今回の新型コロナウイルス(新型肺炎)の問題への一連の対応には、中国の社会構造や行動パターンの特徴がよくあらわれている。それは一言でいえば「やはり中国は独裁(専制)国家」ということだ。そして、中国と対比することで、日本の特徴もみえてくる。日本の場合は、トップへの権力の集中は不明確であり、社会を構成するさまざまなレベルの団体・組織のあいだの協力やけん制ということが重要になっている。中国は「権力集中の専制国家」であり、日本は「団体構造の社会」なのだ。その視点で、新型肺炎への対処の状況をみてみよう。
なお、「独裁」を政治学的な用語で「専制」ということもあり、とくに中国の皇帝政治に関してその語はよく用いられる。たとえば「皇帝は専制君主」などというのである。本記事でも「専制」をおもに使う。
目 次
- 「専制国家」中国と「団体構造」の日本
- 益尾知佐子『中国の行動原理』から
- 中国史家・足立啓二の専制国家論
- 中国当局による情報隠ぺい
- なぜ専制国家は隠ぺい体質なのか
- 「皇帝」の号令で一斉に動き出す
- 「潮流」に乗る人びと・現場でたたかう人びと
- 団体構造の社会は「調整」が手間
- 未経験の事態が生む苛立ち
- 「団体構造」を克服するには
- 「良い方向」に進むための検証の視点
「専制国家」中国と「団体構造」の日本
中国は今も昔も専制的(独裁的)な権力を持つ「皇帝」が支配する社会である。現代中国の最高指導者は、世襲ではないものの、権力のあり方は王朝時代の皇帝とよく似た専制君主である。現在の強力な最高指導者である習近平主席は、まさにそうだ。
一方日本では、トップへの権力集中は明確ではない。国家を支配する「皇帝」のような専制権力は、今の日本には存在しない。日本では、さまざまなレベルの団体・組織が積み重なっていて、それぞれが一定の権威を持ち、相互に協力やけん制をしあう傾向が強い。現代では役所や企業、あるいはその各部署などがそのような「団体」の代表だ。前近代では「ムラ」などの地域社会がそれにあたる。日本はいわば「団体構造」の社会である。
今の日本に本格的な「専制権力」が存在しないというのは、たぶん本当だ。日本では長期政権の総理大臣でさえ、つい最近(2020年初頭)のニュースによれば、総理主催のイベント(桜を見る会)への招待者のことで追及されたり、政権寄りとされる1人の検察高官の定年を、従来の法解釈を変更して延長したことが批判を浴びたり、あるいは国会の場(予算委員会)で野党議員に一言「不規則発言」をしたのが不適切だったとして謝罪したりしている。
つまり、近年では最も強い権力を得たとされる安倍総理でさえ、かなり「細かい」ことにいろいろなけん制が入るのである。この「細かい」というのは、あくまで中国の専制権力が行い得ることのスケールに比べて、ということだ。なお、「専制権力」が存在しなくても、日本の政府・国家は、全体としてみればやはり巨大な権力を持つ存在である。ただ、特定の個人への極端な権力集中がないのである。
企業やムラなどの組織は、個人という社会の基礎レベルと国家権力という高次のレベルの「中間」のところにあるので、「中間団体」と呼んでもいいだろう。日本人の多くは、こうした中間団体に強い帰属意識を持っている(あるいは持つことを求められる)。
これに対し中国では、中間的な団体への帰属意識が弱い。やや単純化すれば「14億のバラバラの個人が1人の最高権力者によって支配され、国家として束ねられている」という構図なのである。
このような社会では、最高権力者への極端な権力の集中ということが起きる。それが「専制国家」ということだ。なお、もちろん中国でも、企業や各部署、地域社会などへの帰属意識はある程度存在するのだが、日本とくらべればかなり弱いということである。こういう話は、あくまで相対的な比較である。
益尾知佐子『中国の行動原理』から
中国社会のこうしたあり方――専制国家的な構造に関して、現代中国の外交政策などの研究者・益尾知佐子は、『中国の行動原理』(中公新書、2019)という最近出た本でこう述べている。
