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一気に読めるアフガニスタンの歴史入門・なぜ混乱が続くのか・基本の知識と視点

はじめに 

アフガニスタンについては、今いろんなことが論じられていて、それらをいくらかでもまじめに追っていると頭が混乱してしまいそうだ。

この記事では、アフガニスタン情勢についてのニュースなどをより深く理解するための基礎知識を述べる。

アフガニスタンの見方でまず大事なのは、この国を混迷・混乱させている条件や要素について歴史を通して押さえることだ。それはつぎの3つの事柄である。

  • 大国のあいだの「狭間(はざま)の国」である
  • 人為的に歪められた多民族国家
  • 「反近代」の勢力を後押しする、地元に根づいた保守的な価値観

これらについて順に説明していこう。まずは「狭間の国」としての歴史から。

目 次

 

民族構成と宗教・言語

そもそもアフガニスタンというのは、「アフガン人の国」ということである。「スタン」とは「国」を意味する。アフガン人とは、ペルシア語(隣国イランで主流の言語)でパシュトゥン人のことだ。

パシュトゥン人はイラン系で、アフガニスタンの最大の民族である。全人口約3800万のうちの42%を占め、多くが中部・南部に住んでいる(ただし全国各地に一定のパシュトゥン人はいる)。

次にイラン系のタジク人が人口の27%、トルコ系のウズベク人が9%、元はモンゴル系のハザラ人が9%。ほかにトルクメン人、バローチ人などである。

なお、タジク人は隣接するタジキスタンで、ウズベク人はウズベキスタンで主流の民族である。それらの民族の一部が隣のアフガニスタンにもいるということだ。

どの民族も聞きなれなくて戸惑うが、「パシュトゥン人」「タジク人」くらいは覚えておくといい。

国民の大多数はイスラム教徒で、そのうち8割をスンナ派が、2割をシーア派が占める。

言語はおもに、パシュトゥン人のパシュトゥ(パシュト―)語とタジク人のダリ―語が併用されている。ダリ―語はペルシア語の一種である。隣の大国であるペルシア(イラン)の影響が強く、8割程度の人がダリ―語を用いる。一方、パシュトゥ語を用いる人も5割弱は存在し、とくに都市部では両方の言語を使う人が多い。

アフガニスタン周辺には、ウズベキスタンやタジキスタンのような、国名に「スタン」がつく国がいくつも存在する。これらの「スタン」の国ぐには「中央アジア」という地域区分に属する。

 

歴史1・王国の誕生まで

大国に囲まれた「狭間の国」は、大国間の勢力争いの舞台になってしまいがちだ。

ここではイスラム化以前の歴史は割愛する。今のアフガニスタンにあたる地域でイスラム教が広まったのは古く、イスラムの帝国の初期の時代(700~900年代)にまでさかのぼる。

その後、トルコ系の王朝の支配を受けたり、モンゴル帝国の一部なったり、その後に登場したティムール帝国という中央アジアの大帝国の一部となったり、いろいろな強国に支配された。

1600年頃からアフガニスタンの周りでは、インドを統一したムガル帝国と、イランのサファヴィー朝という2つの大国が栄えるようになった。どちらもイスラム王朝が支配する国だ(ただしイランはシーア派、ムガル帝国はスンナ派)。アフガニスタンは両国の勢力争いの舞台となった。

1700年代になると、2つの大国がやや衰えてきた。1700年代前半には、アフガニスタンの人びとは、強い圧力をかけてきたサファヴィー朝に反旗を翻して打撃をあたえた。

アフガニスタンからの攻撃が一因となって、サファヴィー朝は崩壊してしまう。イランでは新しい王朝が成立したが、今度はその王朝がアフガニスタンを支配するようになった。

こうしたイランの支配に対し、アフガニスタンの部族勢力が立ち上がった。その勝利によって、1774年にアフガニスタンをまとめる最初の独立王国が成立した。

 

歴史2・イギリスとロシアの「グレート・ゲーム」

1800年代には、ヨーロッパ諸国が世界の各地を従属させる「帝国主義」の動きがさかんになった。そのなかでロシア帝国は、アフガニスタンなどの中央アジアへ進出しようとした。これをイギリスは、インドなどの自国の勢力圏を脅かすものとして警戒した。

