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ヒトラーの基礎知識・一歩深く理解するための2つのポイント

アドルフ・ヒトラー(1889~1945)は、「ファシズム」あるいは「ナチズム」といわれる反民主主義の思想に立って独裁権力を手にし、世界を大戦争に巻き込んだドイツの政治家である。現代社会の源流を知るうえで、ヒトラーについてはぜひ押さえておきたい。 

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 水木しげる『劇画ヒットラー』(ちくま文庫)


目 次 

 

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元ホームレスのヨーロッパ制覇

1910年代のウィーン(オーストリアの首都)に、1人の貧しいフリーターの青年がいた。彼、アドルフ・ヒトラー(1889~1945)は、画家を目指していたが、美術学校の入試に失敗して挫折。13歳で父を失い、入試に失敗したあとには、母も亡くして1人きりとなった。それからは、役人だった父の遺産と孤児恩給で食いつなぎながら、放浪に近い生活を送った。ホームレスだったこともある。

その後、ドイツ南部のミュンヘンに移住し、ドイツ軍に志願して第一次世界大戦(1914~18)に従軍した。戦後の1919年には、ドイツ労働者党(のちのいわゆるナチ党)に入党。「党」といっても、当時の党員は50人余り。勤めや自営業などの本業を抱えた、アマチュアの変わり者が集まって政治談議をしているだけ。きちんとした綱領(党の基本理念)も予算も何もない。

定職もなくヒマなヒトラーは、党の活動にのめりこんで働いた。演説会のチラシをつくって配ったり、募金を集めたり。新聞広告を出した演説会に、会場いっぱいの聴衆が集まったときは、うれしかった…

その後、1930年代。ヒトラーが率いるナチ党は、1932年の選挙で、国会の第一党になった。そのときは単独過半数を得ることはできなかったが、さまざまな政治的なかけひきや争いの結果、1933年にヒトラーは首相となった。

政権を得たヒトラーは、世界大恐慌(1929~)の影響で混乱していたドイツ社会の混乱をおさめることに成功し、国民の絶大な支持を集めるようになっていった。一方、反対勢力をテロで排除し、当時の世界で「最も民主的」とされていたヴァイマル(ワイマール)憲法を停止するなどして、独裁的な権力を手にした。1934年には国家元首(大統領)と国防軍司令官の地位を兼任するようになり、「総統」と称した。1935年頃からは、急速な軍備拡大をすすめていった。

そして、ヒトラー総統率いるナチス・ドイツは、全ヨーロッパの制圧をめざし、戦争をはじめた。1939年9月にはポーランドに侵攻。これに対しイギリスやフランスがドイツに宣戦布告した時点で、「第二次世界大戦が勃発した」ということになっている。

その後ヒトラーは西ヨーロッパ諸国にも軍をすすめ、1940年6月には、フランスを含むヨーロッパの大半を制圧したのである。そして、イギリスに対しては空爆を中心とする激しい攻撃を続けた。

その一方で、ナチス・ドイツはユダヤ人の迫害・大量虐殺や、占領した地域に対する過酷な収奪などを行った。とくにポーランドや、のちの1941年に侵攻を開始したソ連では、国を破壊する意図のもと、多くの人びとを殺害した。このほかにも、ロマ族(ジプシー)の大量虐殺や、障害者などの社会的弱者の迫害・殺りく等々、さまざまな非道がナチスによって行われた。

とにかく、元ホームレスの青年が、十数年後には世界を巻き込む大戦争の中心にいたのである……! ヒトラーの生涯を追っていると、想像を絶する事実を前にして、「なぜこんなことが?」と問わずにはいられなくなる。

 

無謀な戦いと破滅

しかし、1941年6月にソ連に対する戦争を開始したあとは、ヒトラーの勢いは下り坂になっていく。ナチス・ドイツとソ連は、もともとは不可侵条約(お互いを攻めない約束)を結んでいたが、それをヒトラーは一方的に破棄して、不意打ちでソ連に総攻撃をしかけたのである。

ヒトラーはその政治思想のなかで、ロシア人やソ連の社会主義を憎悪していた。社会主義(マルクス主義、共産主義)は、ヒトラーの信じる見解では、ユダヤ人の陰謀だった。そこで、ソ連を攻め滅ぼすことは、なんとしてもやり遂げたい、彼の人生の大目標だったのである。ソ連との不可侵条約は、ヨーロッパ諸国との戦争を行うための、とりあえずの措置だった。

