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「文明の始まり」の時代の国家・都市国家から領域国家へ

5000~4000年前の「文明の始まり」といえる時代の国家はどのようなもので、どんな経緯で発展していったのか? この記事では、紀元前の西アジアにおける「国家のあり方」について述べる。国家のスケールの拡大や、その統合のかたちの変化などを、おおまかに追いかける。


5000年ほど前の世界で、最も発展した国家は、人口数万人規模の都市とその周辺を範囲とする「都市国家」だった。のちの時代のように広い範囲を領域とする国家(領域国家という)は生まれていない。都市国家は、巨大な帝国や現代の大国からみれば「」のような存在である。その後、特定の地域にいくつもの都市国家が並び立つようになり、さらに特定の都市国家が、数多くのほかの都市国家を支配するようになっていった。さまざまな「点」を束ねた国家が生まれたのだ。そして、数多くの「点」を含むまとまった範囲を「面=領域」として支配するようになった。「領域国家」の誕生である。このような現象が、世界で最初に典型的なかたちで起こったのは、4000数百年前の今のイラク・シリアにあたるメソポタミアという地域でのことだった。

目 次

 

国家とは何か

そもそも「国家」とは何だろうか? 国家とは、社会がひとつの権力によって束ねられている状態である。社会とは、人間の集団として「何十年・何百年と暮らしを続けられる基盤がある」ということだ。衣食住に必要な物資を安定的に生産したり輸入したりできる、子孫を生み育てることができる人口や年齢構成になっている……そんな条件を備えた人間の集団が「社会」である。

暮らしを持続し、子孫を生み育てることについては「生活の再生産」という言い方がある。つまり、社会とは「生活の再生産が可能な人間の集団」である。そのような「社会」を構成する人たちに対し、法律などのルールを強制できる存在を国家権力という。(滝村隆一『世紀末「時代」を読む』春秋社などによる)

たとえば、日本列島に暮らす1億余りの人間は、生活の再生産が可能な集団になっている。その意味でまさに社会である。それを束ねる国家権力が日本政府である。

また、「共同体」という言葉もある。「共同で生活するための、人と人との結びつき」のことだ。人間がつくる最も大きな・包括的な共同体が、国家である。「包括的」とは、「さまざまな要素を含んでいる」ということだ。

共同体にはさまざまなスケールがある。国家よりも小さな共同体として、村落や都市はとくに基本的なものだ。それよりも大きな共同体としては、たとえば江戸時代の藩のような、地方政権の領域がある。江戸時代の日本は、300余りの藩という共同体を幕府という国家権力が束ねていた。

現代でも、「連邦国家」といわれる国家は、連邦を構成する地方政権と、それを束ねる連邦政府(中央政府)から成っている。

たとえばアメリカ合衆国は、そのような連邦国家の一種である。アメリカ合衆国を構成する50の州は、州ごとの憲法・法律や税制、軍隊などを持ち、ある程度独立した「共和国」になっている。日本の都道府県には、このような独立性はない。アメリカ合衆国は、各州という共同体を包括する、人口3億を超える巨大な共同体である。

そして、各州は一定の独立性があるとはいえ、最終的には連邦政府に従わなくてはならない。たとえば、アメリカのどこかの州が住民投票で合衆国からの離脱・独立を決めたとしても、連邦政府は決して認めない。最終的には軍隊を動員してでも、つぶしてしまうだろう。それが、ひとつの国家として統合されているということである。

「国家連合(国家間の協定に基づく結びつき)」にとどまるEUは、そうではない。EUでは、2016年にイギリスがEUからの離脱を国民投票で決めたが、それを否定する法的権限や現実的なパワーをEUの当局は持っていない。EUは国家ではないのである。

このような国家についての見方を頭において、歴史上の出来事をみていこう。

 

シュメール人の都市国家

国家の発展の歴史を、ここでは紀元前3500年(5500年前)頃のメソポタミア(今のイラク・シリア)で成立したウルクという都市から始める。シュメール人といわれる人びとが築いた都市である。ウルクは、紀元前3000年頃には人口数万人に達したと推定される。そのようなスケールの都市は、空前のものだった。

現在のところわかっている最古の文字は、紀元前3300年頃のウルクで生まれた。実用的な青銅器(どこで発明されたかは明確でない)も、紀元前3000年頃からウルクでは盛んに用いられた。当時は青銅器の時代であり、鉄器の普及はずっと後の紀元前1000年頃からのことだ。ウルクで栄えた都市文明は、のちの世界に多大な影響をあたえた画期的なものだった。ウルクの文明が「最古の文明」であるかどうかはともかく、ウルク以降、世界史が新しい局面に入ったことはたしかである。

