紀元前1500~1200年頃、西アジア(古代オリエント)では、青銅器文明が円熟期をむかえていた。しかし紀元前1100年代に入る頃から、西アジアの全体が大きな混乱に陥っていった。それまで有力だった国家や都市がつぎつぎと崩壊し、貿易も激減してしまった。そして、紀元前1000年代の時点では、西アジアにおける有力な国や民族は大きく入れ替わっていた。このような紀元前1100年代の「崩壊」は、従来は「海の民」といわれる地中海方面からの異民族の侵入が原因だとされてきたが、はたしてどうなのか?
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古代のグローバル文明
紀元前1500~1200年頃、西アジアの文明は一種の円熟期をむかえた。それは、シュメール人の都市やエジプトで生まれたものを引き継いで発展させた青銅器文明だった。つまり鉄器以前の技術に基づく文明である。
当時はメソポタミアやエジプトだけでなく、メソポタミア周辺のアッシリア、地中海に面したシリア・パレスティナ、さらに西方のアナトリアや今のイランにあたる東方の地域にも、さまざまな民族の有力な国家が繁栄するようになっていた。また、アナトリアから西に海を渡ったギリシアやその周辺でも、西アジアからの影響を受けて国家が成立していた。
なお、民族とは「言語をはじめとする文化を共有する集団」のことだ。文化のさまざまな要素のうち、最も重要なのが言語である。青銅器文明の円熟期に入った西アジアでは、異なる言語・文化を持つさまざまな国家が並び立っていたのである。
紀元前1500~1200年頃の西アジアとその周辺の文明について、考古学者のエリック・H・クラインは、“グローバル化された世界システムだ”と述べている。それは“複数の文明のすべてが相互に影響しあい、少なくとも一部は依存しあっているシステムである”と。
そして、歴史をみわたしても、このような世界システムの例はきわめて少なく、最もわかりやすい例が当時の西アジアの文明――考古学の時代区分でいう「後期青銅器時代」の文明と、もうひとつは現代世界であり、両者には共通性があるというのである。(『B.C.1177 古代グローバル文明の崩壊』、筑摩書房、2018年)
もちろん、青銅器時代の文明は、文字通りのグローバル=地球規模ではない。しかし、その中心にいる人びとが認識していた「世界」(西アジアとその周辺)で、さまざまな国や民族が影響しあう様子は、たしかに現代のグローバルな世界と似たところがある。当時の西アジアでは、「古代のグローバル文明」といえるものが成立していたのである。
ウルブリンの沈没船
当時の「グローバル文明」の様子をうかがわせる、重要な遺物がある。それはクラインの本でもくわしく紹介されている。紀元前1300年代にアナトリア(トルコ)南西部のウルブリンの沖合で難破した沈没船である。
この「ウルブリンの沈没船」は、1980年代に水深50メートルの海底で発見された。長さは15メートルほどで、レバノン杉という、シリア・パレスティナの良質な木材でおもにつくられていた。
この船は、西アジアやその周辺各地からのさまざまな品を積みこんでいた。どこの国の船かは不明である。民間の商人の船だったのか、国家の所有物だったのかもわからない。
この船のメインの積荷は、青銅の原料であるインゴットの銅10トンと錫1トンである。銅は地中海東部のキプロス島産だった。錫はおそらく今のアフガニスタンでとれたものだ。
つぎに重要な積荷は、テレピン樹脂が1トンほど。植物油の一種で、香水の材料になった。ほかにヌビア(ナイル川上流)の高価な木材の丸太、メソポタミアのガラス原料のインゴット。さらにエジプトの純金の装飾品、イタリアやギリシアの剣、象牙やカバの牙、バルカン半島(ヨーロッパ南東部)の石の杖等々……さまざまな国や地域の産品が積まれていたのである。
ウルブリンの沈没船は、これまでに発見された青銅器時代の船のなかで、最もくわしく調査・研究されたものだ。それは従来の青銅器時代のイメージについて、修正をせまるものだった。それまでの通説では、この時代にこれほどの発達した国際的な物資のやりとりがあったとは、想定されていなかった。
もちろん当時の貿易のネットワークは、現代世界にくらべればはるかに限定的なものだ。ウルブリンの沈没船の積み荷は、希少なぜいたく品ばかりである。今の世界で、貿易が多くの人びとの日常生活を全面的に支えているのとは、わけがちがう。
