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知っておくべき、大きな被害をもたらした感染症の歴史 ペスト、コレラ、天然痘、インフルエンザ

先日(2020年4月19日)、当ブログでは「感染症は、文明に必然的に伴う副作用である」ということを述べた記事をアップしました。本記事は、その続きです。「感染症とは人類にとって何か」を考える前提となる、とくに知っておくべき、甚大な被害をもたらした世界史上の感染症の事例について紹介します。

 

  

 

目 次

 

 

感染症が甚大な被害をもたらす条件

感染症が、とくに甚大な被害をもたらすのは、つぎの条件を満たすときです。

1. 遠隔地から未経験の病気が持ち込まれた(その土地の人びとに免疫が備わっていない)
2. かつ、その土地で都市が発達している(病原体が、多くの宿主を見出すことができ、密集のため感染しやすい)

世界史上とくに有名な感染症の流行は、みなこれにあてはまります。今回の新型コロナの問題も、同様です。

以上の2つの条件のうち、「2.都市の発達=都市化」ということは、今から5000年ほど前にメソポタミアやエジプトで初期の都市文明が発達して以降、すべての文明社会にあてはまることです。

問題は「1.未経験の病原体」ということです。どのようなときに「未経験の病気が持ち込まれる」リスクが高まるのか? それは、過去には交流がなかった(稀だった)遠隔地との交流・接触が新たに起こったときです。これは、交易(貿易)範囲の拡大や、遠方から軍隊が攻めてくることなどによって起こります。

現在の新型コロナの場合は、グローバル化の進展ということがあるわけです。交流の範囲が、とくに先進国においては世界規模に拡大した状態。日常的に世界じゅうの人びとが自国にやってくるようになった……これが新型コロナの問題に関わることは誰もが認識していることです。

しかし、じつは「交流範囲の拡大が新たな感染症をもたらす」ということは、世界史上で遠い昔からくり返されてきました。文字通りのグローバル化=地球規模の交流というと近代、とくに20世紀以降のことですが、それ以前にもその時代なりの「グローバル化」、つまり国際的な交流の拡大はありました。そして、それが大きな感染症の被害をもたらすことがあったのです。このことを、世界史上の事例を通して確認していきましょう。

ただし、それはヨーロッパでの話が中心になります。じつは今のところ、感染症の歴史についての研究は、とくに近代以前に関してはヨーロッパの事例に偏っています。あとは、中国に関する研究がある程度出ているくらいで、その他の地域については研究がすすんでいないのです。その点をまずご承知おきください。

 

最初の詳しい報告事例・アテナイの疫病

感染症の蔓延について、かなり詳しい記録が最初にあらわれるのは、紀元前400年代の古代ギリシアでのことです。当時のギリシアで最も繁栄していた都市国家アテネで、前430年に深刻な感染症が流行して甚大な被害をもたらした様子を、同時代の歴史家ツキュディデスが記しているのです。このときの惨事は「アテナイの疫病」といわれます。「疫病」とは、大きな被害をもたらした感染症の流行のことです。

ただし、「アテナイの疫病」が何の病気であったのかは特定されていません。諸説あって、これといった有力説はないのです。かつては(19世紀には)ペストではないかと言われたこともありましたが、ツキュディデスの記述にある病状から、現代の専門家たちはペストではない、ほかの病気だろうと推定しています。

 

ローマ帝国における疫病

そして、その数百年後のローマ帝国の歴史でも、感染症の甚大な被害のことが書き残されています。ローマ帝国が最も繁栄した西暦100年代(165~180頃)、そして内乱が続くなどして不安定な危機の時代だった西暦200年代には、とくに大きな感染症の流行があったようです。251~266年の疫病では「ローマ市で1日5000人が死んだ」という記録も残っています。当時のローマ市は人口数十万~100万規模の、世界最大の都市でした。

このときについても、具体的に何の病気だったかは明らかではありません。この疫病の背景には、当時における交流範囲の拡大、つまり古代の世界なりの「グローバル化」があったようです。つまり、シルクロードなどを通して中央アジア経由で西のローマと東の中国のあいだで一定の継続的な交易が始まったのが、この時代でした。そのような遠隔地貿易によって、ローマ人にとって未知の感染症が国のなかに入ってきて、激しい被害をもたらしたのではないかという見解があるのです。

 