そしてウルクが成立した紀元前3500~3300年頃以降、メソポタミア南部やその周辺にも、いくつかの大きな都市ができていった。紀元前2900年頃からは、メソポタミアでは多くの都市が並び立つ状態――都市国家分立の時代となった。

この時代の都市は、都市とその周辺を範囲とする「都市国家」を形成した。大きな都市が近くの中小都市や農村を支配することもあり、その動きは時代が下るにつれさかんになった。

ここで「国家」というのは、単に多くの人口が集中しただけでなく、国王という権力者を頂点とする、社会の分業体制が生まれたということだった。その分業は、血縁ではなく都市に集まった人びとの地縁にもとづく、新しい社会システムだった。そして、何万もの人びとが暮らす都市の共同体を、国王という権力が束ねているのである。

都市を核とする国家が、文明の始まりの時代の代表的な国のあり方である。広い範囲を支配する「領域国家」は、まだ成立していない。

そして、メソポタミアの数多くの都市国家は、たがいに勢力争いをするようになった。この攻防は紀元前2600年頃から激しくなった。 紀元前2300年代には、メソポタミアを統一してまとまった領域を支配する国家もあらわれた。これについてはあとで述べる。

 

国王による直営

では、5000年前頃の、メソポタミアの都市国家における国王(国家権力)の支配とは、どのようなものだったのか? その体制は、今の私たちの「国家」や「社会」についての常識的なイメージとはかなり異なるものだ。

メソポタミアの都市国家では、国王が、国の経済の大部分を直接支配する状態が続いた。国王がおもな農地を自分の所有物=自由にできるものとして支配した。私たちは「国王の支配」というと、農民が自分の所有する土地を各自の判断で経営し、国王がそこから税を取り立てる、といったことを連想するはずだ。現代の国家における課税も、その点は同様である。

しかしシュメール人の都市国家では、国王自身が圧倒的な大土地所有者であり、多くの人びとがその指揮・監督下で働いた。その人びとは「農民」ではあるが、国家組織の一員なのである。個々の農民に自分の判断で経営する土地があたえられることはあったが、その面積はかぎられていた。農民は公共工事なども行い、兵役にとられることもあった。

そして、道具や工芸品を生産する工房を、国王は直営していた。そこで働く職人は、出入りの業者ではなく、専従で働く国王の使用人だった。遠隔地との交易も、国家権力が独占した。それを専門に行う一種の役人がいて、独立した民間の貿易商はほぼ存在しなかった。商人全般が、私的な利益を追求するのではなく、国家組織の一員として活動した。

このような直営の土地や商売からの富で、国王は自分の役人・兵士を養った。その組織の力で、直営の範囲外にいる人びと――周辺にある中小都市や村落の支配者をも従わせ、収穫の一部を徴収し、公共工事や兵役への動員を行ったのである。そのような強制力が働く範囲が、「国」ということになる。

文字による記録は、さまざまな活動を行う国家の組織を管理・運営するうえで必須のツールだった。当時の文字は、おもに粘土板に刻まれた。最古の文字は、紀元前3300年頃にウルクで発明され、その後、メソポタミアのほかの都市にも広まっていった。

国家直営の経済的な組織については、「家政組織」という言い方がある。「家政」とは、ここでは「国王のプライベートな家計・経済活動」という意味だ。しかし多くの人にはなじみの薄い言葉なので、この記事では「直営」という表現を使う。

シュメール人の都市国家では、以上のように国家による直接の活動が、圧倒的な比重を占めている。私たちが後の時代(とくに現代)の国のあり方からイメージする「国民が各自の考えで活動する“民間”の社会があり、それを国家権力が課税などで政治的に支配する」という姿とは大きく異なる。

そして、このような国家では、99%以上のほとんどの人間にとって、私たちがイメージするような「自由」は皆無だっただろう。たとえ、奴隷として売られることのない「自由人」の身分であっても、土地の所有が制限され、日々の労働が権力者の指揮下にある。住む場所や仕事を選ぶことはもちろん、日々の仕事をどう行うかの裁量も、きわめてかぎられていただろう。(以上の「国王による直営」の都市国家のあり方は、おもに前田徹『初期メソポタミア史の研究』早稲田大学出版部、2017年による)

 

都市神・奴隷

また、国王にとっては、経済や軍事のパワーだけでなく、宗教的な権威づけも重要だった。シュメール人の都市では、それぞれの都市を支配・守護する「都市神」というものが信仰された。それぞれの都市神は、ほかの都市からも一定の信仰を集めたので、シュメールの宗教は多神教の一種である。

