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古代ギリシア文明入門2・物質的な成果・古代ギリシア人はすぐれた経済人で技術者

はじめに

アテネなどのポリス(都市国家)が繁栄した時代の古代ギリシアが生んだ、さまざまな文化的・物質的成果をみわたすシリーズの2回目。ただし第1回を読まずに、この記事からでも大丈夫。

第1回は、古代ギリシアの文化的な成果について述べたが、この記事では、物質的・技術的成果について述べる。

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古代ギリシアというと、哲学や芸術・文学などの文化をまず思い浮かべるかもしれない。あるいは、アテネ(アテナイ)に代表される民主政(民主政)をまず重要と思う人もいるだろう。しかし、それと並んで(あるいはそれ以上に)、物質的・技術的な領域での古代ギリシア人の世界史における貢献は大きかった。

このシリーズの第1回(関連記事)で述べたように、識字率が大幅に向上して書物が広く流通した社会は、古代ギリシアが初めてである。高度の論理性や体系性をもった学問的知識でも、ギリシアは先駆けだった。

そして、今回述べるように、お金(コイン)が本格的に用いられるようになったのも、多くの人が夜に明かりをともす生活も、ワインを日常的にたのしむ暮らしも、古代ギリシアが世界で初めてだった。

古代ギリシア人は、文化人であるとともに、すぐれた技術者でもあった。たとえば水道建設というと、ローマ人がまず有名だが、それよりもずっと早くにギリシア人は大規模な水道トンネルをつくったりしている。後世に影響をあたえるさまざまな機械装置の工夫も得意だった。そのような物質面での高度な発展が、古代ギリシアの文化や民主政を支えていたのだ。

目 次

 

古代ギリシア

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 最大のポリス・アテネ 

ここでテーマとする古代ギリシアの文化や技術は、ポリスといわれる数多くの都市国家が繁栄した時代のものである。ポリスの繁栄のピークは、紀元前400~300年代で、この時期を古代ギリシア史では「古典期」という。

古典期のギリシアで、最も繁栄した最大のポリスはアテネ(アテナイ)だった。この時代には大小さまざまな数百のポリスが、ギリシアとその周辺に並び立っていた。古代ギリシアの歴史全体を通してみると、1000に近いポリスが成立した。

これらのポリスはそれぞれが「小さな国」であって、互いに戦争もくりかえした。しかし、ギリシア語などの文化的な共通性にもとづく一体感があり、経済や文化では深く結びついていた。

古代ギリシアの文明のさまざまな成果の、最も重要な舞台はアテネである。古典期のアテネについて、まずみてみよう。

最盛期だった紀元前400年代後半のアテネの人口は20~30万人と推定されている。諸説あるが、多くの学者の推定はこのくらいである。

そしてこれは、全人口の3~4割を占めていた奴隷、そして外国人も含めた人口である。外国人には、西アジアなどのギリシア以外の出身者とギリシアのほかのポリスの人びとの両方が含まれる。なお、奴隷の割合については、15%程度だったという見解もある。


そしてこの「20~30万人」は、都市部だけでなく、周辺も含めた「アッティカ地方」の人口である。アッティカ地方が、アテネというポリス全体の領域である。

アッティカ地方の面積は2500~2600平方キロで、東京都の面積2200平方キロにほぼ近い規模だとイメージすればよい。なお、ポリスの8割近くは200平方キロ以下の面積であり、アテネの規模は例外的なものだった。

紀元前400~300年代には、アッティカ地方の全人口の3分の1~2分の1が都市部に住んでいたとみられている。「2分の1」だったとすれば、都市としてのアテネの人口は、10~15万人である。

これは、当時の世界で最大級の都市だったといえる。しかし、アテネよりもはるか昔、紀元前2000年代のメソポタミアでは人口数万~10万規模の都市がすでにできていた。アテネの繁栄よりもやや以前の紀元前600年頃のメソポタミアのバビロンは、人口10~20万程度と推定される。

都市の規模として、アテネが世界史上とくに画期的だったということはない。アテネで重要なのは、そこで営まれていた文明生活の中身である。

なお、紀元前431年のアッティカ地方の人口構成について、歴史学者によるいくつかの推計を整理したつぎのような数字もある(経済学者・明石茂生による)――総人口25~32.5万人。うち男子市民4~5万、市民の家族16~17.5万、奴隷6.5~10万、「メトイコイ」と呼ばれる在留外国人2.5~5万。

