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スペイン・インフルエンザ(スペイン風邪)における大正時代の日本政府の対応・今のコロナ禍との比較

はじめに 

最近、速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(藤原書店、2006)を読み返した。第一次世界大戦末期の1918年から終戦直後の1920年まで世界的に流行した、「スペイン風邪」ともいわれたインフルエンザの、日本での状況について述べた本である。このテーマの、数少ない本格的な研究のひとつだ。

著者の速水融(1929~2019)さんは、歴史人口学の大家で、新型コロナの世界的流行が始まる直前の2019年12月に91才で亡くなった。

スペイン・インフルエンザは、1918年春から1920年まで世界で猛威を振るった。史上最悪のパンデミックのひとつである。

これによって全世界で5000万~8000万人、日本では40万~50万人が亡くなった(死亡者数については諸説ある)。

なお、当時の世界人口は20億人弱で、植民地を除く日本の「内地」の人口は5500万人である。今の人口に換算すると、世界(20憶→75億人として)では1.9憶~3億人が、日本なら90万~120万人が死んだことになる。

『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(以下同書という)を私そういちは、去年(2020)の5月、最初の緊急事態宣言で「ステイホーム」していたとき、アマゾンで注文して一度読んだ。しかし、今あらためて読みかえすと前とはちがった印象を受ける。また、速水さんがスペイン・インフルエンザについて述べたもうひとつの著作『大正デモグラフィ』小島美香子共著、文春新書、2004)もあわせて参照した。

私が今回とくに関心を持ったのは、当時の日本政府の対応である。

この本が伝える、スペイン・インフルエンザに対する大正時代の日本政府や医学界の対応には、たしかに「残念」なところがあった。何もしなかったわけではない。しかし対応は後手に回りがちで、うたれた施策は消極的で場当たり的なところが目立った。

しかし、鉄道や通信などのおもな社会基盤は、どうにかストップせずに維持された。そして、このインフルエンザによる死者数は日本では総人口の0.7~0.8%ほどで、世界全体の平均(3~4%)を下回った。ただし、欧米諸国でも総人口に対する死者の割合は、おおむね1%を切っていたようなので、日本の死者の割合が当時の列強国のなかできわだって少なかったわけではない。

これについて、私は「まあ100年前の政府のことだ。いろいろ限界もあるだろう」と思った。そして去年の5月時点では、期待をこめてつぎのようにも思ったのだった。

たしかに今の政府のコロナ対応は、大正時代と似た残念なところもある。だが、我々の政府もついに(先月になって初めての)緊急事態宣言を出し、1人10万円の給付金も出る。ようやく相当な危機感を持つに至ったようだ。今の時代、政府の組織は大正の頃よりも大きく発達しているし、医療も進歩している。スペイン・インフルエンザのときにくらべ、はるかに有効な施策がこれからいくつも打たれると期待できるだろう。まあ足りないこと、うまくいかないことはいろいろあるだろうが、政府はがんばるだろう…

しかし、2021年8月下旬現在にこの本を読み返すと、ちがう印象になった。スペイン・インフルエンザのときと今回のコロナ禍とをくらべると、日本の政府や社会の対応には、さまざまな共通点があることを痛感させられる。

目 次

 
世界でのパンデミックの始まり 

スペイン・インフルエンザのパンデミックが始まった1918年は、第一世界大戦(1914~18)の終盤である。このインフルエンザは、1918年3月にアメリカ(カンザス州)の陸軍基地で最初のクラスターが確認されている。

ただし、本当の発生源はアメリカではない可能性もあり、今も発生源についての定説はない。そして、最初はこのクラスター発生は、特別な事態とは認識されなかった。

しかし、その後アメリカでは各地で、おもに軍の基地、工場、学校などでインフルエンザが蔓延しはじめた。そして米軍が第一次大戦の主戦場であるヨーロッパの戦線に派遣されたことなどによって、1918年春のうちにはヨーロッパにも急速な感染拡大が起こった。これが「第1波」とされる。

その後秋以降には数か月のうちに、日本を含む全世界的なパンデミックとなった。これが「第2波」で、その最中の11月に第一次世界大戦は終わった。そして、1919年前半からは「第3波」が世界を襲い、1920年まで流行が続いた。