国王は、都市神から王としての権限をあたえられた者であり、神が住む場所である都市を守る責任を負った。「都市国家」ということが、この理念にもあらわれている。(前田『初期メソポタミア史の研究』)

なお、シュメール人の都市国家は、それほど厳格ではないにせよ、一定の身分社会であり、奴隷も存在した。奴隷とは、人としての権利を否定され、モノのように売買される人間のことである。

奴隷には国家組織に属する奴隷のほか、個人の家で働く家内奴隷もいた。奴隷となった事情別でみると、債務(借金)を返せなかった債務奴隷、犯罪者が奴隷身分に落とされた犯罪奴隷、戦争に負けた捕虜、外国から商人によって奴隷として買われた者などがいた。つまり、のちの時代にもみられたさまざまな奴隷のパターンが、すでにほぼ出そろっていたのである。(小林登志子『シュメルー人類最古の文明』中公新書、2005年)

 

最初の領域国家・アッカド王朝

さきほど述べたように、メソポタミアでの都市国家間の勢力争いは、紀元前2600年頃から激しくなった。 そして紀元前2300年代前半には、ウルクのルガルザゲシという王がメソポタミア南部を統一した。

しかしその後、メソポタミア北部でアッカドという都市を拠点とする王・サルゴンが勢力を伸ばし、紀元前2350年頃にルガルザゲシを倒して南北メソポタミアを統一した。

サルゴンはシュメール人ではなく、アッカド人という人びとの王だった。サルゴンというのは、「旧約聖書」に彼が登場するときのヘブライ語名であり、アッカド人の言語(アッカド語)ではシャル・キンという。これは「真の王」という意味なのだが、生まれながらの王族ならばことさらそのようには名乗らないはずなので、サルゴンは成り上がりなのではないか、という推測が成り立つ。 そして、それはあくまで「推測」であって、彼の生い立ちについては何もわかっていない。この時代の人物については、伝記的なことはわからないのである。

アッカド人は都市文明の初期の頃から、メソポタミアでシュメール人と共存していた。シュメール人とアッカド人は、言語は別であり血縁的な系統は異なる。しかし文化的には多くを共有する、比較的近い間柄だった。 アッカド人は、自分たちの独自の文字を持たなかったので、シュメール人の文字を使って、自分たちの言語であるアッカド語を表記した。

サルゴンの拠点であるメソポタミア北部は、南部にくらべればやや遅れて発展した地域だが、サルゴンの時代には有力な都市がいくつも存在していた。そのなかには、アッカド人が支配する都市もあり、アッカド王朝の首都アッカドはそのひとつだった。なお、アッカドの遺跡はまだみつかっておらず、どのような都市だったかはわからない。

サルゴンのメソポタミア統一によって成立した王国を、アッカド王朝とよぶ。「王朝」とは、王国を支配する権力者の一族や、その政権のことである。「王国」とほぼ同じ意味のときもある。

サルゴンのパワーは、強力な直属の軍隊に支えられていた。5400人の兵士が毎日サルゴンの前で食事をしていた、という記述が残っている。 数千人の常備軍を養う物資を日々調達し補給するしくみ(軍隊や物流の用語でロジスティックスという)を、サルゴンは築きあげていたのである。

 

領域国家の支配者・「全土の王」「四方世界の王」

サルゴンとその後継者は、自らを「全土の王」と名乗った。サルゴンが破った、メソポタミア南部の王は「国土の王」と名乗っている。こういう名称は、都市国家の枠を超えた広い領域を支配しようとする志向をあらわしている。 (前田『初期メソポタミア史の研究』)

そして、サルゴンから数えて4代目の王ナラム・シンは、今のシリアやイランなどへの領土拡大にも成功し、「四方世界の王」という、さらにグレードアップした称号を名乗った。「四方世界」とはシュメール、アッカドのほか、アッシリア、アモリという周辺民族の地域をさす。そこには、世界の唯一絶対の支配者というニュアンスがあった。ナラム・シンは、これまでにない権力者のあり方を打ち出した。

 

ワンランク大きなスケールでの社会統合

アッカド王朝は、数多くの都市国家――少なくとも大規模な都市だけで十数か所――をまとめた、新しいかたちの国家だった。これを、ここでは領域国家と呼ぶことにする。領域国家の先駆けには、メソポタミア南部を統一したルガルザゲシの王国などがあるが、アッカド王朝はそれを受け継いでさらに発展させたのである。

アッカド王朝のようなスケールの国家は、同時代の世界のほかの地域には存在していない。インドではインダス川流域で紀元前2600年頃に最初の都市国家が成立してから、それほど経っていない。中国の黄河文明の成立は紀元前2000年頃である。