そして、紀元前300年代半ば以降では、アテネはやや衰退し、アッティカ地方の総人口は15~25万人となっていたとみられる。

当時のギリシアの人口に関しては、手がかりになる同時代の史料がわずかではあるが残っており、学者はそこから推定している。とはいえ、やはり十分なデータは残っていないので、「どうにか推定を重ねて」というのが実態だ。

 

「グローバルな経済」の中心 

また、紀元前400~300年代のアッティカ地方が自前の食糧生産で養える人口は、8~9万人ほどだったという推計もある。これは、総人口の20~30万人を養うには足りないので、アテネでは、穀物の大半を輸入に頼っていた。

古代ギリシアの食糧供給を研究したピーター・ガーンジィによれば、アテネが食糧の大部分を輸入するようになったのは、最盛期を迎えた紀元前400年代以降である。その輸入先は、西地中海のシチリア島、黒海沿岸、エジプトといった遠方の穀倉地帯にもおよんだ。

また、軍艦や貿易船をつくるために必要な木材も、多く輸入された。豊かな森林のあるエーゲ海北岸のトラキア地方などから、船で運ばれたのである。

紀元前400年代後半に、当時のアテネで大きな支持を得た指導者・ペリクレスは、演説でこんな主旨のことを述べている――「我々のポリス(アテネ)は大国であるがゆえに、全地上からあらゆる物が輸入されており、我々にとっては自国の作物を収穫して味わうよりも、他国の産物のほうが身近になっている」と。つまり、「自分たちはグローバルな経済の中心である」というわけである。

多くのものを輸入できるということは、それだけの輸出産業があったということだ。

古代ギリシアの特産品はまず、オリーブオイルとワインである。岩地が多いなどの理由でコムギの栽培に限界があったため、こうした商品作物をつくった。そして、オイルやワインをつくる加工技術を発達させたのだった(この技術についてはあとで述べる)。

そのほか、陶器、銀貨などがアテネの重要な輸出品だった。銀貨の輸出は、大規模な銀山をアテネが国家として所有していたからである。工芸品をつくる工房のなかには、数十人から100人の奴隷が働く大規模なものもあった。

ただし、商工業や貿易がさかんだったといっても、アテネ市民の多数派は、土地を所有して農業を営んでいた。その意味で、前近代では一般的だった農業中心の社会だが、その中身をみるとブドウやオリーブのような商品作物の生産が重要な位置を占めている。自給自足的なものだけではない、より発展したかたちの農業だったのだ。

貿易の取引・輸送では、在留外国人が大きな役割を果たした。先ほどみたアテネの人口構成にもあるように、アテネには多くの外国人が住んでいた。

このように、当時としては高度な「工業製品」を輸出する一方で、コムギなどの食糧の不足分や、パピルスのようなギリシアにはないものを大量に輸入したのである。西アジアや地中海の全域から、さまざまな物資が、アテネをはじめとするギリシアのポリスに集まり、当時の最も発達した文明生活を支えた。

 

アテネの市街 

紀元前400~300年代の、最盛期のアテネの様子をみていこう。アテネの中心部は、1.5キロ四方の範囲が市壁に囲まれていた。市壁の外にも市街はある程度広がっていた。

また、やや内陸にあったアテネの中心部から数キロほどの海辺には、アテネの玄関口といえるペイライエウス港があった。アテネを囲む市壁の南西の部分はこの港まで伸びて、港の一帯を囲んでいた。港のエリアと市街を結ぶルートは、アテネの生命線であり、都市の中心部と同じように壁で防御すべき範囲だったのだ。

アテネの中心部には、アゴラといわれる広場や、アクロポリスという、神殿や大劇場などの公共施設が立ち並ぶ、丘の上のエリアがあった。アクロポリスの一画に有名なパルテノン神殿が建てられたのは、ペルシア戦争終結後の紀元前440~430年代のことである。

アゴラにはさまざまな商店が立ち並んでいた。建物内の店舗のほか、屋台や露店も多かった。魚・肉・野菜、チーズ、ワインなどの食品や、陶器や衣料品、さらには奴隷などが売られ、お金を出せば、必要なものを何でも買うことができた。床屋や洗濯屋もあった。

