ロシアによるウクライナ侵攻の経緯をみていると、「日本が中国に侵攻した日中戦争(1937~1945)と似たところが多々ある」と近頃思うようになりました。
まず、日中戦争はどんな経緯だったか。以下、ごくおおまかに述べます。
目 次
- 満州事変
- 日中戦争の始まり
- 「共栄圏をつくる」発想
- 「相手(中国)は弱い」
- 中国側の徹底抗戦
- 日中戦争の泥沼化
- アメリカ・イギリスの中国支援・メディアの報道
- 2つの戦争を起こした動機・発想の共通性
- 「侵攻開始の経緯」の共通性
- 「相手の過小評価」「覇権国家の支援」という共通性
- 国際秩序が挑戦を受けるときに共通のパターン
- 日本の戦争のその後から、今後のロシアの行動を考える
- アメリカの「さじ加減」の重要性
満州事変
日中戦争の前段階として、満州事変(1931~1933)ということがありました。「事変」といっても、これは戦争です。
満州とは中国の東北地区のこと。中国のなかでは周辺的な地域といえます。
満州事変前夜の日本は、日露戦争でロシアから得た権益として、満州の南側(華北)の遼東半島の一部(関東州という)を支配して、さらに満州を走る鉄道路線を国策会社によって経営し、鉄道沿線の地域には日本軍の兵士が配置されていました。
満州事変は、満州での日本の権益を、さらに大きく・確かなものにしようと、現地の日本軍がいろんな工作をして起こした戦争です。
そして、日本軍は比較的容易に満州の広い範囲を占領してしまいます。満州には「満洲国」という日本の傀儡(かいらい)の国家がつくられ、1933年に結ばれた協定――塘沽(タンクー)協定で、中国(当時は「国民政府」という政権)も「満洲国」を認めることになった。
塘沽協定のあと4年ほどのあいだは、日本と中国のあいだで、ゲリラ戦はともかく、正規軍どうしの戦いはおさまった状態が続きました。
日中戦争の始まり
しかし、これは日本の中国侵略の「序章」にすぎませんでした。
1937年7月、北京郊外で日本軍と中国軍の偶発的な衝突が起こった(盧溝橋事件)。それをきっかけ・口実として、日本は大規模な軍隊を、中国の中核地域といえる華北に送り込みました(なお、当時の中国は「半植民地」状態で、条約に基づいて各地に日本や欧米列強の軍隊が駐留していた)。
こうして日本と中国の全面的な戦争――日中戦争が始まったのです。
日中の全面戦争は、偶発的な事件がきっかけだったとはいえ、「いずれは起こったこと」ともいえます。
満州事変以後、日本では軍部を中心に「満州だけではなく、華北もおさえるべき」という考えが台頭していました。
その理由のひとつは、「満州防衛」ということでした。
華北から満州がおびやかされる恐れがあったし、最悪の場合、満州北方のソ連軍と中国軍が結託して満州に攻めてくるかもしれない。その脅威を取りのぞくには、まず華北をおさえることだと。
もうひとつは、「華北の豊富な資源や、市場を手に入れたい」という欲望です。
そもそも満州を占領した目的には、「満州の広大な土地や資源を手に入れる」ということがありました。しかし、詳しく調べると満州には期待したほどの資源はないことがわかった。豊富な資源があるのは、満州よりも華北だったのです。
「共栄圏をつくる」発想
当時の日本の指導層のなかには「多くの植民地とその資源を手に入れることが、日本にとっての最重要課題」と考える人たちが少なからずいました。
それはこういう背景や問題意識によるものです――1930年頃の日本は、イギリス・アメリカに次ぐ世界第3位の規模の海軍を保有するなど、世界有数の軍事大国でしたが、総合的な国力では、アメリカ・イギリスにはかなわなかった。石油などの重要な資源の多くを、日本はアメリカやイギリスの植民地に頼っていました。
また、高度の機械などを生産する重工業の分野では、日本は世界の最先端にはまだまだおよびませんでした(江口圭一『十五年戦争小史』青木書店、現在はちくま学芸文庫などによる)。
そこで「満州や中国、さらには東南アジアをも日本の支配下におさめて、すでに植民地である台湾や朝鮮、南洋諸島とともに大きなブロックをつくることで、アメリカ・イギリスに対抗する」という構想が、日本で力を持ったのです。
