そういち総研

世界史をベースに社会の知識をお届け。

古代ギリシア文明入門 そのレベルの高さを知ろう 1・文化的な成果

はじめに 

この記事では、アテネなどのポリス(都市国家)が繁栄した時代の古代ギリシアが生んだ、さまざまな文化的・物質的成果をみわたしていく。

ただし、民主政(民主主義)については、それを主題にした関連記事があるので、そちらをみていただきたい。この記事では、民主政以外のさまざまなことがらについて述べる。全2回で、今回はその第1回。おもに文化的成果について。

 関連記事

 
ここでお伝えしたいのは、古代ギリシア文明のレベルの高さである。

古代ギリシアのポリスが最も繁栄したのは2400年ほど前だが、そのような昔の社会で、私たちが発達した「文明」の構成要素として思い浮かべるもののうち、かなりのものがすでに揃っていたのだ。

たとえば民主主義、スポーツ大会、洗練された文字、哲学と科学、学術研究施設、リアルな芸術表現、読み書きの普及、書籍の出版、劇場と演劇、お金の経済、夜の明かり、ワインの楽しみ、水道トンネル、初期の機械装置…

古代ギリシアのポリスは、こうした事物がはじめて開発されたか、大きく改良されて本格的な普及が始まった場所だ。古代ギリシア以前の社会では、上記のものは存在しないか、きわめて希少だった。

古代ギリシアの文明は、「文明の元祖」「最初の高度文明」といってもいいくらいである。

そのような、世界史における古代ギリシアの重要性は、近年は忘れられがちだ。教科書などの記述も、そのすごさが今ひとつ伝わらない。

古代ギリシアを高く評価するのは、今どきの知識人のあいだでは流行らない。近年は「古代ギリシア礼賛は、ヨーロッパ中心主義的な偏見によるもので、さまざまな文化の多様性を認める多文化主義の価値観にそぐわない」とされる傾向が強いのである。

しかし、古代ギリシアのさまざまな遺産(民主主義も含めて)を知らずして世界史は語れない。この記事を読めば、それを納得していただけるはずだ。

f:id:souichisan:20180902170523j:plain


目 次

 
ポリスの成立から繁栄へ
 

ギリシアでは紀元前700年代から、「ポリス」といわれる、都市を中心とする国――都市国家が数多く成立していった。

その中心はギリシア本土だったが、やや遅れてアナトリア(今のトルコ)西岸やイタリア半島南部などの周辺部にも、おもにギリシア本土からの移住者による「植民市」のポリスがつくられた。

何百というポリスが成立し、それぞれは政治的に独立していたが、古代ギリシア語などの文化を共有していた。

伝承によれば、紀元前776年には古代オリンピア競技が始まった。このイベントは、ギリシア南部のエーリス地方・オリンピアで4年に1回、ゼウス神(ギリシアの多神教のメインの神)を祀る大祭のときに行われ、さまざまなポリスが参加した。これは、人類史上の初めての大規模スポーツ大会といえる。

それとほぼ同時期に、古代ギリシアを代表する重要な文学作品であるホメロスの叙事詩(「イリアス」と「オデッセイ」)も成立している。ポリスの時代になってからギリシアは急速に台頭し、繁栄に向かっていった。

 

西アジアからの影響 

そして、シリア・パレスティナを拠点とするフェニキア人の文字を元にして、紀元前800年頃には新たな文字もつくられた。古代ギリシア文字である。

この文字は、のちのヨーロッパのアルファベットの原型となった。ギリシア文字は、フェニキア文字を「そっくり真似た」といっていいものだ。しかし、フェニキア文字が子音をあらわすだけだったのに対し、ギリシア文字では一部の文字で母音をあらわすようにするといった工夫も施されている。

フェニキア人は、ギリシア人に先行して繁栄していた商業民族である。当時のフェニキア人は、シドン、ティルスといった地中海沿岸の都市のほか、北アフリカ(地中海西部)のカルタゴなどをおもな根拠地として、地中海の広い範囲で活動していた。

ギリシア人はフェニキア人と接してさまざまな影響を受けたのである。また、ギリシア人は、地中海を渡って南側のエジプトの文化や技術からもさまざまな影響を受けた。

なお、フェニキア人やエジプト人が国家を築いた、今のエジプト・シリア・北アフリカなどの地域(ほかに今のトルコやイランも含む)は、世界史の地域区分では「西アジア」と呼ぶことがある。