 そして、あとで述べるように古代ギリシアは史上初めてコインが一般に普及した社会だった。ただし、都市の外の農村では、コインはそれほど浸透していなかったようだ。

アゴラには水汲み場も設けられ、水がめを抱えた多くの人たちが集まった。水は、市街の近くを流れる川から水道でひいたのである。このような水汲み場は、市内のあちこちにあった。

その多くは井戸水ではなく、水道によって水を供給するものだった。水道設備の一例として、紀元前400年代前半の、地下に埋設された陶製の水道管も発見されている。また、これと同時代に、アゴラには「大暗渠(だいあんきょ)」といわれる排水溝も建設された。

このようなインフラ整備は、のちのヘレニズム世界やローマ帝国に引き継がれ、さらに発展していった。

アテネの市街には、系統だった都市計画といったものはみられない。公共的な建物はアゴラ周辺に多かったが、都市の全体で公共施設、神殿や小さな御堂、住宅、工房などが混在していた。多くの道は狭く、曲がりくねっていて、ところどころ階段になっている。都市の中心から離れた場所では、建物は比較的まばらになるものの、無計画な様子は変わらない。

このような雑然としたあり方は、ギリシアの古くからの都市では一般的なことだった。しかし、なかには――とくにギリシア本土からの移住によって築かれた植民市には、整然とした都市計画に基づくものもかなりあった。

 

アテネの一般的な住居 

ここからは、ギリシアの都市全般に通ずる、住居の様子である――公共建築などの大規模な建物は立派な石造だったが、住居のほとんどは日干しレンガか粗っぽい石で建てられていた。

住宅の多くは二階建てで、かなりの場合階段はなく、はしごで上の階に上がった。家のほとんどは中庭を囲むように建てられ、窓も少なかった。住宅が並ぶエリアでは、通りからは壁ばかりがみえたはずだ。

住宅の床は、土間が一般的だった。固定した立派な竈(かまど)を持つ家は少なく、たいていは簡単な炉や火鉢で調理をしていた。ダイニングテーブルや椅子は、一般家庭ではあまり用いられなかった。

食事のときには寝台に各自が寝そべり、寝台の高さに合わせた小さなテーブルに食べものを置いた。屋内の照明に使われたランプについては、後で述べる。

衣類は、おもに毛織物である。木綿が広く普及するのは、1000年以上先のことだ。ただし、亜麻布(リネン)、麻、木綿もある程度は用いられていた。靴・サンダルは革製のものが普及していたが、裸足で歩くこともかなりあったようだ。

古代ギリシアの都市での暮らしが、高いレベルの文明生活だったことは確かだ。しかし一方で、暮らしの様子に少し分け入ると、今の私たちの感覚ではかなり粗末だった様子もうかがえる。

 

コインの普及 

また、古代ギリシアは、コイン(お金)が本格的に広く用いられた最初の社会だった。なお、紙幣はこの時代にはまだ存在しない。紙幣は宋(最盛期西暦1000年頃)の時代の中国で最初につくられ、ヨーロッパでは近代以降に普及した。

ギリシア本土でコインが最初に発行されたのは、紀元前500年代半ばである。これは、それ以前の紀元前600年代後半に西どなりのアナトリア(リュディア)で発明されたコインを真似たのである。また紀元前500年代後半には、ギリシアのとなりの大国であるアケメネス朝(ペルシア)のコインもギリシアに入ってきて、影響をあたえた。

コインのように、ギリシアの文明はいろいろなことで、周辺の文明国の影響を受けている。

エジプト、メソポタミア(今のイラクなど)、シリア、ペルシア(今のイラク)、アナトリア(今のトルコ)などを含む、世界史の地域区分では「西アジア」と呼ばれる地域が、ギリシアよりも府来るから文明が栄えたので、そこからギリシア人は学んで、さらに西アジアを超える文明を生み出したのだ(この点については関連記事で、より詳しく述べている)。

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そして、有力なポリスはそれぞれ独自のコインをつくるようになった。紀元前500年頃以降、銀貨などのコインが、ギリシアで一般的に流通するようになった。

 