“中国人の組織ではボスと部下たちは基本的に一対一の権威関係で結ばれている。部下たちの関係はほぼフラットで、互いに独立し、協力することもあまりない。むしろボスに認めてもらうという目的の前で、彼らは潜在的な競争関係にある”(同書72㌻)
たとえば、益尾さんによれば、中国の飲食店では社長(ボス)によって割り振られた各自の持ち場を超えて従業員どうしが協力しあうことは少ないのだそうだ。どんな状況でも、厨房のスタッフがフロアに出てきて皿を片づけたり、テーブルを拭いたりすることはまずない。そして“それは彼らの間の関係が悪いのではなく、相手のテリトリーに干渉することが、ボスに認められた相手の立場や能力を尊重していないことを意味し、マナー違反になるから”なのである。(同書73㌻)
このような中国における組織の構成員(従業員)どうしの関係は、1人のボスへの権力集中とセットになっている。「権威集中の社会組織」が中国の特徴だと、益尾さんは述べている。
そして、日本の組織は(もちろん)中国とはちがう。日本の飲食店なら、状況しだいで厨房とホールが互いの仕事を手伝うのは、かなりあたりまえのことだ。
益尾さんはこう述べる。“日本では組織のどこかで問題が発生すれば、組織を守るために誰もがどんな役割もこなす”。そして“こういう組織では、権威は多くの人物に分散”し、“組織内で誰が実権を持つのか特定しにくい”のである。(同書70㌻)
つまり、中国の組織が基本的にボスと構成員との“一対一の関係性の束で成り立っている”のに対し、日本の組織は“縦に連なる重層的な関係性”で成り立っているというのである。(同書75㌻)たしかにそうだと、私(そういち)も思う。
大企業でいえば、日本では社長(CEO)1人に権力がとことん集中するのではなく、各部門のさまざまなレベル(役員から中間管理職まで)に権威や責任が分散し、それが幾層にも積み重なって企業全体が構成されているということだ。
そして各部門間での連帯や協力は比較的さかんだが、一方でお互いのさまざまな調整にも多大なエネルギーを要する。これに対し、中国では社長などの上位の権力からの指示がない限り、別々の部門どうしの協力ということは起きにくいのである。
以上は、個々の組織レベルのことを述べているのだが、このような組織のあり方は、それぞれ中国でも日本でも国家全体の構造にまで及んでいるというわけである。
中国史家・足立啓二の専制国家論
こうした中国と日本の社会構造の捉え方は、歴史研究の世界でも近年はかなり一般的なものだ。つまり、ごく一部の人間の思いつきということではないのである。たとえば、中国史の研究者・足立啓二は、中国の専制国家体制を論じた著書でこう述べている。
“団体性を持たない社会と、意思決定の集中化した巨大な政治的統合。この両者の組み合わせは、実に専制国家の指標である”
“封建制(そういち注:武家が支配する体制)の成熟以来、日本社会は集団重積型の構造を特徴としてきた。日本社会は閉じられた集団を単位とし、…集団の集合として上位の集団が形づくられている”
(足立『専制国家史論』柏書房、1998、3㌻、70㌻。ちくま学芸文庫版・2018年)
足立さんもまた、中国は長い歴史のなかで、中間団体の存在が弱い、権力集中型の社会を形成してきたとしている。一方日本社会は、さまざまな団体が力を持ち、それが積み重なってできている「団体構造」だというのである。こうした認識は、近年の中国史に関する研究ではかなり一般化しているが、足立さんの著書はこのテーマを早くから(1990年代に)系統的に論じたものだった。
そして、足立さんによれば、「中国における共同団体の不在が、その専制国家体制の基礎となっている」というのは日本の戦前・戦中の学界では有力な説だったが、戦後は(その経緯にはここでは立ち入らないが)下火になったという。それが近年は復活してきたということだ。
そして、歴史学者たちの見解と、益尾さんのような現代中国ウォッチャーの見方は、大筋で一致しているというわけである。素人である私たちも、ぜひおさえておきたい。
中国当局による情報隠ぺい
権力集中の専制国家・中国と、団体構造の社会・日本。その視点やイメージをもとに、今回の新型コロナウイルスへの中国と日本での対応をみてみよう。