「スペイン・インフルエンザ」といわれるのは、スペインが発生源だったせいではない。戦争中だった当時、各国が感染状況を隠そうとしたなか、スペインは大戦に参加しない中立国だったので、感染状況をオープンにした。そこで、このインフルエンザとスペインの名が結びついてしまったのだ。

 

初期対応が遅れた日本政府 

スペイン・インフルエンザに対し日本では、海外で先に起こっていた流行について情報の不足や分析の誤りがあり、初期の対応が後手にまわった。政府として多少とも動き出したのは感染がすっかり広がってからだった。

速水さんの著書では、こう述べている。

“…流行に対し、管轄する内務省の対策はかなり遅れた。大正七(一九一八)年春の流行に対しては何もしなかった。また、秋の流行に際しても、初期には何の対策もとらなかった” 

“すでに九月初旬にはアメリカやヨーロッパで通常の流行病とは違う正体不明の病気が流行り始めていたこと、大西洋を渡って欧州戦線に向かったアメリカの若い兵士たちが次々に倒れるようになっていたこと、それが「スペイン・インフルエンザ」と名付けられていたことも当然知っていたはずであるが、何の公式発表もなかった”
(『大正デモグラフィ』146㌻)

なお、内務省とは、警察・地方行政、国民生活全般を所管する、明治から昭和戦前期にあった省庁である。今でいえば警察庁・総務省・厚生労働省・国土交通省の業務を兼ねたような組織である。広汎な権限を持つ組織だったが、このように幅広く業務を所管する省庁の存在は、当時の行政(とくに国民生活にかかわる分野)が未発達だったことを示している。

政府=内務省が、外務省や陸軍に促され、はじめて各府県に注意喚起の通達を出したのは、1918年(大正7)の10月のことだった。しかし、具体的な方策は何も示されない。すでに国内では流行が始まっていた。

1919年(大正8)2月、内務省は各府県に前よりはいくらか踏み込んだ通達を出した。

この通達では「民衆の集合を避ける」「マスク着用を促す」「うがい励行」「異常を感じたら医師の診療を」「患者をなるべく隔離」「飛沫によって感染するので、それを避ける」といったことが述べられている。東京市長もこの通達の直後に、同じ主旨のメッセージを出している。

しかしこの頃東京府では、感染による1日の死亡者数が、百人単位に達していた。各病院は満員になり、新たな「入院は皆お断り」になったと、当時の新聞は報じている。この事態に警視庁当局は「呆然として居る」と報じる新聞もあった。

東京府もこの頃からようやく本格的に動き出した。市役所内に医師(校医)を常駐させ学校の感染対策を統一的に行おうとしたり、医者に行くお金のない人たちに無料の診療券を渡したり、薬を配布したりした。ただし速水さんはこれらの施策について“どれほど効果があったのかは疑問”としている(同書163㌻)。

そして、この時期から感染状況に応じて学校の休校措置もとられるようになった。

政府・当局は何もしなかったわけでなく、たしかに動き出した。しかし、これは東京で1日に百人単位の死者が出るようになってからのことなのだ。

 

「後流行」における日本政府の対応 

そして、1918年(大正7)秋に始まったこのパンデミックは、全国で猛威を振るったあと、1919年(大正8)春には終息した。その半年ほどのあいだに全国で26万人余りが亡くなった。この流行はのちに「前流行」と呼ばれた。

というのは、このあとに日本における第2波といえる「後流行」があったからだ。1919年(大正8)12月頃から1920年(大正9)春まで、再び日本全国でスペイン・インフルエンザが猛威を振るった。

東京市では1月の下旬に、感染による死者が1日200~300人に達し、多い日は前流行のときのピークを上回った。全国的にみた感染拡大のピークは、1月下旬から3月までだった。その後は下火となり、6月には終息した。

「後流行」での死亡者は19万人で、「前流行」と合わせて合計45万人が亡くなった(これは速水さんによる推計。内務省の統計による38万5千人よりやや多い)。

この「後流行」では、政府は「前流行」のときよりは早めの対応を行った。10月には海外で再び感染拡大が始まったことをふまえ、内務省の衛生局長から各府県あてに「マスク着用」「マスク非着用者の劇場・映画館・交通機関利用の禁止」「患者の早期隔離」を実施するように指示している。ただ、患者の隔離は、欧米ではかなり強力に行われたが、日本では徹底されなかったようだ。

 