アフガニスタンは、今度はイギリスとロシアの勢力争いの舞台となった。この勢力争いは「グレート・ゲーム」ともいわれる。イギリスはアフガニスタンを征服しようと、2度にわたって大きな攻勢をかけた。

最初の第1次アフガン戦争(1838~42)では、アフガニスタン側の抵抗が激しくイギリス軍は撤退。しかし第2次アフガン戦争(1878~80)ではイギリスは勝利して、アフガニスタンを外交権などの失われた「保護国」として支配化におさめた。

 

歴史3・イギリスからの独立~冷戦時代

その後、1900年代には第一次世界大戦(1914~1918)が勃発。大戦の最中にロシア帝国は革命で体制崩壊した。イギリスも大戦では勝利したが、大きなダメージを受けた。またインドでは大戦中からイギリスへの抵抗が激化。これらに乗じて、1918年にアフガニスタンの人びとはイギリスに戦争をしかけ、1919年に独立を勝ち取った(第3次アフガン戦争)

独立を回復したアフガニスタンは立憲君主国となった。第二次世界大戦(1939~45)では中立政策をとっている。教育改革など一定の近代化もすすめられた。

当時のアフガニスタンは「世俗化」といって、イスラム教を国教としつつも、西洋的な価値観や法を受け入れる方針をとった。これにイスラム主義者はつよく反対した。

大戦後の、アメリカとソ連が対立する冷戦時代(おもに1950~60年代)にも、中立・非同盟、つまりアメリカともソ連とも距離を置く方針がとられた。ただし、隣国パキスタン(第二次大戦後にインドから分離して独立)と国境問題で対立したことから、しだいにソ連との関係が深まった(そのぶんアメリカとの関係は悪化した)。

1960年代には民主主義をうたう新憲法が公布され、その後パキスタンやアメリカとの関係も改善された。ソ連やアメリカの支援でインフラ建設が行われ、外国人観光客も訪れるようになった。

政党結成の自由も認められた。イスラム原理主義、社会主義、民族主義などの政党が活動するようになった。

このような、開発がある程度軌道に乗ってきた状態では、それまでの伝統的な価値観が揺らいだり、貧富の格差が拡大したりする。つまり社会の矛盾が深まり、さまざまな緊張や摩擦が生じる。

そして、その「矛盾」を解決するために、革命やクーデターを起こそうとする動きが出てくることがある。

 

歴史4・社会主義政権とソ連の侵攻

1973年には、ソ連が支援する軍人たちによって、王政を倒すクーデターが起こった。共和制が宣言され、クーデターの首謀者である王国時代の前首相が大統領となった。この政権は、最初はソ連の影響下にあったが、しだいに独自路線を歩むようになり、独裁的になっていった。

そこで、ソ連は別の勢力によるクーデターを後押しした。1978年、ソ連が育成した人民民主党という政党と軍部によって(前述の)大統領は殺害され、新たな政権が樹立された。

この人民民主党の政権は「イスラム社会主義」をかかげた。しかし、その政策には男女平等の推進や土地改革など、この国のイスラム的な慣習や既得権を否定する面が多かった。これはさまざまな反発をまねいた。政権内部でも激しい対立があり、政治は不安定化した。

こうしたなかで、イスラム主義のさまざまな武装グループが各地で反政府のゲリラ戦を始めた。イスラム側の指導者は、人びとに「ジハード(聖戦)」を呼びかけた。ジハードとは、イスラムの大義のために戦うことである。アフガニスタンは内戦状態となった。

この状況に対し、ソ連は1979年にアフガニスタン侵攻を開始した。派遣されたソ連軍は従来の政権を倒し、新たな政権をつくった。それで体制を立て直したうえで反政府勢力を鎮圧しようとしたのである。

一方、アメリカなどの西側諸国は、ソ連と戦う反政府勢力を支援した。武器などを与え、軍事訓練も施した。アフガニスタンの内戦は、アメリカとソ連の代理戦争と化した。アフガニスタンは、また大国どうしの争いの舞台となってしまったのだ。

