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初心者のための、一気に読める第二次世界大戦の要約

第二次世界大戦(1939~45)は、ドイツ・日本・イタリアなどの「枢軸国」と、アメリカ・イギリス・ソ連・中国などの「連合国」とのあいだの戦争である。一般に1939年9月のドイツによるポーランド侵攻で始まり、1945年8月に日本の降伏で終わったとされる。

第二次世界大戦は、近現代史の最大の山場だ。戦争や平和について考えるためには知っておきたい。第二次世界大戦についての基礎知識がないとよくわからない論説、文芸作品、映画やドラマもたくさんある。

しかし、たいていの第二次世界大戦についての記述は、あまりに詳しすぎたり、個別のテーマに限定されていたりして全体像がつかみにくい。本記事は、初心者が一気に読める分量で全体像をおおまかにつかむためのものだ。第二次世界大戦について、さらに知るための基礎になるはず。
 

目 次

 

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ブログの著者そういちの最新刊(2024年2月5日発売)

  

第一次世界大戦後の状況

第一次世界大戦の敗戦とドイツ

第二次世界大戦(1939~45)の前には、第一次世界大戦(1914~18)があった。第一次世界大戦は、ドイツを中心として、それにオーストリア、オスマン帝国(トルコ)などが加わった陣営と、イギリス、フランス、アメリカ、ロシアなどの陣営が戦ったものである。ドイツ側の陣営を「同盟国」、イギリス・フランス側を「連合国(または協商国)」という。

日本は、第一次世界大戦には全面的には参加しなかったが、連合国側で中国におけるドイツの拠点に出兵している。

第一次世界大戦は、連合国(イギリス・フランスなど)の勝利で終わった。敗れたドイツ、オーストリア、オスマン帝国はそれまでの国の体制が崩壊してしまった。このうち、第二次世界大戦の「中心」といえるドイツと、その隣国のオーストリアについて述べておこう。

ドイツは、1871年以来、皇帝を国のトップとする「ドイツ帝国」という体制だったが、大戦末期の1918年11月にそれが革命によって崩壊して、共和国となった。共和国となったドイツはすぐに連合国と休戦協定を結び、1918年11月11日、第一次世界大戦は終わった。

共和国とは、国のトップが国王や皇帝のような世襲の君主ではない体制のことだ。そして、1919年8月には当時としてはきわめて民主的な内容を持つ「ヴァイマル(ワイマール)憲法」が公布された。ヴァイマルは、憲法制定にかんする国会が開かれた都市の名である。第一次世界大戦後に成立した共和国のドイツは、「ヴァイマル共和国」ともいわれる。

オーストリアは、第一次世界大戦までは多くの民族をハプスブルグ家という王家が支配する「帝国」だった。帝国とは、多数の民族を特定の王家や民族が支配する国のことである。敗戦の結果、ハプスブルグ家の帝国は解体されて、オーストリアは限られた範囲を領域とする小粒な共和国になった。

ロシアでは大戦中の1917年に革命が起きてロマノフ王朝が倒され、紆余曲折を経てレーニンの率いる社会主義の政権が成立した。その後、1922年には、ロシアを中心にウクライナなどの周辺諸国も組み込んだソヴィエト社会主義共和国連邦が成立した。


ヴェルサイユ体制

1919年6月には、連合国とドイツのあいだの講和条約(戦争を確定的に終わらせる条約)であるヴェルサイユ条約が、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿で結ばれた。この条約によって、①ドイツは領土の一部を失い、②海外の植民地のすべても失った。③また、軍備を極端に制限されることになった。④そして、戦争の被害・損害への償いとして、多額の賠償金を連合国へ支払うことになった。

ヴェルサイユ条約は、戦争に勝った連合国(イギリス・フランスなど)が、負けたドイツを罰し、二度と戦争ができないように弱体化しようとするものだった。ドイツにとってはきびしい、屈辱的な内容である。のちの1930年代後半には、ヒトラーのナチス・ドイツはこの条約を完全に反故にしてしまった。

なお、ヴェルサイユ条約のなかには、国際連盟(今の国際連合の前身)の規約も含まれている。第一次世界大戦後の(おもにヨーロッパの)国際秩序は、この条約を重要な柱としていたので、「ヴェルサイユ体制」ともいわれる。

第二次世界大戦の勃発

世界大恐慌による混乱

第一次世界大戦に敗れたあと、ドイツでは経済・社会が大混乱に陥り、国民はおおいに苦しんだ。ただし、その後1920年代には、ドイツは一定の復興をなしとげ、かなり安定した時期もある。首都ベルリンを中心に、おもに映像、演劇、建築などの分野で「ヴァイマル文化」といわれるモダンな新しい文化も生まれた。

しかし、1929年10月の株価暴落から始まったアメリカ発の世界恐慌(大恐慌)の影響がヨーロッパに波及すると、ドイツはまた混乱に陥った。

この恐慌(経済の激しい落ち込み)は、2008年に起こった「リーマン・ショック」以降の不況と似ている。しかし、経済にあたえた影響は「大恐慌」のほうがはるかに深刻だった。

大恐慌の際、その最悪期にはアメリカの失業率は25%ほどにもなった。ドイツでは、失業率はアメリカをやや上回る状況で、1932年には工業生産は、恐慌前の3分の2まで落ち込んだ。なお、リーマン・ショック以降の不況では、アメリカの失業率は最悪期でも10%程度である。

大恐慌の影響は世界におよんだ。1932年には世界貿易は、恐慌前の3~4割にまで縮小してしまった。


ナチス・ドイツの成立とヒトラーの独裁

その混乱の時代に人びとの支持を集め、1933年1月に首相に就任したのが、ナチ党(ナチス)を率いるアドルフ・ヒトラー(1889~1945)である。

ナチ党は1932年7月の選挙で、国会や各地の州議会において第一党(最も多くの議席をもつ党)となっていた。しかしその時点では、国会で過半数は得られなかった。それでもその後、ヒトラーは当時の国家元首(選挙で選ばれた大統領)ヒンデンブルク(1847~1934)とのかけひきや政治的なライバルとの争いを通じて、首相の座についたのである。ナチ党政権下のドイツを「ナチス・ドイツ」ともいう。

ヒトラーの「愛国」の主張は、当時のドイツ人に訴えるものがあった。ヒトラーがめざしたのは、ドイツによるヨーロッパ制覇であり、世界に君臨する「大ドイツ帝国」を築くことだった。