なぜ古代ギリシアでコインが普及したか 

ほぼ同時代にアケメネス朝で発行されたコインは、じつは国全体には広まらなかった。コインが発明されたリディアでも、コインの使用は例外的だった。一方、ギリシアではコインが世界で最初に広く普及した。それはなぜだろうか? 断定はできないが、つぎの2点は考えらえる。

ひとつは、ギリシアという地域全体で、貿易がきわめて重要だったということがあるだろう。土地の条件には恵まれないギリシア人にとって、海の交通を通じて、自国では不足するものを手に入れることは、生活上不可欠だった。だからこそ、ポリスのほとんどは沿岸部にあった。

そして、貿易のときの支払手段として、コインは便利なものだった。貿易の相手が欲しがる商品が今は手元になくても、コインを渡せば機会を逃さず品物を手に入れることができる。

このような交換の機能じたいは貴金属(金・銀など)のインゴットでも同様で、古代ギリシア以前のおもな文明国ではインゴットなどが「お金」だった。しかし、コインはインゴットのように重さや品質を確かめる必要がないので、より簡便だった。

もうひとつ、民主主義の体制をとるギリシアのポリスでは、コインを発行する国家への信頼が、同時代のほかの国ぐによりも大きかった。

コインというのは「これは〇円」といった額面を、使う人たちに押しつける制度である。それを可能にする信頼関係が、ポリスと市民(国民)のあいだには成立していたのである。

古代ギリシアでは、とくにアテネにおいて市民の多くが政治に参加する「民主政(民主主義)」が発達した。民主政では、市民と政府のあいだの距離は縮まって信頼関係は強化される。そのような体制は当時の世界ではギリシアにしかなかった。また、そもそも民主主義のもとではコインの発行という事業じたいに、市民の意思がなんらかの形で反映していたはずだ。

コインの発行は、ポリスにさまざまなメリットをもたらした。まず、国家によるさまざまな支払いに、コインは適していた。たとえばアテネでは、ポリスの公務(国政を決める会合への出席、裁判の陪審員など)に市民が参加することになっており、その際には市民に報酬が出たが、それを食料などの現物ではなくコインで支払えば、より簡便である。

また、銀の重さの価値以上の額面でコインを発行すれば、ばく大な利益を国庫にもたらすことになった(しかし、やりすぎればコインの信用を損なうことになる)。

このようなメリットがあったので、ポリス(国家)はコインの発行を積極的に行うようになったのである。

  

アテネは「お金の経済」の心臓部 

そして、先ほども述べたように、貿易の際の支払いでコインは重要なものだった。そこで、最大の商業都市だったアテネのドラクマ銀貨は、ギリシア全体で最も広く流通し、現代でいえばドルのような信頼を得た。

また、アテネは当時のギリシアで最大の銀山を国家として保有しており、そこから大量の銀貨を製造できた。この銀山――ラウレイオン銀山は紀元前483年頃に大規模な鉱脈が発見され、多くの奴隷が採掘で働いた。

そして、ペルシア戦争以後、アテネは戦争中に結成された「デロス同盟」という、多くのポリスによる対ペルシア同盟の盟主として優位に立った。「ペルシア戦争」は、紀元前400年代前半に、ギリシアのとなりの大帝国であるアケメネス朝が攻めてきたのを、アテネが主導するギリシアのポリスの同盟軍が撃退した戦争である。

デロス同盟では加盟国から「軍事的な備え」の目的で資金(銀貨や銀の地金)を徴収した。その金庫は、当初は同盟本部とともにデロス島にあったが、やがてそれはアテネに移された。そしてアテネは、本来の主旨に反して、同盟の資金を自国の予算のように扱ったのである。

このようにアテネには大量の銀・銀貨が集まった。それは通商や銀山開発、他国から奪うことによってである。最盛期のアテネは、世界で最初に成立した「お金で動く経済」で、心臓部となった。

 

両替商による「銀行」 

このような銀貨の集積をベースにして、アテネでは「銀行」の原型といえるビジネスが生まれた。つまり、多くのお金を集め、通貨の両替で手数料を得たり、利子をつけて貸し出しを行ったりするのである。