西アジアでは、ギリシアよりもはるかに昔から、とくに最も早いメソポタミアとエジプトでは紀元前3000年頃には大規模な建造物を備えた文明が栄えるようになっていた。ギリシア人は、先行する文明地帯の西アジアから影響を受けて、文明を発展させたのである。

関連記事 


 高度の哲学・科学 

ポリスが最も繁栄したのは「古典期」といわれる、紀元前400~300年代のことである。当時のギリシアでは、これまで世界のどこにもなかったような、高度の文化が生まれた。

そのうちの「民主政(民主主義)」と並ぶ代表的なものに、学問(哲学や科学)がある。それまでの西アジアにも相当に発達した学問はあり、繁栄が始まった頃のギリシア人はそれにおおいに学んだ。しかしギリシア人の学問にはそれをはるかに上まわる論理性や系統性があった。

古代ギリシアを代表する学者であるプラトンやアリストテレスは、紀元前400年頃から300年代のアテネで活動し、それぞれが現代の書籍に換算して数千~1万ページに相当する学術的著作を残した。つまり、1冊数百ページのかなり分厚い本で、全20巻前後にはなる分量だ。それを、2400年前の著者が残したのである。

しかもこれは「現代にまで残っているもの」に限っての分量であり、失われた文書も多くあったようだ。

アリストテレスは論理学・政治学・経済学・心理学・力学・天文学・気象学・生物学・生理学等々、きわめて幅広い分野について研究を行った。「森羅万象」を研究したといってもいい。そして、各分野のさまざまな現象を系統的に説明する一般的な理論を構築しようとした。

f:id:souichisan:20210828205130j:plain

岩波書店のアリストテレス全集


一連の研究のなかで、500種類もの生物を観察あるいは解剖して分類を論じたり、政治学的な研究として160ほどのギリシアのポリスの国家体制について調査を行ったりもしている。「クジラは胎生である」ことも解明したし、「大地は球体である」ということも、現代からみても妥当な根拠をあげながら、論じている。そのような研究でアリストテレスは弟子たちとともに、組織的にデータを収集した。

晩年(50歳頃以降)のアリストテレスは、権力者のパトロン(有名なアレクサンドロス大王)から支援を受けて、研究所を兼ねた学園を主宰していた。学園は、アテネのリュケイオンという地区にあったので、「リュケイオン」と呼ばれた。

そのような本格的な学術研究を行った学者が、今から2300年余り前のギリシアにはいたのである。

 

文芸と美術 

学問だけではなく、演劇や詩などの文芸や、彫刻などの美術においても、ギリシア人は後世に大きな影響をあたえた。ルネサンスのヨーロッパで文人や芸術家が、偉大な古典としてあがめた作品が生み出されたのである。ギリシア人は演劇が好きで、どのポリスにも野外型の劇場がつくられ、さまざまな作品が上演された。

とくに古代ギリシアの彫刻は、かつてない新しい文化が生まれたことを、視覚的にわかりやすく示している。あのように写実的に生き生きと人間を描いた彫刻は、西アジアにはなかったものだ。

ただし、そのような彫刻も、ギリシア人が何もないところから生み出したものではない。

それは紀元前600~500年代の、ギリシア彫刻の初期にあたる「アルカイック期」の作品をみればわかる。アルカイック期に多くつくられたクロース像(「青年像」の意)というギリシア彫刻は、エジプトの影響が明らかである。予備知識のない人がみれば「これがギリシア彫刻?」と思うはずだ。私たちが一般にイメージするギリシア彫刻は、紀元前400年代の「古典期」以降のものだ。

ギリシア人は、彫刻についてもエジプト人やフェニキア人のような西アジアのから基礎を学んだ。そしてそこから独自のものを発展させていった。さまざまな領域で、それを行ったのである。

f:id:souichisan:20210829064101j:plain

ギリシアのクロース像

f:id:souichisan:20210829064229p:plain

エジプト彫刻

 

西アジアの遺産に学ぶ 

ギリシア人が先行する西アジアに影響を受けながらも、それを超える文化を生み出せたのはなぜか? 明確な説明はむずかしい。ただ、台頭しつつあった頃のギリシアが、西アジアのさまざまな遺産を、バランスよく包括的に学び取ったことは、重要だったはずだ。

ギリシア人は、都市文明が形成される初期の時代に、最も近いアナトリア(今のトルコ)と、その南側のシリア・パレスティナから影響を受けた。のちにポリスの形成期には、シリア・パレスティナのフェニキア人からとくに文字や航海や商売を学んだ。エジプトからは高度の学問や芸術などを学んだ。傭兵として軍事や国家の組織も学んだことだろう。等身大を超える大型の青銅像の製造技術は、エジプトから伝わった。ギリシアの建築は、エジプトの神殿から影響を受けている。