ヒトラーは、1933年3月に「全権委任法」という法律を成立させた。国会の立法権をナチスの政府に委ね、ナチスの法に反するヴァイマル憲法の規程を無効にするというものだ。つまり、憲法は事実上なくなったのである。さらにナチスはほかの政党を、すべて解散させるなどして潰してしまった。1934年には、大統領(国家元首)と首相を兼ねるようになり、「総統」(ドイツ語ではフューラー)と称した。

そして、ヒトラーは積極的な経済政策を行って失業を一掃するなど、社会の混乱をおさめることにも成功した。たとえば、ドイツの高速道路・アウトバーンの建設は、失業・景気対策の公共事業として、ヒトラーがすすめたものである。そのような実績と、批判者をテロで排除することや巧みなPRなどによって、彼は独裁権力を固めたのである。


ドイツの再軍備と侵略の開始

1935年3月にヒトラーは、ドイツの「再軍備」を宣言した。これは、ヴェルサイユ条約を公然と破棄するということだ。ヴェルサイユ体制のもとで解体されたドイツ軍が、急速に再建されていった。そしてヒトラーは1936年3月、条約で(ドイツ国内だが)ドイツ軍の駐留が禁止されていたラインラントに、軍隊を進駐させて拠点を築いた。ラインラントは、ドイツ西部の、フランスやベルギーなどに接する地域である。

さらに、ヒトラーはかねてからの目標である「大ドイツ帝国」の実現に向け、侵略を開始した。まず、オーストリアやチェコスロバキアといった、ドイツの東側の、ドイツ人も多く住む周辺国へ軍を進めて、それらの国を制圧していった。

1938年3月に、オーストリアはドイツに併合された。オーストリアには、ドイツという強国の一員になることを歓迎する人びともいた。チェコスロバキアに対しては、同年(38年)にドイツ系住民が多く住むズデーテン地方をドイツに譲り渡すことを要求。そして、この「ズデーテン割譲」が受けいれられたのち、1939年3月にはチェコスロバキア全体を分割したうえでドイツの支配下におくようになった。どちらの国でも抵抗はあったが、ドイツの軍事力の前にはとてもかなわない。ドイツはこれらの国を、本格的な戦争をすることなく手に入れた。

さらにドイツは、1939年9月初めにポーランドに侵攻した。同年(39年)8月にドイツはソヴィエト連邦(ソ連)と「独ソ不可侵条約」を結んでいる。「お互いを攻撃しない」という協定である。

もともとナチス・ドイツとソ連は敵対関係にあり、お互いに「いずれ戦争になる」という認識もあった。「独ソ不可侵条約」は、当時の常識では意外なことで、世界をおどろかせた。しかし、ドイツとしては、とりあえずソ連とは戦わないことにして、ほかの国ぐにとの戦争をすすめたかった。ソ連にとっても、いずれ攻めてくるであろうドイツに備えるための時間かせぎになる。

そして、不可侵条約とともにドイツとソ連のあいだでは「共同でポーランドを占領して分割支配する」という密約もなされた。「密約」とは、世間に内容が公表される条約とは別に、非公表の秘密の約束をかわした、ということだ。

9月半ばにはドイツに続いてソ連がポーランドに侵攻した。10月にはポーランド全体が制圧され、西半分がドイツに、東半分がソ連に支配されるようになった。

その後1939年のうちに、ソ連はバルト三国にも侵攻して支配するようになった。同年(39年)11月にはフィンランドにも侵攻し、激しい抵抗を受けた末に1940年3月にはフィンランド領の一部を割譲させている。当時のソ連はスターリン政権だったが、このような侵略をつぎつぎと行ったのである。ソ連としては、ドイツの攻撃に備えて、少しでも西側に自国の勢力圏を広げておきたかった。


ヒトラーのヨーロッパ制覇

こうした動きのなかで、ドイツとイギリス・フランスのあいだの戦争もはじまり、第二次世界大戦となった。ドイツがポーランド侵攻を開始した1939年9月1日の時点で、一般には「第二次世界大戦が勃発した」とされる。そして1939年9月3日までには、イギリスとフランスはドイツに宣戦布告した。

その後ドイツは、1940年4月にデンマークとノルウェーに侵攻し、両国を占領。そしてこれ以降は、ドイツの西側の西ヨーロッパ諸国との戦争をすすめていく。同年(40年)5月には、ドイツはルクセンブルク、ベルギー、オランダに侵攻して、短期間で占領した。そしてこれと並行して5月のうちにフランス北部にも侵攻したのである。

このとき、フランス軍の一部と、フランスに派遣されていたイギリス軍は、ドイツ軍に追い詰められ、フランス北部のベルギーに近い港町・ダンケルクからやっとのことで脱出した。その後フランス軍は大きく崩れ、ドイツ軍は6月半ばにはパリを占領した。

6月22日にフランスは降伏した。そしてフランス北部・中部がドイツの支配下におかれるようになった。残りのフランス南部は、首都のおかれた都市にちなんで「ヴィシー政府」と呼ばれる親ドイツの政権が統治した。

このように、1940年後半の時点でヒトラーは、ヨーロッパの大半を制覇したのである。さらに1941年春には、バルカン半島(ヨーロッパ南東部)のギリシャとユーゴスラヴィアも、短期間で制圧した。

西ヨーロッパの主要国では、ドーバー海峡を隔てたイギリスだけが、チャーチル首相のもとでドイツへの徹底抗戦を続けた。ポーランドに侵攻したあとも、ヒトラーはイギリスがドイツの大陸ヨーロッパにおける覇権を承認することを期待していたが、イギリスは断固として拒否したので、ドイツとイギリスの全面戦争が始まったのである。

ただし、ドイツにとっても海を渡ってイギリスに上陸し制圧することは容易ではなかった。ドイツによるイギリスへの攻撃は、おもに空襲によって行われた。しかし、イギリス軍の激しい抵抗にあい、思うような成果をあげることはできかった。このときイギリスでは、世界初のレーダーによる防空システムも活用された。

【第二次世界大戦中のヨーロッパ】
そういちの自著『一気にわかる世界史』(日本実業出版社社)122㌻より
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*「枢軸国」(ドイツ陣営)ということについては、後述。