これは、民間の商人である両替商が、預金を受け付け金貸しも行ったということだ。近代の銀行のような、発達した金融の制度に基づくものではない。

それでも、この「銀行」は有用なものだった。預金に利子はつかなかったが、富裕な市民や外国人は財産を安全に保管できた。資金の貸し付けは、商人だけでなく、外国の権力者に対しても行われた。一方、庶民を相手に、わずかな品物を担保とする「質屋」のような小口の融資も行われた。つまり、幅広いニーズがあったのだ。

そして、このようなサービスが成り立つには、「預けたお金が守られる」「貸したお金が返ってくる」ことが前提になる。それには、国家による「契約や財産の保護」ということが機能していないといけない。紀元前400年頃のアテネでは、それが裁判などを通じてかなりのレベルで実現していたのである。

 

銀行家パシオン 

当時のアテネの「銀行家」として、たとえばパシオン(紀元前370頃没)という人物がいる。

彼の銀行は、各地から貿易商人が集まるアテネ郊外のペイライエウス港の「取引所」の一画にある店舗で、机や帳簿を備え、経営者のほかに数人の奴隷がスタッフとして働いていた。パシオンについては、彼が被告となった民事裁判に関する文献が残ったため、その生涯などが伝わっている。

パシオンは奴隷の出身だった。銀行家である主人に仕え、その右腕として活躍した。そして主人が死ぬと遺言によって奴隷身分から解放された。これは「解放奴隷」というもので、一定の活動の自由はあるが、参政権や土地所有は認められない、在留外国人と同様の身分である。そして、解放されてのち、パシオンは盾の製造や銀行業で成功して富豪となった。さらにその後はアテネに多大な寄付をした功績で、市民になることができた。

パシオンは、お金の力を味方につけて身をおこし、自由な市民としての特権を得た。「お金」と「(市民としての)自由」がキーワードだという意味で、まさに当時のギリシア文明を象徴する人物といえるだろう。

 

夜のあかりが一般的に 

前に述べたように、最盛期のアテネの都市としての規模(人口10~15万)は、先に都市が発達した紀元前2000年代のメソポタミアの都市や、紀元前600年頃のバビロンを大きく超えるとはいえない。

もしも、往年のメソポタミアの都市民やバビロンの住人を、タイムマシンで最盛期のアテネに連れていっても、そのスケールには驚かないだろう。

それらと比べて、パルテノン神殿は、デザインの美しさや完成度はともかく、スケール的に驚くようなものではない。

しかし、夜のアテネをみわたせば、メソポタミアの都市民が驚嘆するはずの光景がある。それは「夜の明かり」である。

当時のアテネでは、オイルランプという、油を燃やしてともす照明器具が使われていた。これは、陶器や金属の器に油が張ってあり、火をつける芯(灯芯)がセットされている、というものである。古代ギリシアでは、急須のような形の陶器でできたものが一般的だった。丸いボディに油を入れ、急須の口の部分から出ている芯に灯をともす。燃料の油はオリーブ油が使われた。

 

古代ギリシアのオイルランプ

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紀元前400~300年代の最盛期のアテネでは、こうしたオイルランプが各家庭で日常的に用いられた。古代ギリシア人が栄える以前には、それだけの明かりを使う生活は、存在しなかった。

当時のギリシアの文学のなかで、日没の頃を「ランプが灯される時刻」と表現することもあった。紀元前300年代、アテネのアクロポリスの重要な神殿では、黄金製のランプの灯が日夜燃え続けていたという。ほかの公共施設にもランプが設置されることはあっただろう。ただし、当時のアテネに街灯はまだなかった。 

 

オリーブ油の製造技術の発達 

オイルランプそのものは、紀元前3000年頃のメソポタミアで発明された。その初期のものは、皿のようなごく単純なかたちのものである。

その後オイルランプは西アジア全域に広まり、のちには中国でも独立に発明されてつくられるようになった。そして、人びとの生活にとって重要なものになったのだが、その普及には壁があった。

オイルランプに用いる油は、ゴマ油・なたね油・オリーブ油などの植物油である。それらの植物の堅い種などから、純度の高い油をしぼり取るのは、じつは相当な手間がかかる。5000年ほど前に、そのような油を製造する技術がある程度確立したことが、オイルランプというものを成立させたのである。

しかし、往年のウルクやバビロンの時代には、油の製造技術(とくに量産の技術)はまだまだ未発達で、オイルランプの明かりは貴重品だった。どの家庭でも毎日ランプを使うなど、無理なことだった。