一方で青銅器という、当時を代表する文明の利器の原料がこの船のメインの積み荷だったことは、重要である。国際的な物流なしでは、当時の文明生活は成り立たなかった。
やはりある種の「グローバル文明」が、ウルブリンの沈没船の時代――紀元前1300年代には存在したのである。
紀元前1100年代の「崩壊」
しかし紀元前1200年頃から、状況が大きく変わった。西アジアのおもな国家がつぎつぎと滅亡または衰退したのである。
紀元前1100年代初頭(紀元前1190~1180年頃)には、アナトリアの有力な国家だったヒッタイト王国が滅亡した。 紀元前1155年頃には、300数十年もの間バビロニアを支配したカッシート人王朝も滅びた。
また、エジプトでは統一王朝(エジプト史では新王国という)が衰退し、紀元前1070年頃からは複数の勢力が並び立つ分裂の時代に入った。メソポタミア北部ではフリ人のミタンニ王国が優勢だったが、紀元前1200年代に衰え、 その支配下にあったアッシリアが独立してミタンニを征服したものの、やがて衰退期に入ってしまった。 一方、シリア・パレスティナの地中海沿岸では、いくつもの都市国家が貿易でおおいに栄えていたが、その多くが急速に滅びていった。
これらの主要国が崩壊・衰退したことで、貿易などの経済活動も停滞していった。都市や大規模な建造物が新たにつくられることも減ってしまった。紀元前1200頃~1100年頃(おおまかに紀元前1100年代)の西アジアは、激動・暗黒の時代だった。
なぜ、このような「崩壊」の雪崩現象がおこったのだろうか?
従来の有力な説では、「海の民」といわれる、周辺的な人びとの侵入が大きな影響をあたえたとされる。ヒッタイト、シリア・パレスティナの都市国家の滅亡、エジプトの混乱は、海の民の攻撃が原因だというのである。なお、バビロニアのカッシート人王朝の滅亡は、イラン方面のエラム人という民族の攻撃がおもな原因である。ただし、エラム人は当時の西アジア全体の混乱に乗じてバビロニアを攻撃した可能性がある。
また、地中海東部のギリシアでは、紀元前1300~1200年代に西アジアの影響を受けて「ミケーネ文明」という都市文明が栄えていたが、紀元前1100年代に壊滅状態となった。これも海の民によるという見方があったが、その原因について確かなことはわかっていない。近年は敵の侵略ではなく、長距離の交易を統括していた国家権力(王宮)が崩壊し、それによって交易が途絶えたことが影響しているという説も有力になっている。
海の民は、特定の民族ではなく、さまざまな民族の集まりだった。紀元前1177年に、海の民とエジプトの大軍が戦ってエジプトが勝利したが、エジプト側の記録では、敵を構成した6つの民族の名前があがっている。彼らの服装・身なりはさまざまだった。
「海の民」という呼称は当時のものではなく、近代の考古学者によるものである。そのルーツははっきりしないが、地中海地域のいくつかの民族が連合して西アジアにやってきたとみられている。
紀元前1100年代の数十年にわたって、彼らの集団が何度も波のように押し寄せ、西アジアに大きな影響を与えたのである。
彼らの多くは海からやってきたが、陸路で来た集団もあった。兵士だけの場合もあれば、家族を伴っている場合もあった。軍隊が組織的に攻めてきたというよりも、難民の集団が押し寄せた、という面があった。しかし単なる難民ではなく、相当な武力も持っていた。
「海の民」の影響はどこまでか
なお、近年は海の民の影響は限定的だとする説も有力である。たとえばヒッタイトの滅亡は、海の民によるものではなく、以前から対立していた、近隣の別の異民族の攻撃によるというのである。 また、ヒッタイトが海の民がやってくる以前に、すでに衰退していたこともわかってきた。ただし、海の民がエジプトに打撃をあたえ、西アジア(地中海沿岸)の多くの都市を壊滅させたことについては、専門家は一致している。
また、この時期に頻発していた大地震や、気候変動の影響を強調する説もある。たとえば、気候変動によって、従来の農業や生活が困難になった人びとが大移動を始めたというのである。
