「感染症の大流行がその後の社会に与えた影響」を考えるうえで、よく引き合いに出される「中世ヨーロッパのペスト」の事例。これは、じつはあまり参考にならない。発展途上の新興地域だった当時のヨーロッパと、成熟社会の現代の先進国とでは、条件がちがい過ぎる。むしろ参考になるのは、やはり成熟社会といえる、最盛期(100~200年代)のローマ帝国や500~600年代のビザンツ帝国における疫病と、その後の社会の変化である。
目 次
- 「中世ヨーロッパのペスト」は参考にならない
- 中世のペストが与えた影響
- パンデミックのあとには新社会が…
- 最盛期のローマ帝国の疫病
- 人口減少への対応と社会変化
- 「新しい社会」が明るいとは限らない
- ビザンツ帝国という成熟社会
- ユスティニアヌスのペスト
- ビザンツにおける暗黒時代・600年代
- 「暗黒時代」のあとの社会変化
- 復活しなかった公共浴場や馬車競走
- 大事にしていたものが失われる?
- 「衰退傾向にあるもの」は要注意
- 参考文献
「中世ヨーロッパのペスト」は参考にならない
新型コロナの問題を考える手がかりとして、歴史上の感染症の事例が注目されることがある。とくに「感染症の大流行(パンデミック)が、その後の社会にどう影響を与えたか」という関心で取り上げられる。
最も有名なのは、1300年代(1347~52年)のヨーロッパのペストだ。ヨーロッパ全体の3分の1から2分の1の人びとが亡くなったとされる大流行。その後、これよりは限定的だったが、1700年頃までヨーロッパではペストの流行がくり返された。
しかし、私はこの中世ヨーロッパの事例は、あまり参考にならないと思う。少なくとも、欧米や日本といった現代の先進諸国にかんしては、そうだ。
なぜ、あまり参考にならないのか?「遠い昔の出来事だから」ではない。当時のヨーロッパが発展途上にある、新興の社会だったからだ。その点が、現代の先進国と大きくちがうのである。
現代の先進国は、長期にわたって発展を積み重ねてきた成熟社会である。活気のある若い社会と、成熟して活気のおとろえた社会とでは、感染症の被害による影響は、当然ちがうはずだ。
私が参考になると思うのは、中世よりさらに昔の「西暦100~200年代のローマ帝国の疫病」や「西暦500~600年代のビザンツ帝国でのペスト」である。これらの社会は、繁栄が始まってから長い時間が経過した成熟社会だ。その点で、現代の先進国と共通性がある。とくに、ビザンツ帝国はそうだ。
中世のペストが与えた影響
ここで、ローマやビザンツの話をする前に「中世のペストがその後に及ぼした影響」について、まずは確認しておこう。
たしかにペストによって当時のヨーロッパ(ここでは西欧を指す)は、大きなダメージを受けた。だが悪いことばかりではなかった。人口減で人手不足となったため、労働者や農民の待遇は向上し、領主の権力は後退。多数派の人たちの賃金・所得が向上して、消費水準が上がり、毛織物生産などの産業の発展が後押しされた。
また、深刻な事態のなかで(限界はあるにせよ)頼れる存在として、国家や行政の権威が高まり、逆に何もできず無力だったカトリック教会の権威は低下した……
中世ヨーロッパのペストは、新しい社会が生まれるうえで影響を与えたのである。
たしかに、感染症の大流行は、「新しい社会」をもたらすひとつの要因になるのだろう。
正確にいえば、それはすでにある程度すすんでいた傾向を、さらに後押しする、ということだ。
民衆の台頭、領主権力の後退、商工業の発展、国家の強化、教会の没落といったことは、中世末期の当時、西欧ではある程度すすんでいた。
中世のペストの場合、その大流行の後に、ルネサンスの文化が、先駆けのイタリアを超えて西欧の広い範囲に広がった。そして、近代への歩みがすすんでいった。
パンデミックのあとには新社会が…