大戦前のイギリス・フランスの宥和政策

イギリスやフランスは、ヒトラーによる侵略行為を、当初は大目にみていた。「宥和(ゆうわ)政策」というものだ。「ヒトラーがもともとドイツといえなくもない、ドイツ人が多く住む地域(オーストリアや、チェコスロバキアの一部など)を併合するくらいなら、自分たちへの影響は少ない」と考えたのである。

そして、「ドイツと対立してまた大戦争になるのは避けたい」いう気持ちが、指導者にも国民にもあった。「ある程度のところで、ヒトラーも満足しておとなしくなるだろう」と期待していた。

ドイツがチェコスロバキアにズデーテン地方を要求したときには、ドイツ、イギリス、フランス、イタリアの4か国が(チェコスロバキア抜きで)ドイツのミュンヘンに集まり会議を行った。そこでは、ドイツの主張が全面的に認められている。

しかし、安定への期待は裏切られた。ポーランドはドイツとは系統の異なる国であり、そのような国への侵攻は、これまでとは次元がちがう。ズデーテン以外のチェコスロバキアについても同じようなことがいえるが、ポーランドへの侵攻はさらに決定的な事態だった。ドイツがポーランドを攻めるなら、ヨーロッパのほかの国もどうなるかわからない。

そこで、イギリス・フランスでもヒトラーの危険性が認識され、ドイツへの宣戦布告となったのである。ただし、イギリスやフランスが、ポーランドを助けるということはなかった。

当時のイギリスやフランスの利己主義や甘い見通し、優柔不断は、後から振り返れば、やはりまちがいだった。

また、ドイツ軍の能力についても、イギリスやフランスの認識は甘かった。ナチス・ドイツの軍隊は、第一次世界大戦で登場した、戦車や戦闘機を重視していた。これはヒトラーの主導でつくられた、新しいタイプの軍隊である。これに対し、とくにフランスは、古い発想から抜け出ていなかった。

たとえば、第一次世界大戦のあとでフランスは、ドイツとの国境に「マジノ線」という防衛ラインを設定し、そこに多くの要塞を連続的に配置した。しかし、ドイツ軍はマジノ線を回避して、オランダとベルギーに侵攻しつつ、守りの手薄な要塞のないアルデンヌという地方の森林地帯から、フランスに攻め込んだ。フランスでは険しい地形のアルデンヌの森は、戦車は通れないと考えていた。しかし、高い機動性を持つドイツの戦車は、そこを抜けることができたのである。

そして、ここまでの段階でドイツが侵略したのは、フランスを除けば中小国ばかりで、ドイツにかなわないのは当然だった。また、フランスの場合は戦略の基本を誤ったために、短期間でドイツに敗けてしまったのである。

大戦の展開・枢軸国VS連合国

独ソ戦の開始

ヨーロッパをほぼ制圧したナチス・ドイツ。しかし、ヒトラーはそれに満足せず、今度はソ連との戦争を始めた。これを「独ソ戦」という。1941年6月22日、300万余りのドイツ軍が、ドイツの同盟国・属国(7月初めまでに50~60万)による軍とともにソ連への侵攻を開始した。不可侵条約があったのに、何の通告もなかった。このソ連への総攻撃は「バルバロッサ作戦」と名づけられている。

ヒトラーがソ連を攻撃しようとしたのには、まず「イギリスが抵抗を続けるのは、ソ連の支援(ソ連によるドイツ攻撃)を期待しているからだ。ならばソ連をたたいてその期待をくじいてしまおう」という発想があった。しかし、それだけではない。

ヒトラーはその政治思想のなかでソ連(ロシア)の社会主義やロシア人に対して強い敵意を抱いていた。ヒトラーの思想のなかで、ドイツ人が最優秀の民族であるのに対し、東ヨーロッパやロシアのスラブ系の人びとは、とくに劣等な憎悪すべき存在だった。また社会主義は、ヒトラーの信じる見解ではユダヤ人の陰謀によるものだった。

ヒトラーにとっては、ロシア人の社会主義国家・ソ連を攻め滅ぼすことは、どうしてもやり遂げたい目標だったのである。

ヒトラーといえば、ユダヤ人にたいする憎悪や迫害がとくに知られているが、ナチスの政治思想(ナチズムという)では、ロシア・ポーランド・ユーゴスラヴィアなどで主流のスラブ人もユダヤ人に近い位置づけだった。そして「劣等民族」を奴隷にしたり、文明世界から追放・撲滅したりすることが世界のためだという、とんでもない「理想」をヒトラーは抱いていた。

その思想は、独ソ戦の方針にも反映している。ヒトラーは、ソ連という国を徹底的に破壊するつもりだった。

ヒトラーの計画では、最終的にはロシアの主要部(ウラル山脈以西)の住民は奴隷労働に必要な分を除いて、みなシベリアなどに追放してしまうことになっていた。また、ソ連に侵攻したドイツの大軍は、食料などの物資を現地で奪って調達する予定だったが、それで千万人単位の餓死者が出ることも想定していた。

そして、ポーランド侵攻のときも、ドイツ軍はソ連に対するのと基本的には同じ方針で、国家を破壊しようと、エリート層をはじめとする多くの人びとを虐殺したりしている。


イタリアの動き

このようなドイツの一連の侵略行為に、イタリアと日本が同調した。イタリアと日本も、イギリスやアメリカが主導する当時の国際秩序に不満を持っていた。ドイツ・日本・イタリアは、1940年9月に「日独伊三国同盟」を結んでいる。ドイツがフランスを制圧して約3か月後の、ドイツにたいへんな勢いがあったときのことである。

第二次世界大戦が始まった当時のイタリアでは、ベニート・ムッソリーニ(1883~1945)が独裁的な権力を握っていた。ムッソリーニ政権は1922年に成立し、25~26年から独裁化していった。ムッソリーニはヒトラーに加担してイタリアを第二次世界大戦にひき込んだのである。

ムッソリーニのイタリアは、もともとはイギリス・フランスに対して協調的なスタンスもとっていた。しかし、その一方で領土拡大の野心も抱くようになった。対外侵略ということでは、ムッソリーニのイタリアはナチス・ドイツに先駆けている。

イタリアは、1935年10月にエチオピアへの侵攻を行い、1936年5月には支配下においた。エチオピアは、当時のアフリカでは数少ない独立国で、イタリアの植民地「イタリア領ソマリランド」に隣接していた。イタリアはソマリランドからの領域の拡大を行ったのである。エチオピア侵攻は、イギリス・アメリカを中心とする国際社会から非難され、イタリアに対する経済制裁も行われた。イタリアはそれに抗議して、1937年12月に国際連盟を脱退した(これは、日本、ドイツのあとに続くものだった)。

