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人生を楽しくする勉強法・独学術2 「作品化」をめざすことが原動力になる

「勉強・独学は、人生を楽しくするためにするものだ」ということを、前回述べた。では「楽しい独学」のために、まず大事なことは何だろうか?

目 次


大人の勉強では「作品化」が大事

「自分の興味のあることを学ぼう」という、最も基本となる大原則については、とりあえずここでは立ち入らない。それはあまりにも当然のことだ(でも、これがあいまいな人もいるので、強調しておくのはムダではない)。

ここでは、もう少し踏み込んだポイントを述べたい。

まず、大人の勉強でとくに大事なのは「作品化」ということだ。

「その勉強の成果を作品にする」ことをめざして勉強するのである。

勉強の成果をかたちにして、それを受け取ってくれる人と何かを交換する感覚。これをイメージしたり実感したりすると、勉強をするうえで何よりも原動力になる。

私は物書きを志向してきたので、作品化というと、まず文章を書くことを思いうかべる。だがもちろん、文章以外にもいろいろな作品化のかたちはある。プレゼンやパフォーマンス、講義やセミナー、映像・ビジュアルの作品、プロダクトの開発…

ただ、私が語る場合は、どうしても文章作品のことになってしまう。しかも、ちゃんと語れるのは、知識・概念・情報を伝える作品化についてだけだ。さらにいえば、それを専門家ではない、ふつうの人たちに向けて伝えることである。

だから、ここで述べている「作品化」は、だいたい「文章化」のことだ。それも、一般向けのノンフィクションの文章。

でも、「作品化」ということのイメージを、いったんは幅広く持っていただきたいと思って、少し説明した。

なお、文章をもとにして、映像などの別のかたちの「作品」をつくることも可能だ。文章力が、すぐれたプレゼンのベースになっていることも多い。文章は、さまざまな「作品」のあり方のなかでも、やはり基本の位置を占めていると思う。

 

博識でも書かない人

このように「作品化をめざそう」と強調するのは、独学の勉強家のなかに、作品化ということに対し消極的な人がいるからだ。そして、それを「もったいない」と思うから。

多くの本を読んでいて博識なのだけど、特段のアウトプットはしていない、という人はときどきいる。

私もそういう人を知っていて、「あなたも書いてみては?」と言ったこともあるが、乗り気ではなかった。その人が詳しいテーマについて「これのことなら、書けるでしょう」と言っても、まだこれこれの部分がはっきりしないから、などと自分の知識や考えの足りない部分を気にしているのだ。

博識の勉強家で、まだこれといった作品化の経験のない人は、書こうとすると、自分に課すハードルが高くなってしまいがちだ。自分と同じような博識な人の批判に耐えるものを書けるのか――ついそう考えて、不安になってしまうのだ。

だから、そういう人は、これからも書かないままである可能性は高い。

 

ある独学者の事例から

そんな「博識だけど書かない人」のひとつの例が、若い頃に読んだ本にでていた。その本の著者であるすごい独学者とともに、今も印象に残っている。

百瀬孝著・伊藤隆監修『事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』(吉川弘文館、1990)という本がある。

これは、昭和戦前期の日本における、法制度、政治・行政、外交、軍隊、教育、植民地等々に関する諸制度について、幅広く解説した本である。研究者や読書家が戦前の日本社会について知ろうとするとき、背景となる基本知識を手軽に得るためにつくられた。400ページを超える、小さめの活字で2段組の、ボリュームのある本。

著者の百瀬さんは、ぼう大な本や資料にあたって、10年以上かけてこの本を書いた。ものすごい勉強や博識のたまものといっていい。

しかもこの本を書いたときの百瀬さんは、会社員である。アマチュアの独学者だったのだ。

百瀬さんを支援したプロの学者である伊藤隆さん(本書の監修者)は、「こういうハンドブックは便利だが、それをつくるには途方もない労力と根気が要求されるので、これまでつくられなかった」ということを述べている(同書1㌻「序」)。百瀬さんはアマチュアだったからこそ、プロの研究者がしり込みするような、手間のかかる本をつくろうとしたのだろう。

