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歴史からみるイスラム入門 ムハンマドからアッバース朝成立までのイスラームの形成期

まえがき

この記事では、イスラム教あるいはイスラム世界というものがどのようにして成立したかについて初心者向けに解説していきます。つまり歴史からみる「イスラム入門」です。ただし、断片的な通りいっぺんの説明ではなく、かなり系統的に、それなりに踏み込んだ説明もするつもりです。そこで、かなりの長文になっています。3部構成になっているので、区切りをつけながら読むのもいいかと。また、この「まえがき」でイスラムを理解するための一定の見取り図を簡単には述べているので、それだけでも読んでいただければ。

イスラム教は「原理主義」者のテロ事件などを見聞きすると「過激で危険な宗教だ」とも思えるし、その一方で「イスラムは、本来は善意の平和的宗教だ」という知識人もいる。果たしてどうなのだろうか?

また、イスラムの専門家のなかには「イスラム(イスラーム)とは単なる宗教を超えた、文明そのものだ」などという人もいる。

筆者そういちは、イスラムとはやはり「宗教」のひとつであり、それ以上の何かだとすることは過大評価だと思っている。しかし、イスラム教にはほかの大宗教(キリスト教や仏教など)とは異なる重要な特徴があると思う。それは「宗教的理念によって国家・社会のすべてを規制しようとする志向が強い」ということだ。「宗教によって国をつくる」発想といってもよい。

だからこそ、伝統的なイスラム社会では聖典「クルアーン」(コーラン)などの宗教的な典拠に基づく「イスラム法」というものがあって、それに皆が従ってきた。こういうことは、キリスト教徒たちの欧米社会ではあり得ない。欧米ではキリスト教とは別個に発展した俗世の法(ローマ法に起源を持つ)が確固としてあって、社会を規制している。

この「宗教で国をつくる」というイスラム独特の発想をおさえることが、イスラム理解の重要なポイントだ。

そこがわかれば、たとえば今のイランで「イスラム法学者」という、一見したところ宗教家のような人びとが国家の権力を握っているのはどういうことなのかも、理解しやすくなる。また、なぜ既存の社会の変革や破壊をもくろむテロ活動とイスラム教が結びつくことがあるのかも、みえてくる。

要するにそれらは、イスラムという宗教が「宗教で国をつくる」ことをめざす教えであるがゆえのことた。宗教による国家支配や、宗教の理念に基づく「世直し」という発想は、イスラム的には自然なことなのである。そして、社会変革をめざす人びとのなかに「過激派」が発生するのは、イスラムにかぎったことではない。

また、イスラムによる国家建設には、格差の是正や福祉の推進、社会の安定・平和を実現するという理想が掲げられている。これは「クルアーン」にもあることだ。そこを強調すれば「イスラムは善意の平和的宗教」という見解も出てくる。

そして、「宗教で国をつくる」ことをめざすイスラム教は、社会のさまざまな分野に強い影響を与える。そこで、「イスラム教というのはたんなる宗教以上の何かだ」「宗教を超えた文明そのものだ」などという見解も出てくるのである。しかし、宗教の理念に沿って社会や文明のすべてを動かすことなど、本来はできるはずもない。現実のイスラム世界では「宗教で国をつくる」という理想は、不完全なかたちでしか実現していない。

以上でいくつか述べたことは、本文でさらに説明していこう。

ではなぜ、イスラムはそのような「宗教で国をつくる」という理念を強く持っているのか? そのような理念はどうして、どのような経緯で生まれたのか? これはイスラムの形成期の歴史をひもとけばわかることだ。ここで「形成期」というのは、600年代前半のムハンマドの登場から、イスラムの帝国の最盛期といえるアッバース朝の成立(750年)の頃までをいう。

この「形成期」に、イスラム教あるいはイスラム世界を構成する基礎的な要素がほぼ出そろった。その重要な時期の歴史を知れば、イスラムに関して、断片的・表面的なレベルを超えた「見取り図」を得られるだろう。

目 次

 

第1部 イスラムの誕生 

イスラム教とは

西暦600年代、地中海から西アジアにかけての地域でイスラムの国家が台頭した。そして、当時の大国だったビザンツ帝国(今のギリシア・トルコ・シリア・エジプトを支配したローマ帝国の末裔)や、ササン朝ペルシア(今のイランなど)をしのぐ勢力となった。

イスラム教は、西暦600年代前半のアラビア半島で、アラブ人のムハンマド(570頃~632)が創始した宗教である。アッラーという唯一絶対の神を信仰している。イスラム(イスラーム)とは、「神への帰依」を意味するアラビア語だ。イスラム教徒のことは「ムスリム(“帰依する者”の意)」という。絶対的な神の前で、すべての人間は平等であることを説く。

現在(2017年)の世界において、全人口の23%、17億人がイスラム教徒である。これは、全人口の31%(23億人)を占めるキリスト教に次ぐ数だ。

ムハンマドは、彼の時代にアラビア半島である程度浸透していたキリスト教やユダヤ教という一神教に影響を受けて、イスラムの教えを創始した。

なお近年は、とくにアジア・アフリカにかかわる固有名詞は、より現地語に即した表記を行う傾向がある。イスラム関係では、たとえばかつての「アラー」は「アッラー」、「マホメット」は「ムハンマド」、「イスラム」は「イスラーム」と書くことが多くなった。本記事ではある程度その方針をとりつつも、読みやすさなどを考慮して、従来からの表記のほうを使うこともある。

また、イスラム用語の「現地語表記」に強くこだわる人をみていると、イスラムに入れ込み過ぎている、特別視しすぎているのでは、と思えることもある。本記事では、当然のことではあるが、イスラムを外側から客観的にながめるというスタンスで述べていく。そういう意味からも現地語表記には、それほどはこだわらない。たとえば「イスラーム」ではなく、「イスラム」と表記する。

 

800年頃のイスラムの支配地域(そういちの著書『一気にわかる世界史』より)