金を出し渋る政府 

「前流行」のときよりも、積極的に動くようになった政府・当局。しかし、一連のパンデミックをとおして、国家予算からのインフルエンザ対策のための特別な支出は皆無だった。

そのかわり、政府が関与する公益法人(恩賜財団済生会)から、各都市への医療の支援金を増額するなどの措置があっただけだった。

府県から内務省に対する、この病気の“予防のための国庫補助は出るのか、という問い合わせには、出ない旨の返事が出された。つまり、予防・治療事業は、恩賜金と道府県の費用で行わなければならなかった”のである。(『大正デモグラフィ』150~151㌻)

政府はインフルエンザ対策に、金を出し渋っていた。

速水さんも指摘するように、当時の政府は、インフルエンザ以外にも内外にさまざまな重たい案件をかかえていた。第一次世界大戦にかかわる国際情勢、日本軍のシベリアへの出兵、小作争議や労働運動の激化、植民地だった朝鮮の独立運動等々。また、当時の日本経済は第一次大戦の戦争特需による好景気が、終戦で後退しつつあった。

そして当時の原敬首相(はらたかし、首相在任1918~1921)は、鉄道路線の拡充など、経済的な開発をすすめることには熱心で手腕を発揮したが、公衆衛生のような社会政策には関心が薄かったようだ。

それは原首相個人の資質ではあるが、そのようなリーダーを当時の社会が生み出したという面がより大きいだろう。

 

社会政策に冷淡だった明治・大正の政府 

そもそも、社会政策に関心が薄かったのは、原首相だけではない。明治から昭和戦前期の政府は、公衆衛生、医療、福祉、労働などの、今の厚生労働省が所管するような分野には冷淡だった。そんな分野に金を使ったら財政がもたないと、たいていの政治家や官僚は心底思っていた。

たとえば、大正時代の当時、貧しい人の救済制度としてあったのは、1874年(明治7)につくられた、「恤救(じゅっきゅう)規則」という法に基づく「賑恤救済(しんじゅつきゅうさい)」の制度だった。賑恤とは、施しを恵む、憐れんで救うという意味だ。この制度は救済の対象を、独身の幼児または老人の極貧者のみとするなど、対象をきわめてきびしく限定しようとするもので、利用できる人は限られた(大正時代では年間で1万人以下)。

こうした救貧制度のあり方には、政府の財政的な事情のほか、「たやすく恩恵を与えると、国民が甘えて怠惰になってしまうので良くない」という思想もつよく作用していた。この「困窮者を甘やかしてはいけない」という思想は、リーダーやエリートにだけでなく、国民の各層にあった。(この点についてはたとえば、紀田順一郎『東京の下層社会』、松沢裕作『生きづらい明治社会』などを参照した)

このような救貧の制度が改められたのは、1929年(昭和4)に制定され、1932年(昭和7)に施行された「救護法」によってである。救護法による支援の対象者は、施行された年には15万人になった。これは、今の尺度でみれば「あまりにひどい状態からいくらかは改善された」ということである。

保健所は、1937年(昭和12)に「保健所法」によって設置が始まった。1938年(昭和13)には内務省衛生局と外局社会局を合わせて、厚生省が設置された。

大正時代の当時、「国際社会で勝ち残る」「経済を拡大し回していく」ことで、主流派の日本人の頭のなかはいっぱいだった。それは同時に反体制の運動をつぶし、社会的な弱者を無視して、目指す方向にすすんでいくことでもあった(ただ、これは大正にかぎったことではないかもしれない)。

そういう時代の雰囲気のなかで、リーダーやかなりの国民にとって、インフルエンザのことはやや軽い問題として(誤って)とらえられたのかもしれない。

だがそれにしても、である。

速水さんも、“それにしても、世界を震撼させた感染症の予防や治療に、国家からは一銭も出なかった、というのは、驚くべきことである”と述べている(『大正デモグラフィ』152㌻)。私も知って、おどろいた。

 

行動規制には消極的、呼びかけは行う 

そして、国民の行動規制についても、政府は消極的だった。劇場、デパートのような街中で人の集まる場所の閉鎖措置は(植民地だった中国の関東州を除き)とられなかった。規制は「マスク着用でないと利用禁止」というところまで。一方欧米では、感染者の隔離や行動規制は、少なくとも日本よりは積極的に行われた。

その一方、「後流行」の際、政府は予防キャンペーンとして、イラストつきのポスターを8種類もつくった。そして「飛沫を防ぐ」「マスク着用」「うがい・手洗い」といったことを訴えている。