今回の新型コロナウイルスの問題発生の当初、中国当局の姿勢はいかにも専制国家的だった。つまり、権力にとって不都合な事実を否定し隠ぺいしようとした。
最も有名な話では、武漢の眼科医・李文亮氏の件がある。2019年12月、李氏は通常とは異なる肺炎が流行しつつあることに気がつき、そのことを医学部時代の仲間のチャットグループに書き込みをした。それはネット上にも拡散して、人びとの目に触れるようになった。そのことで李氏は勤務先の病院から懲戒処分を受け、さらに警察にも呼び出された。そしてほかの7人の医師とともに、「デマを広めた」とされて、今後はそれを行わないという書面にサインさせられたのである。
その後李氏は新型肺炎を発症し、2月7日に33歳の若さで亡くなった。この一件での中国当局の対応は、国内外の大きな怒りや不信を招いた。
なぜ専制国家は隠ぺい体質なのか
伝染病の発生は、少なくとも初期段階では自然災害的なものであり、それ自体に当局が大きな責任を負うものではない。だから、それに関する情報は「取り扱い注意」ではあるものの、当局が躍起になって隠ぺいする必要など、本来はないはずだ。病気の拡大を防ぐために、正当に扱えばよいのである。
しかし中国という「皇帝専制」の国家は、ちがう行動をとる。「権力者にとって不快な情報を組織にもたらすと、自分が大きなダメージを受ける」ということが組織に深く浸透しているためだ。
たしかに「悪い知らせは上司に伝えにくい」というのは、日本でもほかの国でもあることだ。その「悪い知らせ」に関し自分には特に責任がなくても、である。それは、ボスがよほどの人格者や優秀な人でないかぎり、不快な情報をもたらした人間は、どうしてもマイナスの印象をもたれてしまうからだ。
そして、1人のボスに権力が極端に集中する中国のような社会では、ボスに疎まれるのはきわめて恐ろしいことであり、そのリスクはとにかく避けたい。だから専制国家では、マイナス情報は隠ぺいされる傾向がとくに強くなる。
しかも中国では災害や疫病の流行を、皇帝の支配の正統性(「天命」という)が失われつつある兆しのひとつと捉える伝統がある。その点でも「新型肺炎の流行」は、時の権力者にとってまさに「不快な情報」だった。そこで当局の担当者のあいだでは「忖度(そんたく)」が働いて、李医師のような人物を弾圧したりしたのだろう。
その手の「忖度」に関し、こんなこともあった――かなり早い段階で、北京から保健衛生担当の上級官僚が武漢に派遣されたが、その官僚が新型コロナウイルスに感染してしまったのである。この派遣は、新型肺炎が予防可能で抑え込めることを人びとにアピールしようと行われたものだった。官僚組織としては、不都合な現実を「たいした問題ではない」と扱おうとした。しかし、大失敗だった。
この背景には、「問題は深刻だ」とすることは権力者にとって不快なはずなので、とにかく「大丈夫だ」という前提で扱わなくてはならない――そんな「忖度」があったのではないだろうか。その挙句、現実を見誤ったのである。
*以上、李医師や保健官僚派遣の件については、おもに『日本経済新聞』2月14日朝刊の、ジャミール・アンデリーニ「新型肺炎「王朝」の危機」による。
「皇帝」の号令で一斉に動き出す
だが中国当局のスタンスは、その後大きく変化する。最高権力者の指示があったからだ。「皇帝」の号令で、国じゅうが一斉に動き出した。これもまた、いかにも専制国家的だ。
1月20日には、習近平国家主席が新型肺炎に関し「時機を逃さず情報を公開すべき」という指示を出したことが中国メディアで報じられた。すると、当局の発表する新型肺炎感染者の数が急増した。それまで隠ぺいがきわめて盛んだったということだ。そんな当局であれば、今もいろんな隠ぺいを続けていることだろう。
*『日本経済新聞』2020年2月19日朝刊 コラム「中外時評」による
1月23日には武漢の封鎖が始まり、1月25日には、国営テレビで習近平主席の重要指示が読みあげられた。「我々は党中央の集中統一指導を強化しなくてはならない」――この宣言によって中国全土で新型コロナウイルスとの「総力戦」が始まった。たとえば政権の中枢がある北京では、25日の放送から一夜明けると、感染防止のために人の通行を制限するバリケードがあちこちにできるなど、市内の様子が一変したという。そして、北京の中心部から人影は消えていった。
