アリストテレスについての入門的な解説は、素材が素材だけにやはり読みにくいものが多いです。この記事は「読みやすく、しかしそれなりの情報を盛り込んで、アリストテレスという巨人の概要をシンプルに伝える」ことを、めざしています。
アリストテレス(前384~前322)は、古代ギリシアの大哲学者である。一般にプラトン(前427~前347)と並んでギリシアを代表する学者とされる。
彼の残した学問的成果は、ローマ帝国やイスラムの帝国、中世ヨーロッパにも受け継がれて、近代まで2000年近くのあいだ権威であり続けた。
目 次
- 生い立ち
- アテネのアカデメイアに入門
- とにかく本を読む人
- プラトンへの批判
- アカデメイアを去る
- 遍歴のはじまり
- 海辺で生物を研究する
- 「生の事実」から幅広い学問をつくる
- 「世界の全体像」を描く
- アリストテレスの(当然の)限界
- アレクサンドロスの家庭教師
- リュケイオンの時代
- アレクサンドロスの死と最晩年
生い立ち
アリストテレスは、紀元前384年にギリシア北部の都市スタゲイロスに、マケドニア王の侍医を勤めた父ニコマコスの子として生まれた。母親も恵まれた家の出身だった。
スタゲイロスの町はギリシアの北側にあるマケドニア王国の近隣で、その支配下にあった。そしてイオニア人という、ギリシア人の一派が築いた都市だった。イオニア人は、アナトリア(今のトルコ)北西部やギリシア中部をおもな居住地としていた。
アリストテレスは、イオニア系ギリシア人ということだ。
おそらく、少年時代のアリストテレスは、父の医療や手術を身近にみていたことだろう。また、マケドニアの王宮にも、父に連れられて出入りしたはずだ。このことは、彼ののちのキャリアに影響をあたえることになる。とにかく、エリート家庭で恵まれた子ども時代を過ごした。
ただ、父ニコマコスは早死にしてしまう。アリストテレスは、親戚の保護のもとに育った。親戚は良い教育を彼に与えてくれた。そして前367年頃、17歳か18歳のときには、ギリシア最大の都市国家(ポリス)で、文化の中心だったアテネ(アテナイ)へ出て学問をすることになった。
アテネのアカデメイアに入門
アテネは、紀元前400年代にはギリシアの中心としておおいに繁栄するようになり、アリストテレスの時代(紀元前300年代後半)には、政治的には衰退や混乱はあったが、その文化は最高潮に達していた。
古代ギリシアの哲学の歴史は、紀元前600年頃のタレスなどに始まるとされる。タレスの頃からアリストテレスの時代までの200数十年のあいだに、最初は素朴なものだった哲学は急速に発展し、さまざまな遺産が集大成されつつあった。
古代ギリシアの哲学における最大の巨匠であるプラトンやアリストテレスは、そのような「最初の集大成」の時代に登場したスターだ。
田舎町から大都会アテネへ出てきたアリストテレス少年は、プラトンが主宰するアカデメイア(アカデミー)学院の門下生となった。
プラトンは当時60歳頃で、名高い巨匠として円熟期を迎えていた。当時のギリシアには公的な学校はなく、学者や教師が主宰する私塾があるだけだった。アカデメイアは、そのような私塾の最高峰だ。
その頃のアテネでは、イソクラテスという弁論術に長けた学者による修辞学校がたいへんな勢いだった。弁論術は当時のギリシアでは、立身出世のためには必須のスキルだった。
しかしアリストテレスは、出世志向の実学コースには目もくれず、アカデメイアをめざしたようである。
彼がやりたかったのは、プラトン学派が行っているような、この世界の原理や真理の探究だったということだ。それが、17歳の頃すでにはっきりしていた。こういうコースの選択は、もしも父親が生きていたら「ダメだ、お前は医者になるんだ」と反対されたにちがいない。
アリストテレスは、入学以来プラトンが死ぬまでの20年間、アカデメイアの学徒であり続けた。最初は一学生だったが、やがて教授をしたり執筆したりする立場になっていった。
とにかく本を読む人