これらに加え「人との距離を取る」「人ごみを避ける」といった、今のコロナと同じ感染防止の基本が、政府や自治体のほか、医学界、新聞などからくりかえし発信されていた。政府・当局による「呼びかけ」は、いろいろ行われていたのだ。

ただし、この時代にはまだインフルエンザの原因がウイルスだとは知られていない。当時は、細菌学はそれなりに発達していたが、ウイルスという、細菌よりもはるかに微小な生命の一種はまだ発見されていない。しかし、この病気がおもに飛沫感染で広がる伝染病だということは、経験的にほぼわかっていた。

ところで当時、マスクはどの程度普及していたのだろうか? 当時の福井県の警察による調査が残っていて、それによれば“各警察署管内で、人口に対するマスク所持者の率は、最高で六五・九パーセント(小浜署)、最低で二〇・九パーセント(織田分署)で、全県では三六・七パーセントに過ぎなかった”という(『大正デモグラフィ』152㌻)。しかも、布やガーゼの、マスクとしては性能の低いものしか当時はなかったのだ。

 

効き目のないワクチン 

そして、ポスターなどによる呼びかけのほかに、当局がかなり積極的に取りくんだことがもうひとつある。それは、ワクチン接種である。上記の内務省によるポスターにも、ワクチン接種を推奨するバージョンがある。

このワクチンは、当時の医学なりに、この病気の原因について仮説を立てて開発したものだ。

その仮説は北里研究所が主導したもので、この病気を「プファイフェル菌」という細菌を原因としており、今からみればまったく誤ったものだった。だからワクチンの効果は期待できない(ただし、プファイフェル菌単独ではない混合ワクチンもつくられ、それについてはインフルエンザの合併症として生じる肺炎には多少の効果があったかもしれない)。

内務省は、こうしたワクチンに期待を抱いた。1920年(大正9)1月、内務省の“衛生局長は、北里柴三郎大日本医師会長に、予防注射を推奨することを切望する旨の文書を発している”という。(『大正デモグラフィ』148㌻)

そして当局は、望みをかけたワクチンを当時の日本の人口5500万人の9%にあたる460万人余りに接種した。低所得者への無料接種や、農村での接種もある程度は行われた。当時の行政組織や医療体制の発達レベルからすれば、相当にがんばったといえるだろう。

そして当時は、現代のような厳格な治験を経ずに、効果のあやしい「試作品」を何百万人にも接種するという、今からみれば信じられないようなことが行われていたのである。

一方、有効な手だてがないにもかかわらず、治療に奮闘した町のドクターたちがいた。同書では、栃木県矢板町の五味淵伊治郎という医師が、自転車で地域を治療に回って残した記録を紹介している。病気の正体もわからないなか、医師にできることはほんとうに限られていたのに、それでも懸命に患者を診ようとしたのである。

 

変わっていないリーダーの資質 

どうだろうか。大正時代のスペイン・インフルエンザにおける日本政府の対応をみていると、今のコロナ禍の日本で見聞きするのと似た話がつぎからつぎへと出てくる。

令和の日本政府が新型コロナの問題にかんしてこの1年半余り行ってきたことは、大正時代と似た基本姿勢で、それを現代のいろいろと進歩した時代なりに行っている感じがしないだろうか。

未知の問題に対し、政府の腰が重い。医療や感染対策に対し予算をつぎ込むことに消極的。国民の行動規制に対しても消極的。政府中枢の関心は「経済を回す」ことや国内の政局、国際情勢に傾きがち。一方で、ワクチンという対策には、ことのほか熱心。また、国民への呼びかけにも、かなり熱心。

一方で、鉄道・通信などの社会生活を支える現場は、感染拡大で人手不足になったものの、どうにかやりくりして一定の運営を続けた。地域の医療現場には、使命感で必死に病気と闘った人たちがいた…

もちろん、令和の政府は大正時代よりも、はるかに多くの踏み込んだことを行い、一定の成果をあげている。たとえばワクチンは、大正時代のものはまったく効き目がなかったが、令和のワクチンはそうではない(国産ではないが)。