しかし、ソ連との戦争は泥沼化して、しだいに戦局は不利になっていった。そして1941年からは、もともとはヨーロッパの戦争からは距離をおいていたアメリカがイギリス側の陣営に加わった。1941年12月に、ドイツの同盟国・日本がアメリカとの戦争を始めた直後に、ドイツもアメリカに宣戦布告した。

ナチス・ドイツはたしかに強大だったが、イギリスやその同盟国アメリカ、そしてソ連までをも同時に敵にまわして戦争を行うのは、いくらなんでも無謀だった。しかし、その無謀な恐ろしいことを、ヒトラーは主導したのである。そして、多くの人びとを巻き込んで破滅していった。

1945年4月、連合軍(イギリス・アメリカとソ連)によってドイツの首都ベルリンが占領されると、当時地下壕の参謀本部にこもっていたヒトラーは、愛人のエヴァ・ブラウンと自殺した。

 

ポイント①「人間ばなれした悪魔」で片づけない

結局、ヒトラーとは何だったのか。なぜ、あれだけの権力を得て、世界を巻き込んで大惨事をもたらすまでになったのか?

ヒトラーについての通俗的なイメージは、「超人的な、人間ばなれした悪」ということではないだろうか。「大衆はヒトラーのデマに騙され、暴力や脅しに屈服させられた。そのよう非道を迷いなく実行できたヒトラーは、人間ばなれした悪魔なのだ」ということだ。

しかし、こういうイメージで片づけてしまうと、「ヒトラーとは何か」についての思考は停止してしまう。でも「それではいけない」と、ヒトラーを同時代人として目撃したドイツのジャーナリスト・セバスチャン・ハフナー(1907~1999)は、こう述べている。

《ヒトラーの世界観はなんとしても追及しておかなくてはならない。第一の理由は、いま追及しておかないと、ヒトラーの世界観がわれわれの想像以上に、ひろく大きく深くこれからも生き続けてしまう危険があるからである。それはドイツ人やヒトラーの信奉者たちのあいだにかぎったことではない》(ハフナー『ヒトラーとは何か』草思社文庫、144㌻、瀬野文教訳)

おそらく、私たちのなかにはヒトラー的な発想が、いつのまにか芽生える可能性がある。その意味で、ヒトラーの思想は、ある種の普遍性を持っているといえる。だから、私たちは「ヒトラーとは何か」についてしっかりと理解しておく必要がある。

また、理科教育の専門家で、社会や歴史の教育もテーマとした教育学者・板倉聖宣(1930~2018)は、ヒトラーを扱った歴史教育の研究で、明快にこう述べている。(「ヒトラー現象から何を学ぶか」『たのしい授業』2007年3月号、99㌻)

《ヒトラーは、大ドイツ帝国の「理想」を追った純粋な愛国者に過ぎなかったのです》


つまり、第一次世界大戦(1914~18)に敗れたドイツに対し、イギリスやフランスなどの国際社会は、ドイツを過酷な目にあわせた。ドイツが再起できないように、ばく大な賠償金を課したり、極端に軍備を制限したり、多くのドイツ人が住んでいた地域をかつてのドイツ帝国やオーストリア帝国から切り離してチェコスロバキアなどの新しい国をつくったりした。これは、当時のドイツ人にとって大きな屈辱だった。それに強く反抗して、ヒトラーは成果をあげたのである(板倉も同様の説明をしている)。

「人間ばなれした悪魔」ではなく、「愛国者」に過ぎない。もちろん、板倉はヒトラーを肯定しているのではなく、その「理想」は「とんでもない」ものだとしている。

《自分の「大ドイツ帝国の建設」という「理想」だけを追ったヒトラーには、家族もなく汚職をする必要もありませんでした。……汚職をするような政治家には強いマスコミも、とんでもない「理想」のために献身する政治家には弱いのです》(前掲、99㌻)

板倉のヒトラー論は、いわゆる「専門」の歴史家によるものではないが、幅広い文献をふまえたうえで、初心者にもわかりやすくポイントを伝えている。

 

「愛国者」の青年ヒトラー

芸術家になる夢が破れ、放浪の生活を送る、元ホームレスの青年・アドルフ・ヒトラー。職も家族も、何もない。
 
そんな彼が、情熱を傾けたのは、政治問題だった。「愛国者」として「大ドイツ」の理想について考えること。本当に望む「夢」がなわないとき(ヒトラーの場合は芸術家になる夢)、代わりの何かを追い求める、というのはよくあることだ。