ソ連と戦う反政府勢力の兵士は「ムジャヒディン」と呼ばれた。アラビア語で「ジハードを行う者(たち)」という意味である。

 

歴史5・ソ連の撤退と新たな内戦

ソ連軍はムジャヒディンを壊滅することはできなかった。9年間の泥沼の戦いのあと、1988年の協定でソ連軍の撤退がはじまり、1989年2月に撤退が完了した。ソ連の最後の指導者・ゴルバチョフの時代である。

だが、ソ連が撤退しても、ソ連の傀儡(かいらい)政権は首都カブールに居座って抵抗を続けた。ムジャヒディン勢力が戦いの末にカブールを制圧して新政権を打ち立てたのは1992年4月のことだった。

しかし、その後はムジャヒディン内部で主導権争いが起こって、新たな内戦になってしまった。

ムジャヒディンは、主義主張のほか、地域・部族によっていくつものグループに分かれていて、もともと各派どうしの対立はあった。それでもどうにか一緒に戦ってきたが、共通の敵がいなくなったことで、対立が激化したのである。

ムジャヒディン各派のような、軍事力をもった派閥集団のことを「軍閥」という。

軍閥どうしの争いによる内戦は、何年も続いた。治安は最悪となり、人びとの暮らしは悲惨をきわめた。各地で市民をまきこむ戦闘があり、無法者たちによる破壊、暴力、略奪、誘拐が日常的にくりかえされた。地雷もあちこちに埋まっていた。

多くの人びとが海外に難民として逃れた。難民は、ソ連との戦争の際にも発生したが、90年代の内戦ではそれよりもはるかに多い100万人単位となったのである。

当時、アフガニスタンの一般市民は「もう誰でもいいから、この内戦を終わらせて欲しい」と心底願っただろう。

この願いが、タリバンを生んだといえる。

 

歴史6・タリバンの登場

タリバンという勢力が登場したのは、1994年のことだ。その名称は「学生・求道者」を意味するアラビア語の「タリブ」の複数形である。

ただし、アラビア語の複数形ではなく、パシュトゥ語で複数形にしている。つまり地元に根ざした組織だといいたいのだ。タリバンは、パシュトゥン人が主導する勢力である。

「学生」というのは、タリバンがもともとアフガニスタン南部や、アフガニスタンに近いパキスタン西部のマドラサ(イスラム神学校)の学生たちだったからだ。タリバンを創始したムハマド・オマル(1960~2013)は、その地域のマドラサの教師で、以前にはソ連軍と戦う兵士だった。また、彼が教える生徒たちにも元兵士はかなりいた。

オマルが活動した地域のマドラサの多くは、スンナ派のなかの「デーオバンド学派」に属していた。この学派は、西洋的な価値観を受け入れる「世俗主義」を敵視し、厳格なイスラム法解釈を社会の隅々にまで徹底させるべきだと主張する。たとえば音楽や踊りは一切禁止である。この学派がタリバンの思想の基本にある。

なお、デーオバンドというのは、この学派が1800年代にインドのデーオバンドという町で創始されたからである。イスラム世界では、有力な学派のひとつとされる。

オマルが組織した学生たちが、治安回復をめざし武器を取って立ちあがったのが、タリバンの活動の始まりだった。少なくともタリバン側が主張する歴史ではそういうことである。最初は数十人規模の集団だったが、1994年11月に隣国パキスタンからの物資を乗せたバスがアフガニスタン南部で山賊に襲撃された際、その連中を撃退したことで、世に知られるようになった。

当時、その学生たちの集団にとくに名称はなかったので、メディアなどがとりあえず「学生たち」と呼び、それが定着した。

タリバンがかかげる「内戦を終わらせ、治安を回復する」という目標は、多くの人びとの共感を呼んだ。タリバンに加わりたいと志願する者が続出した。志願者の多くは、元兵士だった。無法者が投降してくることもあった。タリバンの構成員は、「バス襲撃」の事件から数か月で2万人にまでふくれあがった。

タリバンには当初「無欲な学生たちによる世直し」という清潔なイメージもあった。たしかに、ムジャヒディンの軍閥がしばしば露骨に賄賂を要求するのに対し、タリバンはその点ではやや控えめだった。

