紙の発明・普及は、社会に流通する情報量の大幅な拡大、文章や図表などの表現方法の発達をもたらした。さらには行政やビジネスの精緻化、文化の洗練にもつながった。新しいメディアの登場が社会に及ぼした影響の範囲は広く、深かったのだ。この変化は、現代の電子化・デジタル化と共通するところがある。
目 次
- 紙以前のメディア
- それまでのメディアを凌ぐ紙の長所
- 製紙法のイスラム世界への伝播
- イスラム周辺の西方への伝播
- 情報量の拡大
- 図書館の発達
- イスラムの巨大図書館
- 本「1冊」とパピルスの巻物「1巻」
- はるかに遅れていた西欧の図書館
- 繊細な「書」の文化の誕生
- 紙をふんだんに使う
- アラビア書道の成立
- 情報の電子化・デジタル化と共通している
- 「紙の文化こそ本物」なんて頑迷すぎる
- 参考文献
紙以前のメディア
紙はおそくとも紀元前100年代の中国で発明され、その後西暦100年代に大幅に改良されたあと、中国で普及し始めた。紙以前の代表的な記録メディアというと、紀元前の西アジアでは粘土板やパピルスだった。
粘土板は、紀元前3400~3300年頃に最初の文字とともに、メソポタミア(今のイラクなど)で発明された。ありふれた土でつくった粘土板に、葦の茎をとがらせたペンで文字を刻んだ。
パピルスは、紀元前3000年頃にエジプトで発明されたものである。パピルス草という水草の茎を薄く切ってタテヨコに貼り合わせてつくる。紙に似ているが、やや厚く、しかし紙のように折ったり綴じたりするための丈夫さが不足しており、長文は巻物にした。
パピルスは古代エジプトが栄えた時代以降は、ポリスの時代のギリシアやローマ帝国でもおおいに用いられた。古代ギリシアの書物は、パピルスの巻物だった。
紀元前の中国では木や竹を薄く細く切った「木簡」「竹簡」というものがあった。これに墨と筆で文字を書いていた。長い文章は数多くの木簡・竹簡に書いて、ひもで編んでまとめて「冊(さく)」といわれる「本」にしたのである。
このような本はたいへん重たくかさばるものだった。同じ情報量をおさめるのに、木簡・竹簡の本は紙の冊子本に比べて数百倍のスペースを必要とした。同じ比較でパピルスの巻物の場合は、紙の数十倍だった(書物の歴史の研究者・箕輪成男によれば、文庫本との比較で50倍ほど)。このほか中国では絹に文字を書くこともあったが、絹は高価だったので、使用は限定された。
それまでのメディアを凌ぐ紙の長所
紙は、このような「紙以前」のメディアをはるかにしのぐものだった。薄くて軽く、しかもパピルスよりも丈夫で、冊子として綴じることもできた。紙の登場によって、現在のような冊子の本が広く普及したのである。
紙は草や木やボロ布などの植物繊維を溶液に溶かし、繊維をからみ合わせてつくる。その材料となり得る植物系のものはいろいろとあり、世界各地で適当なものをみつけることができた。そこで、さまざまな場所で量産が可能で、コスト面もすぐれていた。これに対し、パピルスの原料であるパピルス草は、産地がエジプトとその周辺に限定されていた。
製紙法のイスラム世界への伝播
紙の製造法(製紙法)が中国やその周辺を超えて西アジアのイスラム世界に伝わったのは700年代後半のことだ。イスラムの勢力は600年代に勃興して、700年頃には巨大な帝国を形成した、当時の新興勢力である。751年にアッバース朝のイスラム帝国と唐が戦ったタラス河畔(中央アジア)の戦いで、勝利したアッバース朝が捕らえた唐軍の捕虜のなかに製紙職人がいたことが製紙法の伝播のきっかけといわれる。
これは、11世紀のイスラムの歴史家アル・サーラビの記述に基づいているが、タラス河畔の戦い以外のルートも可能性はある。なお、イスラムの国ぐにでは紙が製造される以前に、700年頃から中国産などの紙が輸入されてはいた。