前に引用した考古学者のクラインは著書のなかで、紀元前1100年代における「崩壊」の原因について、さまざまな説を検討しながら論じている。クラインは断定的に「これだ」という原因を主張してはいない。しかし、海の民の侵入も含むいくつかの原因が重なりあって各要因の影響が増幅され、相互依存的でぜい弱な面のあった当時のグローバルなシステムが崩壊したのではないか、という主旨のことを述べている。とくに、長距離交易で各地域が結びつき、依存しあっていた「グローバル」な経済が破壊されたことは重要だと考えているのである。
その後、海の民は西アジアで一定の勢力となり、独自の国家を築く動きもあったが、それらの国は比較的短期間のうちに消えてしまった。紀元前1100年代末には海の民が西アジアを席巻した時代は終わった。海の民の子孫は、ほかの有力な民族のなかに埋没していったのだろう。
民族の入れかわり
紀元前1100年代を過ぎたあと、西アジアの文明は新しい局面を迎えた。それまでの伝統とは異なるさまざまな要素がまとまってあらわれた。
前に引用したクラインは、つぎのように述べている。
“青銅器時代の崩壊から立ち直ったとき、それはまさに新時代の幕開けであり、成長の新たな機会の訪れだった”“古い世界の灰のなかから、アルファベットその他の新機軸が生まれてくる。……鉄の使用が劇的に増大し、それが新たな時代に名を与えることになる――鉄器時代の到来だ”
(『B.C.1177 古代グローバル文明の崩壊』)
まず、主要な民族が大幅に入れかわった。紀元前1200年代まで、西アジアで有力だったのは、カッシート人、ヒッタイト人、エジプト人、フリ人、アッシリア人などだった。これらの民族は、紀元前2000~1500年頃に台頭して以来、主要な勢力であり続けた。ただしエジプト人は、さらに以前から繁栄していた。
これらの民族のあいだには、現代世界の英語にあたるような国際語があった。つまり、当時の国家間の外交的文書は、おもにその「国際語」で粘土板などに書かれた。その言語とは、アッカド語である。
これは、紀元前2300年頃に最初にメソポタミアを統一したアッカド人の言語(古アッカド語)と同系統のものだ。
アッカド人は、メソポタミアで「最古」といわれる都市文明を築いたシュメール人の影響を強く受けている。アッカド人は独自の文字を持たなかったので、言語の異なるシュメール人の生み出した楔形文字を使って、自分たちの言語を表記した。
そして、アッカド人の後を継いで紀元前1700年代以降にメソポタミアを支配したバビロン第一王朝のアモリ人も、アッカド語を用いた。アモリ人には自分たちの言語があったが、文書にはアッカド語をおもに用いたのである。
バビロン第一王朝の文化は、同じ楔形文字を用いるなど、シュメール人やアッカド人の文化に強い影響を受けたものだった。また、バビロン第一王朝のあとにメソポタミアを支配したカッシート人も、自分たちの独自の言語はあったが、文書は文学作品を含めすべてアッカド語だった。
なお当時、シュメール人は、民族的には完全に消滅していたが、シュメール語は学問語として西アジアの知識人のあいだには伝わっていた。
つまり、紀元前1200年代における西アジアの主要な民族は、シュメール・アッカド以来の古い伝統を受け継いでいたのである。そのような人びとの国が、アッシリアなど一部を除いて歴史の表舞台から一挙に消えてしまった。
紀元前1000年代から西アジアで台頭したのは、アラム人、フェニキュア人、カルデア人などの、新しい勢力だった。
アラム人、フェニキア人はシリア地方を拠点として、おもに商業・貿易で栄えた人びとである。海の民の影響で滅びたとされる、従来の地中海沿岸の都市国家にとってかわったのだった。 ただし、すでに紀元前1500~1200年頃の時点で、シリア北部のフェニキア人の都市ウガリトが、貿易でおおいに栄えてはいた。しかしウガリトは紀元前1100年代の「崩壊」で滅亡してしまった。そして紀元前1100年頃以降に、新しい別の都市のもとでフェニキア人の一層の繁栄が始まったのである。
シリア・パレスティナにおける新興国家のなかには、ユダヤ人(ヘブライ人)の王国もあった。ユダヤ人が本格的に世界史に登場するのは、ここからである。
繁栄の中心も、地中海方面へのシフトが鮮明になり、メソポタミア(とくに南部)は衰退した。そして西アジアの国際語として、新たにアラム語が台頭した。それまでのアッカド語もひき続き国際語であり続けたが、重要性はやや下がった。アラム語は、おもに実務的・実用的な文書で用いられ、広く普及したのである。