バグダードはアッバース朝の都

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アラブの形成

アラビア半島は、大部分が砂漠地帯である。降雨量が少なく、河川は限られている。この半島に暮らす人びとの主流が、アラビア語を話すアラブ人である。アラブ人は、湧き水や地下水、または河川で一定の水がもたらされる場所に集落や都市を築いた。

アラビア半島に人が住み始めた歴史は古く、「最古の文明」とされるメソポタミアの都市文明が周辺に広がっていくなかで、アラビア北部のペルシア湾沿岸に小さな都市が生まれたのが最初だ。メソポタミアとアラビア北部は、そう遠くない距離にある。

そして、イスラム教誕生の舞台となったのは、アラビア半島の南部である。南部に都市ができたのは北部よりも遅く、紀元前1000~500年頃のことだ。

またその頃には、アラビア半島北部の人びとが、近隣の先進地域(シリアなど)の人びとから「アラブ」と呼ばれるようになった。当初その呼称には「荒野に住む野蛮人」というニュアンスがあり、自称ではなかった。しかし、のちの紀元後の時代には、アラビア半島の多数派のあいだで「アラブ」としての意識が成立した。

また、おそくとも西暦400年代までにはキリスト教やユダヤ教という一神教がアラビア半島に伝わり、一部に浸透していた。 しかし、イスラム以前にアラブ人の多くが崇拝していたのは、部族や都市ごとの多神教の神々である。

アラブ人の多くは遊牧民だったが、環境などに応じて農民や商人もいた。 彼らの営む商業では、砂漠に強いラクダを使った輸送や交易がとくに重要だった。ラクダで砂漠を行きかう商人のことを、「キャラバン」という。

ただし、アラブ人の都市や商業の規模は限られていたし、イスラム以前には半島の広域を支配する国家も成立したことがなかった。アラビア半島は、西アジアの片田舎だったのだ。


ビザンツとササン朝の陰で

ムハンマドが活動したのは、西暦600年代の前半である。彼はアラビア半島南部の商業都市メッカ(マッカ)の富裕な商人だった。ムハンマドは610年頃、40歳のときに最初の神の啓示を受けたとされる。そして、神の言葉を伝える「預言者」としての自覚を持ち、メッカで布教を始めた。

西暦500~600年代、地中海から西アジアにかけての地域には、東ローマ=ビザンツ帝国のほかに、今のイランを中心とするササン朝ペルシアという大国があった。

ササン朝が成立する以前、紀元前100年代には、ヘレニズム時代の大国であるセレウコス朝シリアが弱体化し、そのなかの東側(イランなど)ではパルティアという、騎馬遊牧民による国家が成立した。パルティア人は、イランの主流であるペルシア人にとっては異民族だが、同じインド・イラン語派の、比較的近い系統である。なおセレウコス朝は、紀元前1世紀にローマによって最終的に滅ぼされた。

パルティアは強力な騎馬軍団を持ち、この国と何度も戦ったローマ帝国も、ついに征服することができなかった。しかし、西暦200年代前半にはペルシア人の一派がパルティアの王朝を倒して、そのおもな領域を受け継ぐ国をつくった。これがササン朝ペルシア(サーサーン朝)である。

この国は、かつてのアケメネス朝ペルシアの栄光を復活させることを意識していた。ビザンツは、ローマ帝国が300年代末に東西に分裂したあとの東側の地域であり、かつてのローマ帝国の栄光にこだわっていたが、そのとなりにも過去の大帝国の継承者を自負する国があったのだ。

ササン朝ペルシアとビザンツ帝国は、敵対関係にあった。両国の争いは、とくに500年代後半から600年代前半にかけて激しくなった。おもに互いの境界に近いシリア北部の支配めぐる争いだった。両国の争いは、パルティアとローマ以来の「伝統」である。さらに、アケメネス朝と古代ギリシア以来のことだともいえる。しかし、争いの激化には、イランと地中海東部のあいだの経済交流がさかんになったことも影響している。地域間の交流が深まってより大きな経済圏ができると、その圏内での覇権をめぐる争いが起きやすくなる。

そして、ササン朝とビザンツの対立激化によって、ビザンツからインド方面への貿易ルート(内陸部かペルシア湾を経由)は、ビザンツの人びとにとって敵国に阻まれるかたちとなった。ビザンツとインドの間にササン朝は位置する。当時、ビザンツではインドからの贅沢品をあつかう貿易が盛んになっていたが、その輸送ルートに大きな障害が生じたのである。なお、その貿易のとくに重要な商品は、インド産の香辛料とインドに入ってくる中国産の絹だった。

そしてその結果、ササン朝を避ける別の交易路が発達した。アラビア半島南部の紅海側の地域であるヒジャーズ地方を通ってインド洋の北西部(アラビア海)に抜けるルートである。インド洋は、季節風を利用して航海する。

アラビア半島の南部は、ビザンツとササン朝の陰にあるような、中立的な地域だった。2つの大国の中心から距離があり、気候も過酷だったので征服を免れていた。

こうした状況のもと、ヒジャーズ地方は貿易の中継地として発展した。ラクダに荷を積んで砂漠を行き来して、アラビア海への玄関口である半島南端と、地中海東岸のシリアを結ぶのである。季節風を利用した貿易船は、風向きの都合で紅海には入ってこなかったので、こうした陸路の輸送が行われた。なお、600年代初頭までシリアはビザンツ領だったが、その後はササン朝が支配したり、ビザンツが取り返したりといった不安定な状況だった。

ムハンマドの故郷・メッカはヒジャーズ地方の中心的な都市で、500年代後半から貿易で栄えるようになった。といっても、当時の人口は1万人程度である。

ムハンマドは、キャラバンを生業としてシリアとの行き来をしていた。そこで、一神教などのさまざまな文化について知る機会があったはずだ。そしてその知見をもとに、独自の教義を生み出したのである。ヒジャーズ地方が国際的な商業で栄えたことは、その土地でイスラムという普遍的な宗教がおこる上での基礎だった。

 