イスラム世界での紙の製造は、当初は中央アジアで始まった。その後795年には、アッバース朝の首都バグダードで製紙所が建設された。さらに800年代のうちにはイスラムの国ぐにの広い範囲で紙がつくられ、普及していった。一方、パピルスの使用は衰えて、900年代半ばには最後まで使われていたエジプトでも、生産されなくなった。
イスラム周辺の西方への伝播
アッバース朝に隣接するビザンツ帝国(東ローマ帝国)では、800年代から一部で紙を使うようになったが、本格的な普及は1200年代からである。
ビザンツ帝国は、古代のローマ帝国の末裔といえるキリスト教国家であり、ギリシア・ローマ以来の文化を受け継ぐ国としての自負があり伝統にこだわる文化だった。そこで、イスラムにくらべて新しいメディアの採用は遅かったのだ。
そして、イタリアでは1100年代(ルネサンスが始まる200~300年前)にイスラム世界からの輸入で紙の使用が始まり、1200年代後半に紙の製造が始まった。ドイツでは紙の使用は1200年代前半からで、製造開始は1300年代末のことである。
西ヨーロッパのほぼ全域に紙の使用が広まったのは1300年代で、生産については1400~1500年代のことだった。イギリスで紙の製造が始まったのは1400年代末である。紙の普及に関して、西ヨーロッパはイスラムよりも数百年遅れた。
中世のヨーロッパでは、読み書きの活動がイスラム世界よりもはるかに限られていた。そこで、紙への需要や関心が弱かったのである。つまり、今から1000年~700、800年前の世界では、世界の文化の中心はイスラムの国ぐにあるいは中国で、西ヨーロッパは片田舎だった。そこには、今とは違う世界があった。
そして、ドイツのグーテンベルクが活版印刷の技術を開発したのは、1440年代のことだ。西ヨーロッパで紙の製造が始まった時代と、それほどタイムラグがない。西ヨーロッパという「片田舎」ではあったが活気のある新興の地域に紙が伝わり、写本づくりがさかんになった結果として、活版印刷という革新がおこったともいえるだろう。
羊皮紙と冊子本
紙が普及する以前の700年代までのイスラム帝国では、パピルスも使われたものの、「羊皮紙」(獣皮紙)も重宝された。羊やヤギなどの獣の皮を紙のように用いたものだ。羊皮紙には冊子にするだけの丈夫さもあった。しかし、生産量に限りがあり、紙よりもはるかに高かった。ただし、パピルスよりはやや安価だった。
羊皮紙は、ビザンツ帝国でパピルスと並んでよく用いられていた。さかのぼれば羊皮紙は、紀元前100年代にアナトリアの都市ペルガモンで改良されて冊子化に適したものになり、紀元前1世紀から地中海地域で、ある程度普及しはじめた。そして、西暦200~300年代からローマ帝国ではパピルスから羊皮紙への移行がすすみ、ビザンツはそれを受け継いだのである。
そして、本の形態も、従来の巻物からローマ人が「コデックス」と呼ぶ冊子型が一般的になっていった。冊子の多くは羊皮紙でつくられた。
ギリシアの文学・科学などの文献について、時代ごとにどんな本の形態だったかを、エジプトで発見された一群の書物で調べた研究がある。それによれば、1世紀から100年代には本の98%は巻物だった。しかし、200年代になると冊子が17%となり、300年頃にはそれが5割に増え、500年には9割が冊子になっていたのである。
紙以前のイスラム帝国は、ビザンツなどの影響を受けて、羊皮紙をしばしば用いた。正統カリフ時代(イスラム国家の初期の時代、632~661)であるに編纂された最初のクルアーンの冊子は羊皮紙でできていた。
ただし、羊皮紙をさかんに用いることのルーツをさらにたどると、紀元前500年頃に西アジア(今のアラブ・中東にほぼ該当)の大部分を統一した帝国・アケメネス朝ペルシアにまでたどり着く。アケメネス朝では、粘土板に代わって羊皮紙が積極的に用いられるようになり、それとともにそれまで3000年ものあいだ西アジアで続いていた粘土板の使用もすたれていったのだった。