ただしエジプトでは、紀元前3100年頃に、ナイル川流域のまとまった範囲を支配する王国が成立していた。これは、メソポタミアの都市国家を上回るスケールだった。しかし、当時のエジプトでは有力な都市国家は発達せず、その王国は、おもに数多くの村落や中小の都市を支配することで成り立っていた。

これに対しアッカド王朝は、万単位の人口を擁するいくつもの都市国家を束ねたものだった。つまり、統一以前の時代で最も発達した、最大規模の「国」が数多く集まってできている。アッカド王朝は、これまでよりもワンランク大きなスケールで社会の統合を実現したのである。(有松唯『帝国の基層 西アジア領域国家形成過程の人類集団』東北大学出版会、2015年)


ただしアッカド王朝のもとでも、メソポタミアの既存の文化が大きく変わることはなかった。アッカド人が優位に立ち、アッカド語が公用語となっても、シュメール語も重要であり続けた。シュメール人を主体とする都市も、アッカド王朝の支配のもとで、コミュニティじたいは存続した。(前田『初期メソポタミア史の研究』)


統合を後押しした? 塩害という環境問題

そして、領域国家の形成をあと押しした要素として「灌漑農業による塩害の深刻化があった」という説がある。塩害とは、地中に塩分が蓄積して農業に支障をきたすことだ。

メソポタミアでは雨の少ない乾燥した土地で、長年にわたり灌漑農業を続けてきた。乾燥地では、土地に引いた水は強い日差しで急速に蒸発していく。この蒸発の際に、水に含まれるわずかな塩分が残ったり、灌漑によって水に溶けた地中の塩分が地表近くに上昇したりする。

それが長年にわたって続くと、しだいに地表の塩分濃度は濃くなっていく。そして、蓄積された塩分が一定限度を超えると、農作物の収穫が減ってしまう。メソポタミアでは、数百年以上におよぶ灌漑農業の結果、しだいに塩害が深刻化していった。

アッカド王朝の時代(紀元前2300年代~)は、そのような塩害が深刻化しつつあったとみられている。


考古学者の前川和也によれば、紀元前2350年から紀元前2100年にかけて、シュメールの都市国家ラガシュでは、耕地面積あたりのムギ類の収穫量が4割減ったという。ただし、それでも当時の西アジアの天水農業を上回る生産力だった。また、メソポタミア南部の長期的な傾向として、塩害に弱いコムギの収穫量が大幅に減り、比較的強いオオムギがムギ類の収穫のほとんど占めるようになったとも指摘している。前川は、農地や収穫にかんする数多くの粘土板文書について分析を行った。 (前川和也『図説 メソポタミア文明』河出書房新社、2011年)

塩害の影響で、メソポタミアの人びとは農耕のやり方を変える必要に迫られた。さらに耕地を拡大し、より大規模な灌漑施設を整備して、それを組織的に管理するのである。これには従来の都市国家で動員できるレベルよりも、多くの労働力や物資を動員する必要があった。そこで従来の国家を超えるスケールの、領域国家というものが求められた。それがメソポタミアの統一をあと押しする要素になったのではないか――そう考える学者もいるのである。(有松『帝国の基層』)

紀元前のメソポタミアで塩害が深刻化していたことは、多くの専門家が認めている。ただし「塩害が領域国家の形成を後押しした」ということについては、証拠や史料が不足しており、仮説にとどまっている。

それでも、深刻な「環境問題」が4000年以上前に存在したことは興味深い。その対応策として、国家の再編成が起こったということも、可能性としては考えられるだろう。

 

ウル第三王朝・シュメール文化の頂点

アッカド王朝はおよそ180年の間メソポタミアを支配したが、紀元前2100頃に滅亡した。

その詳しい経緯はわかっていないが、周辺の山岳地帯を拠点とするグディという異民族の侵入や、メソポタミアの東側(今のイラン)で王国を築いていたエラム人の攻撃が影響していると考えられている。そして、グディやエラムによる攻撃とともに、シュメール人の勢力がアッカドから離反する動きも激しくなった。これらの原因が重なって、アッカド王朝は滅亡したらしい。

アッカド王朝の末期には、ウルクの王などのメソポタミア南部のシュメール人勢力が主導する争いが続き、その結果、紀元前2100年頃に、ウルナンムという王が率いる「ウル第三王朝」がメソポタミアを再び統一した。

この王国は、メソポタミア南部のシュメール人都市・ウルを根拠地としている。ウルはメソポタミアのなかで、特に古い都市のひとつである。「ウル第三王朝」というのは、長い歴史のなかで王朝の入れ替わりがあり、そのうち3番目におこった系統という意味である。