だから、中世ヨーロッパのペストの事例をみると、疫病のあとには「明るい・活気ある未来」が待っているかのようにも思える。
しかし、それは一面的な見方ではないだろうか。私は「パンデミックのあとに活気ある新社会が来る」というのは、その被害を受けた社会に相当な活気がある場合にかぎられると思う。
くり返すが、中世のヨーロッパは、発展途上の新興の地域だった。1300~1400年代の当時、世界の文明の中心は、ヨーロッパからみて東に隣接するイスラム世界や、はるか東方の中国だった。たとえば、当時のイスラム世界や中国には、人口数十万~100万規模の大都市が繁栄していたが、当時のヨーロッパのおもな都市は、人口数万~10万ほどにすぎない。
当時のヨーロッパは、イスラムなどの世界の中心からみれば「片田舎」だったのだ。しかし、新興勢力としての活気も備えていた。
そういう、伸び盛りの社会だったからこそ、パンデミックのあとに、ダメージをのり越えてルネサンスや近代社会への変革が起こったのである。
それでは、もっと成熟した社会でパンデミックが起こった場合は、どうなのか?それが、ローマ帝国やビザンツ帝国の事例である。
最盛期のローマ帝国の疫病
西暦165~180年頃、ローマ帝国で疫病の大流行があった。当時のローマは、征服・拡大を何百年も続けた結果、最盛期をむかえていた。疫病が何の病気だったかは、わかっていない。一説には天然痘であるといわれるが、はっきりしない。このときの疫病で、ある推定によれば帝国の全人口の1割程度が失われたという。
そして、これに匹敵する疫病の流行は、西暦251~266年頃にもあった。このときは、ローマ市で1日に5000人が死んだという記録もある。
100年代後半から200年代半ばにかけて、ローマ帝国は疫病の大きな被害を受けた。そして、詳しい実態はわからないが、かなりの人口が減ってしまったのである。
この人口減少は、ほかの要因と合わさって、ローマ帝国が衰退し始めるきっかけとなった。
人口減少への対応と社会変化
ひとつの具体例として、ある村の記録が残っている。当時ローマが支配していたエジプトの村である。その村では伝染病の流行のあと、麦の耕作地が流行以前の4割ほども減ってしまった。人口の減少で、畑が放棄されたのだ。
そういうことが帝国内のあちこちであれば、十分な税が集まらなくなり、国家財政は悪化する。
212年に当時の皇帝・カラカラ帝は「アントニヌス勅令」で、帝国内の全自由人にローマ市民権を付与することにした。これは、財政悪化への対応である。「ローマ市民」という納税義務者を増やし、増収をはかろうしたのだ。
しかし、アントニヌス勅令は、結果として思うような税の増収にはつながらなかった。そして、これまで帝国を支えていた従来の市民の立場やプライドを傷つけ、彼らの帝国への忠誠心を弱める結果となった。この改革は、それまでのローマ帝国のあり方が大きく変わる、ひとつのターニング・ポイントだった。
その後、200年代半ばから後半にかけて、ローマ帝国では成り上がりの「軍人皇帝」による短命な政権が続いた。そのなかで、251~266年頃には大きな疫病の被害があった。
200年代末から300年代前半には、ディオクレティアヌス帝やコンスタンティヌス大帝といった強力な皇帝があらわれ、体制の立て直しがなされた。しかし、それ以降のローマ帝国は、最盛期のあり方とは大きく変化していた。
たとえば、最盛期のローマ皇帝は、強大な権限を持ってはいたが、元老院(特権的な有力者の団体)や市民の支持などに制約される「民主的」な面があった。しかし300年代には、独裁的な権力を持つ「専制君主」となっていた。続いていた混乱を収拾して社会の安定を取り戻すため、権力の集中という選択がなされたのだ。
また、人手不足のなかで、周辺地域からゲルマン人が兵士や農民として、政府公認のかたちで移住することも増えた。