情報量の拡大
羊皮紙やパピルスに代わって紙が用いられるようになって以降、イスラムの帝国ではこれまでにない量の行政文書が作成されるようになった。法令や裁判のほか、税務や財務でも詳細な資料・帳票がつくられた。
書記(カーティブ)といわれる政府の官僚たちがそれらの文書の作成をおもに担った。書記たちは、紙という新しいメディアの利便性に着目して、イスラム社会のなかで最初にその導入を積極的に行ったのだ。アッバース朝の最初の数十年のあいだに官僚組織が発達して学問が普及した結果、羊皮紙では記録素材の需要をまかないきれなくなっていた。
なお、羊皮紙は表面を擦り取って改ざんすることも可能だが、紙はインクが染み込むので改ざんが難しいという利点もあった。
紙は、より手のこんだ政治・行政を行うのに必須のメディアだった。そして、イスラムの商人たちも、自分たちの活動を帳簿、契約書などのかたちできめ細かく紙の文書で残すようになった。
イスラムの人びとは、紙に書くときには「カラム」といわれる葦の茎でつくった筆とインクを用いた。ティグリス川・ユーフラテス川やナイル川の流域には、葦が多く生えていた。紀元前の時代、メソポタミアや、その後西アジアの広い範囲で粘土板に楔形文字を刻むのに用いたのも、葦の茎だった。
最初は羊皮紙でつくられたクルアーンは、800年頃以降は紙の冊子となった。コーランは写本として大量に複製され、イスラムの布教を後押しした。
さまざまな紙の書籍も、出版されるようになった。印刷によるものではなく、手書きの写本によるものだ。900年代当時のバグダードは、人口70万人ほどの世界有数の大都市だったが、そのなかのワッダーフ地区といわれる一画にはおよそ100件もの書籍商があった。当時のイスラムの書籍商は、紙や文具の販売も兼ね、写本を生産する出版社としての役割も果たした。
紙をふんだんに使えることは、学問や文芸を支えるだいじな要素である。イスラム世界では、多作といわれる著述家は生涯に何万ページ分もの著作を残すようになった。
また紙の本では、図や表、計算式などのさまざまな表現方法が以前よりもさかんに用いられるようになった。写本の発行点数や部数は増加し、社会の広い範囲に流通していった。紙の普及は、社会に流通する文字情報の大幅な増加をもたらしたのである。
図書館の発達
そしてイスラムの国ぐにでは、ギリシアやローマを超える図書館の発達があった。ギリシア語などからの翻訳書を含むアラビア語の書物が集められた図書館である。
800年代以降のイスラム世界では、古代ギリシア・ローマの学問的書物の価値が発見され、その翻訳がさかんに行われた。のちにはアラビア語による独自の学問研究も行われるようになった。イスラムの帝国は、かつてのローマ帝国(東ローマ帝国)の跡地をかなり含んでおり、そこに残っていた書物や学問の伝統を、イスラムの人びとが受け継いだのである。
バグダードでは800年頃に、学問を重視したカリフ(イスラム帝国の支配者)・マームーンによって「知恵の館」といわれる、図書館を核とした研究機関がつくられた。ただ、その図書館の具体的な様子はよくわからない。
また、繁栄した時代(800~900年代)のバグダードの知識人が、多くの蔵書をほかの知識人も利用可能な「私設図書館」として公開していたことがいくつも記録に残っている。
当時のイスラムの蔵書家がどれほどの本を持っていたのかは詳しくはわからないが、当時の記述に「2人がかりで持つ箱で何百箱分」「運ぶのに十数頭のラクダを要した」などとあるので、少なくとも千冊単位の本がこうした私設図書館にはあったのだろう。そのような施設がバグダードにはいくつもあったのだ。そしてその他の都市でも、資産家や名士によって同様の図書館がつくられていった。