そして見事にやり抜いて、立派な業績を残した。この本は出版当時(1990年)話題となり、年月を経た今も読まれている。

こういうすごい独学者がいることに、若い頃(新入社員時代)の私は感銘を受けた。

そしてもうひとつ気になったのが、百瀬さんが「あとがき」で、監修者の伊藤さんへの感謝とともに「家族の協力」について、こう述べているところだ。

“私の兄勲は読書人として私の十倍以上の読書をして豊富な知識を蓄え、私は以前から昭和史についての話も聞いていた。こういうことが、積み重なって私の基礎素養になっていたと思う。本書の原稿全文に目を通し、百数十箇所の指摘とともに、一冊の本になるくらいの補充資料の提供を受けたが、紙幅の関係で生かせなかった”(同書425㌻)

これを読んで私は、「この本の著者も仰ぎみるような博識のお兄さんとはすごいなあ」と感心した。一方で「でも、本を書いたのは弟さんのほうなんだ」とも思ったのである。

これは「博識でも書かない人」の、濃い事例だ。

 

やはり「作品化」をめざそう

たしかに、本を書けばいいというものではないだろう。このお兄さんのようなすごい読書家は、たとえ何も書かなくても、世の中の文化水準を高めることに貢献している。現に、百瀬さんに基礎となる素養をあたえ、よき理解者として仕事を応援した。

こういう文化的な社会人は、昔も今もひとつの理想だと思う。

でも、この記事を読んでくださっている読者の方にはつぎのように言いたい。

もしあなたにいくらかでもその気があって、生活条件として可能なら、ぜひ勉強したら何かを書く人になろう、やはり「作品化」をめざそう。

そのほうが絶対に楽しい。いろいろ苦しみもあるかもしれないけど、きっとより面白い人生になる。立派な本を書いた百瀬さんは、大変だったとは思うが、やはり楽しく充実していたはずだ。

人は書くことで、本を読むにしても読み方が変わってくる。知識を自分の中に主体的に取り込んでいく感じになる。だから、同じ量を読んでも、残るものが多くなっていく。何かを経験するにしても、明確な問いかけを持つようになって、より多くの気づきがある。

 

力不足を気にしない

そして、書き始めるときには、自分の力不足・知識不足をあまり気にしないほうがいい。もしも、その仕事をやり遂げるのに本当は10の知識が要るとしても、2~3くらいでも書き始めよう。

このことは、私が尊敬する教育学者の板倉聖宣さんが述べていたことだ。むしろ「2~3」のレベルで書くと、生き生きしたものになることが多いと、板倉さんは述べていた。

百瀬さんの『昭和戦前期の日本』場合も、この本を完成させるために十分な知識や材料がそろったうえで書き始めたわけではなかった。

本が完成する10年余り前、百瀬さんは原稿用紙500枚ほどの原稿をすでに書いて、もともとは面識のなかった伊藤さんのもとを訪ねている。

そして、伊藤さんから「専門書で調べるだけでなく、同時代の1次資料にあたって確かめるように(専門家もまちがえていることがある)」というアドバイスを受け、以後はこの方針で研究・執筆をすすめた。

つまり、当初は調べたことの信頼性に弱いところがあったのだ。おそらく、その後の作業のなかで、最初に書いた500枚の原稿はかなりやり直しただろう。10年余り後に完成した原稿は、1400枚ほどになっていた。

もちろん、『昭和戦前期の日本』のような本を書くのは難易度が高く、そのレベルには足りなくても、書き始めた頃の百瀬さんの知識やスキルはすでに相当なものだったはずだ。だから、伊藤さんも協力を惜しまなかった。しかし「10必要なところ、2~3のレベル」という感じではあったのだろう。

 

