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都市への集中・都市化は、はたして「異常」なのか? 都市の歴史から考える

目 次

 

「アンチ都市」の主張

日本経済新聞(2020年9月12日)の1面にある特集記事「パクスなき世界」第6回「新たな〈都市像〉を描けるか」を読みました。

現代の世界では都市化の進行が著しい。同記事によれば“今や世界人口78億人のうち40憶人以上が都市に住む”とのこと。

この記事では、現代の都市化に批判や疑問を投げかけています。“都市への集中による経済発展のモデルが揺らいでいる”というのです。

そしてその根拠のひとつとして、大都市武漢で発生した新型コロナがニューヨークなどの世界の大都市を襲ったこと、中世のペストなどの歴史上の感染症が都市の発達と結びついていたことをあげています。

また、人類学者・長谷川真理子さんが現代の都市化を“人類史上の異常な状態”と述べているのを引用し、さらに“規模と効率を追求した都市の存在意義が問われている”とも述べている。

つまり、この記事のベースには「都市は、人間の本来の姿からは逸脱した異常なあり方だ」という価値観があります。いわば「アンチ都市」なのです。

 

文明の副作用をどうするか

私はこういう「アンチ都市」の言説をみるたびに、違和感や反発をおぼえます。「都市にはさまざまな副作用や問題がある」というのならわかるのです。文明を構成するさまざまな要素には、どれもメリットのほかに副作用があります。

自動車を使えば交通事故が起こる。政府・国家による搾取や抑圧は常に批判されてきました。

文字にだって副作用がある。プラトンは著書のなかで、ソクラテスの語りを通して「文字を使うようになって、人間は自分の内側から思い出す精神の働きが衰えた」ということを述べている。

大勢が密集して暮らす都市の最大の副作用は、健康や衛生の問題です。具体的には感染症の被害ということです。

そういう副作用をどう軽減していくか、という話なら私も納得できます。

でも「アンチ都市」の主張は、「都市はそもそも異常」ということなのです。そして、それを歴史(世界史)の知識をひきあいにして語ることがある。でも、その歴史像は一面的であやしいものです。この記事では別の歴史像を語りたいと思います。

 

メソポタミア文明の都市化率

「アンチ都市」の説では「人類はその歴史のほとんどを(狩猟採集生活や農耕集落などの)都市のない状態で生きてきた。都市で暮らすようになったのは、人類の歴史のなかではつい最近である」といったことがよく言われます。先ほど引用した長谷川さんも、同記事の関連インタビューで、その手のことを述べています。

でも、そんなことを言ってもしょうがないのでは? それなら狩猟採集生活が人間の本来のあり方なのですか、と言いたくなります。

やはり、私たちは文明ということをベースに考えるしかないでしょう。文明のなかで生きてきたし、それ以外ないのですから。

本格的な文明のはじまりは、今から5000年余り前のメソポタミア(現在のイラクやシリア)でのことです。このとき、人口数万人規模の都市も初めて誕生しました。何キロメートルもの日干しレンガの城壁に囲まれた、密集度の高い都市です。

ただし、この頃のメソポタミアの都市は、その後の商工業中心の都市とはちがって、住民のほとんどは都市の周辺の農地を耕す農民でした。その労働や生産物は、都市を支配する国家権力が管理していました。職人や技術者、貿易や商業を担う人びともいましたが、これらも国家の管理下にありました。

そして、紀元前のメソポタミアの都市でも、すでに感染症の蔓延ということがあり、記録が残っています。人口の密集による衛生や健康の問題は、都市の誕生とともにあったのです。その対策のひとつとして、おおいに限界はあるにせよ、ある程度の下水施設もつくられていました。

衛生上の問題はあったにせよ、4000~5000年前のメソポタミアにできたいくつもの都市には、多くの人が集まってきました。

都市には、外部の略奪者などから守られる「安全」があり、都市の外にはないような、おいしいもの(ビールやパン等々)、美しいもの、楽しいことがあったからです。

この状態を維持するには、権力者やその配下の専門家の活動が必要であり、だから人びとは、不満はありながらも権力に従いました。これは今の私たちと本質的に変わりません。

4900~4700年前(考古学者が「初期王朝時代第Ⅰ期」と呼ぶ時期)に、メソポタミアの文明は、都市化のピークを迎えました。

その頃、いくつもの都市が生まれたメソポタミアの南部では、人口の8割ほどが人口数千人以上の、当時としては大規模な都市に集中していました。 

*ここは正確にいうと、「この地域の遺跡調査で明らかな全居住面積の8割弱を、面積が40ha以上の都市が占めている」ということ。そして、1haの面積には100~200人が居住していたとみられる。(中田一郎『メソポタミア文明入門』51㌻などによる)

ただし、このような都市人口の占める割合=都市化率は、数百年以上経った4000年前頃~3000数百年前のメソポタミアでは5割程度に下がっていきます(考古学でいう「アッカド王朝」から「古バビロニア」の時代)。

それでも、2020年現在の世界の都市化率は50%ほどですから、かなり高い都市化率です。

文明の始まりの時代、その中心のメソポタミアでは、高い都市化率の時代が1000数百年続いたのです。それだけ長く持続した状態は「異常」とは言えないでしょう。急激な都市化から、文明の歴史は始まったのです。

このような事実から、私は都市というものが、文明にとって、そして人間にとって根本的・普遍的なものだとつよく思えるのですが、どうでしょうか?

