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アラビア科学(イスラム科学)の歴史1 アッバース朝の翻訳運動

はじめに・アラビア科学について知る意味

アラビア科学は、中世(500年頃~1500年頃)にとくに繁栄したイスラムの国ぐにで研究された科学のことだ。イスラム科学ともいう。今から1000年ほど前の世界では、イスラムの国ぐには世界の中心で、その科学研究は最先端だった。

イスラム教は600年代のアラビア半島で、アラブ人のムハンマド(570?~632)によって創始された。その後アラブ人を核とするイスラムの勢力は急拡大し、700年頃までにはウマイヤ朝(661~750)という政権のもとで、今の「中東」といわれる地域の広い範囲を支配する巨大な帝国を築いた。

このイスラムの帝国は、700年代半ばにアッバース朝(750~1258)に受け継がれた。800年代以降、この帝国は複数の国家に分裂していくが、それぞれの国がイスラム教を保持したまま繁栄を続け、イスラムの国ぐにどうしでの交流もさかんだった。


イスラムの帝国(800年頃、アッバース朝を中心として複数の国を含む)

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1500年ころまでのイスラムの国ぐには、中国(唐・宋など)と並んで世界のなかの繁栄の中心で、学問・文化も最も発達していた。一方、イスラムの繁栄の時代、西欧はまだまだ片田舎だった。

イスラムの国ぐにで科学の研究が最もさかんだったのは、800年頃から1200年頃のことである。当時のアラビア科学の成果は、西欧での近代科学の成立に影響を与えた。つまり、世界史上のきわめて重要な遺産なのである。ヨーロッパ人は、アラビア科学の成果に学んで近代科学を築いたのだ。

アラビア科学の歴史から、私たちはつぎのメッセージを受けとることができるだろう。「アラビア科学について知る意味」である。

1.まずアラビア科学は、近代科学の土台であり先駆だった。そこで「現代の科学文明の源流を知る」という意味がある。

2.そして、イスラム圏という、今では科学研究がさかんとはいえない地域が、かつては世界の科学研究の中心だったのだ。それを知ることで「科学は西洋だけでなく、世界のさまざな民族や文化のなかで発展しうる」とわかる。これは西洋人の優位を信じて疑わない「西洋中心主義」を、相対化するということでもある。


3.ただし、アラビア科学は、イスラムの人びとが独創的につくりあげたものではなく、古代ギリシアの遺産をもとにしている。イスラムの人びとは、当時からみておよそ1000年も昔の古代ギリシア人が残した科学を再発見し、それに全面的に学んだのである

つまり、アラビア科学の歴史を通して「過去のすぐれた遺産に学ぶ意義」についても私たちは確認できる。そして、「古代ギリシアの遺産の重要性」ということも、おさえておきたい。

 

目 次

  

先行する文明に学ぶ

大帝国を築いた当初、帝国を主導するアラブ人は、イスラム教という新しい一神教と、イスラムの旗のもとでの結束、遊牧民・商業民としてのスキルを活かした軍事力を備えており、それによって戦争に勝利して大帝国を築いた。

しかし、その他のさまざまな面ではアラブ人はビザンツ帝国(東ローマ帝国)やササン朝ペルシアの人びとに遅れをとっていた。もともとはアラビア半島という片田舎の民だったので、それはしかたのないことだった。

ビザンツはイスラムと隣接し、ライバル関係にあった大国で、古代のローマ帝国を継承する存在だった。ただしその領域は、ローマ帝国東部のバルカン半島やシリアなどを中心とする地域であり、ギリシア人が主流だった。最盛期のローマ帝国とはかなり異質なところのある国である。

ササン朝は大帝国を築く過程でイスラムが滅ぼした大国で、今のイランなどにあたり、ペルシア人が主流である。ペルシア人は紀元前500年頃~300年頃に、アケメネス朝という大帝国を築いたこともあった。

イスラムの大帝国が最初に形成されたウマイヤ朝(661~750)の頃から、イスラムの人びとはビザンツ帝国や、ササン朝の跡地であるペルシア(イラン)、さらにはインドや中国などの技術・文化を取り入れて、改訂・増補を加えることをさかんに行った。

その結果、先行するさまざまな文明を総合した「イスラム文明」といえるものが形成された。
そしてイスラム文明には、アラブ人だけでなくペルシア人をはじめとする多様な民族が担い手として参加したのである。