300年代の頃には、あり方はかなり変わっても、ローマ帝国は再び勢いを取り戻したようだった。しかし400年頃からは、ローマ市を含む帝国の西半分の地域(西ローマ帝国)では地方の有力者が中央政府から独立するなどの分裂傾向が強くなり、さらには敵対的なゲルマン人の侵入・攻撃に苦しめられるようになった。そして400年代末に西ローマ帝国は滅びてしまった。
その跡地にはゲルマン人の王国がいくつか並び立つようになったが、都市が荒廃するなど、ローマ帝国時代の経済や文化の繁栄は失われてしまった。
「新しい社会」が明るいとは限らない
どうだろうか? 疫病による人口減は、要因のひとつにすぎないとしても、ローマ帝国の衰退・解体にそれなりに作用しているようだ。
なお、200~300年代の人口減少の原因としては、出生率の低下(少子化)も指摘されている。こちらのほうが人口への影響が疫病よりも大きいのかもしれない。しかし深刻な疫病が、その直接の死者だけでなく、社会への重たい圧力として人口の動きに作用したことは、十分考えられる。
100年代後半~200年代半ばのパンデミックのあとには、たしかに新しい社会があらわれた。しかし、活気あふれる明るい感じとは程遠い。
300年代のローマ帝国は、さまざまな問題をかかえ、かつての民主主義の伝統を捨て、異民族を登用し、独裁政治のもとでどうにか社会を治めようとした。そして西ローマ帝国では、その結果さまざまな混乱や社会の分断が起こって、体制崩壊となったのである。
ビザンツ帝国という成熟社会
つぎに、ビザンツ帝国の事例をみていこう。ビザンツ帝国は、ローマ帝国の東半分にあたる国家で、「東ローマ帝国」ともいわれる。「ビザンツ」は、首都のコンスタンティノープルの古い地名にちなんだもので、後世の人びとによる呼び名である。
ローマ帝国の西半分(西ローマ帝国)が体制崩壊したあとも、東半分であるビザンツでは皇帝が支配する体制が存続した。独裁的な皇帝を支える官僚の組織が強化されて国としてのまとまりを保ち、異民族の攻撃にもかなり対抗できた。
首都のコンスタンティノープルは、400~500年代には人口40~50万人となり、ローマ市の最盛期の100万人には及ばないものの、世界最大級の都市としておおいに繁栄した。
コンスタンティノープルの市内には、かつてのローマ市のような大規模で豪華な公共浴場が整備され、馬車競走(競馬)を行う数万人収容の大競走場もあった。ローマ人の重要な娯楽だった演劇も盛んだった。ローマ帝国の伝統である、市民へのパンの配給も行われていた。
なお、競走場はコンスタンティノープルなどの大都市にかぎられていたが、公共浴場や劇場は地方都市にもあった。
西半分の地域は体制崩壊したが、ローマ帝国自体は文化や生活様式の連続性を保ったまま、コンスタンティノープルを中心に東側の地域で存続していたのだ。
ビザンツの人びとの自称は、あくまで「ローマ人」である。彼らは、伝統あるローマ文明の継承者だった。また、ローマの人びとは古代ギリシアの文化にも深く学んだ。そこで、ビザンツは、古代ギリシア以来の文明の伝統が長い歴史の果てにたどりついた到達点だといえる。
ただしビザンツには、最盛期のローマのような活気はなかった。大浴場も競走場も最盛期のローマ市にあった施設の、やや小型の模倣である。ビザンツの文人の書くものは、かつてのローマやギリシアの文献の真似ばかりだった。ビザンツの文化は精緻化がすすんではいたが、革新性は弱かった。
このようなビザンツの立ち位置は、ルネサンス以来の近代の文明の到達点である現代の欧米や、その影響を受けた日本と共通しているのではないだろうか。
現代の先進国についても、経済や文化の成熟・停滞ということは、いろいろ議論はあるが、かなり言われている。ビザンツも現代の先進国も、長い歴史を重ねた成熟社会なのだ。
ユスティニアヌスのペスト
では、このビザンツという成熟社会がパンデミックに遭遇した結果、何が起こったか?