ユスティニアヌスのペスト・記録に残る最初のペストの大流行

現代からみて「これはペストの流行だ」と断定できる最初の記録は、500年代の地中海沿岸でのものです。その数十年前、かつてのローマ帝国の西半分(西ローマ帝国)は滅亡し、その跡地にはゲルマン人の王国が並び立つようになりました。一方、東半分の東ローマ帝国=ビザンツ帝国は存続し、500年代当時、そこにはローマ帝国の政治体制や文化が生き続けていました。ローマ帝国では、沿岸地域にさまざまな都市が栄えていていました。そのような地中海地域で、おそらくはサハラ砂漠以南で発生しエジプト経由でやってきたとみられるペストが、大流行となったのです。ただし、中央アジアを起源とする説もあります。

当時、地中海沿岸から中東(西アジア)にかけての広い範囲で、各都市のあいだでの交易がさかんに行われていました。中国などのはるか東方との交易も、さらに発展していました。つまり、「遠隔地との交流」「都市の発達」という、未知の病気が持ち込まれて広がってしまう条件があったわけです。

542年、ビザンツ帝国の首都で、当時40~50万の人口を擁していたコンスタンティノープルでペストの流行が始まりました。ビザンツではこの病で「1億人が死んだ」などという誇張した記述が残っています。これはあり得ない数字ですが、それだけ甚大な被害があったということです。現代の推定では、住民の50~60%がペストに感染したのではないかとみられています。

このときのビザンツの皇帝はユスティニアヌス帝(1世)という、とくに大きな権力をふるった君主でした。このときのペストの流行を「ユスティニアヌスのペスト」ともいいます。この流行はエジプト、シリア、アナトリア、ギリシアなどの当時のビザンツ帝国の各地のほか、ハンガリー、イタリア、フランス、ドイツなどにも広がりました。

その後、8~12年の終期で558年から767年までペストの流行は反復します。とくに580年にはビザンツで再び大きな流行がありました。しかしその後は沈静化し、700年代末~1300年代初頭までヨーロッパはペストの流行はほぼなかったのでした。

ペストは長いあいだヨーロッパにおいて、強烈な感染力や毒性を持つ、恐ろしい感染症の代表的なものであり続けました。ペストは、ペスト菌に感染したネズミの血を吸ったノミが人間にとりつくことで感染するというのがおもな感染ルートです(このほかに飛沫感染や接触感染もある)。ネズミのノミを介した感染でかかる「腺ペスト」の死亡率は、現代の治療を施さなければ50~60%。それがさらに悪性化したバージョンといえる「肺ペスト」だと、ほぼ100%の死亡率です。

 

中世ヨーロッパのペスト(黒死病)大流行

ユスティニアヌスの時代から800年ほど経った1300年代には、歴史上最も有名なペストの大流行がヨーロッパで起こりました。1348年から1350年にピークとなった大流行です。このときのペストも、ヨーロッパ人にとって遠い所からやってきたものでした。ただし、どこが起原なのかは、明確ではありません。中央アジア、中国南部、インドなど諸説あります。古い時代の感染症の起源というのは、解明がむずかしいのです。

ペストは、患者の皮膚の黒ずんだ様子から「黒死病」とも呼ばれました。このときのパンデミックで、ヨーロッパの人口の3分の1(最大で2分の1)にあたる2500~3000万人が死亡したと推定されています。また、被害は周辺のロシア、中東などでも甚大だった可能性は高いのですが、よくわかっていません。

このペストの影響によって、当時イギリスとフランスのあいだで行われていた百年戦争で、1360年に休戦の講和がなされるということもありました。「黒死病」のダメージでどちらの国も戦争の遂行が困難になったことが、休戦を後押ししたのです。

当時のヨーロッパは、西ローマ帝国滅亡以降すっかり低調になっていた商業が西暦1000年頃以降に復興してから300~400年経った時代です。国際的な商業がおおいに繁栄してきて、中東のイスラム世界やさらに遠隔の地域との交易もさかんになっていたのです。そして、西ローマ帝国の滅亡以降荒廃していた都市も、各地で復興しかなり繁栄するようになっていました。つまり、中世ヨーロッパなりの「グローバル化」「都市化」がすすんでいたのです。

また、当時はモンゴル帝国が勢力を拡大していて、ヨーロッパもその影響を受けました。つまり、ユーラシア大陸を席巻するグローバルな勢力とも戦争というかたちで一定の接点がありました。

そうした条件下にあったヨーロッパに、病気の起源や詳しいルートはともかく、何百年かのあいだ流行がなかったペストが入ってきて広まってしまった。まさに「忘れた頃」にペストがまたやってきたわけです。