博識になる前に書き始める

たくさん勉強して知識が増えると、人は自信がつく反面、「ぼう大な知識の海のなかで、自分の知っていることはきわめて限られている」という感じも、身に染みてくる。

また、他人の「作品」の欠点やまちがいが目について、それを批判したりバカにしたりする、といった経験も増える。

そういう「無知の自覚」や「厳しい批評眼」ばかりが身についてしまうと、人は自分では書きにくくなる。そうなる前に、書き始めよう。博識になる前に「作品化」を意識することだ。

作品を仕上げるのに必要な知識やスキルは、書きながら身につければいい。書くうちに、具体的な課題もいろいろみえてくる。それらをつぶしていくと、実力は上がっていく。

私はかつて、世界史について隅から隅まで精通しているなんてことはまったくないのに、世界史の概説書を書き始め、何年かかけて出版することができた。

「2~3」のレベルで書き始めていい、という板倉さんの言葉はまちがっていなかった。

そして、後で振り返ってみると、書き始めたとき自分が「2~3」のレベルだということを、じつはよくわかっていなかった。少なくとも「6~7」くらいの実力だと、自分を過大評価していたのだ。実力不足だとそういう勘違いをしてしまうものだが、それが自分を後押しするなら全然かまわないと思う。まずは書き始めよう。自分の作品をつくろう。

もしもあなたが何も書かないうちから、すでに博識になってしまっているなら、残念なことだと思う。

でも、「無知でもかまわないじゃないか」と自分に言い聞かせて、書き始めればそれでいいのではないか。そのへんの切り替えさえうまくできれば、豊富な知識があることは、やはり有利なことだ。

 

長い文章に取り組むと、得るものが大きい

「作品化」といっても、作品の大小や難易度はいろいろある。最初は小さくてやさしいものから始めればいい。ツイッターのようなSNSは、最小単位の文章作品を発表する場所として使える(もちろんそれだけの場所ではないが、そういう使い方もあるということだ)。発表して良い反響があれば、勉強をさらにすすめる大きな力になる。

ただ、小さな作品化から始めてそれを積み重ねるとしても、一方でより大きな作品、つまり文章なら長文のまとまったものをつくることにも挑戦したほうがいいとも思う。

140文字のつぶやきかが文章の最小単位とすれば、より大きなものとしては、数百文字のコラム、さらに数千文字の論説といったものがある。そして、ひとつの到達点は本1冊分を書くことだ。

このような、長さによる文章のさまざまなあり方については、またあらためて述べたいと思う。

ここで言いたいのは、「長い文章に取り組むと、得るものが大きい」ということだ。

まず「長い文章を書くと、その分競走相手は減っていく」ということ。

140文字のつぶやきを書く人は、非常に大勢いるけど、1万文字の記事を書く人は、それよりも大幅に少ない。

これは、多くの人がたどり着けない「遠い」ところへ達しているということだ。

「作品化」においては、ぜひそのような境地をめざそう。「遠くまでいくんだ」という思いを持つことを、おすすめしたい。最初は小さくてもいいが、いずれは「大きな作品化」をめざすのだ。

ただし、私たち無名人の書いた1万文字の文章は、なかなか読んでもらえないということはある。しかし、それでもいい。

それだけのボリュームで、力のこもった内容のものをいくつか書いていくと、ごく短いアウトプットを数多く行う以上の、より高い次元の知識やノウハウやその他の大事なものがあなたの中に残るだろう。

そして、長い記事でも読んでくれる人の中から、あなたの良き理解者があらわれるはずだ。たとえば私の場合は、世界史に関する私のブログの長文の記事をみた出版社から声がかかる、ということがあった。短く軽い記事ばかり書いていたら、これはなかった。

若い頃にも、ある勉強会で長文のレポートを発表し、そこで得がたい仲間と出会うことがあった。このとき出会った仲間は、私の原稿用紙100枚ほどのレポートを読み、「面白い奴だ」と思ってその後連絡や誘いをくれるようになったのだ。