*2020年2月12日『日本経済新聞』朝刊 記事「厳戒・北京、消えた人影」による
「潮流」に乗る人びと・現場でたたかう人びと
前に引用した益尾さんによれば、中国人は国家権力がつくりだす世の中の「潮流」というものにきわめて敏感で、その「潮流」に乗ろうとする傾向が強いのだそうだ。とくに役人はそうだろう。
たしかに、最近(2月)のテレビでよくみかける中国の様子は、当局の役人たちが今の「潮流」に乗ろうとしている様子を映し出しているのかもしれない。役人が人びとや施設に片端からアルコール消毒液を吹きかけたり、マスクをしていない人物を複数の警官が取り押さえようとしていたり……どれだけの効果があるかは別にして、これは「とにかく最高権力者の意向に沿うことを懸命にやっていますので」ということではないか。そして、「皇帝」の指示に忠実であることを、組織のあいだで競いあうことにさえなっていないだろうか。
もちろん、そんな保身や忖度とは関係なく、必死に(まさに命がけで)たたかう医療スタッフなどの現場の人たちも大勢いることだろう。だから、中国当局の取り組みを「専制国家的」などと批評することは、そうした真摯な人たちに対し失礼なのかもしれない。しかし、じつはその真摯な人たちこそ、中国の社会構造がもたらす理不尽や歪みを、自分の現場で強く感じているのではないかとも思う。
そして、今後新型肺炎の問題が短期で収束せず、さらに大きな被害をもたらした場合には、医療や行政の現場の人びとや、それに呼応した知識人による体制批判が噴出してくる可能性は高いだろう。
すでにそのような批判は起こっているが、習政権にとってきわめて深刻なダメージや脅威となるレベルに達するかもしれない。このあたりは、どの程度で収束するかにかかっている。
だから今の周政権は、この問題に必死なのだ。国家にとって最重要行事のひとつで、3月初旬に予定していた「全人代」(年1回開催される国会のような大規模な会議)の開催について、延期もやむを得ないとするほどである。
団体構造の社会は「調整」が手間
一方、新型コロナウイルスの問題に対する日本社会の反応はどうか。これは「縦に連なる重層的な関係性」で成り立つ「団体構造」ならではのことになっていると思う。「縦に連なる重層的な関係性」というのを私なりに補足すると「さまざまなレベルの中間団体に権威や責任が分散し、それが幾層にも積み重なって社会全体が構成されている」ということだ。
こういう社会は、手慣れた問題だと、さまざまな組織(中間団体)の間の連携や協力がスムースに行われるが、未経験の問題に対しては、お互いの組織の立場や利害に配慮するあまり、現場が身動きしにくくなる傾向がある。現場が動くためには、各組織のあいだの「調整」が必要で、そこに手間がかかるのである。つまり、組織間のけん制が強く働いてしまう。これは私(そういち)も含め、日本の企業や役所に勤めていた人なら、誰もが経験したことだろう。
新型肺炎に関するシンプルな例であれば、感染者の行動(その人がどこに立ち寄ったか、どんな交通手段を用いたか)についての情報公開のことがある。この情報公開は病気の予防のためには、個人情報が守られる範囲で積極的に行われてよいはずだ。しかし、消極的な自治体もある。そのような自治体では「施設や交通機関を具体的に明らかにすると、風評被害を受けるかもしれない。また、その運営会社から苦情が来るかもしれない」と考えているのだろう。あるいはもっとばくぜんと「どこからから何か言われたらいけない」くらいに思っているのかもしれない。
これは一言でいえば、「公開した場合のもろもろの影響を考えて…」ということだ。日本ではこの「もろもろの影響を考えて」というのが、非常に多い。何かを行う場合の「もろもろの影響」を考えられることは、日本の組織人にとってとくに大事な能力である。