ウル第三王朝の支配領域は、アッカド王朝をベースにしたものだった。つまり、中核地域であるメソポタミア南部・北部と、その周辺を支配した。

この王朝の時代には、これまでにない質と量で、粘土板の文書が作成された。その文書の多くは国家が関わる行政・経済の文書である。行政文書のシステムが整えられ、多くの書記が粘土板に文字を刻んだ。

紀元前2100年頃にはウルナンムのもとで、世界最古のまとまった法文集(法律の条文集)「ウルナンム法典」がつくられている。この法典はシュメール語で書かれており、有名な「ハンムラビ法典」(紀元前1700年代)よりも古い「元祖」といえるものだ。そして、ウルナンムから王位を引き継いだシュルギは、度量衡(長さ・容積・重さの単位)の標準化や、暦の統一、官僚組織の整備など、国家制度の構築をすすめた。(前田徹ほか『歴史学の現在 古代オリエント』山川出版社、2000年)

ウル第三王朝の支配は、100年ほどの比較的短い期間だった。しかし、それはシュメール人が築いた国家や文化の頂点といえるものだった。

そして、紀元前2000年頃にこの国が滅びたあとは、シュメール人が有力な国家を築くことは二度となかった。文明の始まりの時代から1000数百年続いた、シュメール人が世界の先端を歩む時代が終わったのである。

 

バビロン第一王朝

ウル第三王朝の滅亡もまた、周辺の異民族の攻撃によるものだった。当時のシュメール人を脅かす存在はいくつかあったが、最も大きな脅威はアムル(アモリ)人という民族だった。アムル人は、シリア周辺で勢力を増大させ、のちにメソポタミアに進出した人びとである。このアムル人による攻撃が、ウル第三王朝滅亡の最大の原因だった。

アムル人は、もともとは遊牧民だった。遊牧とは、ヒツジなどの家畜を移動しながら飼育して生活することだ。モンゴル人などの「騎馬遊牧民」を連想するかもしれないが、この時代にはまだ騎馬(馬にまたがって乗る)ということが確立していなかった。

ウル第三王朝の滅亡後、アムル人は複数の勢力に分かれてメソポタミアの覇権を争うようになった。

その後、紀元前1700年代に、メソポタミア北部のバビロンを拠点とする王朝にハンムラビという強力な王があらわれ、メソポタミアを再統一した。この国家を「バビロン第一王朝」という。その支配の範囲はアッカド王朝やウル第三王朝とくらべ、ほぼ同等のスケールだった。

ハンムラビやその後継者は、自らを「四方世界の王」と称した。この称号はアッカド王朝以来のものだが、それをバビロン第一王朝でも用いた。王朝の首都バビロンは、当時の世界最大の都市として繁栄した。


ハンムラビといえば、彼の時代に編さんされた「ハンムラビ法典」が有名である。借金の利息、土地取引をはじめとする契約のルールや、結婚や相続などの家族法、犯罪に対する処罰など200数十の条文が刻まれた石碑が残っている。

そこには「目には目を」(他人の目をつぶした者は、処罰として自分の目をつぶされる)と表現される条文もある。こうした「復讐法」的な原理は、近代の刑法とは異なるものである。

ただしこの原理は、自由人どうしのことにかぎられる。自由人が奴隷の身体を傷つけた場合は、金銭賠償で済んだ。バビロン第一王朝の社会は、大きく分けて「自由人」「奴隷」のほか、中間的な「ムシュケーヌム」という3つの身分からなる社会だった。ムシュケーヌムについては、「臣下」などと一応訳されるものの、その社会的な位置づけはよくわかっていない。

ハンムラビ法典は、バビロン第一王朝からみて300年余り前のウルナンム法典以来の伝統を受け継いで発展させたものだ。そして、ハンムラビ法典のほうがより系統性があり、詳細なものになっている。

バビロン第一王朝の文化や技術は、シュメール人とアッカド人の遺産をそっくり受け継いだものだった。アムル人は自分たちの言語(アムル語)があったが、文書にはアッカド語を用いた。ほかに法律や宗教の関係ではシュメール語も用いられた。 しかし、一方で受け継いだものを着実にグレードアップして、新しい要素を付け加えるという面もある。ハンムラビ法典には、それがあらわれている。

 