『昭和戦前期の日本』の百瀬さんも、ぼう大な手間がかかる大作に挑み、それがある程度すすんだ時点で(持ち込みをして)プロの学者の目にとまり、仕事が大きく前進した。百瀬さんが、大きな作品化を志向せず、小さな作品だけにとどめていたら、こういう展開はなかっただろう。

 

ベストセラー作家のアドバイス

ディーン・クーンツというアメリカのベストセラー作家が、作家志望者への指南本でこう述べていた――短編よりも、まず長編を書け、と。大きな作品化は有利、ということだ。

これは「作家をこころざす場合、短編から手をつけるべきか、それとも最初から長編をてがけるべきか」という質問への答えだ。

“わたしは、最初から思いきって、長編を書くことをおすすめする。短編がお金になる可能性は、長編の百分の一にも足りない。読者が長編を求めているので、出版社もそれにならっているからだ”

“また、短編だけを書いていては、作家として認められることにも困難がある。短編はふつう雑誌に掲載されるので、批評家の目にとまりにくい。したがって、その発表形式からいっても、短編の寿命はかぎられたものになってしまう”

(ディーン・R・クーンツ『ベストセラー小説の書き方』朝日文庫、1996、313㌻。大出健訳)

クーンツがこの本を書いたのは1980年頃で、今の出版事情は当時とはちがうのだろう。しかし「大きな作品化は有利」という基本は今も通用すると、私には思える。

ベストセラー作家であるクーンツが「お金になる」と述べているところは、「多くの真剣な読者を獲得する」ということだと読みかえてもいい。昔は紙の雑誌やプロの批評家が大きな影響力を持っていて、今はそれほどではないとしても、短い・小さな作品ほど、寿命が短い傾向にあることは、今のインターネット上でも変わらない。

だから、クーンツのアドバイスは、「作品化」ということに関し、娯楽小説を書こうとするわけではない人たちにも重要だと思う。「作品をつくるなら、早いうちから大きな作品をめざせ」ということだ。

クーンツも、レイ・ブラッドベリのような短編中心の大作家がいることはわかっている。でもそれは例外ではないかと。私もそうだと思う。日本でも、星新一のようにショート・ショートで多くの読者を得た作家は、やはり例外的だ。

 

小さい作品化に慣れすぎると…

また、クーンツはこうも言っている。

“短編小説ばかり大量に書いていると、短い時間の鍛錬しか学ぶことができない。そのため、いざ長編を手がけようとすると、たいへんな苦悩を味わされることになる”(同書313~314㌻)

これは、「小さな作品化」に慣れてしまうと、そこから抜けにくくなるということだ。

長い文章は、完成までに時間がかかるので、やはり根気が要る。短時間で完成できるものだけを書いていると、その根気が身につかない。

クーンツは、「短編は2、3日から長くて2週間で作品が完成する高揚感を味わえるが、長編はそうはいかないので、まいってしまうのだ」ということを述べている。なお、2、3日かけて完成させる作品は、今のネット上の感覚ではそれなりの「長編」だが、これは古典的な活字の世界の話なので、その感覚では「短時間の仕事」なのである。

また、ツイートのようなごく短い文章は、結論や主張だけをいきなり打ち出して、それで完結する傾向がある。「とにかく、これってこうだと思う」とだけ述べた文章になりがちだ。主張を支える根拠・材料はスペース的に収まらないのだから、仕方がない。極端な場合は「よく知らないけど、絶対これはこうだ」みたいなツイートもある。そんなことがかなり許される世界である。

そういう世界にあまりに慣れてしまうと、いろんな材料を集めて長い文章を書く気が失せてしまうこともあるだろう。

***

この記事の前半では、「実力不足でも、書き始める」ということを強調した。後半で言いたいのも似た話で「実力不足でも、長い文章に挑戦してみよう」ということだ。それで、あなたの実力は大きく向上する。

そしてその過程で、きっと読者から反応をもらったり、何かの出会いがあったりする。それによってさらに進むことができる。こういう、良いサイクルが起こってくるはずだ。

(つづく)

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