ウマイヤ朝時代の帝国の首都、つまりカリフ(イスラム世界の皇帝にあたる)の所在地は、シリアのダマスカス(ダマスクス)だった。これはウマイヤ朝の開祖ムアーウィアが、もともとはシリアの地方長官だったことが関わっている。もちろんそれだけではなく、シリアが経済的に繁栄し、帝国の東部(ペルシア以東)と西部(エジプト以西)を結ぶ位置にあることは重要だった。

ダマスカスの歴史は古く、初期鉄器時代の紀元前1000年頃には、すでにアラム人(当時、商業で繁栄)の王国の首都として栄えていた。そして、その後のローマ帝国やビザンツ帝国でも重要な都市だった。

ウマイヤ朝時代には、ビザンツ時代からの建造物がダマスカスの町のなかで多くを占めていた。新しい建築も、おもなものはビザンツの技術で建てられた。アラブ人は、高度な建築の技術は持っていなかった。

当時のダマスカスで代表的な建築としては、700年代初頭に建てられたウマイヤ・モスクがある。モスクとはイスラム教の寺院のことで、ムスリムが集まって礼拝をする場所である。このモスクはキリスト教会の敷地(約160m×100m)を接収して、敷地いっぱいに建てたものだ。そこにはビザンツやローマ帝国の建築様式や技法が用いられている。

 

貨幣・浴場についても学ぶ

初期のイスラムが先行する文明から借りたもの・学んだものは、ほかにもある。貨幣もそのひとつだ。正統カリフ時代(ムハンマドのあとの4人の指導者の時代、632~661)からウマイヤ朝の初期には、ビザンツのソリドゥス金貨とササン朝の銀貨をそのまま使うか、そのコピーといえる金貨や銀貨が発行されていた。

その後、600年代末にはイスラム独自の「ディナール金貨」「ディルハム銀貨」が発行されるようになった。これらのイスラム貨幣には、従来のコインで一般的だった君主の図像を廃止してアラビア文字だけを刻むといった独自な面もあった。イスラムの教えに反する偶像崇拝の要素を排除したのだ。しかし、先行する国家の貨幣制度や鋳造の技術を基礎にしていたことはまちがいない。

公衆浴場もそうだ。イスラムの帝国では都市部で公衆浴場が普及した。公衆浴場といえば古代ローマのものが有名だが、ローマ市の代表的な浴場のような大規模なものではなく、中小の風呂屋の施設である。これはまさに古代ローマやその継承者であるビザンツの文化・技術を継承したものだった。

こうした公衆浴場の建設は、ウマイヤ朝の初期の頃にはすでに始まっていた。今も残る最も古いイスラムの浴場の遺構は、700年代前半にカリフ一族のためにつくられたものだ。そこにはローマの浴場にもあったような、室温の異なる複数の浴室や床暖房、娯楽・休憩のためのホールが備わっていた。ローマの伝統を受け継ぐビザンツの浴場をまねて、ビザンツ系の技術者につくらせたものだろう。そして、同じような要素を備えた浴場が、街中にも数多く建てられたのである。

 

ギリシア語とペルシア語の時代もあった

そして、行政についても先行する文明に多くを学んだ。ウマイヤ朝の初期には、行政上の言語はギリシア語とペルシア語だった。

とくにギリシア語の比重は大きく、ダマスカスのウマイヤ朝政府のおもな官僚の多くは、ギリシア語を話す旧ビザンツ人(以下ギリシア人という)か、ギリシア語を学んだアラブ人だった。帝国を運営する行政のノウハウを、アラブ人の支配者はおもにギリシア人に頼ったのである。

700年代初頭の改革で、公用語はアラビア語に切り替わった。しかし、その後もギリシア語は、エリートのあいだで使われ続けた。ギリシア語は、商業や行政の実務から高度の科学・哲学に至るまで、なんらかの本格的な知識、つまり広い意味での「学問」を学ぶうえで、最も重要な言語だったからである。

当時のアラブ人は、アラビア語による独自の学問を、イスラムの教義を除いて、ほとんど持っていなかった。イスラムの人びとが先行する文明から学んだものとして、学問的な知識はとくに代表的なものだ。

 

ギリシアの学問という「宝の山」を発見

そして、アッバース朝(750~1258)の時代になると、ギリシア語の学問的文献が、さかんにアラビア語に翻訳されるようになった。アッバース朝の時代は、イスラムの文明の最高潮といえるだろう。