当時のヨーロッパ人には、何百年も流行がなかったペストに対する免疫はありません。衛生・栄養状態も低レベル。もちろん医学も未発達。当時、この病気の原因はもちろんわかっていません。当時の一般的な見方としては、漠然と「ミアズマ(穢れ)」によるものだといわれていました。そこで、病気の発生した場所(都市)から逃げたり、患者を家に閉じ込めたりするなどして、「ミアズマ」を遠ざけるという対処がとられました。「天体(星)の影響で地中から悪いガスが立ち上ったからだ」などという説明も大真面目になされていました。そういう条件のもと、史上最悪ともいえるパンデミックになってしまった。

 

ヨーロッパにおける最後のペスト大流行

その後、ペストはヨーロッパに根づいてしまい、10~15年周期で、ヨーロッパ各地で流行がくりかえされます。ただし、1300年代ほどの被害はありませんでした。

そして、ヨーロッパにおける最後のペストの大流行は、1600年代末から1700年代初頭のことでした。1665年のロンドンにおける流行は、(欧米人のあいだでは)とくに有名です。また、1720年には南仏のプロヴァンス地方でペストの大流行が始まりました。この流行によってプロヴァンス地方全体で人口の3分の1にあたる12万人が亡くなりました。プロヴァンスの中心都市マルセイユは、当時人口10万人でしたが、4万人が死亡しています。しかしそれ以降、西ヨーロッパではペストは下火になっていくのです。

 

ヨーロッパでペストがおさまったのはなぜか

1700年頃以降ヨーロッパのペストが沈静化したのはなぜでしょうか。その背景には、1300年代のペストの大流行以降、それなりの対処をヨーロッパ人が行うようになり、その取り組みが1600年代以降さらに充実していったことがあると考えられます。

この時代は、ヨーロッパである程度強力な国家や行政組織が生まれた時代です。たとえば、1300年代の流行以降、病気の早期発見や、発生時の対応をする組織がつくられたり、船舶に対する検疫が実施されるようになったり、ということがあるのです。それらが1600年代の頃には、一層発展していったということです。

ただし、そのような人為的な努力については、評価が分かれます。それよりも、ヨーロッパ人の住環境の充実を重視する見解もあります。つまり、「この時期、木材の不足によって石造りの住居が増えて規模も大きくなり、そのことでネズミとの接点も減った」という、意図しなかった変化を重視するのです。また、病気を媒介するそれまでのクマネズミにかわって、より用心深く人間を避ける習性のドブネズミが、ヨーロッパのネズミの多数を占めるようになったことも影響しているという説もあります。ただし、どれも定説とはいえず、ヨーロッパにおいて1700年頃からペストが衰退していった確かな理由ははっきりしません。

なお、1700年頃の時点では、まだ細菌学が成立していないので、ペストの原因は知られていません。しかし、「病気のもとになる微細な粒子(原子)が体に入ることが原因である」といった説は、細菌学以前から唱えられていました。つまり、その当時は細菌という概念はないけれど、「感染症」的なイメージはある程度成立しつつあったのです。

 

最初の「ペスト封じ込め」

ペストに対して人間がはじめて一定の封じ込めに成功したのは、1800年代末のことです。このとき、中国でペストの流行が起こりました。中国内陸部のペストを、中央の軍隊がその他の地域に持ち帰ったのです。この軍隊は地方の内乱鎮圧で出動したのでした。なお、ペストはおそらく西暦100~200年代には中国のその地域に存在していたとみられます。

そして、このペストは1894年に広州や香港でも発生し、これらの都市にいたヨーロッパ人のあいだで戦慄が走りました。それはヨーロッパなどの世界各地に広まる恐れがあったのですが、感染者の隔離、検疫などの対策をヨーロッパ各国の医師団が相当に協力して行って、世界的な大流行を防ぐことができたのです。

1800年代末は、細菌学の成立期です。このペストの問題が起こったとき中国にやってきた、パスツール研究所の細菌学者イェルサンは、ペスト菌を発見しています。日本の北里柴三郎も、その発見に貢献しました。その後数十年のうちに、この病気がネズミとノミによって媒介されることなども突き止められていきました。

このとき、ペストの封じ込めや病気の解明ができたことは、人類の歴史において画期的なことでした。ペストは恐ろしい感染症の代名詞です。それに対しある程度は抵抗できた実績は、「人間は感染症と戦い得る」という手ごたえをもたらしました。