しかし2000数百年前のギリシア人は、オリーブ油の製造技術を大幅に進歩させた。ギリシア人は、オリーブの実やその中にある堅い種をつぶして油を搾り取るのに、一種の機械を用いた。テコの原理などの仕掛けで、つぶした種に圧力をかける、かなり発達した装置(圧搾機)である。もっと簡単な仕掛けでも油を取り出すことはできるが、大量生産には工夫された装置が必要だった。

オリーブ油の圧搾機の原型は、おそらく西アジアで発明されたものだろうが、はっきりしない。少なくともそのような装置をギリシア人は発達させて、より広く用いるようになったのである。紀元前200~100年代には、さらに発達したねじ式の圧搾機も、ギリシアで発明された。

そして、オイルランプは古代ギリシア以降も、改良を加えられながら世界各地で使われた。1900年代に電灯が普及するまで、主要な照明器具であり続けた。

アテネの知識人や読書家は、オイルランプの明かりのもとで、パピルスの書物を読んでいたことだろう。夜でも読み書きができる、ということは学問や文化の発展をうながしたはずである。さらに、読み書きや読書の普及は、民主主義の発達にも影響を及ぼしたはずだ。

 

ワインの量産 

また、ワインの量産・普及ということでも、オリーブ油と同様に古代ギリシア人は大きな足跡を残した。ワインを大幅に普及させたのだ。

ワインの起源は少なくとも紀元前6000年頃にさかのぼる。これは今のジョージア(グルジア)などの、のちの文明の展開においては「周辺的」な地域でのことだ。そして、その製法がメソポタミアやエジプトといった、当時の文明の中心に伝わったのは、紀元前3000年頃のことだった。

先進社会に製法が伝わったことで、ワインづくりはさらに発展した。ブドウの果実に圧力をかけて果汁を搾り取り(圧搾を行い)、それを貯蔵・熟成するという製法が確立したのである。現在のワインも原理的には同じやり方でつくっている。それまでのワインは、単に皮ごと果実をつぶして容器に入れ、発酵させたものだった。

なお、果汁の「圧搾」ということは、さきほど述べたオリーブ油の圧搾と共通する技術だが、硬い種からオリーブ油を取り出すほうが、圧搾としてはより難しい。

ただし、古代ギリシア以前の文明の中心(メソポタミアやエジプトなど)において、酒といえばまずビールであり、ワインは貴重で高価なものだった。

たとえば、紀元前870年頃、西アジアの広い範囲を支配したアッシリア王・アッシュールナシパル2世は、新首都ニムルドの完成を祝う大宴会(参加者なんと7万人)を催したが、そこで目玉となった飲み物はビールではなく、ワインだった。宴会の様子を描いたレリーフでは、王はボウルでワインを飲んでいる。貴重なワインを大勢にふるまうことで、王は自分の富やパワーを誇示したのだ。

しかし、ギリシア産のワインが広い範囲に流通するようになって、ワインは地中海から西アジアにかけての地域で、日常的なものになった。

ギリシア人は、オリーブ油の生産と同様に、改良・工夫された道具を広く用いるなどして、ワインの大量生産を行うようになったのである。そして古代ギリシアでは、特権的な人びとだけでなく、多くの普通の人びとがワインを頻繁に飲むようになった。なお、ギリシアではワインは水で割って飲んでいた。今のワイン通がみたら、許せないだろう。

紀元前400年代になると、アテネでは国家がワインの保護・規制を行った。法によってワインが「有名産地の複製品」「ブレンドしたもの」「特殊な製法によるもの」などのカテゴリー別に分けられ、その種類に応じて産地や製法、添加物などが示されていた。

この時代に、現代の食品表示にも通じることをしていたのだ。それだけワインが多くの人の生活に欠かせないものになり、また質的にも発展していたのである。

ウイスキーのようなアルコール度の高い蒸留酒が普及するのは、近代以降のことだ。「蒸留」というのは、溶液を加熱して蒸発させ、できた蒸気を冷やして液体として回収し、一定の成分(たとえばアルコール)を濃縮あるいは分離することである。これはかなり高度な、化学的プロセスなのである。