そして、ハフナーも言うようにその対象が政治であることも、一般的だった。個人の生活やたのしみの幅が狭かった当時は、政治について語ることは、人びとにとって今の時代よりもはるかに大きな意味があった。

「大ドイツの理想」は、当時(第一次世界大戦後)のドイツ人にとって、おおいに訴えるものだった。

さきほど述べたように、第一次世界大戦でドイツは、イギリス・フランスなどに敗れた。その結果、過大な賠償金を課せられたり、軍備を制限されたり、国の一部が切り取られてしまうなど、屈辱をなめていた。そのような状態を打破して、偉大なドイツを取り戻そうと、ヒトラーは熱心に訴えたのである。

なお、ヒトラーはオーストリアで生まれ育ったので、「オーストリア人」といえる。ただし、ドイツ語を話す、広い意味での「ドイツ人」ともいえる。しかし若い頃からヒトラーが帰属意識をもったのは、オーストリアではなく、広い範囲のドイツ人を包括する「大ドイツ」だった。

従軍する前の放浪時代のヒトラーは、貧しい生活を送りながら、カフェなどにある新聞・雑誌や書籍を手あたりしだい読みあさり、政治や社会について知ろうとした。孤独な独学を続けたのである。

 

「ドイツ労働者党」と出会う

そんなヒトラーが、第一次世界大戦後に、右翼の弱小政党・ドイツ労働者党(のちのいわゆるナチ党)に出会う。「右翼」というのは、とりあえず「社会主義・マルクス主義に反対で、自国の民族の独自性や伝統、優越性を信じて大切にする立場」と理解すればいい。ドイツ労働者党は、そのなかでも過激な「極右」といえるポジションだった。「左翼」はとりあえず「社会主義やマルクス主義に共鳴する立場」ということだ。

ドイツ労働者党との出会いの当初、ヒトラーは飛び入りで、自分の「大ドイツ主義」の政治主張について演説をしている。ある講演会で、弁士に反論して一席ぶったのである。言いたいことは、山ほどある。その発言は、その場でおおいに喝采を受けた。こうした小さな「成功」がその後もくり返され、彼は、自分の演説や扇動の才にめざめた。

これまで社会のなかの「無能者」として生きてきた彼にとって、「自分の演説で人を動かせる」ことを知ったのは、震えるほどうれしかったはずだ。

なお、このときのヒトラーは、第一次世界大戦が終わったあとも軍に残り、国家のためにさまざまな政治的活動を監視・調査する仕事をしていた。 職もないので、それでとりあえず食べていたのである。ドイツ労働者党に近づいたのも、もともとは調査のためだった。そしてヒトラーは調査の仕事につく前に、軍の研修で政治について学び、議論する訓練も受けていた。演説の才能の開花は、そういう下地もあったうえでのことだった。

そしてヒトラーは、「政治家になりたい」と思うようになった。学歴も家柄もないフリーターの青年(1919年当時30歳)にとっては、かなり無茶な「野望」だ。さらに、当時のヒトラーにはドイツ国籍もなかった。しかし、全力で活動を重ね、ほんとうに政治家になったのである。

ヒトラーは政治活動に、心底から全力を傾けることができた。それは、彼の初期の成功の鍵だったといえる。ヒトラーには仕事も友人も恋人も家族もなく、「政治」以外に何もなかったのである。
 
そして、「政治以外、何もない」という状態は、その後もヒトラーの生涯にわたって続いた。ヒトラーは結婚して妻子を持つこともなく、腹を割って話せる盟友も、少なくとも権力の座についてからは、1人もいなかった。(ただしエヴァ・ブラウンという愛人の女性とは、自殺する直前に地下壕で結婚式をあげている)
 
とにかく、まずこのようなヒトラーの「出発点」をおさえることが大事だ。もともとのヒトラーは、「どこにでもいる若者だった」といえるのではないだろうか。今の世の中で、ネット上で熱く政治談議をしている青年のなかに、彼と似た境遇(あくまで境遇が)の人は、いないだろうか。

 

