はじめに
この世界には「狭間の国」といえる国家が存在します。複数の大国に囲まれ、たえずその勢力争いに巻き込まれてきた国です。
今世界から注目されるウクライナは、典型的な「狭間の国」といえるでしょう。以下、その視点でウクライナの歴史をざっと述べていきます。
目 次
- キエフ・ルーシの成立
- 国家の崩壊~ポーランド・リトアニアの支配
- ロマノフ朝ロシア(ロシア帝国)の支配
- ソ連に組み込まれる
- スターリン時代の苦難
- 第二次世界大戦時のナチスによる占領
- スターリン以後~独立国となった現代まで
- まとめ
キエフ・ルーシの成立
ウクライナの起源は、800年代に成立したキエフ・ルーシという国家です。「ルーシ」とはロシアのことで、スラブ民族(東スラブ)にほぼ該当します。
キエフ・ルーシという国ができたのは、バルカン半島を中心とするビザンツ帝国(東ローマ)の影響を受けた周辺地域でした。ビザンツ帝国は、古代のローマ帝国の東半分が中世においても存続した「生き残ったローマ帝国」といえる国です。
900年代末には、ビザンツが総本山の東方正教(カトリックと並ぶキリスト教の宗派)がキエフ・ルーシの国教となりました。
そしてキエフ・ルーシは、11世紀(1000年代)~1100年代には当時のヨーロッパでは大国のひとつとなったのです。
しかし1200年代半ばには、国内の分裂・対立が起こっていたところにモンゴル帝国が侵入。キエフ・ルーシの国家は崩壊していました。
西暦1000年代末のヨーロッパ
国家の崩壊~ポーランド・リトアニアの支配
その一方、キエフ・ルーシの辺境に興ったモスクワ大公国は、一度はモンゴルに屈服したものの、のちにモンゴルの支配(「タタールのくびき」という)から脱することに成功しました。そしてスラブ民族(ルーシ)の中心勢力となっていったのです。
一方、国家が崩壊したあとのウクライナは、モンゴルの支配とともに、1300年代半ば以降は西側の地域がポーランドの支配を受け、さらに続いてリトアニアからも侵攻を受けました。ポーランドやリトアニアは中世ヨーロッパでは強国の一画を占めていました。
こうしてウクライナは、かなりの部分がポーランドとリトアニアの支配下に置かれます。そして1500年代後半には、リトアニアと有利なかたちで合同の王国を形成したポーランドの支配下となったのです。
つまりウクライナ(とくに西部)は、歴史的にポーランドの影響を強く受けています。
ポーランドは、宗教はカトリックであるなど、広い意味では西欧の文化圏に属します。そのポーランドの影響を受けたウクライナは、ロシアとは(ルーツは共通とはいえ)かなり異質なところがあるわけです。
そして、ウクライナとポーランドは深い交流の歴史があるものの、長く敵対関係にあったともいえます。
なお、国を失った状態になっても、ウクライナ人はその後も民族としての文化やアイデンティティを保ち続けました。
またクリミア半島は、1400年代にはモンゴル帝国(キプチャク・ハン国)の支配を受け継いだイスラム教徒のトルコ系王朝(クリミア・ハン国)に支配されるようになりました。
そして、このトルコ系王朝はイスラムの大国・オスマン帝国に従属したので、当時のクリミア半島はオスマン帝国の領域だったといえます。
ロマノフ朝ロシア(ロシア帝国)の支配
そして1600年代後半以降は、ロマノフ朝のもとで強大化したモスクワ大公国、つまりロシア(1700年代以降はロシア“帝国”といえる国に発展)とポーランドがウクライナを分割して支配することになりました。
その後1700年代末にはポーランドがプロイセン(のちのドイツ帝国の中核)、ロシア、オーストリアに敗れ、この三国に分割されて国家が消滅してしまいます。
ウクライナとくらべれば大国だったポーランドも、この時代には、ドイツとロシアという大きな勢力が奪い合う「狭間の国」になっていました。
