そういち総研

世界史をベースに社会の知識をお届け。

久し振りの「怒れる若者」 グレタ・トゥンベリさんの演説

かつての「怒れる若者」の時代

9月23日、国連の「気候行動サミット」で怒っていたグレタ・トゥンペリさん。16歳、スウェーデンの環境活動家。おそらく今の世界で一番有名な環境活動家だ。集まったエライ人たち――結局何も決められなかった――に対し「あなたたちはよくもそんなことが」みたいな辛辣なトーンが、たいした迫力だった。

「あなたたちが話しているのは、お金のことと経済発展がいつまでも続くというおとぎ話ばかり。よくもそんなことが言えますね!」

「若者たちは、あなたたちの裏切りに気づき始めている」

そういえば、こんな強いトーンで若者が怒っていて、それが広く話題になっているのは、久し振りではないだろうか。

1960~70年代の世界では、とくに先進国において「怒れる若者」はあちこちにいた。大学生を中心にデモ、学園紛争などの抗議活動が盛り上がった。「学生運動」というものだ。若者が何に怒っているのか明確でない面もあったが、大きくまとめれば「資本主義社会の矛盾や腐敗に対する抗議」だったといえるだろう。そしてその運動は、しばしば社会主義(マルクス主義)の影響を受けていた。

さらにまとめれば、その「怒り」とは、社会に対する違和感だったのだろう。第二次世界大戦後、先進諸国は空前の経済成長を遂げた。日本だけでなく、欧米もそうだった。それは社会の激変をもたらしたので、当然に社会のあちこちでいろんな違和感を発生させる。「こんな社会はおかしいのではないか」といういら立ちが起きる。

 

1980年代以降の変化

ところが、おおむね1980年代以降になると、「怒れる若者」は影をひそめていった。私は80年代半ばに大学生になったが、キャンパスにはかつての「怒れる若者」の残党のような人たちが少数いて、冷ややかにみられていた。その後「怒れる若者」は、ますます下火になっていった。

80年代90年代には、世界の先進国では高度成長がひと段落した。一方で現在の新興国といわれる国ぐに(東南アジア諸国、中国、インドなど)で順調な経済成長が始まった。それによって先進国と発展途上国のあいだの格差や利害対立は、以前よりは緩和していった。ソ連の崩壊(1991年)で冷戦が終結し、「資本主義VS社会主義」という激しいイデオロギーの対立も決着した。

つまり、それまでの激変する強い緊張の時代から、変化が穏やかで、安定した雰囲気の時代になったのである。とくに、先進諸国ではそうだった。

その変化にともなって、若者は以前よりもおとなしくなった。社会の問題に対して「意識が高い」若者の多くは、怒りを爆発させて「革命」を起こすよりも、「多文化」「共生」「地域社会」等々の、より穏健で平和的な観念に惹かれるようになった。その自己主張の仕方も、ヘルメットやゲバ棒(過激な学生運動の象徴的な装備)とは無縁の、すっかり穏健なものになった。

 

「怒れる若者」再び?

ところがグレタさんは、エリートの大人たちを前に鋭いトーンで怒りを爆発させていた。それを多くの人たちは新鮮だと受けとめた。「失礼で生意気な小娘だ」と論評する人は、少なくともテレビのニュースや新聞をみるかぎりでは、あまりいないようだ。そこでは「真剣に彼女の訴えを受けとめるべきだ」という論調が主流で、賞賛の声も多くあがっている。

グレタさんが世界に与えたメッセージは、地球温暖化のことだけではない。グレタさんは今回、「こんなふうに若者が怒っても大丈夫なんだ」ということを、知らしめたのである。

世界の先進国の若者は、この30年くらい「こんなこと言って大丈夫かな?」とかなり気をつかってきた。「空気を読む」ということだが、とくに近年の日本の若い人はその強い圧力を受けてきたのだろう。社会の表だったところで言動に気をつかうので、その憂さ晴らしに匿名のネット上で口汚いことを言う人もいるのかもしれない(グレタさんも、ネット上ではいろいろ批判や中傷を浴びているようだ)。

しかしグレタさんの辛辣なトーンは、匿名のネットの書き込みでなく、公式の表舞台で、権威のある大人たちを前にしてのものだ。それでも、あんなに言っちゃっていいんだ!

これから、グレタさんのような若者が、つぎつぎとあらわれるのではないだろうか?

つまり、グレタさん的に怒ったトーンの若者があちこちで出てくるということだ。このあいだもNHKで、グレタさんに影響を受けて環境問題に取り組む女子の大学生が発言しているのをみた。彼女はグレタさんほどの役者ぶりではなかったが、やはり怒ったトーンで話していた。

こういう追随者的な人が、環境問題にかぎらずさまざまな分野で出てくるのではないだろうか。たとえば就職や職場の問題、子育てや介護、貧困問題などの分野では、若者は相当な「怒り」がたまっているはずなので、グレタさん的なスターが生まれる余地がある。つまり、歯に衣を着せぬ、鋭く、辛辣なトーンで、既得権のある大人たちを罵倒し攻撃する若者。そういうリーダーがこれまでにはなかった影響力を持つようになる(ただし、そうなれば批判の論調も強まるだろうが)。

 

期待と不安

それが社会の停滞をうち破り、新しい良い風を吹かせてくれる可能性は、もちろんある。私もそれに期待する1人だ。しかし一方で不安もある。ファシズムにも通じるような、不寛容で凝り固まった「正義」を振りかざして、穏健で常識的な人たちを迫害するようにはならないか。そんな危険も感じる。

グレタさんは純粋に自分の「正義」信じている。その「正義」には「科学」の裏付けがあるとも言っている。たしかに私も、グレタさんの主張の核心や科学に対する姿勢は、相当に真面目で、信頼できるものだと感じている。自分の主張よりも科学者の話を聞いてほしいと、彼女は言う。また、「近年の地球規模の気候変動のおもな原因は、人間の産業・経済の活動によるものだ」ということじたいは、私もやはり科学的な真理だと思う。

しかし彼女のやり方に追随して、たとえば人種差別や独裁国家などの、私には賛成できない「正義」を主張する「怒れる若者」もあらわれるかもしれない。

たとえばヒトラーもレーニンも、そのような「怒れる若者」から身をおこしたのだった(どちらも恐るべき独裁国家の建設者だ)。彼らは社会の矛盾や人びとの違和感を察知して、既得権勢力などの「敵」を鋭く攻撃する演説の名手だった。

そして、彼らもまた自分の「正義」を真剣に信じていた。それはヒトラーにとっては「偉大なドイツへの愛」であり、レーニンとっては「社会主義の理想国家建設」ということだった。さらに、どちらも自分の正義は「科学」に基づくと言っていた。ヒトラーは自分の人種差別的思想を裏付けるものとして、今は誤りとされる疑似科学を利用した。レーニンの築いたソ連では「科学的社会主義」ということを標ぼうしたが、その理論は今では過去の遺物だ。

そういうことなので、オジさんの私は、理想に燃える「怒れる若者」に期待と不安を抱いています。新しい『怒れる若者』の登場を痛快に受けとめながらも、多少の不安も感じている、といったところか。「不安」のほうは、杞憂に終わればいいのだけど。

 

トップページ・このブログについて 

blog.souichisouken.com