若いときからの彼の学び方の特徴は、「とにかく本を読む」ということだ。
これは今の学問の世界なら普通のことだろう。ところが当時は、学問のなかで「本を読む」ことの比重は今よりもずっと低かった。人が文章を読み上げるのを聴いたり、対話したりといった「耳からの学問」の比重が高かったのだ。
しかしアリストテレスはおそらく、短時間でより多くの情報に触れることのできる、本の黙読ということを好んだのだろう。それは当時、やや独特の志向だった。
師匠のプラトンは、アリストテレスの住居を「読書家の家」と呼んだという。「とにかく本が好き」と評したのだ。そこには「ちょっと変わった奴」と揶揄するニュアンスも込められていた。また、あまりにも熱心に学問にはげむので、プラトンは「クセノクラテス(おもな弟子の1人)には拍車が要るが、アリストテレスには手綱が要る」とも言っている。(山本光雄『アリストテレス』岩波新書、3~4㌻)
なお、当時のギリシアの本は、パピルスの巻物という、古代の西アジア(中東)や地中海世界に独特のスタイルの書物である。若い頃のアリストテレスは、アカデメイアの書庫でパピルスの巻物をしばしば読みふけったにちがいない。
プラトンへの批判
学者として成長するにつれてアリストテレスは、師匠のプラトンの説に批判的になっていった。
プラトンの学説の柱は、イデア論というものだ。その説によれば、万物にはそれぞれに、その本質を体現した理想的で不変の「イデア」という対応物が存在する。この世界はイデアの影のようなものだ。つまりこの世界のほかに、イデアによって構成される、真実の・完全な世界が存在しているのだ。
これは、この世界にある個別具体的なものごとの背後にある、共通性や本質を論理的に探究していった結果、たどりついた考えである。
この世界が多様でありながら、一方で共通性が存在するのは、イデアによって構成される本質的な世界が、根源的なものとして日常の世界の背後にあるからだ。そう考えれば説明できる、というわけだ。
こういう考え方は、神の世界を信じる宗教的な発想を、哲学的に表現したものといえる。
古代ギリシアの頃にはまだキリスト教はなかったが、ギリシア人固有の多神教は深く根をおろしていた。そのように宗教が有力な社会では、イデア論の発想は出てきて当然だったのだろう。イデア論は「論理的に洗練された神がかり」だった。
しかしアリストテレスは、この世界の事物とは別にイデアなどというものがあるのではない、という立場だった。共通性や本質は、それぞれの事物のなかに存在する性質を、人間が抽象というアタマの働きによって認識したものであると。
イデアなどというものを想定したって、この世界の現実は何もわからない。真理をきわめるには、この世界の具体的な事実に分け入っていくしかないではないか。
そして、プラトン学派の人びとは、あまりにも神がかり的で、頭の中だけで理論を構築しようとする思弁的な傾向が強すぎる。
以上のようにアリストテレスは考えたのだ。
アリストテレスがこのように考えた背景には、彼の出自であるイオニア系の学問文化があるかもしれない。
イオニアには、知覚可能な自然現象を重視して世界の根源を追究する「自然学」の伝統があった。あるいは、医師という現実的・実務的にものごとに対処する専門家の子弟だったことも関係しているかもしれない。しかし、はっきりしたことはわからない。
アカデメイアを去る
そういう反プラトン主義であっても、アリストテレスはプラトンに対し弟子としての忠義は尽くした。
彼が若い頃から、プラトンによる、緻密な論理で世界の原理を説明しようとする学の世界に魅せられていたのは確かで、学の巨匠としてのプラトンへの尊敬も本物だった。だがしかし…ということだ。
アリストテレスの後の著作(『ニコマコス倫理学』)に、「プラトンは愛すべき友だ、しかしより以上に愛すべきは真理」という有名な言葉がある。これが、彼の信条でありスタンスだった。