そのほかの行政や医療機関が提供するケアも、大正時代とはくらべものにならないのはもちろんである。

でも、大正と令和のあいだにはやはり共通していることがあるように、私には思える。

それは、「政府としてこの問題に対しできるかぎりのことをしよう」という意思の欠如である。

大正時代も令和の現代も、パンデミックに対応するためのその時代なりの道具や手段があった。しかし、どちらの時代の政府も、出し惜しみをしている感じがしてならない。この手の問題に対し、どうにも能力を発揮しない・しようとしない。アタマや手足の動きが鈍いのだ。

日本のリーダーやエリートは、100年経っても根本のところでは変わっていないのかもしれない。私はコロナ禍が始まった頃は、そんなふうには思っていなかった。しかし、その後のコロナにかかわる経緯と、大正時代のスペイン・インフルエンザの経緯をくらべてみると、変わっていないことにおどろかされる。

 

社会政策的領域(政府による踏み込んだケア)への関心の弱さ 

何が変わっていないのかというと、医療や公衆衛生のような社会政策的な領域への関心の弱さである。

この関心の弱さは、前に「賑恤救済」のところでも述べた、「恩恵をあたえすぎるのは、国民に甘えを生むので良くない」という思想と結びついているのだろう。この思想は、今も保守といわれる政治家(現政権のリーダーはこれだ)のなかに脈々と生きている。菅総理が言うような「まずは自助」ということは、明治の主流派の人びとも言っていた。

政府が国民に行き届いた恩恵、つまり「福祉」や「ケア」を与えることに抑制的な思想が、今のコロナ禍における政府の行動にも影響をあたえていると、私には思える。

その思想では「政府はあまり踏み込んだことをしてはいけない」のである。コロナに対しとくに不安を持つ人たちが求める、検査・医療の大幅な拡充や、さまざまな支援金や、行動規制の徹底のようなことは、どれも「政府による踏み込んだケア」だ。

保守の流れを組むリーダーにとって、たとえパンデミックであっても、深く根をおろした考え方からの劇的な転換は、むずかしいのかもしれない。

いずれにせよ、自分の根幹にある価値観に反することに対し、人は当然に関心が弱くなるだろう。無関心や取り組みの弱さを正当化する報告・情報を、より信頼するようになるだろう。

当然ながら、そのように関心の弱いテーマ(政府による踏み込んだケアの提供)については、系統的に対策を構想するアタマは働かない。つまり、場当たり的になってしまう。

そして、系統だったアプローチの必要性が低い、つまり実務的にめんどうが少ないけど「やっている感」は出せそうな「呼びかけ」には熱心になる。そして、政府の側には「国民も呼びかけさえすれば従ってくれるだろう」という期待が強く、実際にかなり従ってくれるのだ。

また、ほかの感染対策とは比較的独立したかたちで推進可能で、一挙解決的な成果を期待できるかもしれない「ワクチン」に賭ける、ということになる。

おそらく、令和の政府が行ってきたことは、コロナをおおいに心配している人たちとそれに否定的な人たち、どちらにとっても不満なはずだ。

「国民の行動規制」には、それが典型的にあらわれている。おおいに不安な人たちは「もっと踏み込むべきだ」と言い、あまり心配すべきでないという人たちは「こんなのはやり過ぎで有害な規制だ」と言う。政府の規制についての判断に、ベースとなる構想や系統だった方針がなく、場当たり的なのでそうなってしまう。何かをするにしても、あえて不作為を選ぶにしても、そこに本気がこもっていないのである。

そして、100年経ってもリーダーの資質が変わっていないとすれば、私たち一般国民にも、変わっていない、克服できていないことが今もいろいろあるということなのかもしれない。

 

参考文献

 速水さんの著作では『大正デモグラフィ』(デモクラシーではない)のほうが、新書のなかの1章でコンパクトにスペイン・インフルエンザのことを述べているので、全体像をつかみやすい。

じつは『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』は、『大正デモグラフィ』をより詳細な事実やデータで補完するものになっていて、『大正デモグラフィ』にある基本的なことがかならずしも書かれていない。そういう意味でも『大正デモグラフィ』がまずはおすすめ。

  

 

明治・大正の救貧制度、その背景となる社会や思想については、以下をおもに参照した。 

 

 

大正時代の社会全般・原敬について 

  

 

 

スペイン・インフルエンザについて

速水さんの著作のほか、以下の新聞記事と本で基本的な事項を確認

・「忘れられたパンデミック “スペイン”インフルエンザ 上」『日本経済新聞』2020年4月15日朝刊

  

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