「イスラム教徒の国」の誕生

イスラムの教義では、アッラーと、ユダヤやキリストの神は同じものだとされる。つまりこういうことだ――モーセなどのユダヤ教の預言者も、イエスも、アッラーと同じ神から啓示を受け、それを人類に伝えた。たとえばイスラムで説く「神の前での人類の平等」は、キリスト教でもすでに述べられている。「旧約聖書」も「新約聖書」も、一応は聖典といえる。ただしそれらは不完全なものであって、啓示つまり神の言葉を最終形として人類に伝えたのは、ムハンマドである。その神の言葉を記録した聖典が「クルアーン」(コーラン)である……

このような話は、ユダヤ教やキリスト教の側からは、とうてい認められない。しかし、イスラムの側としては、後発の一神教である自らを「決定版」と位置づけたのである。

そして、ムハンマドと彼に従うイスラム教徒(ムスリムという)は、単なる教団ではない、自分たちの国家といえる共同体をつくった。共同体とは、生活を営むための人びとの結びつきのことだ。

こうした「イスラムの共同体」のことを、イスラムでは「ウンマ」と呼ぶ。ウンマとはもともとは「宗教的な共同体」一般をさす言葉だが、多くの場合「イスラムの共同体」を意味する。

ウンマの始まりは、ムハンマドがメッカから移住したヤスリブという都市だった。ヤスリブは、のちにアラビア語で「町」一般を意味する「マディーナ(メディナ)」といわれるようになる(「預言者の“町”」ということだ)。そこで布教に成功して、住民の圧倒的多数がムスリムとなった結果、ムハンマドは宗教的リーダーにとどまらない政治権力者としてヤスリブを統治するようになった。

また、ムハンマドは何人もの妻や子を持つ家長でもあった。つまり、「神の子」イエスや「出家」したブッダとはちがって、俗世に生きる人間としてさまざまな活動と深く関わったのである。

ムハンマドはヤスリブで、ムスリムや同盟関係にあるユダヤ教徒の住民、つまり「ウンマ」の構成員が従うべき、さまざまな条項から成る盟約を制定している。これは「マディーナ憲章」といわれる。盟約を受け入れるなら、ユダヤ教徒のような異教徒もウンマの一員なのである。

のちにイスラムの国家はさまざまな宗教や民族を含む大帝国に発展するが、このような「イスラム主導による多様性」ということは、このマディーナ憲章にすでに示されている。 なお、マディーナのユダヤ教徒がアラブ人なのかイスラエルの民の末裔なのかは、わかっていない。

ヤスリブでは権力を得たムハンマドだったが、メッカでは信者は数百人に過ぎず、伝統や既得権と対立する少数派だった。 そして激しく弾圧され、危険を避けるために信者を連れてヤスリブへ逃がれた。結果として、それが大きな発展につながったのだ。

 

イスラムによる社会改革・国家建設

イスラム教の最大の特徴は、内面の信仰だけにとどまらず、具体的な社会改革をはっきりとめざした点にある。この点が、キリスト教、仏教などのほかの大宗教とイスラム教のあいだの最大のちがいといっていい。つまり、イスラムを理解するうえでの最も重要なポイントなのだ。

ムハンマドが生きた600年代前半のメッカは、急速な経済発展のために、格差拡大や道徳の頽廃などの社会矛盾が激しくなっていた。自己利益ばかりを追求する傾向が強くなり、伝統的な平等主義や助け合いの精神は廃れてしまった。

そうした問題に、ムハンマドは向き合った。そしてアッラーの教えという、正義や公平をもたらす「究極の答え」に達したのである。アラブの伝統的な神々も、既存の一神教も、彼からみれば役立たないか、不十分なものだった。

イスラムの戒律には、明らかにこうした「社会改革」にかかわるものがある。たとえば、風紀の乱れの元凶である酒の禁止、性犯罪などの防止のため女子の服装を規制する、利子という不労所得の否定、富裕層による社会貢献の推進、生活困難な未亡人救済を意識して4人までの妻帯を認める……

このほかクルアーンでは「商売において公正であれ」といったことも述べられている。“災いあれ、計量をごまかす者たち”という、取引での不正を戒める一節があるのだ。社会のさまざまな領域に具体的に踏み込んでいるのである。

クルアーンは約6000の節(文章のまとまり)から構成されているが、その3分の1ほどが具体的に「こうすべし」「これを禁ずる」といった行動規範を扱っているという。

そして、こうしたイスラムの教えを実行するには、個人の内面や日常生活だけでなく、政治・経済の体制(さまざまな法やルール)をも大きく変える必要があった。それはつまり、社会のすべてがイスラムの理念に基づいて統括される、新しい「国家」をつくることだった。そのような「イスラム教徒の国」の原点が、ヤスリブという都市だった。

ムハンマドがヤスリブに移住した622年は、イスラムにおいてきわめて重要な起点である。だからこそ、「イスラム歴」はこの移住(「ヒジュラ(聖遷)」という)の年をもって紀元とする。

「宗教によって国をつくる」発想は、ほかの世界的な宗教であるキリスト教や仏教にはない。キリスト教の場合は、ローマ帝国の「国教」になったものの、キリスト教の理念に基づいて国家の法や体制がつくり変えられるということはなかった。

たとえばローマ帝国にはローマ法という、キリスト教とは別個に発展した法体系があり、ローマが「キリスト教の帝国」となったあとも、ローマ法は生き続けた。 ローマ法を捨てて別の法体系を採用するなど、ローマ人にとってはあり得ないことだった。

キリスト教が力を持ったのは、あくまで人びとの内面における価値観や世界観の領域だった。それが政治・経済に対し間接的に影響を与えることはあり得るだろう。しかし、イスラムの場合は、イスラムの教えを直接的に国家の法や体制に反映させることが原則なのである。

そして、実際にその原則による「イスラム教徒の国」が成立し、大帝国にまで発展していった。また、イスラムの国家では、クルアーンやムハンマドの言行録(「ハディース」という)などの宗教上の典拠に基づくイスラム法(シャリーアという)の体系が発展し、社会を規制するようになった。

なおユダヤ人も、一神教によって人びとが結びつく国家を築いたが、それは帝国レベルにまで発展することなく滅びてしまった。イスラムのような大成功をおさめることはなかったのである。