 

感染症と戦う道具を増やしていった人類

1800年頃から人類は、感染症と戦うための道具・武器をしだいに増やしていきました。1700年代末のジェンナーによる種痘(天然痘のワクチン)の開発は、その先駆けです。

1800年代前半には、キニーネというマラリアに有効な成分が発見されました。マラリアはマラリア原虫を持った蚊を媒介とする病気で、アフリカのほか、南米やアジアの広い地域で発生しています。マラリアなどのアフリカのさまざまな感染症は、ヨーロッパ人のアフリカへの進出を拒んでいたのですが、キニーネによってアフリカの征服は容易になったのでした。キニーネは、感染症の特効薬の先駆けです。

1800年代末には血清療法も開発されました。血清療法とは、動物に弱毒化した毒素・病原体を注射して抗体をつくらせて、その抗体を含んだ血液の上澄み(血清)を病気の予防や治療に用いるものです。そして、1920年代には最初の抗生物質(微生物がつくりだす、ほかの微生物を攻撃する物質)ペニシリンが発見されています。以後、抗生物質は1940年代に結核の特効薬であるストレプトマイシンが発見されるなど、さまざまなものがつくられます。一方、1900年代前半には細菌よりもはるかに微小な病原体「ウイルス」についての研究も成立しました。

1970年代末には、世界じゅうでワクチンの接種を徹底することで、天然痘を撲滅することもできました。天然痘の最後の患者が発生したのは1977年のことでした。

 

公衆衛生インフラの整備とコレラ

こうした医学の発展のほかに重要なのが、公衆衛生に関するインフラの整備です。コレラは、そのようなインフラ整備によって抑え込まれた、古典的な事例です。

コレラは、もともとはインドの一地方の病気です。しかし、イギリス人などのヨーロッパ人がインドを侵略し接点を持ったことで、インドを超えた広い範囲に広まっていったのです。1800年代前半には、最初の世界的な感染拡大がありました。

この流行は1817年に始まったもので、ネパール、中央アジア、イラン、イラク、タイ、ビルマ、中国、日本などに広がりました。江戸時代の日本でも、コレラは流行しています。1826年からは2度目の流行があり、このときはヨーロッパ、エジプトにも飛び火しました。ヨーロッパでは1820年代以降にコレラの流行が始まったのです。

そして、1800年代半ばのイギリスでは、とくにロンドンを中心にコレラの流行がありました(1848~49年、1854~55年)。当時のロンドンは、1851年の国勢調査によれば人口270万人ほどで、世界最大の都市でしたが、それにふさわしい上下水道などのインフラは十分ではありませんでした。しかし、1800年代後半から末期にかけて上下水道の整備がすすみ、その後はコレラの蔓延がおさまったのです。

コレラのおもな感染源は、コレラ菌に汚染された水です。感染者の排泄物が生活用水に混ざるなどして、感染が広がります。そこで、清潔な水を供給する上水道や、汚染水を処理する下水道の整備はコレラの予防には有効です。

また、もともとは水の汚染とコレラのあいだの因果関係はわかっていなかったのですが、1854年に始まった流行の際、医師ジョン・スノウがそれを明らかにしました。彼はロンドンにおけるコレラの発生状況について詳細に調査して、史上初の「感染地図」というものをつくりました。たとえば特定の水源(取水地)を使う地域で多くのコレラ患者が発生している、といったことを示したのです。彼の研究には批判もありましたが、それをのりこえて解明をすすめていったのです。

上下水道の整備についても、当時のイギリスでは国家による公共サービスについて消極的な「自由放任」の考えが有力で、反対意見も根強くありました。しかし一部の行政官(チャドウィックら)などが熱心に建設を推進したことで、水道の整備が実現したということがありました。感染症との戦いにおいて、今はあたりまえの科学的なやり方だと思われることも、最初はあたりまえではなく、先駆者が懸命に戦ってきりひらいたものなのです。ロンドンの上下水道は、その後の世界でモデルケースとなりました。

 

アステカ、マヤの人びとと天然痘

以上、感染症が大きな被害をもたらした例をみてきました。しかし、これらをも上回る「感染症による最悪の被害」というと、じつは「中南米における天然痘などの流行」かもしれません。これは、大航海時代の1500年代に始まったものです。