ルーズな領域国家

では、アッカド王朝・ウル第三王朝・バビロン第一王朝という初期の領域国家は、どのような体制だったのか。

そのポイントは、都市国家の時代の「国王直営の経済」がどうなったのか、ということだ。

大きな流れでは、「国家権力が直営する経済活動が大きな比重を占める」というあり方は、変化していった。つまり、国王直営の経済が国全体に占める割合は低下していったのである。一方、民衆がそれぞれの判断で行う経済活動=民間経済や、国王以外の中小の権力者が独自に支配する部分が発達した。そして、それらを国王が課税などのかたちで政治的に支配するという、のちの時代の国家で一般的な方向へかわっていった。

ただし、領域国家の段階でも、国王直営の経済がなくなったわけではない。たとえばウル第三王朝でも、国王は直営の農地などの拡大運営に力を入れていた。それを示す多くの行政文書が残っている。たとえば、各地から集めた家畜を育てる、王家所有の広大な牧場についての記録が存在する。また、支配下の各都市には、国王の直営地がおかれた。国家のなかで、国王直営の経済は重要であり続けた。(前田『初期メソポタミア史の研究』)

しかし、おそくともバビロン第一王朝の時代になると、都市国家の時代よりも、かなり民間経済が発達していたようだ。

裁判記録や契約書などからそのことはうかがえる。バビロン第一王朝では、私的な取引・雇用関係・借金・家族関係などにかんするさまざまな契約や訴訟が、一般的に行われていた。国王の臣下であるプロの裁判官もいた。裁判では、粘土板の契約書が証拠に用いられたりした。 (『歴史学の現在』)

このような民事裁判は、以前のアッカド王朝やウル第三王朝でもある程度みられまたが、それよりも大幅に普及したことが、記録からみてとれる。

また、以前の時代にはごくかぎられていた、民間の文書記録もある程度増えてきた。それらの記録からは、遠隔地貿易に携わる民間の商人の活動も確認できる。バビロン第一王朝では、都市内部の商業では、国王の臣下である役人が中心となっていたが、遠隔地や異国との取引は、民間の商人がおもに担っていた。それに対し国王は支配者として規制を行い、税を課したのである。

この時代のバビロンには、民間の商人や職人、サービス業者などがまとまって存在したことだろう。その点で、住民の大部分が農民だったかつてのウルクとは異なる。

一方で、国王が多くの農地や事業を所有することも存続した。そのような国王直営の経済が国全体に占める割合がどうなっていたのかは、わからない。だがおそらくは、かなり低下していたことだろう。(有松『帝国の基層』) 

それには民間経済の発達だけでなく、国のスケールが領域国家として大きくなったということもある。広範囲のさまざまな民族を含む国家をくまなく国王が直営で支配することは、この時代の交通・通信では不可能である。

そこでバビロン第一王朝は、国王を頂点として、その力に従う各地の権力者(より小さな王や豪族)をルーズに束ねたものにならざるを得なかった。各地方の権力者は、一定の独立性をもっていた。しかし一方で、国王に対し収穫物を上納したり、自分の臣民を公共事業などに動員したりする義務を負った。

初期の領域国家は、このように「国王を頂点とする、さまざまな地方勢力・各民族のルーズな集合体」だった。いわば「ルーズな領域国家」である。国王が直接に経営または支配する共同体が、そのほかの大小の権力者の共同体を従える体制である。

その支配関係は、現代国家の中央政府と地方政府(州や都道府県など)のような密接なものとは大きく異なる。国王の役人がある程度の検地をしたうえで、地方からは一定の収穫物や人手を差し出せば、日常的な干渉はかぎられる。ウル第三王朝では、国王の役人は、各都市の国王の直営地に検地や収穫の確認のときにやってくるだけで、その土地に常駐することはなかった。日常的な管理は、その都市の支配者にまかせていた。(前田『初期メソポタミア史の研究』)

このような国家は、紀元前2400年頃のアッカド王朝や紀元前2000年頃のウル第三王朝の時代に基本ができた。そして、バビロン第一王朝で、さらに発展したのである。

ハンムラビ法典は、他民族の領域国家を統治するための、普遍的な法のあり方を示したものだった。国を束ねる価値観やルールを系統的にまとめたのである。

ただし、じつはバビロン第一王朝時代の裁判記録をみても、ハンムラビ法典の条文そのものが判決の根拠条文として用いられた例はみつかっていない。ハンムラビ法典は、法律的な実務に用いるためではなく、国家を統合するための象徴的なメッセージとしてつくられた可能性もある。しかし一方で、やはり法典の条文に基づく判決がなされていた、という見方もある。条文に基づく判断は、いわば当然の部分なので省略されているのではないか、ということだ。当時の判決の記録では、すべてが詳細に書かれることはなく、多くの事柄が省略されているのである。このあたりは、まだよくわかっていない。(前田『初期メソポタミア史の研究』)

 