そして1939年4月には、イタリア半島の東側の海を隔てた、バルカン半島のアルバニアにも侵攻し、支配下においている。ただし、イタリアの領土拡大の動きは、ドイツほどの大風呂敷ではなく、比較的限定されたものだった。

イタリアは、ドイツによるフランス侵攻の最中である1940年6月にイギリス・フランスに宣戦布告した。その後大戦中は、イタリアの植民地だったリビアなどのアフリカ北部で、ドイツの支援を受けながらイギリス軍・アメリカ軍との戦闘をくり広げた。また、ドイツによるバルカン半島への侵攻や、独ソ戦にも加わっている。


日本の動き・日中戦争の開始

日本では、1930年代に「アジアでの領土拡大」という野望が政治をつよく動かすようになった。大恐慌の影響で不況に苦しむ中、満洲(今の中国東北部)などへの領土拡大によって、さまざまな問題を解決できるという考えが、力を持つようになったのである。

1931年(昭和6)には、陸軍の主導で、満洲の広い範囲を支配するための本格的な軍事行動が始まり(満洲事変)、翌32年(昭7)にはその地域に満洲国という、日本政府に従属し操られる「傀儡(かいらい)」の国家を建設した。日露戦争(1904~05、明治37~38)の結果、日本は満洲の南側の遼東半島の一部(関東州)や、満洲を走る鉄道路線(南満洲鉄道)の沿線地域を、「関東軍」という軍隊を駐留するなどして支配していた。これはロシアから獲得したものだったが、その勢力範囲を大きく広げようとしたのだった。

アメリカやイギリスを中心とする国際社会は、日本の行為を非難し、満洲国を認めなかった。それに抗議して、1933年(昭和8)3月、日本は国際連盟を脱退した。なおドイツも、同年(33年)10月に国際連盟を脱退している。ヒトラーが、ドイツが一方的に軍備を制限される状況に抗議したのである。

政治家や国民は、このような軍部の動きを追認した。また、1932年(昭和7)5月には、当時の首相の犬養毅が、一部の過激な軍人によって暗殺されるというテロも起こった(五・一五事件)。しだいに世の中の「空気」が変わり、日本の政府は軍部にひきずられるようになっていった。さらに、1936年(昭和11)2月には、陸軍の一部の将校が兵士1400人ほどを率いてクーデターを起こし、高橋是清(大蔵大臣)などの複数の政府高官を射殺し、首相官邸等を占拠した(二・二六事件)。これはまもなく鎮圧されたが、この事件以後、政治家たちにとって軍部は一層恐ろしいものになった。

そして軍部は、さらに中国の中核地域である華北などにも勢力を広げようとした。1937年(昭12)7月には北京(当時は北平〈ほくへい〉と呼ばれた)郊外の盧溝橋という場所での軍事衝突がきっかけとなって、中国との戦いである日中戦争が本格的にはじまった。当時の中国は、列強に屈服するかたちで、列強の軍隊が一定の地域に「自国民を守る」という理由で駐留することを認めていた。それで駐留する日本軍と中国軍のあいだで緊張が高まり、衝突が起こったのである。やがて、日本と中国の戦いは、中国の主要部全体にも拡大していった。

当時の中国は「中華民国」といい、中国国民党蒋介石(1887~1975)が率いる「国民政府」の時代である。首都は南京だった。ただし、国民政府はまだ中国全体をまとめきれてはいなかった。

その後、日本軍は中国のおもな都市を攻略していったが、各地での抵抗に苦しみ、中国での支配を確立することができなかった。国民政府のほかに、毛沢東(1893~1976)が率いる中国共産党の勢力も、日本軍と戦った。中国共産党は、のちに中国で勝利して1949年に現在の中華人民共和国を建国するが、当時は一部の地域を拠点とする反政府勢力だったのである。

また、中国(国民政府)に対しては、もともと中国に利権を持っていたイギリスなどの列強が援助を行った。1940年の後半からは、アメリカがその支援に積極的に加わるようになった。


日米戦争の開始

そして1941年(昭16)12月8日には、日本軍がアメリカのハワイ(真珠湾)を奇襲攻撃して日米戦争(太平洋戦争)もはじまった。日米戦争の開始をうけて、ドイツがアメリカに宣戦布告し、イタリアもこれに続いた。

この時点で、第二次世界大戦は、アジア・太平洋からヨーロッパまでの広がりを持つ、文字どおりの「世界大戦」になったといえる。そこで「第二次世界大戦」の開始を、1941年12月の時点だとする説もある。

1941年当時の日本は、日中戦争が泥沼化して苦しんでいた。その日本に対しアメリカやイギリスは、経済制裁を行っていた。日本のアジアでの軍事行動は「侵略」であり、制裁を受けるべきだ、ということだ。

日本は満洲・中国だけでなく、1940年9月には仏領インドシナ北部(今のベトナム北部)に軍をすすめ、1941年7月にはさらに仏領インドシナ南部に進駐した。国民政府を支援するイギリスやアメリカの物資が仏領インドシナ経由で輸送されていたので、それを阻止しようとしたのである。当時のフランスは、ドイツに負けて弱っていたので「今がチャンス」という発想が、軍部のなかにあった(なお、国民政府を支援する列強の輸送ルートは、ほかにもあった)。

そして、アメリカなどによる一連の経済制裁のなかでも、1941年8月の「侵略国(日本など)への石油輸出禁止」は、とくに深刻なものだった。これは、直接には日本が仏領インドシナ南部に侵攻したのをうけてのことである。

1930年代には、日本が輸入する石油の大半はアメリカからのものだった。石油が手に入らないと、日中戦争を戦うことはできない。なお、当時はまたアラブの石油は未開発で、アメリカは最大の産油国だった。

1941年4月以降は、外交交渉で日米の関係を改善しようとする取り組みもあったが、日米の主張は対立し、交渉はすすまなかった。

そんな状況のなか日本では、相当な規模の油田があるインドネシアを攻略しようという考えが、国の方針として真剣に検討されるようになった。また、マレーシアにも油田はあった。そして、油田の支配を確実にするために、周辺の東南アジア各地も支配するのである。それができれば、石油だけでなく、東南アジアのさまざまな資源が手に入る。