そして、当時のパキスタン政府は、アフガニスタンに自分たちの影響力を拡大しようと考え、タリバンを陰で支援していた。パキスタンは、タリバンの育ての親なのだ。

パキスタンは、もとはイギリス領インドの一部で、1947年の独立の際、ヒンズー教徒が中心のインドからイスラム国家として分離した。このためインドとは緊張・対立が続いてきた。東の隣国インドと敵対しているため、西隣には密接な関係のイスラム国家をつくりたいという思惑が、パキスタンにはあった。

万単位の兵力を抱えるようになったタリバンは、やがてアフガニスタン南部の各地を支配するようになり、1995年のうちには首都カブールをめざして進軍を始めた。

 

歴史7・“第一次”タリバン政権の成立 

1996年9月、タリバンはカブールを制圧した。ただし、アフガニスタンの南部・東部はおさえても、まだ北部の制圧はできていない。

97年になると、ようやくムジャヒディンの各派が反タリバンで結集することが明確になった。ラバニ元大統領派(タジク人主導)、ヘクマティヤル元首相派(パシュトゥン人主導)、ドストム将軍派(ウズベク人主導)などが、アフガニスタン北部を拠点としてタリバンと戦う「北部同盟」を結成したのである。

ラバニは、1992年にソ連の傀儡政権を倒したあとに成立した新政府の初代大統領で、ヘクマティヤルは首相だった。その後ラバニとヘクマティヤルなどとあいだで対立が激化して内戦になったのだが、タリバンに追いつめられて、また同盟を結んだということだ。

北部同盟は、軍事面をリードしたマスード司令官(タジク人、2001年に暗殺され死亡)がタリバンと激しい戦闘をくりひろげるなど、巻きかえしをはかった。しかしタリバンはやはり優勢で、99年には国土の9割がたを制圧した。

それでも北部同盟の抵抗は続いたが、ついにアフガニスタンはタリバン政権が支配する国となった。

タリバン政権は、彼らの解釈によるイスラム法に基づいて、社会を統制しようとした。10才以上の女子が学校に行くことが禁止され、女性は外で働くどころか、男性の付き添いなしでは外出も許されなくなった。女性看護師でさえ勤務が禁止されることがあった。報道機関の撮影は禁止。カブールの男性はあごひげを生やせ、礼拝に来ないと処罰する。音楽やドラマは禁止…

タリバンに反発・抵抗する人は命をうばわれるなど、きびしく弾圧されることになった。

登場したときは「治安を回復してくれる希望の星」にもみえたタリバン。しかし、権力を得ると「暴虐なイスラム過激派」としての姿が明らかになった。とくにイスラムの穏健派や海外からみれば、そうだった。

また、タリバンのメンバーには政治の経験が皆無だった。結局、まともな統治や行政運営もできず、社会の混乱は続いたのである。

一方、タリバンがカブールを制圧する少し前、1996年の夏に、アラブ系のイスラム過激派のウサマ・ビンラディン(1957~2011)が、アフガニスタンに入った。

ビンラディンはサウジアラビアの財閥一族の生まれで、反米をかかげる国際テロ組織「アル・カイーダ」のリーダーである。当時すでに爆破事件などいくつかの反米テロに関与したとして、アメリカ当局は彼を追っていた。その人物がアフガニスタンに居場所を求めてやってきた。タリバンは、ビンラディンを「客人」として迎えることにした。

 

歴史8・アメリカのアフガニスタン侵攻~占領の時代

そして2001年9月11日に、アメリカで同時多発テロが起こった。アメリカはこのテロの首謀者とされるビンラディンの引き渡しを要求したが、タリバンは拒否した。タリバンを主導するパシュトゥン人の道徳では、「客人」は大切にしないといけないのだ。

アメリカのブッシュ(子)政権は、「テロとの戦い」を看板に、2001年10月、同盟国とアフガニスタン侵攻を開始した。空爆とともに地上軍を投入し、北部同盟を支援してタリバンを追い詰めていった。そして2001年11月にはカブールを制圧した。

タリバン政権は崩壊し、アメリカが支援する北部同盟主体の新政権がつくられた。2005年には、36年ぶりに民主的な総選挙が行われた。2011年には、アフガニスタンからパキスタンに逃れて潜伏していたビンラディンを、アメリカの特殊部隊が殺害した。