アッバース朝では、帝国の都はダマスクスよりも東方の、イラク中央部のバグダードに移った。

初期のアッバース朝でも、ウマイヤ朝と同様にアラブ人以外の官僚が重要な役割を果たした。ただし、バグダードはかつてのササン朝寄りの場所にあり、ギリシア人の影響力は後退した。代わって台頭したのがペルシア人である。ほかにキリスト教徒のアラブ人や、トルコ東部を拠点とするアルメニア人も、官僚としてより活躍するようになった。

そして、これらのアッバース朝のエリートやその周辺から、ギリシア語の哲学・科学の文献を研究する人びとがあらわれたのである。ウマイヤ朝の旧ビザンツ領には、さまざまなギリシア語文献が残っていた。

じつは、ウマイヤ朝時代のギリシア人が重視したギリシア語の文献は、キリスト教関連か実務的な分野が中心で、哲学・科学などの本格的な学問への関心は薄かった。それはビザンツ人の一般的な志向を反映した結果だ。

ギリシアの哲学・科学の黄金時代は、ポリスの時代である古典期ギリシア(紀元前400~300年代)とヘレニズム時代(紀元前300年頃~紀元前1世紀)だが、それに対するビザンツ人の評価は低かった。それは異教徒による反キリスト教的な文化とみなされた。

また、古典期ギリシアの民主政はビザンツの皇帝専制とは相容れないものだ。そして、ポリスの遺産を受け継いだヘレニズム時代の文化に対しても、ビザンツ人は冷淡だった。

しかし、都がダマスクスからバグダードに移って、エリートの構成が変化した結果、ギリシア人特有の・ビザンツ的な偏見の影響が弱まった。彼らは「偏見」にとらわれずに、ギリシア語文献の遺産を評価した。その結果、ギリシアの学問という「宝の山」を発見し、それをアラビア語に翻訳して、より多くの人びとに届けようとする動きも起こったのだった。

 

アッバース朝の翻訳運動

700年代後半に始まった、ギリシアの学問文献を翻訳する動きは、800年代にはさらに盛んになり、900年代末まで続いた。

この時期にアリストテレス、アルキメデス、エウクレイデス、プトレマイオス、ガレノスなどに代表される、古典期ギリシア、ヘレニズム時代、そしてその伝統を受け継ぐローマ時代の書物がアラビア語に訳された。

また、こうした巨匠の著作やそこで扱われている正統派のテーマだけでなく、知名度の低い著者、占星術や錬金術などのオカルト系のもの、その他の周辺領域や雑学の文献についても翻訳された。軍事関係などのビザンツ時代の書物も対象となった。多くのイスラムの知識人が熱心にそれらに学んだ。一方、文学や歴史については、ほとんど関心が持たれなかった。

この翻訳運動は、社会のさまざまな場所で沸き起こったものだった。カリフなどの権力者による後援もあったが、それは全体の一部に影響を与えたにすぎない。

アッバース朝の翻訳運動について研究したディミトリ・グタスによれば、“それはアッバース朝社会の全エリート、すなわちカリフや君主、役人や軍指導者、商人や銀行家、学者や科学者によって支援されたものであった”。(『ギリシア思想とアラビア文化』4㌻)

そして、翻訳書に学ぶだけでなく、イスラムの学者たちによるオリジナルの研究も活発化した。これは、過去の文献への単なる注釈ではない。新たな情報やアイデアを既存の学問的成果につけ加えようとするものだ。その研究は、当時の世界の最先端となっていった。

 

ギリシアの遺産が復活した逆説

ギリシアの伝統を受け継いだイスラムの国ぐにの科学研究を「アラビア科学」という。アラビア語で論じられた学問・科学ということである。「イスラム科学」という言い方もあるが、ここでは用いない。ギリシアの学問の合理的な側面は、イスラム教のような一神教とは根本的に相いれないところがあるからだ。

ただし、アラビア科学の科学者・哲学者は、アラブ(アラビア)人よりもペルシア(イラン)人、ユダヤ人、トルコ人などの非アラブ人が多かった。とくにペルシア人の貢献は大きい。たとえば、後で(本記事の続編で)述べる大数学者のフワーリズミー、アラビア医学を代表するアル・ラージー、イブン・シーナーは、ペルシア人である。