そして、意見の相違はあっても、「学徒たちは互いに対等な立場で自由に議論すべき」という伝統がギリシアの学問の世界にはあった。とくにアカデメイアはそうだったのだろう。アリストテレスが師匠やプラトン学派の仲間から異端として追放されるようなことはなかった。いろいろな対立はあっただろうが、とにかく彼は20年もアカデメイアにいたのだ。
これは、2300年以上前の大昔の人間社会としては、驚くべきことだと思う。こういう懐の深さが、当時のギリシアの社会や文化のすごいところだ。そして、こうした社会のあり方こそ、学問が発展する原動力だった。
しかし前347年、アリストテレスが37歳の頃に、プラトンが80歳ほどで亡くなると、彼はついにアカデメイアを辞めてアテネを去った。
これについて、「アリストテレスは、つぎの学頭(学院長)の候補の1人だったが、後継争いに敗れたから去ったのだ」という説もある。ただ、彼がもしも学頭としてアカデメイアに残ったとしても、他の学徒たちとの考えのちがいから、結局去ることになったのではないか。
遍歴のはじまり
その後アリストテレスは、いくつかの場所を転々としながら、研究生活を続けた。
最初に移ったのはアナトリアのアッソスという都市で、この土地を支配する有力者(プラトン門下でもあった)の招きによるものだった。そして、この有力者の姪で養女であった女性と結婚している。ただし、この女性は結婚後数年で亡くなり、その後は新たな内縁の妻と暮らした。
なお、彼には自分の父の名をとったニコマコスという息子がいたが、おそらくは後の妻とのあいだの子どもだった。
前述の有力者の支援で、アリストテレスはアテネ時代の学友テオフラストス(前372/369~前288/285)らとともに、アッソスにアカデメイアの分派的な学院をつくり、論理学や自然学などの講義や研究を行った。
テオフラストスは、その後もアリストテレスの第一の弟子として行動をともにする。「植物学の祖」として科学史に名を残した学者でもある。
しかし、アッソスにやって来て3年後に、支援者だった有力者が不慮の死を遂げてしまった。そこで、今度はテオフラストスの故郷である、地中海のレスボス島のミュティレネに移った。
海辺で生物を研究する
ミュティレネ時代の彼は、海岸で魚介類などの海洋生物の研究に熱中した。
アリストテレスは、最初の偉大な生物学者といえる。彼が残した自然科学系の著作で現在伝わっているもののうち、最も多くを占めるのは生物学に関するものである。
彼の著作全体で登場する生物は500種余りに及び、それらについてさまざまな観察や解剖を行っている。
たとえば、彼はクジラが胎生であることを解明した。発生学の元祖のような研究も行っている。また、生物分類学の元祖でもあった。
たとえばアリストテレスはさまざまな生物を理論的に整理・分類しようとして、「有血動物」「無血動物」というカテゴリーを提唱している。「有血」「無血」というのはヘモグロビンを含む赤い血液の有無であり、今の知識でいえば有血動物=せきつい動物、無血動物=無せきつい動物ということになる。
また、アリストテレスは「同じ場所を占め、同じものを食べて生きる動物どうしの闘い」についても例をあげて述べている。これは生態学における「生態学的地位」の考え方だ。
何の先行研究もないところから、このような、今の科学知識にも通じる概念をあみ出したというのがアリストテレスのすごさだ。
彼以前には、広汎な生物の知識を追求した学者などいなかった。彼は海岸でさまざまな生物を拾い集めたり、ときには漁師に海の生き物の生態について聞いたりしているが、それは哲学者としては一般的なことではなかった。
しかし、彼は世界のさまざまなことについて知りたかった。生物界は、この世界のきわめて重要な構成要素のひとつなので外せない。
生物について知るには、近現代の学者なら、生物の専門研究者が書いた著作を読めばいい。しかし、アリストテレスの時代にはそんなものはまったく存在しなかった。
だから、生物について知るために、彼はまず海岸へ行かなければならなかったのだ。
「生の事実」から幅広い学問をつくる