イスラムの巨大図書館
こうした私設図書館が数多く存在する社会では、権力者や国家がつくる図書館も発達した。そしてその蔵書は「何万冊」「何十万冊」というレベルに達したのである。
たとえば、900年代に今のイラクのバスラで地方長官が建てた公共図書館には、1万5千冊の蔵書があったという。
エジプトのファーティマ朝(900年代にアッバース朝から独立した王朝)が900年代末にカイロに建てた図書館は、蔵書が10万冊あった(60万冊という説もある)。
そして、最盛期のイスラム世界を代表する図書館といえば、スペインの後ウマイヤ朝が900年代後半に首都のコルドバにつくった図書館がある。後ウマイヤ朝は、700年代後半にアッバース朝から独立したイスラム王朝である。コルドバは、人口40~50万の、当時のイスラム世界でバグダードに次ぐ規模の都市だった。このコルドバの図書館は、900年代後半の当時、蔵書が40万冊、あるいは60万冊に達した。全44巻の図書目録が作成され、500人ものスタッフが働いていたという。
この図書館は、おそらくカイロやバグダードの図書館をしのぐ、イスラム世界最大のものだった。そして、当時において史上最大の図書館だったと考えられる。このレベルをしのぐ巨大図書館は、ロンドンの大英図書館などが発達する1800年代になるまであらわれなかった。
こうした権力者による図書館は、誰もが利用できる現代の公共図書館のようなものではなかった。しかし、知識人や名士などのエリートにとっては、かなりひらかれたものだった。また、さきほどのバスラの図書館のような、中小規模の公共図書館は、より多くの人びとが利用可能だったようだ。
本「1冊」とパピルスの巻物「1巻」
なお、ここで「何万冊」というときの「冊」というのは、現在の書籍1冊にほぼ相当する。
900年代のコルドバのカリフの図書館の蔵書は「40~60万冊」だったが、そこに集積された情報量は、「古代最大の図書館」といわれる、紀元前200年代につくられたアレクサンドリア図書館をはるかにしのぐものだった。アレクサンドリア図書館は、アレクサンダー大王(紀元前300年代)の大帝国が大王の死後に分裂してできた「ヘレニズム諸国」のうち最も有力だったプトレマイオス朝エジプトで、国王が建設したものだ。
アレクサンドリア図書館には最盛期には「50~70万巻」もの蔵書があったといわれる。これはすべてパピルスの巻物である。
パピルスの巻物の「1巻」には、冊子の本1冊の10~20分の1程度の文字しかおさまらない。そこで、「50~70万巻」というのは、冊子の本に換算すると3~7万冊分ということになる。900年代のコルドバの図書館の40~60万冊というのは、蔵書の情報量としてはアレクサンドリア図書館をはるかに上まわるものった。
アレクサンドリア図書館はローマ帝国の時代まで続き、長い間これを超える図書館はあらわれなかった。しかし、イスラムの国ぐにの時代に、紙の冊子の本が大量につくられるようになって、ようやくそれを大きく超える図書館が登場したのである。アレクサンドリア図書館がつくられてから1300年以上経ってからのことだった。
唐から宋にかけての中国でも、蔵書家による私設図書館など、本(紙の冊子)の普及にともなう図書館文化がみられた。その基礎には多くの本の流通ということがあった。しかし、イスラムほどの大規模な図書館は、発展しなかった。ただし、数万冊レベルの書物を集めた皇帝などの権力者による、「宮廷の図書館」といえる書庫はあった。
しかし、最大級の図書館の規模ではイスラムに及ばないとはいえ、中国では紙の冊子の普及やその販売ということは、イスラムに先行して行われたのである。
はるかに遅れていた西欧の図書館