以上のようなきわめて強力な宗教のあり方は、イスラムに独特のものだ。たしかにイスラム教は、それまでの宗教にはなかった一貫性や強さ、社会への影響力をもつ宗教だった。それは一神教が西アジアや地中海地域で展開するうちに到達した、歴史の積み重ねの産物といえるだろう。そして、これほどの影響力を持つ宗教は、その後の世界史ではあらわれていない。

 

第2部 イスラムの帝国とイスラム世界の成立

「イスラムの帝国」形成

ムハンマドの「イスラム教徒の国」は、さまざまな攻撃や危機を乗り越えて勢力を伸ばし、マホメットが病死する632年の少し前には、アラビア半島のほぼ全体を支配するようになった。

そしてムハンマドの死後も、その後継者の指揮のもと、アラブ人が主導する「イスラム教徒の国」は拡大を続ける。

640年代~650年頃には、ニハーヴァンドの戦い(イラン西部、642年)の勝利などによってササン朝を滅ぼしてその領域を支配下におさめた。その一方、ビザンツ帝国とも争って、630年代にはシリアとイラクを、640年代にはエジプトを奪った。イスラムを広めようとする「聖戦」の意識と、征服によってもたらされる利益が、アラブ人を突き動かしていた。

アラブ人は、イスラムの旗のもとに強く団結していた。また、遊牧や商業を生業としてきたので、馬やラクダによる機動力や情報力の点でもすぐれていた。

そして、当時のササン朝もビザンツも、互いに争い続けた結果、おおいに疲弊していた。また、両国とも北方の異民族との戦いでも消耗していた。さらに、ササン朝は後継者をめぐる内紛によって無政府状態に近くなっていた。そのように弱体化していたタイミングで、強力な新興勢力に襲われたのである。

西暦600年代後半~700年頃には、北アフリカを含む西アジアの広い範囲を中核とする、巨大な「イスラムの帝国」が形成された。

この国は、かつてのローマ帝国の最盛期にも匹敵するスケールであり、西側ではかつてのローマ帝国と、東側ではかつてのアケメネス朝ペルシアと重なっていた。750年頃には、イスラムの勢力圏は、西はイベリア半島(今のスペイン)から、東は今のアフガニスタンまでに及んだ。この範囲は、イベリア半島を除けば、現在もイスラムの中核的な地域である。

 

800年頃のイスラムの支配地域(そういちの著書『一気にわかる世界史』より)

アッバース朝を中心に、複数のイスラム王朝を含む。バグダードはアッバース朝の都

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それにしても、ムハンマドが生きていた時点で、数十年後のこの結果を誰が予想しただろうか?「片田舎」のアラブ人がこれほどの大帝国を築くなど、ビザンツやササン朝の人間はもちろん、アラブ人にも想像できなかったはずだ。「イスラムの勃興」は、世界史において空前の劇的な大事件だったのだ。

 

イスラム教の広がり・「アラブ」「イスラム世界」

帝国の領域拡大とともに、イスラム教はアラビア半島を超えて広がっていった。征服されたさまざまな民族や集団が、イスラム教に改宗していった。

たとえば、ササン朝ペルシアではゾロアスター教がさかんだったが、多くのゾロアスター教徒がイスラムへ改宗した。征服された地域のキリスト教徒やユダヤ教徒も、多くがイスラム教徒となった。ただし異教徒たちは、一定の租税を払えば、イスラムへの改宗を強制されることはなかった。また、イスラムへの改宗は征服とともに一気にすすんだのではなく、圧倒的多数がイスラム化するには1~2世紀がかかっている。

征服した土地でアラブ人が支配を確立することは、比較的スムースにすすんだ。以前の支配者にくらべて、どちらかといえば公正でゆるやかな統治を行ったからだ。

たとえばシリアやエジプトのキリスト教徒は、ビザンツの「ギリシャ正教」(現在おもに東欧で信仰されるキリスト教の一派)とは異なる宗派だったので、かつては迫害を受けることがあったが、イスラムの支配化では税さえ納めれば干渉されなくなった。多くの人びとがイスラムによる支配を、以前よりは望ましいものとして受け入れた。

700年代のイスラムの帝国は、当時において最大の勢力であり、世界の繁栄の中心となった。ただし、この国は様々な民族や国家をやや強引にまとめたところがあり、800年代以降は、複数の国に分裂していった。

しかし、イスラムの教えは分裂後もそれぞれの国で維持された。それは現在のイスラム諸国にまでつながっている。それほどイスラムは各地で深く根付いていたのである。

これは、イスラム教というものに高い普遍性や、教義としての強さがあったということだ。また、イスラムの理念に基づく社会運営が、かなり有効だったということでもあるだろう。

また、イスラムの国ぐにの間では、通商などの交流もさかんだった。イスラム教徒のあいだでは、国を超えた人びとの行き来を妨げないというのが、共通の認識だった。

そして「イスラム世界」という大きなまとまりが、西アジアを中心に形成されていった。イスラム的な認識では、さまざまな国や民族を含むイスラム世界は、巨大な「ウンマ」(イスラム共同体)なのである。

600年代後半以降、イスラム帝国建設を主導したアラブ人が、優位に立つ民族として帝国各地に移り住むことも、さかんに行われた。そこで、イスラム以降の「西アジア」の地域は、「アラブ」とも呼ばれる。

 

※「西アジア」などの地域区分については、つぎの記事を。

  

アラビア語の公用語化

イスラムの帝国では、700年代初頭にアラビア文字で書かれたアラビア語が公用語となった。それまでは、ビザンツのギリシア語やササン朝のペルシア語が行政ではおもに用いられていた。 イスラムの帝国の初期の時代には、ビザンツやササン朝の官僚だった人びとやその後継者が、行政において大きな役割を果たしていたのである。巨大な帝国を統治する実務的なノウハウを、当時のアラブ人は持っていなかった。そこで、自分たちが征服した大国の人材を活用したのである。

なお、クルアーンはアラビア語で述べられていたが、イスラムの教義ではクルアーンをほかの言葉に翻訳すれば、それは真正の「神の言葉」とは認められない。アッラーは最高の言語であるアラビア語で真理を伝えたので、アラビア語以外のクルアーンはありえない、とされるのである。