1500年代に中南米のアステカやインカにやってきたスペイン人は、ヨーロッパなどの「旧世界」で一般的だった天然痘その他の感染症を先住民のあいだに持ち込みました。天然痘は1518年にアステカで流行が始まり、1525年にはインカにも広がりました。

当時のヨーロッパ人は、かなりの割合で子どもの頃に天然痘にかかっています。当時は、天然痘で死ぬことも多かったのですが、生き残って大人になった人びとは免疫を持っています。先住民の人びとはそのような免疫を持っていないので、大勢がこの病気にかかって命を失いました。なお、スペイン人たちが持ち込んだ感染症はほかにもありましたが、最も大きな被害をもたらしたのは天然痘だったとみられます。旧世界の感染症が蔓延したせいで国家体制が弱体化し、アステカやインカの人びとは少人数のスペイン人の軍勢に十分な抵抗ができないまま敗れていきました。

スペイン人がやってきてから百数十年のうちに、中南米の先住民の人口は、アステカでは人口が2500万から300万に、インカでは1000万が100万になってしまいました。それは感染症だけが原因ではなく、過酷な奴隷的労働なども影響しているのですが、天然痘をはじめとする感染症が大きな要因であったことは確かです。

このケースも、大航海時代という「グローバル化」がかかわっています。さらに、アステカやインカの人びとは、技術的に未発達な面はあったものの、何万もの人口を擁する都市を築いていました。つまり、「都市化」という条件も備えていたのです。そして、「未経験の感染症が遠隔地からやってきて都市を中心に広まる」ということが典型的に起こって、悲惨な結果を生んだのです。

 

以上の歴史的な事例は新型コロナと共通している

これらの事例は、遠い過去の出来事ではありますが、現在の新型コロナの問題を理解する前提として役立つはずです。

そこには、現在の新型コロナの問題と共通する構図があるわけです。従来を超える交流範囲の拡大、つまりその時代なりの「グローバル化」がすすんだことで、遠くから未経験の(あるいは忘れられた)感染症が持ち込まれ、都市で急速に広がっていく。そして、つい先日まで元気だった人たちが急激に病状を悪化させ、かなりの割合で(あるいは高い割合で)死んでしまう。ここで取り上げたペスト、コレラ、天然痘のケースはまさにそうでした。そして、今の新型コロナウイルスによる肺炎も、死亡率はやや低いものの、基本的には同様の性質を持っています。

 

「スペイン風邪」の世界的流行

このような感染症として、もうひとつ重要なのが、1918~20年に世界的に流行した「スペイン風邪」があります。これはインフルエンザの一種です。だから、「スペイン・インフルエンザ」というべきですが、一般的な呼び方に従っておきます。この流行によって全世界で5000万人から8000万人、最大で1億人近くが死亡したと推定されています。

各地の死者は、ヨーロッパ2300万人、インド850万人、アメリカ68万人、アフリカ258万人、中国400~950万人、日本39~45万人。当時(1920年)の世界人口は20億人弱(19億人)です。まさに史上最悪のインフルエンザだったといえます。史上最悪の感染症の被害ともいえるでしょう。

なお、上記の日本での死者は「39~45万人」ということですが、日本人の4割ほどの2300~2400万人がこの病気に感染したとされています。当時の日本の人口は5600万人(現在の4割ほど)です。つまり、今の人口(1.3億人)で換算すると、5200~5300万人が感染し、100万人前後が亡くなったということです。「100万人」というのは、先日(4月半ば)に公表された、厚生労働省のクラスター対策班の西浦博教授による試算――「新型コロナウイスルの感染拡大に対し、仮に何の対策も取らない場合、死者の累計は40万人になる」という数字よりもさらに大きなものです。

このインフルエンザは、第一世界大戦の末期(1918年3月)に、カンザス州のアメリカ軍基地のなかで最初に発生しました。そして、大戦にアメリカが途中から本格参戦して、ヨーロッパに兵士を送りこんだことで、ヨーロッパに広まっていったのです。当時の戦線において連合軍(イギリス、フランス、アメリカなど)の側にも、その敵方のドイツ軍などにも大量の感染者が出ています。一般市民にも感染は広がりました。

この病気で両軍は大きなダメージを受け、戦争遂行に支障が生じたために、第一世界大戦の終戦が早まったともいわれます。

アメリカ発の病気が「スペイン風邪」といわれるのは、なぜか? それは、戦争中のため病気の流行のような国家にとってのマイナス情報が隠ぺいされるなか、スペインは大戦では中立国だったので、隠ぺいがなされずに病気についてオープンにしたからです。