アリストテレスは、きわめて広い範囲の分野について書き残した。論理学、倫理学のようないかにも哲学という分野だけではない。政治学、経済学、心理学のような社会・人文的分野、そして力学、天文学、気象学、生物学、生理学などの自然科学的分野。
現在に伝わる彼の著作の全体は、日本語では岩波書店の『アリストテレス全集』で読むことができる。この全集は(昭和に出た旧版では)、1冊平均500ページほどで全17巻。合計すると約9000ページになる。
そしてこれらの著作のうちのほぼ半数は、自然科学的分野のものである。
全集の各巻のタイトルでいえば「自然学」「天体論/生成消滅論」「気象論/宇宙論」「霊魂論/自然学小論集/気息について」「動物誌」「動物部分論」「動物運動論/動物進行論/動物発生論」「小品州(機械学・植物についてなど)」「問題集(人体その他)」といったものだ。(板倉聖宣『科学者伝記小事典』「アリストテレス」の項による)
岩波書店『アリストテレス全集』
これらの自然科学的な著作のどのテーマについても、アリストテレスには参照できる先行研究など、ほぼなかった。
そこで、海岸に貝を拾いに行くように、生の事実・現象をそれぞれの分野について自分自身で、あるいは弟子を使って集めたのだった。
社会科学的な分野でも、それは同様だった。この「全集」のなかに「アテナイ人の国制」というとくに分厚い巻がある。これは160ほどのポリス(都市国家)について、国家体制や法体系、社会慣習などについて調査した、その報告集である。
自分の政治学を築くために、「海岸で貝を拾う」ように、こういう基礎データを集めたということだ。
「世界の全体像」を描く
しかし、何をめざしてそんなにもいろんなデータを集めようとしたのだろう?
それは、「世界の全体像」を描くためだ。アリストテレスが生涯をかけて追究したのは、この「全体像」ということだった。
世界はさまざまなものごとから成り立っている。人間の精神や社会生活。自然界をみれば物理、天体、気象などがあり、多様な生物の世界がある。
これらのすべてを扱わなければ「全体」にならない。人間のことだけではダメ。物理や天体、あるいは生物だけを究めても足りない。「森羅万象」について調べて理論化していくことが必要なのだ。そうアリストテレスは考え、実行した。
そして、「森羅万象」について知ることで、はじめてそれらを貫く一般的な論理や全体的な構造・関連性を正確に論じることができる、というわけである。
このような世界についての一般論は、彼の著作のなかでは「論理学」や、「形而上学(けいじじょうがく)」などの抽象度の高い哲学的議論の領域でおもに扱われている。
世界についての一般理論を築くなど、専門分化のすすんだ今の学問の世界では、とても考えられない。しかもアリストテレスの場合、「海岸で貝を拾う」ところから、その理論構築に着手したのである。
なんと無謀な。しかし、彼は彼の時代なりのレベルで、それを相当にやり切ったといえる。
だからこそ、のちの時代――ローマ帝国や、中世のイスラムの帝国や近代初頭までのヨーロッパの国ぐにでは、多くの学者がアリストテレスの圧倒的な迫力に魅せられた。
そしてその著作集を「世界について何でも答えを出している本」としてありがたがった。わからないことがあると、「アリストテレスはなんと書いているだろう」と調べて、何か書いてあるとそれで満足する、といったことが知識人の相場になっていった。
彼は敬意をこめて「万学の祖」と言われるようにもなった。あらゆる学問の元祖であると。これは必ずしも誇張ではなかった。
アリストテレスは著書『形而上学』で、「学問は“驚き”から始まる」ということを述べている。
“驚異することによって人間は、今日もそうであるが、あの最初の場合にもあのように、知恵を愛求し[哲学し]始めたのである。ただし、そのはじめには、ごく身近な事柄を不思議としてこれに驚異の念をいだき、それからしだいに少しずつ進んではるかに大きな事象についても疑念をいだくようになったのである”(出隆『アリストテレス哲学入門』62㌻における抄訳)