そのように西アジアの遺産のさまざまな側面を学ぶことが可能な「となり」の位置に、ギリシアはあった。そして、商人や傭兵や留学生として西アジアの各地に行くなどして、先行する文明を吸収したのである。

一般にきわめて創造的だとされる古代ギリシア人でさえ、こうなのだ。世界史上のほかの有力な民族も、同じことだろう。つまり、まったくオリジナルの文明などあり得ないのである。

 

パピルスの使用 

古典期の古代ギリシアでは、文書や読み書きがかつてないレベルで普及した。

文書はおもにパピルスに書かれた。パピルスは「パピルス草」という水草を薄く切ってタテヨコに貼り合わせてつくる。紙に似ているが、紙よりはかさばるし、折ったり綴じたりするための丈夫さが足りない。そこで、まとまった文書はいくつものシートを糊で貼り合わせて巻物にした。

f:id:souichisan:20210829064333j:plain

パピルスの巻物

パピルス草はエジプトとその周辺でしか育たないため、パピルスはおもにエジプトの特産品だった。ギリシア人はこれを大量に輸入して、エジプト人以上に用いた。おそくとも紀元前490年頃までにはアテネでパピルスが使われていたことがわかっているが、さらに以前にも使われていたとみられる。

ただし、パピルスは相当に高価で、紀元前400年頃の会計記録によると、パピルスの巻物1本の値段が都市の労働者の3日~1週間分の賃金に相当した。

 

書籍の出版・販売 

紀元前400年代のアテネでは、書籍の出版や販売も行われていた。その頃から文献に「書籍商」にあたる言葉が登場するようになる。文芸、実用、学術などさまざまな分野の本が出版された。どれもパピルスの巻物である。

印刷の技術はまだなかったので、手書きで元の本を写し取った「写本」だった。そのような写本をつくる工房や書籍商が存在した。おおぜいの筆写の職人をかかえる工房もあった。

出版の事業は、まず最大のポリスであるアテネでさかんになり、のちにほかのポリスにも広まった。本を読むことができる人びとが、ある程度まとまった層として、当時のギリシアには存在していたのである。

たとえば著名な喜劇作家アリストファネスによる紀元前410年代の戯曲「鳥」に、アテネ市民が朝食後すぐに本屋にかけつけ、新刊を手にして、仲間どうしでその書物について議論するシーンがある。本屋で読書会をしていたということだ。

 

読み書きの普及 

では、当時(紀元前400年代)のギリシアの識字率はどうだったのか。奴隷や女性を含む全人口の5~10%が、読み書きができたという推定もある。だが根拠となる材料が乏しく、明確にはわからない。

しかし、少なくとも特権的な恵まれた人びとのあいだでは、読み書きはあたりまえになっていた。

その後、特権階級における読み書きの普及は、文明社会では一般的なものになっていった。つまり、古代ギリシア以降の世界各地のおもな文明国では――例えばインドでも中国でも――立派な詩などの名文を書けるかどうかはともかく、特権階級の人間にとって読み書きができること自体はあたり前になった。

一方、古代ギリシア以前の西アジアの文明では、読み書きは専門家の特殊技能であり、国王などの権力者ができないことも多かった。紀元前600年代のアッシリア帝国の大王・アッシュールバニパルは、自分の読み書きの能力を誇る記述を残している。その頃の西アジアでは読み書きができる権力者は少数派だったのだろう。

ギリシアでも、紀元前500年代までは「代書屋」という読み書きの専門職が存在した。しかし、紀元前400年代には都市の職人などの幅広い層にまで読み書きが広がった。つまり、古代ギリシアでは歴史上かつてないほど読み書きが普及したのである。

なお、エジプトとの貿易が盛んになってパピルスが普及する以前は、ギリシアでは、羊皮紙の巻物が用いられていた。

たとえば紀元前600年代のギリシアの文献に、そのような巻物についての言及がある。当時のシリア・パレスティナでは、羊皮紙の巻物が書物の一般的なかたちだったので、ギリシア人はそれを取り入れたのである。ただし、古典期以降のギリシア人がおもな媒体として用いたのは、羊皮紙よりもパピルスのほうだった。

(第1回終わり、つづく)

参考文献については、第2回で述べる
 
この記事の続編(第2回)


古代ギリシアの民主政について 

 
アリストテレスについて


世界史における地域区分については、この記事を 

 
このブログについて