新しい文明の始まり
そして、新しく西アジアの主役となった民族を中心に、紀元前1100年頃以降は鉄器が広く用いられるようになった。青銅器時代が終わって、鉄器時代が始まった。新しい文明の時代が始まったのである。
また紀元前1100~1000年頃、フェニキア人はアルファベットの一種であるフェニキア文字をつくり出した。フェニキア文字は、現在の欧米のアルファベット(ローマ文字)の祖先である。のちに古代ギリシア人は、この文字に学んで自分たちの文字を生み出し、それをもとに古代ローマ人がローマ文字をつくった。フェニキア人は、後世に大きな影響を与えた画期的な文字の世界を切りひらいたのである。
ただし、フェニキア文字は最初のアルファベットではなく、さらに古いヒエログリフなどのエジプト文字でも、音の要素をあらわすアルファベット的な文字はあった。しかしフェニキア文字の形は、先行する古い文字よりもはるかに単純で、文字数は全部で22文字ときわめて少なかった。そのシンプルで合理的な文字の体系は、画期的なものだった。(『世界の文字の物語 ユーラシア 文字のかたち』古代オリエント博物館、2016年)
またさらに数百年経つと、一時衰えていたアッシリアが有力となって周辺をつぎつぎと征服し、紀元前600年代には、西アジアの大半を支配する大帝国を築いた。これまでなかったようなスケールの巨大な国家が出現したのである。アッシリア帝国は、のちのローマ帝国や、秦・漢以降の中国の統一王朝のような「大帝国」の元祖ともいえる国家だった。
紀元前1100年代の「崩壊」は、それまで長く続いた文明(紀元前3500年頃にシュメール人の都市文明がおこって以来の)に終止符を打った。そして、そのあとに鉄器に基礎を置く新しい文明が生まれた。
未来の世界に「海の民」はあらわれるか
紀元前の西アジアの歴史には、人類の進歩や文明の展開についての、純粋なプロセスがあらわれている。歴史がどのように動くかについて、典型的な事例を私たちに示しているといえる。それは、現代のグローバルな文明の行く末を考えるうえでも参考になる。
「海の民」にあたる何かが、未来の世界においてあらわれる可能性は否定できないはずだ。たとえば、核兵器や生物・化学兵器のような軍事力や、あるいはIT関連などの技術が暴発して、世界に大きな被害をもたらすといったことだ。そしてその「暴発」に、世界のなかの周辺的・異端的な集団が関与することも考えられるだろう。
それは、特定の国家・民族のこともあれば、さまざまな民族を含む場合もあるだろう。あるいは、複数の国にまたがる特定の階層や立場の人びと、ということも考えられる。世界の「中心」である先進国のなかの、疎外された人たちかもしれない。
そうした周辺的・異端的な人びとが追い詰められる状況になれば、「暴発」のリスクは高まるはずだ。紀元前1100年代の海の民は、なんらかの切実な状況に追い込まれて、西アジアに押し寄せたはずだ。
そして、世界の「中心」に暮らす人びと、とくに指導的な人びとが鈍感で傲慢であればあるほど、リスクは高まる。つまり、切実な状況に追い込まれた、危険な軍事力・技術を使える周辺的な人たちが出現するということである。それが、未来の世界における「海の民」だ。
その出現を防ぐために、「危険な技術」をどうコントロールしていくのか。そして、「切実な状況」が生じる前段階の、社会の緊張や歪みにどう対処するのか。富の一極集中、先進国と途上国の格差、環境問題、差別や弾圧といったことは、そのような「緊張や歪み」である。つまり、「切実な状況」を生む温床となる。
こうしてみると、未来の世界で「海の民」があらわれるというのは、やはり荒唐無稽ではないと思えるが、どうだろうか。
参考文献
エリック・H・クライン『B.C.1177 古代グローバル文明の崩壊』筑摩書房、2018年
前田徹ほか『歴史学の現在 古代オリエント』 山川出版社、2000年
- 作者: 前田徹,山田雅道,山田重郎,川崎康司,小野哲,鵜木元尋
- 出版社/メーカー: 山川出版社
- 発売日: 2000/08
- メディア: 単行本
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西アジアの古い都市文明や国家については、当ブログのつぎの記事を。
古代ギリシアの文明が、西アジアの影響を受けながら発展した経緯については、つぎの記事を。
(以上)