 

100万人都市ローマという到達点

メソポタミアで生まれた都市の文明は、その後ギリシア・ローマの文明や、その他の地域に受け継がれ、発展していきました。

その到達点として、ローマ帝国の首都ローマ市のような人口100万人規模の都市も生まれました(西暦100年代)。メソポタミアの最大級の都市よりも一ケタ大きな都市です。

このような都市は、発達したハード面や運営の技術に支えられていました。メソポタミアの都市の人びとはおもに井戸水を飲んでいましたが、ローマでは都市の外にある水源からひいた水道が整備され、下水道も相当に発達しました(上下水道はローマ以前に古代ギリシア人も建設していた)。

また、大量の食糧などの物資を遠隔地から調達する物流のシステムが構築されました。1000トンを超える輸送船、その船も入れる港、大量の物資をおさめる巨大倉庫も建設されました。

ローマ市に匹敵する巨大都市は、その後も各地でくりかえしあらわれます。イスラム帝国のバグダード、唐の長安、宋の開封や杭州は、最も代表的なものです。これらの都市の規模は、ローマ市とほぼ同程度の人口数十万~100万といったレベルです。

これらの前近代の大都市では、天然痘やペストなどのさまざまな疫病が何度も蔓延しましたが、それでも大都市の伝統が世界から消えてしまうことはありませんでした。

 

1800年代ロンドンの環境改善

そして、産業革命以後の1800年代には、それまでの規模を大幅に超える都市が出現しました。その先駆けはロンドンです。

1800年代半ばには、ロンドンは人口200~300万人の空前の巨大都市となりました。新しい産業・経済が発達し、社会的な自由が拡大したことで、仕事や成功を求める人たちがロンドンに押し寄せました。鉄道の発達が都市へのアクセスを容易にして、人口集中はさらに加速しました。

そして、当時のロンドンでは、街は馬車がごった返して馬糞にまみれ、工場からの煙で大気は汚染され、コレラのような飲料水の汚染に起因する伝染病が流行するなど、環境悪化はひどいものでした。

しかし、1800年代末には近代的な上下水道の整備が進み、地下鉄などの新しい都市交通が馬車にとって代わることで、環境が改善されていきました。ロンドンの人口はさらに増えて、1920年には800万人ほどに達しました。

なお、1880年代にはイギリス(本国)では全人口の3分の2が都市に集中していました。1890年の西ヨーロッパ諸国の平均の都市化率は31%ですので、イギリスの都市化はとくにすすんでいたのです。

1800年代末から1900年代初頭のロンドンは、産業革命以後の急速な都市の拡大による深刻な病=副作用におかされていました。しかし、技術や社会運営の力でその副作用をかなり克服したのです。

これは、産業革命の副作用を、産業革命以後の技術でおさえ込んだといっていいです。この「克服」のあり方は、その後の世界の大都市にとってモデルになりました。

以上をまとめると、こういうことです――文明は急激な都市化とともに始まった。それを後の文明も受け継いで、都市をさらに発達させた。その発達を支えたのは技術である。都市の巨大化にともなう副作用を技術によって(どうにかでも)緩和することで、都市はさらに発展していった。

くりかえしになりますが、都市にともなう問題・副作用を解決して、都市を発達させることは人間にとって「異常」などではなく、本来的・普遍的な営みです。つまり、これからもそれを行っていくしかない。素直に世界史の事実をみわたせば、それは自明のことのように私には思えます。

 

文明国で都市が衰退した事例

ただし、時代や地域によっては、文明国でありながら都市が後退していったこともあります。

たとえば、400~500年代の西ローマ帝国とその跡地。この時期の西ローマ(ローマ帝国の西半分、今の西ヨーロッパの主要地域にほぼ該当)は、ゲルマン人の侵入激化などによる混乱で、かつて栄えていた多くの都市が衰退していきました。

ローマ市も500年代後半には、長い混乱によって人口が8万人ほどにまで減ってしまいました。

最盛期のローマ帝国では都市が全人口に占める割合は10~20%程度と「都市化」の率は現代よりもかなり低かったのですが、都市が経済や文化に占める比重は圧倒的でした。農村地帯が都市に政治的・経済的に従属する傾向が近代以上に強く、ローマ帝国は「都市の集合体」という面がありました。