カッシート人王朝のバビロニア

バビロン第一王朝はハンムラビ王の死後は衰え、紀元前1600年頃にはヒッタイト人という異民族による攻撃で滅亡してしまった。ヒッタイトは、今のトルコにあたるアナトリアにあった国で、その国王が軍勢を率いて長距離の遠征を行ったのである。しかし、このヒッタイト王は、バビロニアでの支配を確立することができないまま撤退した。

これほど遠方からの軍勢が、メソポタミアの中心部に攻めてきたのは史上はじめてのことだった。これは、従来の「文明の中心」であったメソポタミア以外の「周辺」の台頭を象徴するできごとだった。

バビロン第一王朝の末期から、西アジアでは周辺的な地域のさまざまな民族が台頭し、やがてメソポタミアという「中心」をおびやかすようになった。メソポタミアの大国に対抗する強大な国もできていった。アナトリアのヒッタイト王国は、そのひとつである。
 
バビロン第一王朝が滅亡した後のメソポタミアでは、カッシート人という民族が有力となり、1500年代にはメソポタミアとその周辺を支配する王国を築いた。これは、バビロン第一王朝を継ぐ国家である。カッシート人王朝のバビロニアは、紀元前1100年代まで続いた。

カッシート人王朝のバビロニアにおける国家や経済のあり方は、それまでとくらべて大きな変化はなかった。その支配領域のスケールも、バビロン第一王朝と大きくは変わらない。

また、国家の体制や理念も、基本的にはバビロン第一王朝と同様のものがほぼ踏襲された。つまり、国王が直接支配する共同体が、各地域の権力者を従える「ルーズな領域国家」であることは相変わらずだった。伝統的な都市神が国王の支配を正当化していることも、基本的には変わらない。

文化的にも、それまでの王朝に圧倒的な影響を受けていた。カッシート人には独自の言語があったはずだが、アッカド語とシュメール語の文書しか残していない。

民間経済の比重はバビロン第一王朝よりも高まっていた可能性は当然にあるだろうが、はっきりしない。国王直営の経済についても、きわめて史料が不足している。

 

領域国家の展開

ただし、領域国家としての概念や実態については、一定の進展があった。この時代には、バビロニアのほかエジプトや先述のヒッタイトなどの西アジアのおもな大国の間で外交文書がやり取りされるようになり、そのなかに国家間の境界を定めた協定が登場するのである。

そのような文書は、以前にはみつかっていない。つまり、これまでのぼんやりとした「国王直営の共同体と、それに従属する多くの共同体の集合」ではなく、「一定の領域を支配する国家」ということが以前より明確になった。

ただしそれは、私たちが近代国家のあり方からイメージする状況(明確で厳格な国境線など)にくらべれば、はるかに漠然としたものだった。

また、国王の権威・権力の絶対化は、前の時代よりも一層すすんだ。これはメソポタミアにかぎらずエジプトも含む西アジア全般でみられることだ。たとえば、国王が主導して新しい都市を建設し、政治的な中心をそこに置く、といったケースがいくつかみられるようになった。(前田『初期メソポタミア史の研究』)

古代エジプト史で有名なイクナートン(アクエンアテン)王による新都テル・アルアマルナ建設(紀元前1300年代)は、こうした王権強化の動きのひとつである。知名度は落ちるが、メソポタミアでも同時期にバビロニア、アッシリア、エラムといった列強の国王が自らの王都を建設したケースもある。

そのような新しい計画都市は、それまでの「都市神の住処(すみか)」である伝統的な都市の縛りからは離れた、国王にとっては「自由」な場所だった。伝統的な都市には、たとえば神をまつる神殿や神官といった、宗教的な権力も存在していて、それに対しては国王も敬意をはらわなくてはならなかった。

つまり、この時代の国王は、都市国家の時代以来の伝統を否定して、自らの権威や権力を強める大事業をすすめるだけの実力を持つようになった。それは前の時代にはみられなかったことである。

ただし、アッカド王朝という最初の領域国家の時代(紀元前2300年代)に、国王は世界の唯一の支配者(たとえば「四方世界の王」)であり、絶対的な存在であるという理念じたいはすでに登場していた。時代が下るにつれて、その理念がよりたしかな実態をともなうようになっていった。そのような進展は、アッカド王朝以来ずっと続いてきた動きであり、カッシート王朝(紀元前1500年代~)の頃にとくに画期的な変化が起きたとはいえないのである。

それは、いろいろな政治的な事件が起きていない、ということではなく、国家のあり方についての新しい理念やアイデアが出てこなくなったということである。

以上、紀元前1800年代のバビロン第一王朝以降、先端的な地域での「国家の発展」にかんしては、一定の進展はあっても、画期的なことはあまり起きていない。そして、バビロン第一王朝の領域国家としてのあり方にしても、紀元前2300年代のアッカド王朝や紀元前2000年頃のウル第三王朝で、基礎がすでにできあがっていた。