当時のインドネシアはオランダの植民地(オランダ領東インド)であり、ほかの東南アジア各地はイギリス、フランスなどの支配・勢力下にあった。これらの欧米列強をアジアから追い出し、日本の勢力圏を築くという「大東亜共栄圏」の構想が打ち出された。

しかし、東南アジアに侵攻すれば、アメリカが本格的に介入してくる。そこで、先にアメリカ軍をたたいておきたいと考え、太平洋におけるアメリカ艦隊のおもな基地がある真珠湾を攻撃したのである。真珠湾攻撃と同じタイミングで、日本軍は東南アジア(イギリス領だったマレー半島)への侵攻も開始している。

こうして、日本と、アメリカ、イギリス、フランス、オランダなどの連合国との全面戦争が始まった。

 

2つの陣営・枢軸国と連合国

第二次世界大戦は、つぎの2つの陣営の戦いだった。

【枢軸国】ドイツ・日本・イタリアなど
【連合国】アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国など

そもそも「枢軸(すうじく)」とは、「活動の中心となる重要な場所」ということだ。「枢軸国」というのは、1930年代後半にドイツとイタリアが接近して友好関係を築いた際に使われた「ベルリン・ローマ枢軸」という表現がもとになっている。上記3国以外では、フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアといった、東欧諸国も枢軸国側についている。これらの国はソ連から圧迫を受けていた(とくにフィンランド)ほか、互いに領土問題などで争いがあり、優位に立とうとしてドイツに接近したのである。アジアではタイが枢軸国についているが、それは日本による圧力の結果といえる。

「連合国」とは、一般には、1942年1月にワシントンで調印された「連合国共同宣言」に参加した国ぐにをさす。このときの「宣言」には、上記のアメリカ、イギリス、ソ連中国を含む計26か国が調印している。その後、1945年3月までに「宣言」に参加する国は、50か国近くになった。

連合国には、上記の5つの大国のほか、世界中のさまざまな国が含まれていた。オーストラリア、カナダなどの英連邦諸国、ラテンアメリカ諸国、フランス、ポーランドなどの枢軸国に侵略された国ぐにの亡命政府など。枢軸国は、まさに世界を敵にまわして戦うことになったのである。

なお「連合国」は、United Nationsの訳である。国際連合(国連)も、英語ではUnited Nationsである。じつはこの「連合国」の集まりは、戦後の国際連合の基礎となったものだ。両者は「同じもの」だともいえるが、日本では「連合国」と「国際連合」とに訳し分けている。


第二次世界大戦の(連合国側の)おもな指導者

この大戦を指導した当時のアメリカ大統領はフランクリン・ルーズヴェルト(1882~1945、在任1933~45)、イギリスの首相はウィンストン・チャーチル(1874~1965、在任1940~45、51~55)である。

ルーズヴェルトは民主党の大統領で、大恐慌に対し無策だった共和党の前大統領フーヴァーにかわって1933年に大統領に就任した。それ以降、積極的な公共投資による景気対策をすすめるなど、強力なリーダーシップを発揮してきた。この経済政策を「ニューディール政策」という。

チャーチルは保守党の政治家で、イギリスがナチス・ドイツに対し妥協的な「宥和政策」をとっていた際、それに反対していた。彼は、ヒトラーの危険性を見抜いていたのである。そして、ドイツとの戦争がはじまったのちに(1940年5月)首相となり、強い意志で戦争を指導した。

第二次世界大戦のときのソ連の指導者は、スターリン(1878~1953)である。ソヴィエト連邦は、1917年のロシア革命を出発として1922年に成立した、世界初の社会主義国家である。スターリンは、ソ連の建国者であるレーニン(1870~1924)が1924年に死んだあと、ソ連共産党の指導者として権力を握り、独裁者となっていた。ソ連という国は、共産党が政府のうえに立って、すべてを支配する体制だった(今の中国と同じである)。スターリンは1930年代には、自分への反対者や、危険人物(反乱分子)とみなされた人びとを大量に処刑すること(いわゆる「大粛清」)も行っている。

なお、太平洋戦争を指導した日本の指導者には、ヒトラーやここであげた連合国のリーダーに匹敵するような「大物」はいなかった。

太平洋戦争のときの日本は、軍の幹部たちの集団が国家の方針に大きな影響をあたえていた。日米の戦争が始まったときの首相は、陸軍出身の東條英機(首相在任1941~44)である。東條は、アメリカに対し強硬姿勢をとる立場だった。しかし、1人のリーダーに権力が集中するという体制ではなかった。

強力な政治指導者を欠き、軍部主導で戦争をすすめたことは、第二次世界大戦のときの日本の特徴である。枢軸国ではドイツもイタリアも、ヒトラーやムッソリーニという「政治家」による独裁であり、軍人が政治を動かすということではなかったのである。

枢軸国の敗北と終戦

追い込まれる枢軸国

1940年にフランスを征服した頃までは、ナチス・ドイツは優位に立っていたが、1941年6月の独ソ戦の開始以降は、しだいに風向きが変わってきた。

ヒトラーは短期間でソ連を制圧する計画であり、ドイツ軍は1941年11月にはソ連の首都・モスクワ付近まで迫った。しかし、それ以降はソ連の反撃にあって、戦争は泥沼化していった。

独ソ戦のなかでも、ロシア南部の都市・スターリングラード(現ヴォルゴグラード)の攻防戦は、とくに激しい大規模な戦いだった。この戦いは1942年7月から43年1月にかけて行われ、ソ連とドイツはそれぞれ100万人を超える兵力を投入した。そして、両者ともぼう大な戦死者を出した末に、ドイツ軍が敗れた。

このほかにも、さまざまな戦いを通じてソ連に侵攻したドイツ軍はダーメジを受け、しだいに力を失っていった。スターリングラードの戦いは、ドイツ軍が劣勢となるターニング・ポイントとなった。

スターリングラードで勝利して以後、紆余曲折はありながらもソ連は攻勢を強めていった。そして、ロシアの西側の東ヨーロッパへと軍をすすめていくことになる。ドイツは1943年7月のクルスク(ロシア南部)の戦いなどで反撃を試みたが失敗し、退却を重ねて1944年春にはソ連領から撤退した。