この構想はのちに(日米の戦争が始まる前年の1940年頃から)「大東亜共栄圏」というコンセプト・スローガンで表現されるようになります。
「大東亜共栄圏」のコンセプトには「アジアを欧米列強から解放する」といった「大義」も含まれていましたが、それ以上に「豊富な資源や市場の確保」が重要でした。
「大東亜共栄圏」を専門的に研究した歴史学者の安達宏昭さんは《大東亜共栄圏はそうした〔「アジアの解放」などの〕イデオロギーではなく、経済的な自給確保こそが本質だった》と述べています(『大東亜共栄圏』中公新書)。
要するに、日本の満州・中国侵略の動機には「日本がアメリカ・イギリスに従属せずに、(現代的にいえば)真の主権国家として存続するには、アジアの近隣諸国を自国の勢力圏に組み入れることが不可欠」という発想・世界観があったわけです。
「相手(中国)は弱い」
そして1930年頃の時点で、不十分なところがあるとはいえ、日本は相当な軍事力や経済力を実現していたので、その「実力」を使ってまずは満州を占領した。これがうまくいったので、「今度は華北」ということになった。
日本の指導層のなかに、こうした動きに対する慎重派・反対派はいましたが、主導権をとることはできませんでした。多くの新聞や世論も、軍部の満州や中国での行動を支持しました。
そして、中国との全面戦争に踏み切った判断のベースには「中国の軍隊は弱い」という見立てがありました。
また、「中国の国民政府は国をまとめきれていないし、国民の支持も得ていない」という認識もあった。
たしかにそういう面は、事実としてありました。しかし、「日本側が都合よくものごとをみていた」という面も、そこには多々あったのです。「現実は、日本側が思っているほど生易しいものではなかった」ということです。
日中戦争の開戦の際、日本の軍人のなかには「きびしい一撃を与えれば中国はすぐに屈服する」という者もいました。いずれにせよ、「短期間で日本は中国に勝てるだろう」と軍部も政府もみていました。
中国側の徹底抗戦
でも、そうはいかなかった。中国の国民政府(当時は蒋介石がトップ)は、満州事変以後、国内の統一や軍備の充実をすすめていました。そこで「満州事変のときはあまり抵抗できなかったが、今度の華北での戦いでは徹底抗戦する」という方針でした。
そして、周辺的な地域である満州ではなく、中国の「本体」ともいえる華北に日本軍が攻めてきたことで、危機感を持った中国の人びとも「抗日」ということで相当にまとまっていったのです。
当時の中国にも「親日派」がある程度いたのですが、その影響力はすっかり後退していきました。
こうして、中国に攻め入った日本軍は、満州のときよりも手ごわくなった中国軍や、日本に強い敵意を持つ中国の民衆の抵抗に苦しめられることになります。
日中戦争の泥沼化
それでも兵力に勝る日本軍は、1938年の終わり頃までには、華中・華南も含む主要都市やそれらを結ぶ鉄道を占領しました。しかし、広い範囲での安定した支配を確立することはできませんでした。
そして、内陸部の都市に拠点を移した国民政府や、同じく内陸部を主な拠点とする、毛沢東の中国共産党(この時期は国民政府と共同で日本と戦っていた)の頑強な日本への抵抗が続いたのです。
日本軍は、華北などの占領地域に親日派の中国人の有力者をトップとする傀儡政権をつくりましたが、それを中国の民衆の多くは支持しませんでした。
こうして日中戦争はどんどん泥沼化していきました。始めたときはごく短期で勝つつもりだったのに……
アメリカ・イギリスの中国支援・メディアの報道
さらに「泥沼化」以降、アメリカ・イギリス(参戦はしていない)などによる中国への軍事的・経済的支援も活発化していきました。ソ連も中国への武器供与やパイロット派遣などを行った。アメリカなどによる日本への経済制裁も厳しくなっていく。
中国での戦争は、日本にとって「アメリカ・イギリス(・ソ連)との戦い」という面も強くなっていったのです。