イスラムの帝国では、アラビア語以外を母語とする人びとが、もとは多数派を占めていた。ペルシア語を話すベルシア人や、アラム語を話すシリアやイラクの人びと、コプト語(ギリシア語の影響を受けたエジプト語)を話すエジプト人などである。 しかし、ムスリムとしてステイタスを得るにはアラビア語をマスターする必要があり、アラブ人以外の人びともアラビア語を積極的に学んだのである。それが世代を重ね、アラビア語のネイティブ(バイリンガル含む)は、イスラムの帝国のなかで主流となっていった。

 

第3部 イスラムを構成するさまざまな要素

正統カリフ時代からウマイヤ朝へ

イスラムの帝国は、632年にムハンマドが死去したあとは、後継の指導者である「カリフ」(ハリーファ)を、ムハンマドの高弟だった有力者による話し合いで選ぶことになった。これを「正統カリフ時代」といい、4代にわたって30年ほど続いた。カリフとは「後継者」の意味で、預言者ムハンマドの代理人である。

そしてこの時代に、クルアーンを書物としてまとめることが行われた。ムハンマドは読み書きができず、何も書き残していない。当初クルアーンは、もっぱら口述で伝承されるものだった。国家事業としてクルアーンの「正典」が定められ、ほかのバージョン(異本)は徹底的に排除された。当時のクルアーンは羊皮紙(獣皮紙)の冊子だった。イスラムの国ぐにで紙が用いられる以前のことである。

そして「正統カリフ時代」の後には、661年以降、ウマイヤ家という一族が権力を握り、のちにカリフの地位を世襲するようになった。つまり、イスラムの帝国を支配する「ウマイヤ朝」(661~750)という王朝が成立したのである。カリフは「皇帝」のような存在になった。

これは、ウンマ=イスラムの共同体のあり方としては、大転換だった。それまで、ムハンマド以後のウンマを統治してきた「正統カリフ」は、みなムハンマドの教えを直に受けた後継者たちだった。彼らは、ウンマの誰もが宗教的な権威を認める存在である。しかし、ウマイヤ朝の世襲のカリフには、そのような権威はなかった。そこで、「そんなカリフは認めない」という人びともいた。ウマイヤ朝は、こうした反対派との内戦に勝利して権力を確立した。

 

シーア派とスンナ派の成立

ウマイヤ朝の正統性をめぐる意見のちがいは、複数の宗派(分派)を生んだ。ウマイヤ朝を否定する代表的な立場は、「ウンマの指導者はムハンマドの血筋の者であるべき」というものだ(ウマイヤ家はこれに該当しない)。

それは具体的には「4代目の正統カリフで、ムハンマドの従兄弟であるアリーとその子孫こそがムハンマドの代理人の資格を持つ」という主張である。アリーは歴代の正統カリフのなかでムハンマドとの血縁関係が最も近く、人望も厚かった。しかし、ウマイヤ朝の開祖ムアーウィアらと戦うなか、仲間割れで対立した一派に暗殺されてしまった。

この「アリーの党派」は、アリー亡き後も一定の勢力として存続し、やがて「党派」を意味する「シーア」と呼ばれるようになった。これが、イスラムの少数派・シーア派である。

一方、ウマイヤ朝を容認する多数派は、シーア派に対抗するため自分たちの立場を明確にして、「スンナの民」と自称するようになった。スンナとは、ムハンマドの時代から積み重ねられた、さまざまな「慣行」のことである。つまり、最大公約数的なコンセンサスを重視するということだ。

今も続く「シーア派」と「スンナ派」の原型は、ウマイヤ朝の時代に生まれたのである。ただし、対立はあるにせよ、両者は同じイスラム教徒として基本的には共存できる関係だった。イスラム史家のバーナード・ルイスによれば“スンナ派とシーア派の教義上の違いは、キリスト教国のライバル教会を分裂させている違いにくらべれば微々たるもの”だという。

また、どちらにも属さない、異端的な人びともいた。アリーを暗殺した「ハワーリジュ派」は、そのひとつだ。その中身には立ち入らないが、これは今でいえば過激な「原理主義」であり、その後途絶えてしまった。ハワーリジュ派は、もとはアリーの支持者だったが、アリーが途中からムアーウィアに対し妥協的になったことを批判して、袂を分かった人びとだ。そして、アリーを許せず、刺客を送り込んだのである。

彼らはムアーウィアも暗殺しようとしたが、失敗した。生き残ったムアーウィアは、662年に新しいカリフとなった。じつはこの時点では、カリフ位を世襲にするという前提はなかった。世襲はカリフを話し合いで選んできた伝統や、ムスリムの平等という理念に反する。しかし、後にムアーウィアは強引にカリフ位を息子に継がせた。これに対してシーア派系の反乱の動きもあったが、鎮圧されてしまった。

 

「革命」によるアッバース朝の成立

ウマイヤ朝は、アラブ人のイスラム共同体が、ほかのさまざまな民族による国家や共同体をゆるやかに束ねて支配するという構造だった。各地には、アラブ人の地方長官や、その配下の官僚・軍隊が派遣されて地域社会の上に君臨していた。

ただし各地のコミュニティに根付いていた従来の支配層は温存され、アラブ人による征服後も引き続き地域を任された。そして、アラブ人の指示に従って納税などの義務を果たせば、あまり干渉を受けなかった。各地域には、かなりの独立性があった。

支配的な民族の共同体が、さまざまな民族の共同体を温存しつつ、その上に君臨してゆるやかに束ねる――これは、アケメネス朝ペルシア(紀元前500年頃、西アジアの広い範囲を支配)や、ローマ帝国のあり方と基本的に同じである。つまり近代以前には、多様な民族を含む巨大国家が形成されるときは、みな同じような構造の「帝国」になるということだ。

ただし、「特定の民族による支配・優越」というのは、イスラム教の説く平等原理に反する面がある。ムスリムがほぼアラブ人に限られている時代には、問題は少なかった。ムスリムと異教徒を区別(差別)するのは当然のことだったからだ。