オリーブオイルやワインは、アンフォラという両脇に持ち手がついた陶器の壷に入れて運ばれた。大量に用いられたアンフォラは、古代ギリシアを代表する生活用品といっていい。美しい装飾の図柄が描かれたアンフォラも数多くつくられた。アンフォラじたいが重要な商品でもあった。

 

すぐれた技術者だったギリシア人 

そして、古代ギリシアの発展の根底には、技術の進歩があった。古代ギリシアというと、かなりの人たちは「文化」がまず浮かぶかもしれない。しかし技術史家のフォーブスは“ギリシア人は非凡の技術者であった”と述べている。

古代における水道というとローマ人によるものが有名だが、ギリシア人はローマ人よりも先に大規模な水道建設を行っている。

たとえばエーゲ海東部のサモス島には、紀元前500年代後半にエウパリヌスという技術者が建設した水路トンネルの跡が残っている。郊外の湖から水をひいて海岸の都市に導くために、高さ300メートルの丘を抜ける、直径2.5メートル、長さ1100メートルのトンネルを掘り抜いているのである。

トンネルは丘の両側から堀り始められ、ほぼまっすぐに進んで途中で結合されている。これは測量が正確でないとできないことだ。このトンネルの内部には直径1メートルの木製の水道管が通っていた。水道管のつなぎ目には柔らかい金属の鉛が用いられた。

このような水道は、ギリシアの各地でつくられた。しかし、その遺構はあまり残っていない。

ただし、水路を建設して都市の外部から水をひくことは、ギリシア人が始めたことではなく、メソポタミアなどの西アジアが先行していた。そのような水路の古い例として、紀元前690年頃建造の、アッシリア帝国の首都ニネヴェに水を供給した石造りの水道橋がある。この水道は、80キロ離れた川からニネヴェまで水を運んだ。ギリシア人は、おそらくこのような事例に学んだのである。

なお、各ポリスの国土は小さかったので、ギリシア人の水道はアッシリアやローマとはちがって、都市に近い場所から水をひくのが一般的だった。

 

初歩的な機械装置 

そしてギリシア人は、さまざまな道具や初歩的な機械装置の工夫も行った。

たとえば、紀元前600年頃のギリシアでは、回転挽き臼が用いられるようになった。これは、その後の世界で挽き臼としておなじみになったタイプのものである。2枚の円形の石を上下に組み合わせ、上の石が軸に支えられて回転し、上下の石のすきまでムギなどの穀物の粒がすりつぶさされる、というものだ。

「臼」という漢字は、このようなあり方をもとにしている。これを最初にさかんに用いたのはギリシア人だったのである。それまでは、穀物を臼の上にのせて棒でつついたり、ローラー状の道具を往復させたりしていた。それにくらべ、回転式の挽き臼は、作業効率も粉の品質もすぐれていた。

紀元前500~400年代には、このような挽き臼はさらに大型化し、ロバの力で回転させるものもあらわれた。上部の石に棒を取り付け、そこにロバをつないで臼のまわりを歩かせるのである。これは、家畜という人力以外の動力源と機械装置を組み合わせた先駆けである。

なお、コムギや大麦などのムギ類を主食とする場合、コメのように種子の粒のまま炊くのではなく、粉にしてパンを焼くなどしないと食べにくい。そこで、ムギを主食とする社会(西アジア・ヨーロッパ・中国北部など)では、粉挽きの技術は重要なものだった。また、さきほど述べたオリーブ油製造機も、このような、生活に大きな影響をあたえた装置の工夫のひとつだった。

滑車や巻き上げ装置などを用いた、クレーンのような装置も、ギリシア人はさかんに用いた。紀元前400年代に建てられた、アテネのパルテノン神殿の円柱は、11に分割された短い円柱をクレーンでつり上げて積み重ねたものである。分割された各パーツの各重量は平均で8トンほどだ。円柱は正確に積まれ、なめらかに接合されている。

古代ギリシア以前、文明のはじまりの時代の西アジアでは、建設工事にクレーンは使われなかった。エジプトの神殿の石柱は1本の大きなカタマリで、それを立てるには土の坂道をつくり、大勢で石柱を高いところに引き上げ、そこから下へ落としこんだのである。大きな石の柱でも、古代ギリシアとは建設方法がちがうということだ。