一方、1941年からはアメリカがヨーロッパの戦争に本格的に介入するようになった。1941年3月にルーズヴェルト大統領は「武器貸与法」を成立させ、それ以後はイギリス、中国、ソ連への武器の提供など、積極的な支援を行っていた。

同年(41年)8月にはルーズヴェルトとチャーチルが会談して、将来の世界における民主主義的な原則をうたった「大西洋憲章」を発表した。そして、同年(41年)12月には日米戦争がはじまり、ドイツはアメリカに宣戦布告。1942年1月には、ワシントンで「連合国共同宣言」が出され、前述のとおり多くの国ぐにが参加したのである。この共同宣言のベースには「大西洋憲章」がある。

このように連合国は、民主主義や人権思想を基調に「民族自決」をかかげるなどして、世界の多くの勢力を味方につけていった。

一方、枢軸国はナチズムに代表されるように、自分たちの民族の優越性や利害を主張するばかりで、世界のほかの国ぐにも受け入れられる理念を、しっかりと示すことができなかった。

だからといって、連合国が「正義」や「善意」にあふれていた、ということではないだろう。たとえば、連合国による無差別爆撃や原爆の投下をみれば、それは明らかだ。しかし、少なくとも世界に対するコンセプトのうち出し方において、連合国は枢軸国よりもまさっていたのである。

ナチス・ドイツはたしかに強大だったが、イギリス+米ソの超大国を一度に敵にまわして戦争を行い、さらに占領地で抵抗する勢力を相手にするのは、いくらなんでも無謀だった。しだいにドイツは不利な状況に追い込まれていった。


ホロコースト(ユダヤ人の虐殺)

そして、対ソ戦の雲行きがあやしくなってきた1942年初頭から、ナチス・ドイツによるユダヤ人に対する迫害が、極度にエスカレートしていった。1942年1月、ベルリン西部のヴァンゼーで開かれたナチ党幹部の会議で「全ヨーロッパのユダヤ人絶滅」ということが、既定の方針として確認されている(ヴァンゼー会議)。ただし、この会議でユダヤ人虐殺の方針が決まったというわけではなく、当時のナチス・ドイツ側の動き・認識を示すものとして、この会議は知られている。

ヒトラーは、ユダヤ人に対し異常な偏見を抱き、その政治思想のなかでユダヤ人を徹底的に排斥することを主張した。当初はドイツの支配圏からユダヤ人を追放するという方針だったが、大戦の後半以降、「ユダヤ人の絶滅(虐殺)」という方向にすすんでいった。

そして、第二次世界大戦を通じて、ドイツ国内や東ヨーロッパなどの占領地域で600万人(諸説あり)のユダヤ人が、ヒトラーの方針に基づいて組織的に虐殺された。多数のユダヤ人が、ポーランドのアウシュビッツなど各地につくられた強制収容所(絶滅収容所)に送られ、虐待や処刑によって命をうばわれた。さらに各占領地でも大量のユダヤ人が殺害されている。

このようなユダヤ人の虐殺を、旧約聖書で神にささげる焼いた獣を意味する「ホロコースト」と呼ぶことが、近年では定着している。

ユダヤ人を大量虐殺することは、合理的に考えれば、戦争の遂行にとってむしろマイナスでしかない。それでもヒトラーやナチスの幹部たちは、「ユダヤ人絶滅」の方針にこだわるようになっていった。「ユダヤ人絶滅」は、ナチズムにとってぜひとも実現したい、重要事項だったのである。この見方は、かつては一般的ではなかったが、今では有力なものになっている。

ヒトラーは自分の敗北を悟ったとき、「最後にこれだけは」と考え、ユダヤ人の虐殺を加速させていったのかもしれない。そのような可能性も指摘されている。


イタリアとドイツの降伏

イタリアはドイツの支援を受けて北アフリカなどで軍事行動を展開していたが、1942年後半からは連合軍に対し大きな敗北を重ねていた。1943年7月に連合軍がイタリア南端近くのシチリアに上陸すると、イタリア国内の有力者たちはムッソリーニを失脚させて新政権をつくった。そして、イタリアは同年(43年)9月に連合国に降伏した。

このときムッソリーニはドイツの助けでイタリア北部に逃れ、そこに「亡命政府」をつくったが、影響力は失ってしまった。ムッソリーニは、1945年4月に捕らえられ処刑された。

1944年6月、連合軍(イギリス・アメリカ)はフランス北部のノルマンディーへの上陸作戦に成功した。それ以後は軍をすすめて、ドイツに占領された西ヨーロッパの各地を取り返していった。同年(44年)9月には、パリがドイツの支配から解放された。また、1942年の独ソ戦がはじまった頃から、イギリス空軍によるドイツへの爆撃が行われていたが、ノルマンディー以降、連合軍によるドイツへの爆撃はさらに激しいものになった。

一方東ヨーロッパでは、ソ連軍がドイツの占領下だった地域にすすんでいった。1945年1月には、ソ連軍はポーランドの首都・ワルシャワを占領している。

1945年1月、ドイツ軍は、ベルギー・オランダ・フランスにまたがるアルデンヌ地方で反撃を行ったが、敗退して大きなダメージを受けた(バルジの戦い)。ドイツによる大規模な攻撃は、これが最後である。

1945年4月にはドイツの首都・ベルリンがソ連軍によって占領された。これに先立つ4月30日、ベルリンの地下壕の指令本部にこもっていたヒトラーは自殺した。そして、同年(45年)5月8日にドイツは無条件降伏した。


日本の敗退

日本軍は1942年(昭17)前半までは優位に展開し、マレーシア、シンガポール、フィリピン、インドネシアなどの東南アジアの広い範囲を占領した。太平洋上のいくつもの島々も、戦略上の拠点として押さえた。当時の連合国は、ヨーロッパでの戦争にエネルギーをうばわれ、東南アジアの態勢がやや手薄になっていた。そのことは、日本に有利に働いた。

しかし、1942年半ばからは体制を整えたアメリカ軍の反撃にあい、日本は追い込まれていく。

1942年4月、日本軍はハワイ諸島北西のミッドウェー島にあるアメリカ軍基地を攻撃したが、事前に情報を入手し待ちかまえていたアメリカ軍の攻撃で、複数の主力空母などの重要な戦力を失った(ミッドウェー海戦)。アメリカは、日本軍による暗号を使った電信を傍受して、ある程度解読していたのである。また、戦闘機の重要性についてアメリカ軍はよく認識したうえで攻撃や防御の体制をとっていたが、日本軍はその点が不十分だった。戦争のやり方が変わったことに、対応できていなかった。