しかし、タリバンは全国的な支配を失ったものの、各地に力を温存はしていた。そして、2003年にイラク戦争が始まって、アフガニスタン駐留軍のかなりの部分がイラクに割かれるようになった頃から、勢力回復の動きを活発化させた。

タリバンは、とくに地方では一定の支持があり、パキスタンの支援も得ていた。また、駐留軍が当初よりも少なくなるにつれ、活動しやすくなったタリバンはしだいに支配地域を拡大していった。

一方で、タリバン以後の新政府による国づくりは、順調ではなかった。

新政府は、北部同盟を構成する各派などの軍閥の集まりである。つまり、もともとは互いに争うばかりでまともな政治を行わず、賄賂はあたりまえという有力者の集まりなのだ。

そこでこの政府は、ひどく腐敗していくことになった。ジャーナリストの貫洞欣寛(かんどうよしひろ)さんは、こう述べている。

“アフガン政府軍には、帳簿の上にしか存在しない多くの「幽霊兵士」がいた。タリバンとの戦闘を恐れて逃亡した兵員をそのままカウントしたり、最初から実在しない人員を書類上で偽造したりした各地のボスや役人たちが、アメリカなどから注ぎ込まれる資金を懐に入れていた”(『ニューズウィーク日本版』2021.9.7号 21㌻)

こういう状況なので、タリバンが勢いを回復する余地が生まれ、タリバンと戦うはずの政府の軍隊も、まともに育たなかった。軍隊だけでなく、ほかの分野でも同様のことがあっただろう。

また、駐留軍にしてもタリバンとの戦いのなかで、誤爆などによって一般市民を傷つけていた。駐留軍はかなりのアフガニスタン人にとって、自分たちを助ける「解放軍」ではなかった。そこで、駐留軍と戦うタリバンを支持する気持ちも生じたのである。

 

歴史9・アフガニスタン駐留軍の撤退とタリバンの再びの席巻

その後、2020年2月に、トランプ大統領は近い将来におけるアフガニスタン駐留米軍の撤退を表明した。アフガニスタンからの撤退は、トランプの選挙公約だった。

たしかにアメリカ国民のあいだには、アフガスタンの問題について「もうどうでもいい」「うんざり」という空気はあった。タリバンとも話し合って合意に達したと、トランプは述べた。

この方針を、トランプと大統領選を争って勝利した、次のバイデン大統領も受け継いだ。アフガニスタンからの撤退は、バイデンも公約にしていた。

2021年4月、バイデン大統領は9月に駐留軍が完全撤退することを発表した。その時点で、すでにタリバンは国土のかなりの部分をおさえていて、再び台頭してきたのは明らかだった。しかし、アフガニスタン政府軍も育ってきたので、駐留軍が去っても簡単にはタリバンに負けないだろう、という読みだった。

しかし、それは大まちがいだった。タリバンは、バイデンによる撤退の発表以降、急速に勢い増していった。そして、2021年8月までに国土の大部分をおさえたタリバンは、8月中旬には首都カブールもあっさり制圧してしまったのだ。

それまでの政権のトップだったガニ大統領は国外に逃亡し、政権は崩壊した。タリバンは、再び自分たちがアフガニスタンを統治すると宣言した。この混乱のなかで、国外への脱出をはかる人びとが空港に殺到し…

歴史については、ここまでとしよう。このあたりからは歴史ではなく、今現在のニュースだ。

 

大国のあいだの「狭間(はざま)の国」

この記事の最初に、アフガニスタンを混迷・混乱させている要素として、つぎの3つが重要だと述べた。

  • 大国のあいだの「狭間(はざま)の国」である
  • 人為的に歪められた多民族国家
  • 「反近代」の勢力を後押しする、地元に根づいた保守的な価値観

ここまで述べたのは、おもに「狭間の国」としてのアフガニスタンの歴史である。

この300~400年でみても、アフガニスタンはサファヴィー朝とムガル帝国、イギリスとロシア、ソ連とアメリカといった当時の大国の勢力争いの舞台となって、さまざまな介入や圧力を受け、さらには大国間の代理戦争まで行われた。たしかにこれでは安定した発展は困難になる。