ポーランド消滅の結果、ウクライナは(一部がオーストリア領となったのを除き)ロシアの支配下に置かれるようになりました。
その一方、1700年代後半には、ロシアはクリミア半島をクリミア・ハン国およびオスマン帝国から奪い取ることにも成功しています。
ソ連に組み込まれる
しかし、第一次世界大戦(1914~1918)の中でおこった1917年のロシア革命で、ロマノフ朝が滅亡。その後ロシアで権力を掌握した、レーニン率いるソヴィエト政権は、ロシア帝国が戦っていたドイツと講和を結んで、大戦から離脱します。1918年に締結されたブレスト=リトフスク条約に基づく講和です。
その講和条件は、当時ロシア帝国領だった、ウクライナ、ポーランドの一部、バルト三国、フィンランドをドイツに譲渡するという、ドイツにとってはきわめて有利な内容でした。
当時のソヴィエト政権は、そうまでしてでも戦争を終わらせる必要がありました。それほど追い詰められていたのです。
そして、この講和にもとづいてドイツ軍はウクライナを占領。しかし1918年の秋にはドイツは大戦に敗れ、ウクライナから撤退していきます。
そのような状況のなかで、ウクライナには権力の空白が生じ、18年には独立の共和国が成立。しかしロシアのソヴィエト政権の侵攻を受け、国内でもさまざまな勢力が争った末に、ロシアの影響下にある社会主義政権が成立しました。
そして1922年にはベラルーシなどとともにソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)に組み込まれました。
これはウクライナが、ロシアのソヴィエト政権の支配下に置かれるようになったということです。
また、1921年にはクリミア半島は重要地域として、ウクライナのほかの地域から切り離され、ロシアのソヴィエト政権に直接支配されることになりました。
一方、ウクライナの西部地域は、第一次世界大戦の結果(ロシア帝国が倒れドイツが破れた)独立国として復活したポーランドに支配されるようになりました。ポーランドはロシアのソヴィエト政権の攻撃を受けましたが、独立を維持しました。
スターリン時代の苦難
そして、ソ連の体制のなかで、ウクライナは穀倉地帯そして、あるいは重要な工業地帯、鉱物資源の産地として重要な存在となりました。それはロシアのソヴィエト政権にとっての「搾取の対象」となったということでもあります。
たとえば1930年代(スターリン時代)には、強制的な農業の集団化による生産性の低下と不作が重なるなかで、ロシアから情け容赦ない食糧の徴発(取り立て)を受けた結果、300~400万人もの餓死者(諸説あり)が出るということもありました。
その一方スターリン政権は、1930年代前半から、ウクライナ人が農業の集団化や食糧徴発に抵抗したことへの対抗措置や報復として、ウクライナの共産党員(社会のなかで指導的な立場の人びと)を大量に粛清(処刑など)しています。
1930年代後半になると、スターリンはソ連全土でこのような粛清を大規模に行うのですが、ウクライナで行ったことはその先駆けでした。
第二次世界大戦時のナチスによる占領
そして第二次世界大戦(1939~45)の時代。この大戦はナチス・ドイツのポーランド侵攻が決定的な局面となって、イギリス、フランスがドイツに宣戦布告して始まりました。
第二次世界大戦時のヨーロッパ
このときソ連は、ナチス・ドイツとともにポーランドを分割占領しています。そして、ポーランド領だったウクライナ西部もソ連が支配するようになったのです。
そして、1941年にはナチス・ドイツがソ連に大軍で攻め入って「独ソ戦」が始まりました。
当時ドイツとソ連は、一応は「不可侵(互いを攻めない)」の条約を結んでいました。しかし両国はもともとは敵対的で、ヒトラーはソ連(ロシア)を、とくに倒すべき宿敵とみていました。ヒトラーは不可侵条約を一方的に破棄して、ソ連に侵攻したのです。