そしてアメリカなどのメディアは、「野蛮な日本と戦う中国国民」「日本軍の攻撃による悲惨(たとえば戦火にあった子どもの写真)」「日本の軍国主義と戦う民主主義のシンボルとしての蒋介石とその夫人」といったイメージを強調する、写真を活用した報道をさかんに行いました。アメリカの世論の多数派は、中国を支持するようになっていきました(波多野澄雄ほか『決定版 日中戦争』新潮新書などによる)。
こういう画像を駆使した「イメージ」の戦いということは、日中戦争の当時にもすでにあったわけです。
なお、「戦争の悲惨」はともかくとして、「民主主義のシンボルとしての蒋介石」は、正確なイメージではないでしょう。蒋介石の率いる当時の国民政府は、憲法もまだ制定されていませんし、基本的に軍の力で秩序を保っている政権です。欧米の基準ではとても「民主主義」とはいえません。
2つの戦争を起こした動機・発想の共通性
どうでしょうか? このような日中戦争の経緯は、やはりウクライナでの戦争と似たところがいくつもあると思います。
戦前の日本にように「軍事大国であっても、経済や技術ではアメリカなどの最先進国に遠く及ばないという」のは、現代のロシアも同様です。ただし、ロシアが「広大な国土を持つ資源大国である」という点は、日本とは明らかにちがいます。
しかし、「覇権国家への敵対心やコンプレックスを持つ軍事大国」という点では、かつての日本と現代のロシアは重なるところがあるでしょう。
そして、侵攻を行った動機・発想も共通性があります。
満州や華北、ウクライナへの侵攻は、いずれも「この領域は、覇権国家の脅威をはねのけ、自国の主権をたしかなものにするうえで、軍事的・経済的に不可欠のものだ」という発想で行われました。
それは「周辺国を支配下において、大きなブロックをつくる発想」ともいえますが、これはかつての日本と今のロシアにたしかに共通することです。
そしてその「大きなブロック」は、大義名分のある「共栄圏」として説明されます。ロシアの兄弟の共栄圏、欧米を排除したアジア人の共栄圏。ロシア人や日本人はその「共栄圏」の主人です。
「侵攻開始の経緯」の共通性
また、侵攻の開始やそれが泥沼化していく経緯にも、日中の戦争とウクライナの戦争には似たところがあります。
まず、周辺的な地域を、謀略を駆使しながら、それほどの戦火を交えずに占領する。
クリミア半島は、1700年代から1950年代までは基本的にロシアの支配下にあったので、ウクライナのなかでは(中心のキーウなどからみれば)「周辺的」といえます。そして、周辺的な地域だけに、軍事的な抵抗や国民の危機感はそれほどは起きなかった。国際社会も、その占領を結局は黙認した。
日本の満州支配も、国際社会では(国際連盟などで)批判を受けましたが、アメリカ・イギリスも日本が満州に利権を持つこと自体は否定しませんでした。そして満州国の問題で特段の軍事的行動を起こすこともなかった。中国の国民政府も、やむを得ず満州国を認めて、徹底抗戦しませんでした。
こういうことは、2014年のロシアによるクリミア併合でも起きています。
そして、「周辺地域」である満州やクリミアが占領されたあと、数年の比較的平穏な時期を経て、「中核地域」への侵略が始まった。
侵略者側は「周辺地域」だけでは満足しなかった。「中核地域を支配することが自分たちの利害や理念にとって不可欠」という考えを強めていった。そして、さらに大規模な、決定的な侵略戦争を開始したのです。
「相手の過小評価」「覇権国家の支援」という共通性
さらに、軍国主義の日本もプーチンのロシアも「相手は弱いから、すぐに勝てる」とみて、「中核地域への侵攻」を始めたわけです。こういう「敵の過小評価」も共通しています。
ところが思わぬ頑強な抵抗にあって、短期での勝利はできなかった。そして、アメリカなどの覇権国側が、参戦はしないものの侵略を受けた側を積極的に支援し、それが戦局を左右する要素となったのです。
また、侵略者側への国際社会による経済制裁ということも、日中戦争もウクライナの戦争も、重要な意味を持ちました。ただし、経済制裁によるダーメジは、資源小国だった日本にほうが、今のロシアよりも大きかったといえるでしょう。
そして、戦争についてさまざまなイメージが映像・画像で世界に拡散していったことも、共通している。