これと似た条件の国は、バルカン諸国など、ほかにもあるが、アフガニスタンはまさにその典型のひとつである。

 

人為的に歪められた多民族国家

さらに、「人為的に歪められた多民族国家」であるという点も、安定にマイナスの大きな要素である。

「人為的に歪められた」とは、大国の都合による国境線などで民族の分布や人口バランスが歪められたということである。これは「狭間の国」として大国の介入を受けた結果ともいえる。

1890年代にアフガニスタンが敗れて「保護国」となった際、イギリス領インドとの国境が、イギリスによって決められた。それはアフガニスタンの多数派であるパシュトゥン人が多く住む地域を分断するものだった。

これは当時のアフガニスタン国王(パシュトゥン人)にとって、きわめて不利益な国境だった。今もパシュトゥン人が多く住む地域は、アフガニスタン南部とパキスタン西部という2つの国の領域にまたがっている。また、1890年代にはロシアの主導で、アフガニスタン北部の国境線も決まった。

大国の都合で決められた国境線は、国内の諸民族のあいだの勢力バランスを拮抗させることになった。このような例はアラブ諸国やアフリカでもみられる。

アフガスタンの場合は、パシュトゥン人とその他の有力な民族のあいだの人口差が小さくなった。

パシュトゥン人はアフガニスタンで最大の民族だが、全人口の4割ほどである。これに次ぐタジク人は3割弱。ほかに1割弱の民族も複数いる。これでは最大勢力が安定して主導権を取ることは容易ではない。

アフガニスタンでは、民族間の緊張や対立がつねに続いてきたが、それにはこのように「人為的に歪められた多民族国家」であることが作用している。

そして、1990年代の内戦では、民族間の対立が最悪のかたちで拡大してしまった。当時たがいに争ったムジャヒディンの各派は、(複数の民族を含んではいるが)それぞれ主導する民族がある。たとえば、ラバニ派はタジク人主導で、ヘクマティヤル派はパシュトゥン人、ドストム派がウズベク人、といったことだ。

そして、周辺諸国が民族的なつながりのある軍閥を支援するということも起こった。タジク人の軍閥を隣国のタジキスタン(タジク人の国)が、ウズベク人の軍閥をウズベキスタン(ウズベク人の国)が支援するということがあった。

これには同胞意識による面もあるが、やはり自国の勢力を拡大する策なのである。パキスタンは、自国内にパシュトゥン人が多くいることを足がかりにして、アフガニスタンに影響力を及ぼそうとした。

こうした周辺国の動きは、問題をさらに複雑で深刻なものにした。なにしろ、タリバンの育ての親は隣国パキスタンなのだ(そして、育てる温床となったのは、イギリスが決めたパシュトゥン人を分断する国境の周辺地域である)。

過去の民族間の争いは、やはり今も尾をひいていて、アフガニスタンの人びとが国民としてまとまることを難しくしている。

また、殺し合いをともなう勢力争いを長年続けてきたこの国のリーダーたちは、長期的視野にたって国づくりをすすめる感覚が希薄になって当然だろう。国をどうするかよりも、まず自分たちの利害や生き残りばかりを考えてしまうのだ。

そういうことは、ほかの国の政治にもあるかもしれない。しかしアフガニスタンでは、その傾向があまりに極端になってしまった。これでは政府が腐敗するのは避けがたい。

 

「反近代」を後押しする、地元に根づいた保守的な価値観

発展途上国が国家建設をすすめるとき、西洋の文明を全面的に受け入れようとする立場から、徹底的に拒否する立場まで、さまざまな意見があるものだ。

そして、意見のちがいは対立を生む。その対立は、イスラム世界ではほかの文化圏よりも激しいものになりがちである。

それは、イスラム教が「神の法で国をつくる」発想を基本としているからだ。少し説明したい。

イスラムでは、ムハンマドがメディナといわれる町でイスラム教徒の小さな国(共同体)をつくったときが、「イスラム歴」のはじまりとされる。つまり「国家」の建設ということが、非常に重視されている。