そこで、都市が衰退することは、西ローマの経済・文化の激しい衰退につながりました。それは地域によっては「文明の崩壊」といっていいほどのものだった。

ただし近年の歴史学では、このような「激しい衰退」「文明の崩壊」について否定的な見解があります。「文明の崩壊」などではなく、社会がゆるやかに「変容」したのであって、都市が衰退しても人びとは引き続き農村的なコミュニティでそれなりに暮らした、というのです。

このような見方は従来の通説的な見方への反論として出てきたものですが、最近ではこのような「変容史観」に対する再反論も出ています。

たとえば地域によっては、出土した遺物をみると、西ローマ帝国の跡地では、陶器などの生活用品はローマ時代には多様で上質なものが大量にあったのに、帝国の崩壊後はそれが姿を消して粗末なものしか出てこなくなる、これは著しい生活水準の低下だ――などと指摘されているのです。

なぜそのような生活水準の低下が起こったか? 都市の衰退・消滅によってそこで活動する職人や商人、インフラ等を管理する官僚や現場スタッフがいなくなったからです。これらの都市で活動する専門家がかかわっていた、帝国規模の生産や流通のネットワークが崩壊して、自給自足的な経済に逆戻りしてしまったからです。

私も、こうした「変容史観」への再反論的な見方のほうを基本的には支持しています。(この議論については、変容史観を批判したブライアン・ウォード=パーキンズ『ローマ帝国の崩壊』による)

西ローマ帝国は400年代末には体制崩壊しましたが、それ以後も帝国の東半分である東ローマ帝国は存続し、首都のコンスタンティノープルをはじめとして、さまざまな都市も繁栄し続けました。

しかし、600年代になると、周辺の異民族(スラブ人やアラブ人など)による攻撃の激化によって、社会は混乱していきました。500年代から続いていたペストの流行も社会にダメージを与えました。

その後700年代末には東ローマは安定をかなり取り戻します。しかし、都市は衰退してしまいました。コンスタンティノープルなどの例外を除き、多くの都市が文化や経済の活気を失って、軍事や政治に特化した、限られた規模の「城塞」的なものに変わってしまった。

 

都市が衰退するのは、きびしい・不幸な時代

つまり、大規模な都市が衰退して、ムラや小都市ばかりになった社会の事例というのは、このように歴史上にあるわけです。しかし、当時の社会に生きる人たちにとって、それはきびしく不幸な時代だったのです。「アンチ都市」の知識人が説くような、都市という異常な存在が後退して、人間らしい価値観が充実してくるといったものではなかった。外部からの攻撃におびえ、中央政府の機能は低下し、満足な生活用品が入手困難になったりする時代だった。

たしかに、これから私たちは「きびしい時代」をむかえるのかもしれません。つまり、都市の繁栄を支えきれなくなるような、社会・経済の混乱や悪化ということがあるのかもしれない。

これから「アンチ都市」の主張が一層有力になるとしたら、そういう「きびしい時代」を予感あるいは実感する人が増えていくからなのかもしれません。

でも、「都市が衰退する時代はきびしい時代」という認識もないまま「アンチ都市」的な考えに傾くことは、現在の都市や社会の問題解決に役立たないばかりか、余計に問題をこじらせてしまう気がしてなりません。

私たちは、これまで築いてきた都市というものを、さらに大事に維持・改良していくしかないと、私は思います。高いレベルの経済や文化を維持しようとすれば、その時代の先端をいく巨大で整備された都市は、社会にとって必須なのではないか。

都市を拠点とする専門家たちの活動が低下すれば、社会全体の生活や文化の水準は下がるのです。西ローマ帝国の崩壊の際に起こったことは、それを劇的に示しています。

都市の維持・改良にあたっては、もちろんこれまでのやり方の見直しは必要です。同記事の関連で建築家の隈研吾が述べているように、巨大な超高層ビルはもう時代おくれなのかもしれません。IT技術をふまえて働く場所を再設計する必要もあるでしょう。環境への配慮は、さらに重要になる。また、日本では地方都市の整備や活性化ということも、欧米と比べて課題が多いと、私も思います。

でも、それは都市そのものの存在意義をくつがえすような話ではない。

「都市への集中は異常なのだから、解体・分散すべき」というのは、現実の都市におけるさまざまな問題・副作用を真正面から解決することを回避する思想=幻想ではないでしょうか?

 

 

参考文献

文中で取り上げたつぎの2冊のほかは、当ブログの下記の関連記事で紹介したさまざまな書籍を参照しています。

①ブライアン・ウォード=パーキンズ『ローマ帝国の崩壊』 白水社(2014)

 ②中田一郎『メソポタミア文明入門』岩波ジュニア新書(2007) 

メソポタミア文明入門 (岩波ジュニア新書)

メソポタミア文明入門 (岩波ジュニア新書)

  • 作者:中田 一郎
  • 発売日: 2007/03/20
  • メディア: 新書
 

 

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