そして、1942年8月から43年2月にかけて、日本軍は西太平洋のガダルカナル島をめぐって連合軍と激しい攻防戦を行い、多くの犠牲を出した末に敗退した(ガダルカナル島の戦い)。ドイツ軍がソ連のスターリングラードで大敗したのと、ほぼ同じタイミングである。

当時の日本の生産力では、これらの敗北によるダメージを短期で回復することは不可能だった。1943年(昭18)からは、日本はアメリカの攻撃に対し守勢にたたされ、敗退を重ねていく。

太平洋各地の拠点を守る兵士たちは、本土からの支援も皆無で、撤退も許されない状況のなか、食料・物資の欠乏に苦しみながら全滅していった。日本の政府やマスコミは、それを「玉砕」と呼んで美化したのだった。

1944年(昭19)10月にはフィリピンのレイテ沖海戦で、日本海軍は大敗して主力艦を失い、壊滅状態となった。日本は、太平洋での制海権・制空権を失ってしまった。つまり、連合軍の艦船や航空機は、太平洋を容易に行動できるようになった。なお、戦闘機による体当たり攻撃、つまり「特攻」ということは、このレイテ沖海戦で始まった。

1944年(昭19)6月からは、アメリカの大型爆撃機ボーイングB29によって、日本の都市が空襲爆撃を受けるようになる。

しかし最初は、B29は中国を基地としていたので、北九州に達するのがやっとだった。その後アメリカが、日本の本土に比較的近いサイパン、グアム、テニアンなどのマリアナ諸島を占領すると、1944年11月からは、そこから発進するB29によって東京も空襲を受けるようになった。一連の東京への空襲のなかで最大だった1945年(昭20)3月の東京大空襲では、100万人が被災し、10万人が焼死した。なお、アメリカによる空襲は大都市だけでなく、数多くの中小都市にもおよんだ。

一方、1945年2月には、小笠原諸島の硫黄島へのアメリカ軍の攻撃がはじまり、この島を守っていた日本軍は激しく抵抗したが、同年(45年)3月にほぼ全滅した(硫黄島の戦い)

そして1945年4月、連合軍(アメリカ・イギリス)による沖縄への上陸作戦が始まり、6月に沖縄は占領されてしまった。この「沖縄戦」で、戦闘に巻き込まれた10万人近い島民が犠牲になっている。こうして連合軍は、本土の目前にまで迫ってきた。


日本の降伏と大戦の終結

その後、1945年8月6日にアメリカによって広島に原爆が投下され、12万人が亡くなった。8月9日には長崎に原爆が投下され、7万4千人が亡くなっている(いずれも諸説あり)。


長崎の原爆に先立つ8月8日には、170万人ものソ連の大軍が満洲に押し寄せた。日本とソ連は、1941年4月に「日ソ中立条約」を結んでいたが、ソ連はそれを破棄したのちに攻めてきたのである。満洲の日本軍(関東軍)には、すでに食い止める力はなく、ソ連軍は、短期間で満洲を制圧した。そして、1945年9月までにソ連軍は北方領土も占領した。

このときの侵攻でソ連軍に捕らえられた日本兵は、シベリアに送り込まれて何年にもわたって強制労働をさせられた(シベリア抑留)。また、当時の満洲には160万人ほどの日本人が暮らしており、その人たちの多くは、着の身着のままで逃げるしかなかった。日本をめざし南へと逃げる途中で10万人が亡くなったが、なかには中国人に助けられたり買われたりした子供もいた。「中国残留孤児」といわれる人たちである。

ソ連が日本を攻めることについては、ドイツの降伏がみえてきた1945年2月に、すでに決まっていた。そのときクリミヤ半島のヤルタで、ルーズヴェルト、チャーチル、スターリンが集まって協議した「ヤルタ会談」でのことだ。この会談では、国際連合憲章や、連合国がドイツを共同で占領することを定めた「ヤルタ協定」が結ばれた。それとともに、ドイツが降伏したあとの「ソ連の対日参戦」についても密約がなされていたのである。

そして、1945年(昭20)8月14日に日本政府は無条件降伏を最終的に決め、それを翌15日に昭和天皇による「玉音放送」で国民に伝えた。

1945年7月下旬に連合国(アメリカ・イギリス・中国)は、ベルリン郊外のポツダムで、日本に無条件降伏を迫る「ポツダム宣言」を発信している。日本はこれを受諾したのである。

そして、1945年9月2日に、東京湾内に停泊するアメリカの戦艦ミズーリ号で、ポツダム宣言に日本が従う旨の、降伏文書への調印が行われた。日本人の多くにとっては「終戦」の日といえば8月15日だが、国際法的な手続きでは、この9月2日が日米戦争の終結といえる。

こうして、第二次世界大戦は枢軸国の敗北=連合国の勝利で終わった。

 

戦後の占領と主権回復

ドイツの占領支配・東西分断

敗戦国であるドイツも日本も、連合国側によって占領支配される状態が1950年頃まで続いた。ドイツは東西に分割されてしまう。ドイツの東側はソ連に占領され、西側はアメリカ、イギリス、フランス(以下、アメリカなど)に占領された。

ドイツのそれまでの首都・ベルリンは東ドイツのエリアにあったが、西ベルリンと東ベルリンに分けられた。東ベルリンはソ連が、西ベルリンはアメリカなどが占領した。首都という重要性があったので、ベルリンをソ連だけに占領させることに、アメリカが反対したのである。なお、西ベルリンを囲む「ベルリンの壁」は、1961年に東ドイツがつくったものだ。


大戦中は、共通の敵(枢軸国)と戦うため、アメリカ・イギリスとソ連は手を組んでいたが、戦争が終わると、国の体制のちがいなどによる対立があらわになっていった。

その後、1949年5月にアメリカなどが占領する地域が、「ドイツ連邦共和国」(西ドイツ)となる。それに対抗するかたちで同年(49年)10月にはソ連の占領地域が、社会主義の「ドイツ民主共和国」(東ドイツ)となった。

一方西ドイツは、アメリカなどの「自由主義」の陣営に加わり、1955年には、主権を回復した。「主権」とは、独立国家として行動する権利のことである。つまり、それまでの西ドイツは外交や軍事などについて、独立国としての立場が国際社会のなかで認められていなかったが、その状態を脱したのである。