滑車も巻き上げ装置も、原型は鉄器時代の初期に西アジアで発明されたものだ。ギリシア人はそれを改良し一般化したのだった。滑車の存在を示す古い証拠としては、紀元前700年代のアッシリアのレリーフに、滑車が描かれたものがある。

 

鉄器の普及が基礎 

2000数百年前のギリシア人の、当時としては最も進んだ技術の基礎には、素材や道具としての金属器、つまり鉄器の普及ということがあった。

たとえば、鉄のツルハシなどがなければ、岩盤を含んだ丘を1000メートル余りも掘り抜いて水道トンネルを造ろうなどとは考えなかったはずだ。水道管には中をくり抜いた丸太が使われたが、これも樹を切り倒す鉄の斧や、その他の鉄製の大工道具がなければ、大量生産は困難である。

鉄器以前のおもな金属器であった青銅は、原料となる鉱石、とくに錫がとれる場所がかぎられるため、生産にはおおいに限界があった。青銅は基本的には貴重品であり、その用途の中心は、高価な工芸品・武器・一部の工具だった。金属器が普及して、さまざまな道具に広く用いられるようになったのは、鉄器以降のことである。

鉄器を生んだのは、西アジアの人びとである。その起源(時期・場所)は諸説あるが、西アジアで鉄器の普及が始まったのは紀元前1000年頃からである。

鉄器の普及によって、さまざまな仕事の生産性が上がった。鉄の斧があれば木を切り倒す作業がはかどる。これは、森林を切りひらいて耕地を広げるうえでは重要である。

鉄のツルハシがあれば、土木工事の効率があがる。先端部を鉄にしたクワや犂を用いれば、少ない力でより深く土を耕すことができる。そして、鉄製の工具や部品・素材を使うことで、さまざまな道具や装置も進歩した。回転式挽き臼、オリーブ油製造機、滑車やクレーンなどの装置は、その一例である。

ギリシア人は、そのような鉄器による革新を、鉄器を生んだ西アジアの人びと以上に、積極的に広い範囲で行ったのである。ギリシア人の文明は、鉄器の実用化から派生した技術革新の波が生み出した、重要な到達点だった。

 

まとめ・古代ギリシアの位置づけ 

古典期のギリシア人は、さまざまな分野で先駆けとなった。法や組織を備えた民主主義、体系的・理論的な学問、リアルで生き生きとした彫刻、読み書きの普及、書籍の出版・販売…これらについては関連記事で述べている。

そして、この記事で述べた、一種の「銀行」まで生んだお金の経済、夜の明かり、ワインの日常化、大規模な水道トンネル、クレーンなどの初歩的な機械装置……

そのような社会・文明を代表する都市が、アテネだった。

古代ギリシアにおいて、私たちが「文明」(ただし近代以前の伝統的なもの)といえば思い浮かべるものが、だいたいそろった。これをもとに精緻化や量的拡大を重ね、そこにいくつかの新しい要素を加えたのが、近代文明なのである。

近代の「新しい要素」とは、産業革命をもたらした科学・技術、資本主義の経済、そして、奴隷制などの人権侵害を否定する「全ての者の自由・平等」という理念などである。

そして、古代ギリシア以後の主要な国家の多くは――ヘレニズムの国ぐにやローマ帝国だけでなく、イスラムの国ぐにも――古代ギリシアで達成されたものを改良したり、より大規模にしたり、組み合わせや総合を行ったりして、自分たちの技術や文化を発展させた。

たとえば、ローマ帝国でもイスラムの帝国でも、古典期のギリシア人が残した科学や哲学は、学問研究の中心だった。ローマの科学もイスラムの科学(アラビア科学)も、要するにギリシア科学だった。

やはり、古典期のギリシアは世界史のなかできわめて重要な位置を占めている。古代ギリシアを特別視する「ヨーロッパ中心主義」であろうとなかろうと、またどこの国の人間であろうと、古代ギリシアについてはぜひ知っておくべきだ。古典期のギリシア人は、現代の文明にとって「伝統」「古典」といえる要素を築くうえできわめて大きな貢献をした。

つまり、古代ギリシア人は人類にとって「古典の中の古典」を築いたということだ。まさに「世界史上のスター」といえるだけの功績を残しているのだ。

 
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