この手の「忖度」は、中国社会での、突出した権力者に対する忖度や、権力がつくりだす「潮流」におもねる姿勢とは異質なものだ。日本では、忖度の対象は特定の権力である場合もないわけではないが、自分たちの組織の外にある、ほかの中間的な団体であることも多い。さきほどの「感染者についての情報公開」の例だと、情報公開に消極的な自治体は、施設や交通機関を運営する企業に配慮しているのである。
中国当局の場合、自分たちよりも「格下」の企業に対するそのような配慮などあり得ないだろう。また、それぞれの組織は「皇帝」への忠誠心をほかの組織(さまざまな国家機関、地方政府など)と競い合っており、ライバルに対しいちいち気遣う発想もないはずだ。
未経験の事態が生む苛立ち
日本のように「さまざまなレベルの中間団体に権威や責任が分散し、それが幾層にも積み重なっている社会」では、「もろもろの影響を考える」発想が、常に強く働いている。そのような社会では、すでに「もろもろの影響」をふまえた調整が組織間でなされている、経験済みのルーティン化した案件ならばスムースに仕事がすすむ。しかし、未経験の事態に対しては「調整」が大きなネックになってしまう。また、「調整」の負担が増えるほど、さまざまなミス・見落としも生じやすくなる。組織のエネルギーを、現場の重要問題に向けられなくなってしまう恐れもある。
そして、もしも現場が頑張って「調整」を進めたとしても、ルーティン業務の見事な仕事ぶりとのギャップは大きくならざるを得ない。部外者の目でみれば「なんでこんなことが、なかなかできないんだ!」という苛立ちを生む事態となる。
そして、最近(この2月に)毎日テレビやネットで言われていたことの多くは、そのような「苛立ち」に関するものだ。
たとえば、横浜に停泊しているクルーズ船の乗客のための持病の薬がなかなか届かない、政府としての感染の検査能力を、1日に「何百件」のレベルからなかなか上げることができない(感染予防の根幹に関わることなのに!社会全体の能力を結集すればもっと何とかなるはずなのに!)そもそもクルーズ船を多くの乗客を閉じ込めたまま停泊させているのはどういうことなんだ……
これらの案件は、どれも対処にあたってさまざまな関係機関との「調整」などが山ほど必要とされるだろう。たとえば、数百人の船客がそれぞれ求める薬を、おそらくはそれぞれが受診している医療機関に確認のうえ、おそらくは通常ではないルートで入手し、絶対に間違いないように各人に配布するのに、どれだけの確認や作業が必要だろうか?
しかもこれは、今までに誰も担当したことのない業務である。インターネットで注文して翌日には商品が届くといった、すでに構築された世界とは大きなギャップがある仕事なのである。
クルーズ船があのような形で停泊を続けたのも、アメリカ(船の所有企業がある)やイギリス(運航会社がある)といった外国を含めたさまざまな関係者への影響を考えた結果だろう。もろもろの影響に配慮しすぎて身動きがとれなくなったのかもしれない。その意思決定の経緯や事情は、しだいに明らかになっていくだろう。
また、検査体制の強化については、国立感染症研究所などの公的機関のほかに民間の検査機関、大学などが連携することで、2月中には1日に「何千件」のレベルにする見通しが立ったが、政府の担当者はそこまでもっていくのに、どれほどの組織内外での「調整」を行ったことだろう。この「調整」も、担当者にとっては未経験だったはずだ。
こうした仕事の具体的な様子が、もしもすぐれたジャーナリストによって取材され報じられれば、私たちは今の日本の「団体構造」がもたらす問題について、より深く知ることができる。そこからは重要な教訓が得られるはずだ。これは、事態が収束してからの宿題だが、それでもできるだけリアルタイムで掘り下げる報道があってよい。
しかし、管見の範囲では(そんなに色々みているわけではないが)、「新型肺炎の問題対応についての、政府などの担当者が組織間の調整で悪戦苦闘している様子」をくわしく報じたものはみあたらない。今の段階ではそのような踏み込んだ取材は難しいのだろう(もしあれば知りたいので、ぜひ教えてください)。
「団体構造」を克服するには
さまざまな組織間での調整が、今回の事態に対処するうえでのボトルネックになるならば――とくに日本ではそうなっているとしたら、それを克服する手段はあるのだろうか?