また、終戦直後には枢軸国の戦争を指導したリーダーの一部や、とくに残虐な行為を行った枢軸国の軍人を「戦争犯罪人」として裁く「国際軍事裁判」も行われた。「裁判」といっても、これは戦争に勝った側が、負けた側を断罪するものだった。ドイツに関しては1945~46年に「ニュルンベルク裁判」、日本に関しては1946~48年に「東京裁判」(極東軍事裁判)がひらかれている。


日本の占領

日本の本土は分割されることなく、全国がアメリカの主導で占領されることになった。日本の占領を行う連合国軍の機関は、一般に「GHQ」「進駐軍」といわれるが、正式名称は「連合国軍最高司令官総司令部」という。GHQはこのうちの「総司令部(General Headquarters)」の頭文字をとったものだ。この組織のトップ(最高司令官)が、アメリカのダグラス・マッカーサー元帥(1880~1964)である。

占領下の日本では、それまでの「大日本帝国憲法」にかわる、現行の「日本国憲法」(昭和23年5月3日施行)が制定されるなど、現代日本の基礎となる改革が行われた。

そして1951年(昭26)9月、日本とアメリカなどの連合国とのあいだで「サンフランシスコ講和条約」が締結され、日本の主権が回復することになった。この条約は1952年4月28日に発効したので、その時点で日本は独立を回復したいえる。この日もまた、1945年の8月15日や9月2日(降伏文書調印)とならんで、重要な節目である。このとき日本は、アメリカから強い影響を受ける自由主義陣営の一員として、国際社会に復帰したのである。


さいごに・第二次世界大戦の死者

第二次世界大戦による死者は、軍人2305万人、民間人3158万人、合計5400万人余りにのぼり、第一次世界大戦(軍人・民間合計で約1800万人)を大きく上回るものだった(ウッドラフ『概説現代世界の歴史』ミネルヴァ書房、213㌻。Robert Goralski編 World WarⅡ Almanac からの引用)。

ただし、こうした死者数については諸説がある。「諸説ある」というのは、さまざまな戦いや爆撃などの犠牲者についても同様である。

このうち最も多くの戦死者を出した国は、ソ連だった。ソ連ではこの大戦で、軍人1360万人、民間人772万人が亡くなった。両者を合わせると2100万人余りで、第二次世界大戦の死者の4割近くを占める。独ソ戦は、きわめて激しい戦いだったのである。

ドイツは、軍人400万人、民間310万人。

そして、ヨーロッパのなかでドイツのつぎに目立つのがポーランドである。軍人32万人、民間603万人。このうち約半数の320万人がユダヤ人だった。ロシアとポーランドという、ナチス・ドイツが「劣等」な民族との戦いと考えて荒らした地域は、第二次世界大戦のなかでも、とくに恐ろしいことになったのである。

日本は、軍人114万人、民間95万人。ただし、日本政府(厚労省など)の統計では、軍人・軍属230万人、民間人80万人という数字がある(高橋昌紀『データで見る太平洋戦争』毎日新聞出版、24㌻)。

中国は、軍人132万人、民間1000万人。中国はアジアの主戦場であり、ソ連に次ぐぼう大な死者を出した。

以上は、とくに犠牲者の多かった国ぐにである。

そして、アメリカはどうか。軍人29万人。民間人については本土が被害を受けていないので「皆無」ということになる。

いずれにせよ、最近私たちが大災害やテロなどで目にする犠牲者の数を大きく超える、ケタはずれの数字である。第二次世界大戦の被害や悲惨さは、とにかく想像を絶するものだった。しかし、これは70~80年前の世界で現実に起こったことなのである。この戦争について、私たちはぜひ知っておくべきだろう。

第二次世界大戦の原因論や、歴史上の意義、その後の世界への影響については、ここでは踏み込まない。この記事では基本的な経緯について、おもに予備知識のない人に向けて、あらましを述べるだけにしておく。


おすすめの参考文献

基本的な事実の確認に、以下の本をおもに用いた。学者・専門家によって書かれているが、どれも比較的読みやすくコンパクトにまとめられているので、おすすめできる。

・木村靖二『二つの世界大戦』山川出版社(世界史リブレット)、1996 

二つの世界大戦 (世界史リブレット)

二つの世界大戦 (世界史リブレット)

 

 ・木村靖二ほか『世界大戦と現代文化の開幕』中公文庫(世界の歴史26)、2009 

世界の歴史〈26〉世界大戦と現代文化の開幕 (中公文庫)

世界の歴史〈26〉世界大戦と現代文化の開幕 (中公文庫)

 

 ・池田浩編『図説 太平洋戦争』河出書房新社(ふくろうの本)、1995 (改訂版2005、この記事では1995年版を使用)

図説 太平洋戦争

図説 太平洋戦争

 

 
このほか、高校世界史の代表的な学習参考書である、下記の本の第二次世界大戦に関する部分も、全体を見わたすのに良い(おそらく上記の木村靖二が手がけたはずだ)。幅広い情報を限られたページに圧縮した記述なので、本来は初心者には読みにくいはずだが、この記事を読んだあとなら、かなり読みやすいだろう。

・木村靖二・岸本美緒・小松久男編『詳説 世界史研究』山川出版社2017 

詳説世界史研究

詳説世界史研究

 


ヒトラーをどうとらえるかについては、次の本が参考になる。ヒトラーについての「古典」といえる本。2017年に新訳の文庫版が出た。

・セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』草思社文庫、2017 

文庫 ヒトラーとは何か (草思社文庫)

文庫 ヒトラーとは何か (草思社文庫)

 

 
マンガだが、これもおすすめ。水木しげるの隠れた代表作のひとつ。1971年に雑誌に連載された作品だが、当時、これだけの的確なヒトラー像をマンガで描いた水木の力量はすごい。

・水木しげる『劇画ヒットラー』ちくま文庫、1990 

劇画ヒットラー (ちくま文庫)

劇画ヒットラー (ちくま文庫)

 

 
ヒトラーについては、当ブログのつぎの記事がある。
日本が戦争に踏み込んでいった社会背景については、当ブログのつぎの記事を。

ブログの著者そういちの最新刊(2024年2月5日発売)。世界史5000年余りの大きな流れ・通史をコンパクトに述べています。

(以上)