つまり、紀元前2300年頃以降、国家のあり方についての発展や変化はペースダウンしたのである。都市国家の誕生や、都市国家が統合されて領域国家が生まれるような大きな革新は長いあいだ起こらなかった。アッカド王朝以降、カッシート王朝のバビロニアに至るまでの1000数百年のあいだ、「ルーズな領域国家」を大きく超える新しい国家のあり方は出てこなかったのである。

 

「ルーズな領域国家」以後

「ルーズな領域国家」を大きく超える国家のあり方というと、「大帝国」といえるものがある。10~20以上もの領域国家を束ね、何十もの民族を支配する巨大な国家である。これは、紀元前600年代に西アジアの広い範囲を支配したアッシリア帝国が先駆けである。紀元前500年頃には、さらに大きな、西アジアのほぼ全体を支配するアケメネス朝ペルシアも成立した。

その後2000年余りのあいだ、世界史上の中心的な大国は、古代ギリシアのポリス(都市国家)などの例外はあるが、基本的に大帝国である。アレクサンドロスの帝国、ローマ帝国、秦・漢以降の中国の統一王朝、インドのマウリヤ朝やムガル帝国、ウマイヤ朝・アッバース朝・オスマン朝などのイスラムの帝国、モンゴル帝国など……。こうした「大帝国」については、またあらためて述べたい。

そして、近代(おおむね1500年代以降)に台頭してくる「近代国家」「国民国家」とは、「ルーズではない・緊密に統合された領域国家」なのである。つまり、強力な政府が、領域の全体の国民を直接的あるいは緊密に支配している国家である。それは、それまでの国家をはるかに超える強力な統合を「領域国家」のスケールで実現したものだった。こうした「近代国家」「国民国家」についても、ここでは立ち入らない。

近代以前には、文明国の最も一般的なあり方は「ルーズな領域国家」だった。江戸時代の日本も、300余りの藩という多数の共同体を、徳川幕府がルーズに束ねたものだといえる。

徳川幕府は、各藩の領民に対して直接的に支配を及ぼすことはない。大名たちが徳川家に対し一定の貢納(公共事業の負担など)や軍役、参勤交代といった一定の義務を果たせば、原則としてそれ以上は干渉しない。この体制は基本的にはウル第三王朝やバビロン第一王朝と変わらないのである。「大帝国」にまで発展した国家でも、かなりの場合このような「ルーズ」なかたちでの統合だった。

ただし、「中央集権」といわれる、皇帝に直属する家臣・官僚が地方官として常駐して各地域を支配する体制も、国家によってはかなり発達した(とくに宋代以降の中国など)。この点についても、また別に述べたい。

いずれにせよ、近代以前の国家の基本は「ルーズな領域国家」だった。その原型は、青銅器文明の時代だった紀元前2300年頃のメソポタミアですでに成立していた。そして、以後4000年近くにわたって国家のあり方の主流だったのである。

 


メソポタミアの都市文明については、当ブログのつぎの記事を。 

 

 

参考文献

とくに、以下の本を参考にした。西アジアの都市国家や初期の領域国家について専門家が掘り下げた本(そして私のような専門外の人間にもアクセスできる本)は、かぎられる。西アジアの初期の国家の発展史については、世界史を勉強し始めた若い頃から関心があったが、イメージを抱けないでいた。私の知りたいことについて、書いてくれている本になかなか出会えなかった。それは、紀元前の西アジアについての考古学・歴史学の限界(解明できていることが限られる)ということがあったのだろう。

しかし、この数年間に出版された以下の本などからいろいろ教わって、私にも一定の像が描けるようになった。それはたいへんうれしいことで、描けた「像」を、こうして文章にまとめたのである。

 

前田徹『初期メソポタミア史の研究』早稲田大学出版部、2017年 

初期メソポタミア史の研究 (早稲田大学学術叢書)

初期メソポタミア史の研究 (早稲田大学学術叢書)

 


有松唯『帝国の基層 西アジア領域国家形成過程の人類集団』東北大学出版会、2015年

帝国の基層: 西アジア領域国家形成過程の人類集団

帝国の基層: 西アジア領域国家形成過程の人類集団

 

 
前川和也『図説 メソポタミア文明』河出書房新社、2011年 

図説 メソポタミア文明 (ふくろうの本/世界の歴史)

図説 メソポタミア文明 (ふくろうの本/世界の歴史)

 

 (以上)