かなり「有力」となっている答えはある。「各組織の間の調整をはかれる強く幅広い権限・権威を持った機関が、全体の指揮をとる体制の構築」だ。これは、中国のトップのような専制的な権力ではない。厳格な法的縛りのもとで運営される存在でなければならない。
とはいえ、法的な制約をおおいに受けながら、同時に主導権を発揮するのは現実にはかなり難しいことだ。それでも、欧米人はその手の組織づくりについて、少なくとも日本人より経験がある。今の日本の議論でも、アメリカのCDC(アメリカ疾病予防管理センター)という組織がひき合いに出されたりする。
*なお、「中国と日本」だけなく「欧米と日本」の比較ということも重要なテーマなのだが、ここでは踏み込まない。一言だけ述べると、「団体構造」的な社会であることは日本・西欧・アメリカのあいだで共通だが、権力を拘束する「法の支配」の徹底の点で、日本はやや弱い――そのように私(そういち)は考えているが、これは別の機会に。
しかし、「日本版CDC」のような重要な組織をつくるには、それこそぼう大な「調整」が必要になるのである。短期的にはとても無理だ。当面は、今設けられている「対策本部」を充実させていくしかないが、はたしてどの程度機能しているのだろうか?(ここは今の私にはよくわからない)
そもそも、各組織・団体のテリトリーに踏み込んでくる強力な組織というのは、「団体構造」の日本社会では拒絶反応が起こりやすい。だから、中長期的に時間をかけるとしても、「日本版CDC」の創設にはかなりの困難がともなうだろう。あるいは、世論に押されるなどして組織ができても、既存の組織の壁に阻まれて思うように機能しない可能性もある。「形だけで魂の入っていない組織」になってしまう、ということだ。
しかし一方で、日本人は目的やなすべきことが明確ならば、お互いに「調整」を重ねたうえでということになるが、立場を超えて協力しあうことも得意なはずだ。
「良い方向」に進むための検証の視点
そのような「良い方向」に進むうえで、今まで起きたこと・これから起こることについて「検証」していくことは不可欠である。これは「識者」といわれる人は誰もが言うだろう。本記事ではもう少し踏み込んで、とくに日本社会の「団体構造」という視点から、今回の新型肺炎への対処を把握していくことだが大事だと述べている。たとえば「もろもろの影響」ばかり考えて現場の身動きがとれない、組織間の必要な「調整」が自覚的になされないといった問題があれば、この「視点」からその問題がより明確にみえてくるだろう。
そして、日本社会の「団体構造」やその行動パターンは、中国という「専制国家」と比較することで、一層明らかになるのだ。
以上は、本当に差し迫った問題解決にはつながらないかもしれない。私には本記事のような、かなり「悠長な」ことしか書けない。しかし、世界史をふまえたざっくりした話ならば書ける。本記事では、世界史の知識から得られる、中国や日本の「今」を理解するうえで重要な視点についてご紹介できたと思っている。これは「世界史が現代社会を理解するうえで役に立つ」ことを示す一例のつもりだ。
参考文献
①益尾知佐子『中国の行動原理』中公新書、2019年
②足立啓二『専制国家史論』ちくま学芸文庫、2018年
「専制国家」とはいえない、一定の民主主義をともなった「帝国」である最盛期のローマ帝国の政治体制について述べた記事。
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