力である。ローマ帝国(西ローマ)は「崩壊」「滅亡」したのではなく、ゲルマン人の侵入などによってゆっくりと「変容」していったのだと。これをここでは「変容史観」と呼ぼう。

この見解は1980年頃以降有力になった。その背景には、さまざまな文化・民族の共生に価値をおく「多文化主義」的な発想がある。それまで主流だった歴史観では、ゲルマン人の移動は「蛮族が侵入して文明を破壊した」ものだと捉えられてきた。これを「蛮族侵入史観」と呼ぼう。「変容史観」は、多文化主義の立場から「蛮族侵入史観」を批判するという性格をもっていた。多文化主義の立場では、ある人びとを「蛮族」などというのはあってはならないことだ。

しかし、2000年代になると、ゲルマン人の侵入がローマ社会に深刻な破壊や被害をもたらしたことを、さまざまな事実関係をもとにあらためて強調する研究も出るようになった(以下の③はそのひとつ)。本記事はその立場であり、「変容史観」には懐疑的だ。①の南川も、基本的にはローマ帝国という枠組みの「崩壊」が(400年代の帝国の西半分で)起こったことを前提にして、それが重大な出来事であったという立場であり、「変容史観」とは距離をおいている。

筆者そういちは多文化主義そのものを否定するわけではない。しかし、歴史の事実は事実として認めければいけないと考えている。「変容史観」は、多文化主義の正義感にこだわり過ぎて、事実を歪めて捉えているのではないだろうか。

③ブライアン・ウォード=パーキンズ『ローマ帝国の崩壊ーー文明が終わるということ』白水社、2014年 

ローマ帝国の崩壊: 文明が終わるということ

ローマ帝国の崩壊: 文明が終わるということ

 

  

ここでいう「変容史観」の本のひとつとして、つぎのものがある。本記事でも事実関係の確認で参照したところがある。

④ベルトラン・ランソン『古代末期―ーローマ世界の変容』文庫クセジュ、2013年

 

 

最盛期のローマ帝国の国家体制については、以下の記事を。 

 

崩壊せず生き残った東ローマ=ビザンツ帝国については、以下の記事を。 

 

「ゲルマン語派」「スラブ語派」といった、言語系統で民族を分類する考え方については、以下の記事を。 

 

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