そして、同時代(800~1000年代)の西ヨーロッパでは、このような図書館は未発達だった。本が集められた場所といえば、教会や修道院の「図書室」が代表的なもので、そこには「大規模」といわれるものでも数百冊の本があるだけだったのだ。これは「図書館」というよりは「図書室」である。
たとえば、イタリア北部のボッビオ修道院の図書室は当時の西ヨーロッパで名高いものだったが、800年代当時、その蔵書は羊皮紙の冊子本が700冊余りにすぎなかった。修道院の図書室は1100年代まで西ヨーロッパの学問・文化の重要拠点だったが、その平均的な蔵書数は200~300冊である。当時のヨーロッパが、イスラムと比べれば文化の後進地帯だったことが、ここにもあらわれている。
繊細な「書」の文化の誕生
紙の発明は、単なる情報量の増加だけではなく、文化の質的な変化ももたらした。紙というメディアをベースにして、以前にはなかったような繊細で高度な文化が生まれた。
たとえば、紙の使用で世界に先駆けていた中国で「書(しょ)」の文化が確立したのは、西暦300年代のことだ。
当時の中国は220年に後漢が滅亡したあとの長い分裂状態=魏晋南北朝時代の只中だった。ただし、魏晋南北朝時代は、政治的な混乱は続いたが、活気を帯びた面もあった。とくに江南(長江以南)は新興の地域として、経済・文化がおおいに栄えた。
この時期の江南の文化は「六朝文化」といわれる。後漢滅亡以後の分裂時代に江南を支配した6つの王朝=六朝にちなんだ呼び方である。
西暦300年代の半ばに、当時の江南を支配した王朝・東晋で王羲之(おうぎし)という書家があらわれた。彼は六朝文化を代表する人物といえる。王羲之は名門の出身で、高官の職を歴任したエリートだった(古典の時代の書家は、現代のような専門の芸術家ではない)。
王羲之の書は、究極のものとして今も書道の世界で崇められている。王羲之の頃に、筆と墨と紙で文字の美を追求する「書」という芸術は確立したのである。
ただし、王羲之は後漢や魏の時代などの、先行する書にも深く学んでおり、彼の時代にすべてが一挙に成立したわけではない。また、王羲之の作品の現物は残っておらず、模写や拓本などのコピーが伝わっているだけだ。そこで、彼の書への高い評価は、作品の現物をみたことがない人びとがつくりあげた「神話」である、という現代の専門家もいる。
しかし、仮にそうだったとしても、王羲之の時代が書の歴史の重要な出発点であったことはまちがいない。王羲之は、そのような時代を象徴する存在なのだ。
王羲之の代表作に「蘭亭序(らんていのじょ)」という、28行、324字からなる作品がある。これは、西暦350年に、当時会稽(かいけい)という土地の長官だった王義之が、40人余りの名士や一族を蘭亭という風光明媚な場所に集めて行った宴会のなかで、酒も入りつつ書いたものだ。
その宴会では出席者が即興で詩作を行った。それらの詩をまとめた「蘭亭集」をつくるので、その序文の下書きを王羲之が宴会の場で書いたのである。その出来はすばらしく、たとえば文中で20数回使われる「之」の文字をみても同じ筆運びのものはないなど、生き生きと、かつ繊細に書かれていた。あとで王羲之は何度もこの序文の清書を試みたが、最初に宴会で書いたものを超えることはできなかった……
このエピソードは、当時の書やその周辺の文化が、現代の私たちからみても、深くきめ細やかなレベルに達していたことを示している。
王羲之や同時代の文化人が切りひらいた芸術としての書の世界は、のちの唐や宋の巨匠たちによってさらに発展し、現代にまで受け継がれている。たとえば600年代前半の唐の書家・猪遂良(ちょすいりょう)は、王義之的な書をさらに整理・編集して、のちの書のスタンダードを築いた。
また、王羲之の時代までは、秦・漢以来の古い書体である隷書(今も新聞の題字や看板などで用いられる)が主流だったが王羲之たちが草書・行書・楷書という当時の新しい書体を積極的に用いたことで、以後はそれらの書体が隷書に代わって普及・発達していった。