ポイント② 独裁権力の根本は「実績」をあげたこと

つぎにおさえたいのは、「なぜ、ヒトラーは独裁的な権力を手に入れたか」ということだ。

それを「デマや暴力のせいだ」というのは、一面的な見方である。ヒトラーはたしかに、デマや暴力を、フルに使っている。冷静な目でみれば支離滅裂な、あやしげな扇動をくりかえしている。今でいうフェイクニュースなど、朝めし前だ。自分の自由になる暴力実行の部隊である「突撃隊(略称SA)」「親衛隊(SS)」を編制し、それを使って反対勢力を攻撃・殺害したりもした。でもそれだけが、彼の権力の源泉ではない。

デマや暴力は、権力を掌握する初期の段階では、たしかに重要だった。しかし、「国民の心からの支持を得る」には、それでは足りない。「大ドイツの理想」を実現するために諸外国と全面戦争を行うには、そのような「国民の支持」に基づく、絶大な権力が必要だった。そして、おそくとも1938~39年には、完全にそれを手に入れていた。

これは、彼が国家の指導者として大きな「実績」をあげたからだ。その最初のものが、「大恐慌で混乱に陥った経済の再建」である。

ヒトラーが首相に就任した1933年、ドイツにはおよそ600万人の失業者がいた。これを、ヒトラーは数年後にはほぼ一掃してしまったのである。シャハトというエコノミストを経済政策の責任者に抜擢して、公共事業などの財政出動を積極的に行った成果だった。その公共事業のひとつに、有名な「アウトバーン(高速道路)」の建設がある。

ドイツの失業者は、ヒトラーが首相になる前年(1932)には、最悪の558万人だった。しかし、ヒトラー政権誕生の1933年には480万人で、1年後の1934年には272万人にまで大きく減った。そして36年には159万人、38年には43万人、39年には12万人になっていた。(石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』講談社現代新書、207㌻)

ヒトラーの景気対策は、基本的にはアメリカのルーズヴェルト大統領が同時代にとった「ニューディール政策」と共通するものだったが、ニューディール政策よりも、明らかな成果をあげた。ヒトラーは独裁的な権力を得ていたので、議会や官僚組織の抵抗にあうこともなく、大胆な政策を推し進めることができた。そこはルーズヴェルトよりも有利だったといえる。

大きな成果をあげると、世間の評価は変わってくる。ハフナーの表現によれば《あの男(ヒトラー)には失敗もあるかもしれない。だがともかくおれたちはあの男のおかげで仕事にもパンにもありつけたんだ》(前掲書、60~61㌻)という声が支配的になってくるのである。

ヒトラーの経済政策については、その「成果」は本質的に経済を改善したものではないという批判もある。しかし、少なくとも同時代の多くの人からみれば、「状況を良い方向に大きく変えた」と思えるだけの相当な取り組みを行ったのである。

 

実績に基づくカリスマ性

その後、ヒトラーはより確かなものになった権力を駆使して、「大ドイツ帝国」建設に向け本格的に動きはじめた。

まず、国際社会の秩序を破って、軍備拡大を開始。そして、その軍備を用いて、最初はラインラント(第一次世界大戦後にドイツ領でありながらドイツ軍が入れない「非武装地帯」とされた)やチェコの一部のような、「もともとドイツといえる」あるいは「いえなくもない」という地域に軍をすすめる。そこから、範囲を広げていく……

これは、第一次大戦後、国際社会のなかで屈辱を味わい、また大恐慌で苦しんだドイツ国民にとって「明るいニュース」だった。「ヒトラーが、我々のプライドを取り戻してくれた!」と感激する人も多かった。

その頂点は、1940年にドイツ軍がフランスを征服したことだった。ドイツ軍は2~3週間ほどで、フランスを制圧してしまった。ヒトラーは、誰もが想像しなかった、とほうもない「成果」をあげたのである。こうなると、「神」のような権威が生まれるだろう。ハフナーは、こう述べている。

《こうして彼は、国民のほとんどをすべて味方につけてひとつにまとめあげてしまったのである。これは偉業というほかはない。それも十年に満たないうちにやりとげてしまった。しかもその本質的な部分は、扇動によるものではなく、きちんと実績を積んでのことだ》(前掲書、72ページ)

また、ハフナーよりも後の世代の歴史学者で、ヒトラー研究の大家であるイアン・カーショーも、こう述べている。(カーショー『ヒトラー 権力の本質』白水社、239㌻、石田勇治訳)