ビザンツ帝国を最初にペストの大流行が襲ったのは、540年代のことだ。このときの疫病は(100~200年代のローマ帝国の場合とちがって)「ペスト」と断定されている。アフリカあるいはアジアで発生したものが、ビザンツやその周辺に入ってきたのである。とくに大都市コンスタンティノープルでの被害は激しかったとみられる。
一説では、このときの流行でビザンツと周辺地域の人口の3~4割が死亡したとされる。このときのペストは、当時権勢をふるっていた皇帝の名にちなんで「ユスティニアヌスのペスト」と呼ばれる。
ユスティニアヌスのペストは、数年でいったん終息するが、580年にはまた大規模な流行があった。ビザンツではその後も700年代半ばまで8~12年の周期でペストの流行がくり返された。
おもに500年代後半~600年代に、ビザンツ帝国はペストにおおいに苦しんだのである。
ビザンツにおける暗黒時代・600年代
そしてこの時期(おもに600年代)は、ビザンツ史家からは一種の「暗黒時代」とされている。社会が混乱し、史料も限られるからである。
混乱をもたらした最大の要因とされるのは、東方のスラブ人やペルシア人などの異民族による攻撃である。「暗黒時代」には、新たな公共建築の建設やインフラの整備・補修は限られ、国力の大部分が国防に費やされた。
さらに600年代後半からは、イスラムの勢力が勃興して、エジプトやシリアなどの領土を奪われた。
しかし、ビザンツの「暗黒時代」では、異民族の攻撃以外に、ペストの影響も大きかったにちがいない。この点は、ビザンツ史家の著作では、あまり強調されていないようだ。しかし、今後は新型コロナをふまえて再検討されるのではないか?(ただし、史料の制約で難しいかも)
「暗黒時代」のあとの社会変化
その後、ビザンツ帝国は700年代後半には、安定を取り戻した。しかし、社会の様子は「暗黒時代」以前とは変わっていた。
まず、皇帝の専制権力化(独裁化)は著しいものになった。400年代のビザンツでは、皇帝への権力集中は、たしかにローマ帝国の最盛期(100~200年代)にくらべれば大幅にすすんだが、都市単位の市民による自治的な活動はまだかなり残っていた。
詳しい説明は省くが、最盛期のローマ帝国は、都市の自治的組織を基礎として、それらを束ねて支配するという構造になっていた。
たとえば、コンスタンティノープルの郊外には、都市を守る頑丈な城壁があったが、400年代における城壁の建設・改修では、市民の協力が不可欠だった。しかし、800年代には城壁の維持はもっぱら皇帝の政府が行うようになっていた。市民の組織がかつての力を失ったのだ。
そして、「暗黒時代」以後のビザンツでは、帰属する組織・集団を失ったばらばらの個人が、皇帝という絶対権力者に従属するという構図が定着していった。
また、地方都市のほとんどが衰退し、かつての賑わいを失った。そのなかで首都コンスタンティノープルだけは、大都市としての繁栄を続けた。皇帝政府の官僚組織が保たれて徴税をしっかりと行い、各地の富を首都に集めたのである。
そして、コンスタンティノープルの公共浴場は、ほぼ消滅してしまった。公共浴場を支える水道設備も、多くが荒廃した。水を大量に用いる公共浴場がなくなったので、以前ほどの水道設備は要らなくなった。馬車競走も、限られた機会にしか行われなくなった。劇場はすっかり寂れてしまった。パンの配給制度も、600年代に廃止された。
異民族の脅威がきわめて深刻だった状況では、大浴場などの贅沢な施設が顧みられなくなるのは、やむを得ないだろう。そして、これはペストの影響も大きかったはずだ。当時は感染症のメカニズムは知られていなかったとはいえ、経験的に人びとが「三密」を避けたことは考えられる。
復活しなかった公共浴場や馬車競走
しかも、公共浴場や馬車競走や劇場は、社会が安定すれば復活してもよさそうなのに、そうはならなかった。「暗黒時代」を経て、人びとの意識が変わったのだ。
以前には、公共浴場に行くことは、ローマ人の末裔であるビザンツ人にとって大切な日常だった。しかし、異民族やペストの脅威にさらされて、公共浴場に行くことがままならない「新しい日常」を続けるうちに、公共浴場なしでも良くなってしまったのである(内風呂や小規模な銭湯で済ますようになった)。かつて多くの市民が熱狂した、馬車競走にしても同様である。
そして、公共浴場は市民の交流の場であり、競走場はイベントへの参加を通じて市民としての一体感を味わう場だった。それらを必要としなくなったのは、ビザンツの人びとが「皇帝に従属するばらばらの個人」になったことと関係があるのだろう。
このビザンツのケースでは、じつにはっきりと、パンデミックのあとに「新しい社会」が姿をあらわしているのである。
大事にしていたものが失われる?