そして、イスラム教徒の共同体におけるさまざまなルールは、すべて神の法によらなければならない。神の法=イスラム法は、個人の内面や家庭生活だけでなく、社会全般のあらゆる領域に適用される……こういう発想がイスラムにはある。

このような考え方は、同じ一神教でもキリスト教では希薄だ。

ヨーロッパでは「ローマ法」を起源とする、キリスト教とは別の流れの法の世界が発達した。キリスト教徒にとって、法といえばローマ法的な世俗の法なのである。それとは異なる「神の法」によって国をおさめようとは、まず考えない。信仰は基本的に精神や文化の問題だ。

イスラム教徒のなかには「世俗主義」といって、「西洋的なルールを世俗の社会運営にある程度取り入れても、必ずしもイスラム的にまちがったことではない」という考えの人も少なくない。しかし「そんな妥協は許せない」という人が、イスラムではほかの大宗教よりも多くいて、その思いも強いのである。

そこで、イスラムの国ぐにでは、近代化をめぐって「世俗主義」と、それに反対する「イスラム主義」のあいだで、激しい対立がくりかえされてきた。イスラム主義者のなかには、過激な方向に行く者も当然いた。

アフガニスタンの歴史でも、この対立はみられた。立憲君主国の時代の世俗主義的な改革も、1970年代の社会主義政権による改革も、イスラム主義者は強く反発した。70年代の社会主義への反発は、内戦にまでなってしまった。

そして、専門家やジャーナリストによれば、アフガニスタンではイスラム主義的な「反近代」を後押しする、とくに保守的な価値観が力を持っているのだという。

アフガニスタンの最大の民族であるパシュトゥン人のあいだでは「パシュトゥンワライ」という「掟」のようなものがある。

前田耕作・山根聡『アフガニスタン史』(河出書房新社、2002)によれば“パシュトゥンワライとは、勇気、戦闘の掟、夜襲、人質、避難、聖戦、客人接待、貞操、郷土愛と自衛、素朴、名誉、血の復讐、家庭での女性の役割やジルガ[寄合・会議]等を規定する掟である。[アフガニスタン]南部やパキスタンの…パシュトゥン人居住地域では、このパシュトゥンワライが根づいている”(189㌻)

つまり、質実剛健で、外部の敵に対しては手段を選ばず徹底的に戦い、残酷な復讐もためらわない。「客人」と認めれば厚くもてなし、女性はあくまで家にいるべきで、大事なことはムラの寄合で話し合って決める、ということである。

これは、アフガニスタンという、きびしい環境の辺境的な土地らしい価値観といえるだろう。

ただ、昔の日本でもこういう価値観は、とくに田舎ではめすらしくなかったはずだ。パシュトゥン人のあいだでは、歴史や環境のせいでそれがまだ強く残っているということなのだろう。

そしてこの保守的な価値観は、前にのべたデーオバンド学派の「反近代」的な思想ともなじみやすい。つまり、パシュトゥンワライは、パシュトゥン人が主流であるタリバンの思想の根っこにある…そう指摘する専門家もいる。

だからこそ、とくに地方ではタリバンのやり方に違和感がない人たちがかなりいて、それがタリバンを後押しする力となってきた。

しかし、パシュトゥン人以外の人びとや都会の暮らしになじんだ人たちは、ちがう。タリバンのいう「イスラム法」は、受け入れがたいものだろう。だから、ここでも深刻な対立が生まれてしまう。

 

むすび

以上のような歴史や諸要素が絡み合って、今のアフガニスタンの状況があるということだ。ほかのこともいろいろあるだろうが、まずはここで述べた歴史や視点を知っておくと、ニュースや解説の理解に役立つはずだ。

それにしても、ここでは淡々と書いたつもりだが、アフガニスタンの歴史の、なんと壮絶なことか。

この壮絶な歴史を経た社会や、そこで戦いながら生きる人間たちには、平和な国に生きる私たちの日常的な尺度や価値観が通用しないことが多々あるにちがいない。そこは気をつけないといけない。とくにタリバンに対してはそうだ。


参考文献

前田耕作・山根聡『アフガニスタン史』河出書房新社、2002

 

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イスラムの「神の法(宗教)で国をつくる」発想についてはこの記事を。

  

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