しかし、非アラブのムスリムが増えるにつれて、矛盾は大きくなっていった。アラブ人以外の人びとがイスラムに改宗しても、アラブ人のような免税などの特権は与えられなかった。これに不満を感じる、非アラブのムスリムが増えていった。

その後、一種の革命が起こり、ウマイヤ朝は90年弱で終わった。ペルシア人などの非アラブの人びとやシーア派などが結集して、「革命」を起こしたのである。

その結果、ムハンマドの伯父アッバースの子孫であるアッバース家の人物が、750年にカリフ位に就き、新しい王朝が成立した。これをアッバース朝(750~1258)という。シーア派の人びとはアリーの子孫がカリフになることを期待して革命を支持したが、その期待は裏切られた。

アッバース朝は依然としてアラブ人の権力者を頂点とする体制だったが、アラブ人の特権を後退させ、民族間の不平等を緩和したので、広い支持を集めるようになった。新しい王朝の権威は高まり、社会は安定するようになった。

アッバース朝において初めて真の意味の「イスラム帝国」が実現したのであって、ウマイヤ朝は「アラブ帝国」と呼ぶべきだ、という見解もある。本書では、ウマイヤ朝もアッバース朝も「イスラムの帝国」と呼んでいる。ウマイヤ朝にしても、アラブ人のイスラム共同体が支配する帝国であり、やはり「イスラムの帝国」なのである。「の」を入れたのは、「イスラム帝国」というと、アッバース朝だけを指すという主張があるからだ。

アッバース朝は、末期は衰退して名目だけの存在になったが、1258年に滅びるまで500年余り存続した。衰退期以降は、カリフは支配者としての実権を失い、武力などの実力を備えた君主が、カリフからのお墨付きをもらってイスラム国家を支配するようになった。そのような君主のことを「スルタン」「シャー」などと呼ぶ。

これは日本で、天皇によって「征夷大将軍」などに任命された武家の実力者が支配する体制と似たところがある。そして、さらに時代が下ると、カリフのお墨付きはどうでも良くなって「とにかく実力者が国を治めればよい」という傾向が強くなった(以上の経緯については、ここでは立ち入らない。本記事では初期のイスラムを対象とする)。

ところで、テロ集団「イスラム国(IS、イスラミック・ステート)」の指導者だった、バグダーディー容疑者は勝手に「カリフ」と自称していた(国際社会や、IS以外のイスラムの人びとは、もちろんこれを認めない)。

「イスラム国」の勢力は、2010年代の一時期にシリア・イラクの一定の地域を支配して、「自分たちの国」をつくっていた。そして、その「国」を拡大して、最終的にはかつてのイスラム帝国をも超える巨大な領域を支配化におさめるという、とんでもなく大風呂敷な目標をかかげていた。バグダーディーたちには、ムハンマドの「イスラム教徒の国」が拡大を重ねて大帝国を形成した過程が念頭にあったはずだ。「カリフ」を自称することをはじめ、「イスラム国」の行いはほとんどのイスラム教徒からみれば、許せない冒とくということになるのだろう。

 

アッバース朝の支配を構成する要素

アッバース朝でも、カリフを頂点とする支配者の共同体が、各地の共同体を束ねて支配するという構造じたいは、ウマイヤ朝と変わらない。しかし、アッバース朝では支配者層がウマイヤ朝よりもさまざまな民族を含むようになった。ウマイヤ朝時代にもペルシア系やビザンツ系の官僚は用いられていたのだが、そのような非アラブ人官僚の重要度が増していった。とくにペルシア系官僚は有力となった。

また、官僚機構の整備がすすんで、よりきめ細かく各地を支配するようにもなった。たとえば、アッバース朝では「書記」(カーティブ)といわれる、文書や財務に長けた高級官僚の数が大きく増え、権力の中枢を占めるようになった。

その人数など、当時の官僚組織の実態はわからない点が多いが、ずっと後の時代のイスラムの大帝国・オスマン朝(1500~1600年代にとくに繁栄)の書記は「数百人」規模だったことがわかっている。 そこから類推すれば、アッバース朝でも中央政府におそらく百人単位の書記がいたのだろう。なおこれは、当時としては発達した官僚機構といえるが、もちろん現代国家の組織とくらべればささやかなものだ。

700年代後半から800年頃には、あるペルシア系の一族(バルマク家という)が書記として大きな権力を得て、歴史に名をとどめている。これは当時の非アラブ人の台頭や書記の権勢を示す、代表例である。

また、官僚組織を統括しカリフを支える役職として「宰相」(ワズィール)が置かれた。宰相には絶大な権限があった。

先ほどのバルマク家の1人は、第5代カリフ・ハールーン・アッラシード(在位786~809)の宰相に任命された。その息子2人も要職に就き、バルマク家はますます栄華を極めた。しかし、このカリフはのちに自分が帝国を直接統治しようとして、邪魔になったバルマク家の重臣たちを殺害または投獄してしまった。

これは、当時のカリフが、絶対的な権力を持つ専制君主だったことをよく示している。権勢を誇った高級官僚も、真の権力者であるカリフの意に沿わなければ、たちまち抹殺されてしまうのだ。そして、君主が絶対的な権力を持つ「専制国家」における官僚とは、そういうものだ。

イスラム法(シャリーアという)の体系整備や精緻化もすすんだ。イスラム法に関しては、その専門家である「イスラム法学者」の集団が、ひとつの社会階層として成立していった。法学者たちは、イスラムの社会で「ウラマー」といわれる学者・知識人の一種で、そのうちの最も代表的なものである。ウラマーには、ほかに神学系のウラマーなどがいるが、法学者は、社会の実務に深くかかわる専門家としてとくにニーズが高かった。

しかし、法学者などのウラマーは、官僚とは別物である。基本的には民間人であり、資格試験があるわけでもない。民間人のなかで相応の学問をおさめ、ほかのウラマーたちがそれと認める人間がウラマーなのである。