なお、アラビア科学の成立には、ペルシア、インド、中国などのギリシア以外からの影響もあったが、その点についてはまだ研究があまりすすんでいない。いずれにせよギリシアの遺産からの影響がとくに大きかったことはまちがいない。

それにしても、旧ビザンツ人=ギリシア人の影響が後退したことで、ギリシア人の優れた遺産が復活したというのは、まさに逆説的だ(先ほど引用したグタスもそう述べている)。

当時のギリシア人は、自分たちのルーツである、重要な成果の価値がわからなくなっていた。これは彼らが、古代からの長い歴史の積み重ねの果てに、やはり衰退・老化を迎えていたということだろう。

一方、イスラムという新興勢力の人びとには、その価値がわかった。イスラムの国家には、ペルシア人のような、紀元前の頃から国家が栄えた古くからの文明人も含まれてはいたが、その人びとも、新しい社会の枠組みのもとで活性化していたのだろう。

文明の中心が移り変わるときは、このように、旧い勢力と新しい勢力のあいだの活気のちがいが、はっきりとあらわれるものだ。

 

なぜギリシアの学問は支持されたか

なぜ、古代ギリシアの遺産は、これほどまでに支持されたのだろうか? それは、ギリシアの哲学・科学が、当時のイスラムの知的エリートの欲求に、みごとに答えてくれるコンテンツだったからだ。

それは、イスラムの教義が特に触れていない、世界のさまざまな側面について説明を与えてくれた。また、ものごとを深く考えるための概念や方法についても教えてくれた。こうした方法に学ぶことで、イスラムの教義をさらに深く理解できると考える者もあらわれた。

ただし、ギリシアの学問の主流は、合理的に世界のしくみを探求しようとするものなので、イスラムのような一神教とは鋭く対立する面もある。

だからこそ、キリスト教国家のビザンツ帝国では、反キリスト教的としてギリシアの学問を受け継ぐアテネの学者たちが弾圧されるということもあった(529年のユスティニアヌス1世による「異教徒による教育の禁止令」)。近代初期のヨーロッパでも、ガリレオがローマ法王庁の弾圧を受けた。

しかし、翻訳運動が盛んだった時代のアッバース朝で、ギリシアの学問がきびしく弾圧されるということはなかった。ギリシアの学問に対する批判や無関心ということは、当然あった。しかし、イスラムの教義に真っ向から逆らわないかぎり、各分野の知識を探求すること自体は問題なしというのが、当時のイスラムにおける一応のコンセンサスだったのだ。

ただし、ギリシアの科学・哲学を中心とする、「外来の学問」は、当時のイスラムの主流の教育機関(マドラサという民間の学校)では、基本的には教えられることはなかった。イスラム世界での「正統」な学問は、あくまで聖典クルアーン(コーラン)の解釈、法学、神学、アラビア語文法などの「アラブの学問」だった。

「外来の学問」は、世間一般からみれば「特殊」といえる一部の知識人や、研究の支援者たちの非公式なネットワークのなかで発展していった。ただし、「外来の学問」が活気にあふれていた時代には、カリフのような最高権力者も研究を支援していたのである。

また、翻訳運動を下支えした技術的要素として、紙の普及がある。翻訳された書物は、紙の冊子として社会に広く流通した。ただし、当時の本は印刷ではなく、手書きの写本である。製紙の技術は、700年代後半に中国から入ってきたもので、以後急速にイスラムの国ぐにに広まった。(続く)

  

参考文献

①ディミトリ・グタス『ギリシア思想とアラビア文化』勁草書房(2002)

  

②深見奈緒子『イスラーム建築の世界史』岩波書店(2013)

イスラーム建築の世界史 (岩波セミナーブックス S11)

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  • 作者:深見 奈緒子
  • 発売日: 2013/07/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  

③杉田英明『浴場から見たイスラーム文化』山川出版社(世界史リブレット)(1999)

浴場から見たイスラーム文化 (世界史リブレット)

浴場から見たイスラーム文化 (世界史リブレット)

  • 作者:杉田 英明
  • 発売日: 1999/04/01
  • メディア: 単行本
 

   

④小杉泰『イスラーム 文明と国家の形成』京都大学学術出版会(2011)

 

⑤ダニエル・ジャカール『アラビア科学の歴史』 創元社(2006)

アラビア科学の歴史 (「知の再発見」双書)
 

 

 

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