この「驚き」「驚異」とは、この世界の驚くべき大きさ、多様さ、複雑さ、深さ、美しさ、精緻さ、巧妙さ、一貫性や体系性、相互の関連、等々への感動のことだ。
アリストテレスは、そのような「驚き」を、当時において最大・最高レベルで感じ取った人間だった。いや、史上最高レベルで味わいつくした1人といっていいだろう。
アリストテレスの(当然の)限界
しかし、彼が描き出した「世界の全体像」や、それを構成する各論は、穴だらけで多くの間違いに満ちていた。
ガリレオによって否定される力学運動の理論などは、そのようなアリストテレスの誤謬の代表格だ。そして、アリストテレスはデモクリトス学派の原子論(原子と真空の存在)にも反対の立場だったが、これも大きなまちがいだった。
また彼は「霊魂(精神)は心臓に存在する」などとも主張している。彼に先行するヒポクラテスもプラトンも「精神の座は脳」だと述べているにもかかわらず、である。
この世界の真の全体像を、ひとつの球体にたとえるなら、アリストテレスの描いたのは、実際よりも小さく、でこぼこで歪んだ、穴だらけのきわめて不完全な球体だった。まあ、それは仕方のない、当然の限界だ。
そして、プラトン学派的な神がかりを否定していたのに、結局はこの世の究極的な原因として「不動の動者」という神のような超越的存在を想定したりもしている。
アリストテレスのなかには、やはりどこかにプラトン的な発想が残っていたのかもしれない。
しかし、アリステレスが残した学問的遺産は多くの場合、ガリレオのような後世の意欲的な学者にとって、「これは本当なのか?」と追及したくなるような具体性や明晰性を持っていた。だからこそ、ガリレオはアリストテレスに挑んだ。そして、実験をもとに古代の巨匠のまちがいを明らかにすることができたのである。
つまり、彼の理論は、学の発展に刺激を与えた面が、おおいにあるのだ。
彼の学問は「この世の本体はイデアである」みたいな、つかみどころがなく、実験的に証明も反証もできないものとは、まるでちがうのである。
アテネを離れて遍歴をするなかで、アリストテレスは着実にそのような自分の学問の基礎を築いていった。
アレクサンドロスの家庭教師
そして、ミュティレネに移った翌年の前342年、42歳の頃に大きな転機が訪れる。マケドニア王国のフィリッポス王に招かれて、当時13歳だった王子の教師となったのである。
王子のための学院がつくられ、アリストテレスはその学院長となった。そして少なくとも2年ほどは王子の教育にあたった。
この王子が、のちのアレクサンドロス大王である。この招へいの背景には、仲間による推薦があったが、彼の父がフィリッポスの父王の侍医だったことも作用していたのではないか(また、おそらくフィリッポスも子供時代のアリストテレスを知っていた)。
アリストテレスが、アレクサンドロスにどんな影響を与えたのかは、よくわかっていない。ただ、のちに大遠征の中で、アレクサンドロスは古典の一節をときどき口ずさんでいたというから、それなりの教養を先生から学んだのはたしかのようだ。
しかし、アリストテレスが残した政治学的著作では、彼のいう理想国家とは、あくまでこじんまりとしたポリス(都市国家)だった。さらに、ギリシア人だけがすぐれていて、その他の民族は劣等だとしている。
つまり、この点ではアリストテレスの世界観はきわめて狭いもので、諸民族の文明が融合される世界帝国を築くような発想とは全然ちがっていた。だから、アリストテレスの教育が少なくとも直接的に、「アレクサンドロス大王」を生んだということではないだろう。
なお、もともとマケドニアというのはギリシアの一部ではあったが、アテネなどの中心部からみれば、まるで片田舎だった。
そして、ポリスで暮らした主流のギリシア人とちがって、マケドニア人はかなり広い範囲を支配する「王国」を築いた。この王国は君主が強権で支配する、アテネなどの民主政とは大きく異なる体制だった。その点でもギリシアの主流から外れていた。