そして、700年代以降のビザンツの新しいあり方も、「活気ある新社会」とは程遠い。少なくとも今の私たちの価値観では、一定の民主主義、市民の自治、地方都市の繁栄、快適な浴場、水道施設、スポーツイベント、劇場といった要素のある社会のほうが望ましいと思えるが、それらは失われてしまった。
ペスト以前の時代のビザンツ人がペスト以後の様子をみたとしたら、おおいに嘆くにちがいない。「なんて世の中になってしまったんだ!」と。
そして、市民の自治、民主主義などの最盛期のローマにあった伝統は、200年代以来ずっと衰退傾向だった。600年代の危機は、その変化を大きく後押ししたのである。ペストは、その「危機」の重要な要素だった。
ペストが流行した時代のビザンツは、これまで述べたように典型的な成熟社会だった。こうした社会では、深刻なパンデミックの被害は、パンデミック以前に人びとが大事にしていたものを破壊してしまうのだ。
そう考えると、「ヨーロッパでは、ペストのあとにルネサンスが来た」みたいな話が、いかにも能天気に思えてくる。歴史に学んでいるようで、じつはちっとも学んでいないのではないか。
「衰退傾向にあるもの」は要注意
おそらく私たちは、「ルネサンス前夜」の状況にはない。日本のような現代の先進国は、成熟社会という点でビザンツに近く、中世ヨーロッパとは異質だ。
私たちは新型コロナの今後の状況しだいで、今まで大事にしてきたいろいろなものを失ってしまう恐れがあると、自覚したほうがいい。とくに、「近年は衰退傾向にあるもの」については要注意だ。コロナがその衰退に拍車をかけるのだ。
今後、コロナの被害がどの程度のものになるかはわからないが、悪いシナリオは当然考えておくべきだ。危機感を持って身構えておくことは、さまざまなショックを和らげてくれる。
では、「失われるか、衰退するかもしれないもの」とは何か?
大上段な話では、人の連帯感・信頼関係、それに基づく民主主義、さまざまな基本的な自由、国際協調、グローバルな経済などが浮かんでくる。
もっと身近なことだと、人が動き、集うことを前提としたさまざまな文化やビジネス、街のにぎわいなどがあるだろう。また、インフラや行政サービスは、どこまで維持できるだろうか?
このほかにも、各人には自分の立場に応じて「あれが危ないのでは」と思うことがあるはずだ。
もしもそれらを失いたくないなら、危機感は持ったほうがいい。それでも大きな流れの前には、なす術はないのかもしれない。
しかし「ペストの後にはルネサンス」みたいな、根拠の薄い楽観論で考えるのは、やめておこう。それだと、今後起こる問題に対して流れに任せるばかりで、何もしなくなってしまう気がする。
じつは、私自身ここでいう「楽観論」をある程度抱いていたこともあった。「中世ヨーロッパのペスト」を歴史上の典型的な事例として考えていたところがあったのだ。もちろんローマ帝国やビザンツのケースにも目を配ってはいたが、考察が浅かった。
しかし、それでは「世界史研究家」としては物足りない。その反省に立って、これまでの自分の考えを修正した「最新バージョン」を、ここに記した次第です。
参考文献
ここではビザンツ帝国についての井上浩一の著作をあげておきますが、くわしくは、ビザンツやローマ帝国、感染症の歴史に関する当ブログの以下の関連記事にある参考文献をご覧ください。この記事は、さまざまな時代や対象にかかわる事柄を総合したものになっています。
井上浩一『ビザンツ 文明の継承と変容』京都大学学術出版会(2009)
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