学校や私塾で教えて生活するウラマーは多かったが、商人や医師などとの兼業で暮らすウラマーもいた。なお、当時の「学校」とは、現代のような政府が運営する国民教育の機関ではない。地元の寄付で設立・運営された、ウラマーやその志望者の学びの場である。このような学校(学院)を「マドラサ」といい、各地につくられた。

ただし、法学者の多くが民間人だったとしても、その一部はイスラム法を司る裁判官として、国家に登用された。裁判・司法の組織も、アッバース朝で整備がすすんだ。

なお、現在のイランでは、イスラム法学者が権力を握っている。政府の長として、選挙で選ばれる大統領はいるのだか、その上にイスラム法学者のひとりが最高指導者として君臨している。この最高指導者は、国民が選挙したわけではない。

イランでは、1970年代末に、イスラムの理念による国家建設をめざす革命が起こり、アメリカと親密だったそれまでの王政が倒されて現政権が成立した。イランではシーア派が主流であり、シーア派では法学者の権威・影響力が大きいという伝統がある(その理由・背景についてはここでは立ち入らない)。

なお、イスラムではキリスト教の神父や牧師のような聖職者や教会組織は存在しない。イスラムの教えに関する知識を究めて人びとに伝える役割は、ウラマーが担った。

また、アッバース朝では、カリフ直属の常備軍も整備された。イスラムの軍隊は、もともとはアラブ人のさまざまな部族(広い意味での血縁集団)をベースにした、一定の自立性もある戦士の集団だった。

こうしたアラブ人の軍団は、それぞれの部族社会という「帰る場所」があり、その団結をもとにカリフに抵抗する余地・実力を有していた。つまり、イスラムの帝国にとって軍事力のメインではあるが、カリフに刃向かう恐れもあったのだ。そこで、カリフを守る直属の軍隊を別につくったのである。

その常備軍は、異民族で異教徒出身の、奴隷的な身分の軍人たちで構成された。これは「奴隷軍人」(マムルーク、“所有される者”の意)といわれる。ただし、軍人として高い地位に就く者もいるので、一般的な「奴隷」のイメージとはかなりちがう。しかし、出身地との絆を失い、職業選択や移動などの自由が制限されるので、「奴隷」といわれる。彼らはいわば「帰る場所」を失った人間で、カリフのために働くしか選択肢がないのである。奴隷軍人の中核は、トルコ人だった。トルコ人は、中央アジアがルーツの騎馬遊牧民である。

 

イスラムの支配構造の原型が成立

以上、頂点に立つ専制君主、宰相が統括する官僚機構、イスラム法の体系とそれを司る法学者などのウラマー層、奴隷軍人による常備軍……これらはアッバース朝で750年頃から800年代にかけて確立したものである。そして、その後のイスラムのおもな国ぐにの支配体制でも、これらの要素は重要だった(ただし、奴隷軍人についてはイスラム世界全体ではなく、中核地域の西アジアと、インド北部に限られる)。

イスラム史の研究者・鈴木薫は、こう述べている。

“アッバース朝時代には、また、その後も永らくイスラム世界における大規模で永続的な政治体に繰り返しみられることとなる支配組織の組織モデルの原型と、その社会層が成立していった”(『オスマン帝国とイスラム世界』東京大学出版会、1997年、107㌻)

そして、その「支配組織の原型」を構成するものとして、イスラム法(シャリーア)、ウラマー、書記、宰相(ワズィール)、奴隷軍人を挙げて説明している(同上107~108㌻)。

また、鈴木がいう“イスラム世界における大規模で永続的な政治体”には、1500年代から繁栄したイスラムの大国・オスマン帝国(オスマン・トルコ)も含まれる。一方、組織の整備が進んでいない王朝の初期段階や、十分に発展しなかった中小のイスラム国家の場合は、上記の要素を備えていないことがある。

つまり、イスラム国家の体制は、アッバース朝時代の700~800年代に原型が生まれてから、基本的には進化しなかったのである。鈴木も述べるようにその状態は、近代ヨーロッパの影響が決定的になる1700年代末まで続いた(同上109㌻)。近代ヨーロッパによる影響のことを、「西洋の衝撃」などということもある。

アッバース朝で、イスラムの文明は最高潮を迎えた。活発な経済やさまざまな文化が、この王朝のもとで花ひらいた。その繁栄がどのようなものだったかについては、別の機会に述べたい。

 

イスラム的ではない要素も重要

また、鈴木は、イスラム法やウラマーはともかく、宰相(官僚制)、奴隷軍人(カリフの常備軍)などの要素は“イスラムの理念からよりは、イスラム世界の政治的現実から生じた制度だった”とも述べている。これらのものは、本来はイスラム的ではない、ということだ。そして、宰相と奴隷軍人は、アッバース朝の支配組織の核だったとも述べる(同上109㌻)。

たしかに、カリフを守る奴隷の軍団などというのは、アラブ人ムスリムがイスラム拡大の聖なる戦いを行ってきた伝統に反するところがある。また官僚機構による支配は、宗教的な権威による統治という、ウンマ(イスラム共同体)の理想とは異質のものだ。そもそも「世襲のカリフ」つまり「王朝」ということ自体、「イスラムの理念に反する」という批判があり、ウマイヤ朝の開祖ムアーウィアは、強引にカリフの世襲化をすすめたのだった。

ムハンマド以来の国家建設は「イスラムの理念の実現」をめざしたはずだが、巨大な帝国を統治するという現実の前に、イスラム的ではない要素が国家体制の「核」になってしまったのである。イスラムの「宗教で国をつくる」という理念は、不完全なかたちでしか実現しなかった。

そもそも、ムハンマドの残した「クルアーン」には、巨大な帝国を統治するための方策は記されていない。イスラムの大帝国が出現することなど、ムハンマドは知らなかった。そうであれば、ムスリムたちは帝国の支配組織を、イスラムとは関係のない先行する文明のやり方をもとに築いていくしかない。アッバース朝の体制は、「イスラム」を超えた、ほかの社会でもみられる要素で成り立つ面があったということだ。

 