しかし、マケドニアは強大化して、フィリッポス王はギリシアのほぼ全体を支配するようになった。前338年、カイロネイアの戦いという重要な合戦で、マケドニア軍はアテネなどのポリス連合軍をうち破った。
全ギリシアの支配者となったマケドニア。しかし、ギリシアに君臨するようになってまもなく、前336年にフィリッポス王は暗殺されてしまった。
これでマケドニアの勢いは衰えるかとも思われた。しかし20歳の王子アレクサンドロスへの権力継承はスムースで、マケドニアのギリシアへの支配は揺らぐことがなかった。
それどころか前334年、アレクサンドロスは東どなりの超大国で、ギリシアの宿敵だったアケメネス朝(ペルシア)への進攻を開始したのだった。「アレクサンドロスの東征」である。これは父の意思を継ぐものでもあった。
ご存知のとおり、その後アレクサンドロスは今のトルコ、イラン、イラク、エジプト、さらには中央アジアの一部などの領域を支配下におく大帝国を築くことになる。
リュケイオンの時代
その一方、フィリッポス死後の前335年、50歳頃のアリストテレスは、マケドニア支配下となったアテネに久しぶりに戻った。アレクサンドロスの庇護のもとでのことだ。
権力をバックに、アリストテレスは、当時も権威を保っていた古巣のアカデメイアで学頭におさまることもできただろう。
しかし、彼は自分の新しい学院をつくって、そこで自分の学をすすめていくことを選んだ。その学院は、設置された場所の守護神にちなんで「リュケイオン」と呼ばれた。校舎は既存の体育施設を流用したものだった。
リュケイオンで、彼は12年にわたって充実した学問研究を淡々と続けた。すぐれた弟子たちが集まった。研究予算も潤沢だった。大王の配下であるアテネの総督が学問に理解があり、さまざまな金銭的支援を与え、便宜をはかってくれた。遠征先の大王の軍隊から、現地で手に入れた珍しい生物の標本が送られてくることもあった。
彼がめざしていた「世界の全体像」を描くためのデータの収集は、当初の個人商店レベルの活動から、当時としては最高レベルの組織的なものへと拡大したのだ。
彼の学問は、この恵まれた環境がなかったら、あそこまでのものにはならなかっただろう。
アレクサンドロスの死と最晩年
しかし、前323年秋にインド方面への遠征から戻ろうとしていたアレクサンドロス大王が病で急死すると、状況が変わった。アテネでは、強大な指導者を失ったマケドニアから独立を取り戻そうとする反マケドニアの機運が高まった。
マケドニアの支援を受けてきたアリストテレスは、アテネで迫害されることを恐れて、母親の出身地であるカルキスという土地に逃れた。
そこで静かに学問生活を送ろうとしたのだが、翌年の前322年に、この地で胃の病のため没したのだった。60代前半(62歳頃)での死だった。
リュケイオンの研究環境がもっと長く続き、長生きできていたら、彼の描く「世界の全体像」の解像レベルは、さらに上がったにちがいない。しかし、それはかなわなかった。
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大きな図書館に行くと、どこかに『アリストテレス全集』があるかもしれない。みつけたらぜひ、全巻の背表紙だけでもじっくり眺めてみて欲しい。
2300年以上前の、日本なら縄文末期か弥生時代の初めに、これだけの学問的著作を残した人間がいたということに、あらためて驚かされるはずだ。
参考文献
昭和の大家による、アリストテレスの著作からの抜粋がメインの「ミニ選集」的な本。彼の生涯や著作・学説についての解説もしっかりある。今回最も多く参照した。「アリストテレスを試しに読んでみたい」ならおすすめ。読みやすいものではないが、「こんな感じか」というのがわかるのが良い。
つぎの3冊は、アリストテレスの生涯、学問的遍歴について知るのに良い。ただ、やはり読みやすいものではない。
科学者・生物学者としての面については、つぎの2冊をおもに参照。
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