ドイツ軍は当初は優勢で、ソ連が支配していたウクライナの全土はドイツ軍に占領されてしまいます。そして殺戮とともに過酷な食糧の徴発、労働力として多くの人が強制連行されるなどの苦難にみまわれました。
しかし、1943年夏以降、ソ連軍は反撃の勢いを増して、失地回復していきます。そして1944年秋には全ウクライナを取り返したのでした。
第二次世界大戦中のウクライナでは、ドイツを利用してソ連を排除することで独立を果たそうと、ナチス・ドイツに協力する人びともいました(しかし、その多くは後にドイツに抵抗するようになった)。ウクライナを取り返したスターリンは、ドイツに協力したことがある者や、その疑いありとみなした人びとを厳しく弾圧したのでした。
こうして第二次世界大戦後も、ウクライナはソ連の支配下に置かれ、それがソ連崩壊まで続いたのです。
またポーランドは、大戦後は国家として復活したものの、ソ連の従属下に置かれました。そして戦前はポーランド領だったウクライナ西部(その東側の半分)は、ウクライナに割譲されました。つまりソ連の支配領域となったのです。
スターリン以後~独立国となった現代まで
そして1953年には、ウクライナに過酷だったスターリンが死去。その後のモスクワ政府は、以前よりはウクライナへの圧政を緩めるようになりました。1954年には、クリミアがウクライナに返還されるということもありました。
その後、1986年にはチェルノブイリ原発事故という大惨事も起きています。チェルノブイリはウクライナ北部の都市です。
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そして1991年のソ連崩壊によって、ついにウクライナは独立を果たします。
この独立で、ロシアを除きヨーロッパ最大の面積(日本の1.6倍)と5200万の人口(独立当時)を有する国家が生まれたのです。豊富な鉱物資源を持ち、発達した農業、ソ連時代からの工業などを持つ、旧ソ連のなかでは恵まれた条件の国です。これからは、おおいに発展していくと思われました。
しかし、その後もいろいろな困難が生じるわけです。もちろん、ロシアによる侵攻のような外圧だけが問題ではなく、内政上も政治的腐敗などさまざまな問題がありました。
しかし、やはり外圧はきわめて大きな障害でした。プーチン政権のもとで、ロシアがまたウクライナを支配しようと、本格的に動き出したのです。
2014年にはクリミアがロシアによって占領され、2022年には現在進行中の、ロシアの侵攻による戦争が始まった……
まとめ
以上は、ごく簡単な概略で、これらの戦争や占領が起こった経緯は省略しています。
ここで確認したいのは、このような、長期にわたって独立を奪われ、何度も何度も支配者が変わっていく、そんな歴史を持つ民族がいるということです。
ここで述べた、歴史の個別的な知識をいちいち覚える必要はありません。壮絶な歴史のイメージ・感覚をつかんでいただければいい。
そして、ウクライナ人のような「狭間の国」として苦難の歴史を歩んだ民族・国家は、ほかにも存在します。
たとえば今回の歴史の物語のなかで脇役として登場したポーランドはまさにそうだし、その周辺のバルト三国も、フィンランドもそう。近年注目される国ではアフガニスタンもそうです。ほかにいくつもあるでしょう。
それにしても、私たちの国は、ウクライナのような歴史を歩んだ国・民族にくらべ、なんと恵まれているのでしょう――やはり、そう思わざるを得ません。
このような国の歴史を知ると、我が国の恵まれた条件を大切にして、これからも平和や繁栄を守っていきたいと、改めて思います。
また、恵まれた歴史を歩んできた私たち日本人だからこそ、自覚的に世界の歴史を学ぶ必要があるはずです。そうでないと、この世界について、無知による歪んだ認識を持ってしまう。私も勉強していきたいと思います。
参考文献
関連記事 同じく「狭間の国」としての歴史を歩んだアフガニスタンの歴史
著者そういちによる世界史の入門・概説書