世俗主義と原理主義

「イスラムの理念だけでは国や社会が成り立たない」というのは、まさに近現代のイスラムも直面している問題である。非イスラム的な、ヨーロッパ(西洋)起源の近代文明の要素をどう扱うかについて、イスラムの人びとの意見は分かれている。

実用的な科学技術については、それが役立つ「道具」なら何でも積極的に取り入れることは、伝統的なイスラム世界でも行われてきた。少なくとも、アッバース朝に代表されるイスラムの最盛期には、その動きは活発だった。ここで問題になる「近代文明の要素」というのは、おもに民主主義や三権分立のような政治体制や、個人主義や自由主義などの価値観の世界だ。科学についても、「無神論」「唯物論」などの世界観の根本にかかわる部分は、ここでいう価値観の領域になる。

つまり、より具体的にいえば、これは国家の運営ルールにおいて、イスラム法にかわって西洋法体系をどこまで採用するかという問題だ。イスラム法学者をお払い箱にしてよいかどうか。

西洋の法体系とその価値観を積極的に採用する方針は、「世俗主義」といわれる。一方あくまで「イスラムの理念で国をつくる」ことにこだわるなら、それは「原理主義」(あるいはイスラム主義)である。近現代のイスラム世界は、この「世俗主義」と「原理主義」のあいだで揺れ動いてきた。

世俗主義を代表するイスラム国家とえば、トルコである。トルコは、1920年代の建国以来、西洋の近代文明をさかんに取り入れる「世俗主義」で歩んできた。そして、イスラム世界では最も産業が発達した大国となった。しかし、2000年代以降は原理主義的な主張が、以前よりも強くなってきている。

そして、現代のイスラムで原理主義の代表といえば、イランだろう。原理主義では、「イスラムの理念による世直し」を唱える。それが手段を選ばない過激で暴力的な方向にすすめば、アルカイダやISのようなテロ組織が生まれる。

なお、これはイランで主流のシーア派がとくに過激化しやすいと言っているのではない。たとえばISのバグダーディーはスンナ派だ(スンナ派の主流の人びとは否定するにしても)。

また、ここでいう世俗主義は、日本での「政教分離」とは異なる。世俗主義のトルコでも、モスクの整備・運営の費用を国家が支出することは一般的だ。イスラムという宗教が特権的な扱いを受けることは、トルコにおいてはあたりまえの前提なのである。

その「あたりまえ」を前提として、イスラムの原理と、非イスラム的な近代文明の要素の関係をどうするか、という問題がある。イスラム的には、イスラムの法だけで国家・社会がうまく運営できるならすっきりするのだろう。しかし、「西洋の衝撃」を受けた近代以降、それは現実としてきわめてむずかしい。だから、世俗主義と原理主義(イスラム主義)のあいだで意見が分かれ、対立も起きる。

「イスラムの理念だけでは社会を運営しきれない」「だから非イスラム的な要素を取り入れざるを得ない」「その方針をめぐって意見が分かれ、対立が起きる」という問題。

これは、さきほど述べたとおり、じつはイスラムの最盛期であるアッバース朝の頃から存在していた。それは「宗教で国をつくる」という発想に立つ社会が、避けて通れない問題なのだ。
 

 

参考文献

つぎの小杉泰の著作を、最も多く参照した。①はさまざまな先行研究をベースに、系統的に初期のイスラム(アッバース朝まで)について述べたもの。②は初心者向けで、イスラム全般の入門書としておすすめ。

①小杉泰『イスラーム 文明と国家の形成』京都大学学術出版会(2011) 

 

②小杉泰『イスラームとは何か』講談社現代新書(1994) 

  

このほか、つぎの著書を参照。

③佐藤次高・鈴木薫編『都市の文明イスラーム』講談社現代新書(1993) 

  

④家島彦一『イスラム世界の成立と国際商業』岩波書店(1991) 

  

⑤バーナード・ルイス『イスラーム世界の二千年』草思社(2001) 

  

⑥ハワード・R・ターナー『図説 科学で読むイスラム文化』青土社(2001) 

  

⑦佐藤次高編『新版 世界各国史8 西アジア史Ⅰ』山川出版社(2002) 

西アジア史〈1〉アラブ (新版 世界各国史)

西アジア史〈1〉アラブ (新版 世界各国史)

  • 発売日: 2002/03/01
  • メディア: 単行本
 

  

⑧鈴木薫『オスマン帝国とイスラム世界』東京大学出版会(1997) 

オスマン帝国とイスラム世界

オスマン帝国とイスラム世界

 

  

⑨鈴木薫『オスマン帝国の権力とエリート』東京大学出版会(1993) 

オスマン帝国の権力とエリート
 

  

このほか、本記事とは異なる立場のイスラム史やイスラム全般の入門書として、つぎのものがある。

⑩カレン・アームストロング『イスラームの歴史 1400年の軌跡』中公新書(2017) 

  

⑪飯山陽『イスラム2.0 SNSが変えた1400年の宗教観』河出新書(2019) 

イスラム2.0: SNSが変えた1400年の宗教観 (河出新書)

イスラム2.0: SNSが変えた1400年の宗教観 (河出新書)

  • 作者:飯山陽
  • 発売日: 2019/11/23
  • メディア: 新書
 

 ⑩のアームストロングは「イスラムは平和の宗教」的な傾向が強い。⑪の飯山陽は「イスラムはそんなに甘いものじゃない」「危険で怖い面がある」という立場。

アームストロングは、2001年の9.11テロ以降強まった、イスラムに対する偏見や敵視に異をとなえようとした。飯山は、近年は「イスラムは平和の宗教」という「俗論」が広まって、イスラムへの誤解が横行しているという。これは意義のある指摘だと思う。

イスラムをどうとらえるかの論争は、この両者のような立場のあいだで行われることが多い。両者の見解を知るうえで、⑩⑪はずさんな素人談義とは一線を画す内容で、やはり勉強になる。なお本記事は、上記どちらの立場ともいえず、イスラムをやや突き放した目でみている。「イスラムは危険だ」とことさら煽るつもりはなく、一方で入れ込みすぎて持ち上げることもしない。大事なのは、イスラムの特徴や限界を冷静に理解することだ。

 

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