それによって、侵略と戦う側のリーダーは、戦争が始まる前には国民や国際社会の評価は高くなかったのに、世界から賞賛されるようになっていった。
国際秩序が挑戦を受けるときに共通のパターン
もちろん時代も国もちがうので、日中戦争とウクライナ戦争のあいだには、ちがいは多々あるわけです。
でも「時代も国もちがうのに、これだけ似たところがある」というのが重要ではないでしょうか。
これらの類似は、表面的なものではないと思います。近代の世界において、覇権国による国際秩序が挑戦を受けるときの典型的なパターンがそこにあらわれていると、私は思います。
あるいは、世界秩序に挑戦する側(挑戦者)の、よくある発想や行動のパターンがそこに示されているともいえるでしょう。
日本の戦争のその後から、今後のロシアの行動を考える
だとしたら、今後のウクライナの戦争の行方を考えるうえで、日本の戦争のその後は、参考になるかもしれません。
日中戦争が泥沼化し、さらにアメリカなどからの経済制裁が強くなった結果、行き詰った日本は暴走していきました。
1939年以降、ナチス・ドイツがヨーロッパで大きな戦争を始め(第二次世界大戦の勃発)、フランスやオランダといった東南アジアに植民地を持つ国を征服してしまった。
それを受けて、今なら日本が東南アジアをおさえて、その豊富な資源(とくに石油)を手に入れることができるのではないか、そうすれば中国での戦争も行き詰まりを打破できる――そういう考えが日本のなかで台頭してきた。
そして、その考えは実行されるわけです。また、東南アジアを占領するにあたって、脅威となる太平洋のアメリカ艦隊を封じ込めておきたいと思って、海軍基地があるハワイの真珠湾を奇襲攻撃することも行った……
こういう、日中戦争が泥沼化したあとの日本の判断や行動をふりかえると、今のウクライナの戦争のことに対し暗澹たる気持ちになります。
同じく「泥沼」にはまったプーチンのロシアも、ウクライナの戦争をめったなことではあきらめないのではないか。ウクライナでの明確な敗北を回避するために、さらに別次元のエスカレートした方向に行きかねない――そういう不安が生じてきます。
アメリカの「さじ加減」の重要性
また、アメリカの側も、かつて日本を対米戦争にふみきらせたような失敗を犯さないことも大事なはずです。
アメリカとの戦争を始めるにあたって、少なくとも主観的には日本はアメリカの経済制裁や圧力に非常に追い詰められていました。とくに「アメリカからの石油を絶つ」という制裁の決定は、アメリカに石油を依存していた日本にとってきわめて重たかった。また、日米間のコミュニケーションにもいろいろ齟齬があった。アメリカ側に「日本は日米戦争などできないだろう」とタカをくくっているところもあった……
こういう歴史の経験からみて、今回のアメリカがロシアに対しどういうさじ加減で臨むかは、決定的に重要なはずです。
もしも「この際ロシアを徹底的につぶそう」みたいな考えが前面にでたら、きっと良くないことが起きる。かといって、アメリカがロシアに対し十分に理解を示した妥協的立場をとったとしても、おそらくロシアは簡単には満足しないでしょう。
ここでは立ち入りませんでしたが、中国との戦争のときの日本も、ある程度妥協して一定の成果・権益を得たところで戦争を終わりにする機会はいくつかありました。
しかし「そんな妥協はするものか」ということで、戦争を継続・拡大していった。「戦争を続けないと、これまで得たものを守れない」という不安も、そこにはあった。
「既存の国際秩序への挑戦者」である軍事大国のマインドとは、そういうものなのでしょう。
***
ほんとうにむずかしい、答えの見えない問題です。
人類は以前に今回のウクライナの戦争と似た問題を経験しているのに(それは日中戦争だけに限らない)、まだその問題への対処法がみえていないように思います。
しかし、人類は日中戦争の頃よりはいくらか賢くなっているはずだ、とも信じたいです。
参考文献
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