こうした隠ぺいがあるなかで、感染をおさえるための国際協力などあり得ません。また、戦時下で人びとの栄養状態が悪化して免疫が低下していたこと、戦争のせいで社会全体の対応力も落ちていたことなどが、感染の拡大を後押ししました。戦時下で、本来なら取れたはずの対策や防御も行われなかったことで、このときの世界はインフルエンザとの戦いに負けたのです。

スペイン風邪の流行がおさまったのは、結局のところ世界の大多数の人びとが感染して「集団免疫」ができてからのことです。その過程で何千万もの人びとが亡くなりました。これは、やはり「病気に負けた」ということでしょう。スペイン風邪は、悪しき失敗例だといえます。これをくり返してはいけない。

 

まとめ

以上、「交流範囲の拡大(その時代なりのグローバル化)が未経験の感染症による甚大な被害をもたらす」ことは、世界史において古代からくり返されてきました。最初に述べたように、感染症の歴史に関しある程度知られているのはヨーロッパのことが中心で、ここで取り上げた事例もそうなっています。しかし、世界の広い範囲で、たとえば「ユスティニアヌスのペスト」や「中世ヨーロッパの黒死病」のようなパンデミックが時々起こっていたことは、十分あり得るでしょう。

最初に述べたように、ここで取り上げた、甚大な被害をもたらした感染症は「その時代なりのグローバル化」「都市化」という条件のもとで発生したのです。そしてそのような事態は、何度も繰り返されてきた。

「広域の交流(グローバル化)」「都市化」というのは、文明に必ず伴う要素です。つまり、それらを抜きにした文明など考えられない。ということは、感染症は「文明の進歩で撲滅できる」ものではなく、「文明に必然的に伴う副作用のひとつ」なのです。

そして、現代の文明はこの2つの要素をこれまでのどの時代よりも発展させている
のです。そこで、世界のどこかに閉じ込められていた未知の病気が、何かのきっかけで世界じゅうに蔓延するリスクを常に抱えているといえるのでしょう。このことについては、近年は一部の専門家が警鐘を鳴らしていましたが、私たちの多くはその危機感を十分には共有できていなかったと思います。正直、私自身もそうでした。しかし、その認識を変えざる得ない事態に、今直面しているわけです。

 

参考文献 

①のマクニールの本はたしかに参考になりますが、かなり長く、文章・内容とも読みにくいところがあります。忙しい方は、上巻の最初の数十ページの「序論」の部分だけでも。歴史的なことも含めた感染症の基礎知識を手軽に得られるものとしては、④の岡田晴恵さんの本は良いかと。岡田さんは、最近テレビのワイドショーに頻繁に出演している専門家ですが、本書はそういうことから連想されるものとは異なる、落ち着いた入門書になっています。また、「ジュニア新書」だけに読みやすい。また、さまざまな感染症についての基礎知識を得るうえで、「感染症図鑑」ともいえる②も、おすすめ。

 

①マクニール『疫病と世界史』(上・下)中公文庫、2007年 

疫病と世界史 上 (中公文庫 マ 10-1)
 

  

疫病と世界史 下 (中公文庫 マ 10-2)
 

  

 ②サンドラ・ヘンペル『ビジュアル パンデミック・マップ』日経ナショナル ジオグラフィック社、2020年

 

 ③ハンセン、フレネ『細菌と人類』中公文庫、2020年

 

④ 岡田晴恵『人類VS感染症』岩波ジュニア新書、2004年

人類vs感染症 (岩波ジュニア新書)

人類vs感染症 (岩波ジュニア新書)

  • 作者:岡田 晴恵
  • 発売日: 2004/12/21
  • メディア: 新書
 

  

⑤立川昭二『病気の社会史』岩波現代文庫、2007

病気の社会史―文明に探る病因 (岩波現代文庫)

病気の社会史―文明に探る病因 (岩波現代文庫)

  • 作者:立川 昭二
  • 発売日: 2007/04/17
  • メディア: 文庫
 

 

⑥ ジョンソン『感染地図』河出文庫、2017年

コレラの解明に貢献したジョン・スノウについて。

  

⑦西迫大祐『感染症と法の社会史』新曜社、2018年
1720年のプロヴァンス地方でのペスト流行については、この本による。 

感染症と法の社会史—病がつくる社会

感染症と法の社会史—病がつくる社会

 

 

⑧ジャクソン『不潔都市ロンドン』河出書房新社、2016年

 

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