そして、唐の時代には、楷書を文字の典型・公式とする、今に続く体系ができあがった。楷書の書体が完成したのは、唐の初めのことだった。猪遂良はその功労者である。その後、漢字の新しい書体は生まれていない。
なお、「最初に楷書があって、それを崩して行書や草書が生まれた」と思いがちだが、じつはそうではない。秦・漢以降はまず隷書があって、それを崩した早書きの書体として草書が生まれ、これを公式化する方向で行書にして、さらにそれを楷書というかたちに整えたのである。隷書→草書→行書→楷書という順番なのだ。
紙をふんだんに使う
また、700年代の唐の時代には李白(りはく)や杜甫(とほ)といった漢詩を代表する古典中の古典を生み出した詩人たちも活躍した。彼らの仕事は、高度の芸術表現としての漢詩を確立したものだった。
これらの著名な文人たちは、生涯を通じて多くの原稿や手紙を書き記した。紙をふんだんに使えることは、李白や杜甫の活動の基本的な前提条件だった。
さかのぼれば、王羲之はそのような「紙の時代の文化人」の重要な先駆けだった。彼が書いたさまざまな手紙が今に伝わっているが、そのなかには自分の体調不良や、老い先が短いと感じて落ち込むといったことを切々と訴えているものがある。手紙は本来、政治・行政、ビジネスなどのための実務文書だったが、王義之の頃には、実務重視の立場からみれば「どうでもいい」といえる人間的な要素も重要になってきた。
これは多くの紙を(富裕層であれば)使えるようになったからこそ、成り立つことだ。竹簡・木簡の世界ではあり得ない。そして、唐時代の漢詩の巨匠たちは、人間的な表現をさらに突き詰めて、ひとつの完成に達したのだった。
アラビア書道の成立
そして、イスラム世界にも「アラビア書道」といわれる書の世界がある。これはクルアーンの写本(最初は羊皮紙)がつくられるようになって誕生した。その後、クルアーンの紙の写本がつくられるようになると、良質のインクや紙を用いて、最高の文字表現を追求すべきという考えが強くなり、さらに書道が発達したのである。
そして900年代前半には、「アラビア書道の創始者」といわれるイブン・ムラクが登場した。これは芸術としてのアラビア書道の確立者ということだ。
彼が完成させた「六書体」といわれる書体は、現在もアラビア書道の基本書体とされる。イブン・ムラクは数百年遅れて、中国の王羲之や猪遂良にあたるような仕事をしたのである。また、イブン・ムラクも単なる芸術家ではなく、政府の高官、それもカリフの宰相を務めた人物だった。
情報の電子化・デジタル化と共通している
紙の登場がもたらした以上の変化は、現代の電子化・デジタル化による変化と共通したところが多々ある。
社会に流通する情報量の急激な増加、行政やビジネスの事務処理の精緻化、図表などのビジュアル的な表現の発達。記録媒体を豊富に使うことを前提としたさまざまな表現・コミュニケーションの発達……
電子メディアとその通信手段が登場したことで、私たちは紙の時代よりもはるかに多くのことを記録し、大勢と共有するようになった。そして、図表、画像・映像の表現も発達し、多様化した。それは役所や企業だけでなく、私生活にも浸透した。
電子メディアは紙よりも低コストで、保存スペースも少なくて済む。紙が以前のメディアに対して持つ優位と同じようなことが、電子メディアと紙のあいだでも成り立つ。
実務を離れた個人的な感情を、王羲之のようなエリートの文化人が紙に記すようになってから1700年近く経つ。今の先進国では多くのふつうの人たちが日常的にこまごました私的なこと、さまざまな思いなどを大量に発信するようになった。これからは、生涯に何万ページ分かそれ以上の文書を書き残す人は、けっして珍しくないだろう。紙の時代にはあり得なかったことだ。