《ヒトラーの権力に対する国民の熱狂的な支持は、ヒトラーの権力が効果的に行使されるためになくてはならない要素であった。ヒトラーは押しつけられた暴君ではなかった。さまざまな観点からみて、ヒトラーは戦争の途中まで、きわめて人気の高い国民的指導者であった》

その後、ヒトラーはイギリス・フランスだけでなく、1941年にはソ連に大軍で侵攻して「独ソ戦」を開始。さらに1941年末に真珠湾攻撃で日米の戦争が始まると、日本の同盟国として米国にも宣戦布告。まさに世界を相手とする戦争に突入していった。ユダヤ人の大量虐殺も加速していく。しかしご存じのとおり、無謀な戦争にドイツは敗れ、壊滅状態となる……

ヒトラーが一連の「暴挙」を実行できたのは、1940年ころまでの「成果」があったからだ。これまでの実績から「ヒトラーについていくしかないだろう。総統ならどんなことでもやってしまうのではないか」という了解が、国民のあいだにあったのである。そして、そのような「実績に基づくカリスマ性」といえる特別な権威が、ヒトラーの独裁権力を支えていたのである。

 

まとめ

以上、ヒトラーを理解するための2つのポイントについて述べた。

① 「人間ばなれした悪魔」で片づけない。「ただの愛国者に過ぎない」という側面にも目を向ける。

② その独裁権力の根本には、経済政策や領土拡張で「業績」をあげたことによる国民の支持がある。デマや暴力だけによるものではない。

こうした視点は、近年はいろいろな本で説明されており、かなり普及したといえる。でも、もっと知られていいはずだ。もちろん、ヒトラーのことは、上記の2点だけで尽くせるものではない。しかし、この2点はごく常識的な・通俗的イメージよりも一歩深くヒトラーを理解するうえでは大事なポイントなのだ。

さらに、ヒトラーによる政治思想である「ナチズム」とはどういうものか、ということも重要だ。それは「ただの愛国者」が、なぜ世界戦争へと突き進み空前の大量虐殺を行ったのか、ということにかかわっている。その意味でヒトラーはやはり「ただの愛国者」ではない。これについては、重たいテーマであり、別項目として述べる。

 

参考文献

以上は、文中で引用した セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』草思社文庫、2017(原著1978) がおもな元ネタである。ヒトラー入門として「古典」といえる本であり、鋭く明快な表現が魅力。 この本の主張に全面的に賛成できなくても、ヒトラーを考えるさまざまな視点を得ることはできる。

文庫 ヒトラーとは何か (草思社文庫)

文庫 ヒトラーとは何か (草思社文庫)

 

本書の訳者・瀬野文教さんは「訳者あとがき」でつぎのように述べている。ハフナーのヒトラー論に対しては「ヒトラー個人の役割を過大視している」等の批判もおこったが、《(原著の出版から)三十年以上経た今日、アカデミズムはハフナーの説が正しかったことを、いまさらながらに追認しているありさまだ。奇妙なことに歴史学者たちは、そのさい自分たちの研究がハフナーを参考にしたものであることを、参考文献はおろか注釈の欄にすら記さないのである》。

あとは、文中で引用した板倉聖宣の所論のほか、下記の2冊を参考にした。基本的にはハフナーと重なるところのあるヒトラー像(ただし見解が異なる点も色々ある)を、専門的な歴史研究をもとに述べた本である。どちらも、信頼感のある概説書としておすすめできる。

・イアン・カーショー『ヒトラー 権力の本質』白水社、1999(原著1991)、新版2009(この記事では1999年版を用いた) 

ヒトラー権力の本質

ヒトラー権力の本質

 

 ・石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』講談社現代新書、2015 

ヒトラーとナチ・ドイツ (講談社現代新書)

ヒトラーとナチ・ドイツ (講談社現代新書)

 


ほかにマンガの 水木しげる著『劇画ヒットラー』ちくま文庫、1990 もよい入門であり、参考になる。とくにヒトラーを「人間離れした悪魔で片づけない」という点でイメージを得ることができる。

劇画ヒットラー (ちくま文庫)

劇画ヒットラー (ちくま文庫)

 

 
また、この記事では立ち入っていないが、ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺「ホロコースト」については、下記が参考になる。

・芝健介『ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量虐殺の全貌』中公新書、2008 

ホロコースト―ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌 (中公新書)

ホロコースト―ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌 (中公新書)

 

 
第二次世界大戦の基本的な経緯については、当ブログの次の記事を。

(以上)