ただし、書籍の電子化は、まだ変化の途上にある。書籍として出版されるような、精度や価値の高い文字情報のなかには、電子化されていないものが、まだかなりあるということだ。今の状況は、パピルスの巻物や羊皮紙の冊子が減って、紙の冊子に移り変わる途中の頃に似ている。
しかし、書籍の電子化などの「紙から電子へ」の変化は、すすんでいくにちがいない。その先には、実用性の高い本格的な「電子図書館」の登場といったこともあるだろう。現代の世界で最大級の図書館は「何千万冊」という蔵書を保有している(アメリカ議会図書館など)が、未来の電子図書館には、それよりもケタちがいに多くの蔵書・文書が集まるだろう。
つまり、イスラム世界で紙の書籍の普及が巨大な図書館を生んだのと同じようなことが起こるのである。その電子図書館では、紙の時代の書籍も電子化されて生き続けるにちがいない。イスラムの図書館のなかでも、もとはパピルスの巻物だったギリシア・ローマの本が紙に筆写されて生き続けた。
あるいは、世界じゅうのさまざまな電子の文書に検索エンジンでアクセスできる状態が、すでに巨大な電子図書館ということなのかもしれない。ただし、今は紙の書籍などの重要な文字情報のかなりの部分にネットからアクセスできないので、電子図書館としての完成度は今ひとつである。
「紙の文化こそ本物」なんて頑迷すぎる
電子メディアが紙を過去のものにしていく流れは、たしかに必然なのだ。紙がそれ以前の媒体をお払い箱にしたのと同じようなことが起きるのは、やはり避けられないのだろう。
ただし、その過程では電子メディアの洗練や進歩がいろいろあるはずだ。電子媒体のデバイス(視るための道具)は、ブラウン管の時代よりもだいぶ進歩したが、さらに視やすく扱いやすいデバイスが登場するはずだ(そのニーズがあるのだから)。また、今のような電磁的手段を超える技術も発達するかもしれない。
つまり、やはり私たちは電子メディアに適応して、積極的にその世界を使いこなしていくしかない。
年配の文化人のなかには電子メディアに反発し、紙の文化こそが本物だという人がいる。私も紙の書籍で育った世代(1960年代生まれ)なので、その気持ちはわからないではない。一種の嗜好品としてみれば、紙の文化はやはり魅力的だ。
しかし、「紙の文化こそ本物」という主張を見聞きすると、紙が普及し始めた時代の保守的な人たちを思い浮かべてしまう。
漢やそれに続く時代の中国には、とくに特権階級のなかに、紙は「安易で卑しいもの」であり、竹簡・木簡や、絹に書くことこそが正式・本格とする人たちがいた。従来のメディアのほうが紙なんかよりも深い趣きがある、というわけだ。
こういう「紙を否定する人たち」は、今の私たちからみれば、頑迷で滑稽な感じがする。現代の「紙こそ本物」という人たちも、未来の人びとからみれば、そう映るにちがいない。
参考文献
①アレクサンダー・モンロー『紙と人との歴史 世界をうごかしたメディアの物語』原書房(2017) 本記事のメインの参考文献
②L・カッソン『図書館の誕生 古代オリエントからローマへ』刀水書房(2007)
③箕輪成男『パピルスが伝えた文明 ギリシア・ローマの本屋たち』出版ニュース社(2002)
④ 箕輪成男『紙と羊皮紙・写本の社会史』出版ニュース社(2004)
⑤原田安啓『中世イスラムの図書館と西洋』日本図書刊行会(2015)
⑥小杉泰『イスラームとは何か』講談社現代新書(1994)
⑦小杉泰『イスラーム 文明と国家の形成』京都大学学術出版会(2011)京都大学学術出版会
⑧石川九楊『漢字とアジア』ちくま文庫(2018)
⑨吉川忠夫『六朝貴族の世界 王羲之[新訂版]』清水書院(2017)
⑩特別展「書聖 王羲之」図録(2013)
⑪尾崎學『王羲之の手紙 十七帖を読む』天来書院(2013)
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