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ローマ皇帝はアメリカ大統領のようなもの 最盛期のローマ帝国の政治体制

ローマは紀元前1世紀末に地中海を囲む巨大な帝国となり、その後西暦200年頃までが最盛期だった。なぜローマは強大化したのか?その基礎には国家全体で団結し力を結集し得る政治体制があった。その体制はエリートが支配する貴族政的な面と民主政的な面が混在し、さらに独裁的な権力のあり方も可能な、多面的な性格を備えていた。

では最盛期のローマ帝国は、どのような体制で統治されていたのか?帝国の頂点にはローマ皇帝がいた。最盛期のローマにおけるローマ皇帝は、たしかに絶対的な権力者だったが、何にも拘束されない無制限の権力を持つ「専制君主」ではなかった。大帝国を築く以前の共和政時代の伝統に一定の拘束を受ける、今でいえばアメリカ大統領にも似た性格を持つ国家元首だった。ローマ皇帝もまた、多面的な性格を持っていた。そして、多様な民族を含む広大な帝国を支配した官僚機構は、現代の感覚からみればきわめて小規模なものだった。

私たちがばくぜんとイメージする前近代の「大帝国」というと、絶対的な専制君主である皇帝が君臨し、大規模な官僚機構がその手足となって支配する、というものではないだろうか?しかし、最盛期のローマ帝国はそれとは異質のものだった。このことをみていこう。

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ローマ帝国の最大領域 西暦100年代初め

(そういちの著書『一気にわかる世界史』日本実業出版社 より)f:id:souichisan:20190914193744j:plain


ローマによる征服

ローマは、もともとはイタリア半島中部のローマ市とその周辺であるラティウム地方だけを支配する、都市国家の一種だった。ローマ人がいつ本格的な都市や国家を形成したのかは、はっきりしない。ただし考古学の研究によれば、紀元前700年代にラティウム地方では、それまでにみられなかったような大規模集落が形成されつつあった。なお、これはローマの建国についての伝説――「紀元前753年、双子のロムルスとレムスによって建国された」という話と年代が符合している。

そして、ローマ人は紀元前600年代末からエトルリア人という異民族の支配を受けた。 しかし、紀元前500年頃からはその支配を脱して独立した。エトルリア人は外部から侵入して、イタリア半島の北部と中部を支配したが、どこから来たのかはわかっていない。言語の系統も不明である。統一国家はつくらず、国王か貴族が支配する複数の都市国家に分かれていた。

イタリアの北部・中部は、鉄や錫などの鉱物資源が比較的豊富だった。エトルリア人は、それらの資源を求めるギリシア人と盛んに交易を行って技術や文化を吸収した。エトルリア文字はギリシア文字をベースにしている。そしてローマ人は、エトルリア人から建築・土木技術、剣闘競技、動物の内臓を用いた占いなど、さまざまな事柄で影響を受けた。

その後、ローマ人は紀元前300年頃から急速に勢力を広げ、紀元前200年代にはイタリア半島全体を統一した。当時のイタリア半島で並び立っていたいくつもの都市国家を、ローマが屈服させたのである。そして、周囲の国ぐにを征服する戦争をさらに続けた。紀元前100年代半ばには、3次にわたる「ポエニ戦争」に勝利して地中海西部のフェニキア人の国カルタゴを滅ぼした。さらに、紀元前100年代前半にはギリシア本土を支配下におさめた。「ポエニ」とは、ラテン語でフェニキア人のことだ。

そして、紀元前30年にはプトレマイオス朝のエジプトも、ローマに征服された。このときのプトレマイオス朝最後の王が、有名な女王クレオパトラ(7世)だった。プトレマイオス朝は、「ヘレニズム」諸国のうち、最も有力な存在だった。ヘレニズム諸国とは、紀元前300年代のアレクサンドロス大王の帝国以後の、ギリシア人が優位に立つ地中海地域の国ぐにのことだ。

ローマは、ヘレニズムの世界を飲み込んでしまったのである。一般に、プトレマイオス朝の滅亡をもってヘレニズム時代は終わったとされる。

紀元前1世紀の頃には、ローマは、西地中海も含む地中海の全体を取り囲む広大な領域を支配するようになった。その領域は地中海沿岸だけでなく、今のフランス・ドイツ西部などにあたる西ヨーロッパの内陸部を含む地域(ガリア地方)にも及んだ。そして、紀元後1世紀にはイングランドとウェールズもローマの領域となり、ブリタニア(ブリタンニア)と呼ばれた。

このように、かつてのアケメネス朝やアレクサンドロスの帝国をもしのぐ規模の大帝国が出現したのである。「ローマ帝国」の成立である。その領域は、過去の大帝国と重なる部分は多いものの、地中海西部や西ヨーロッパ内陸部といった、それまでの大帝国にはなかった地域も多くを占めていた。最盛期のローマ帝国の範囲は、おおまかに「西地中海も含むヘレニズム世界全体+西ヨーロッパの大部分」である。


皇帝による支配の成立

大帝国が形成される過程で、ローマの内部では紀元前100年代の末から政治的な争いが激しくなった。これはやがて、頂点に立つ何人かの有力者が、自分の私兵を率いて互いに戦う「内乱」に発展していった。「私兵」とは、国家よりも司令官である有力者個人に対し忠誠心をもつ軍隊のことだ。

紀元前1世紀に活躍したユリウス・カエサル(紀元前101~紀元前44)は、そうした争いを勝ち抜き強大な権力を得て、ローマ帝国の政治体制の基礎となる改革を行った。

それまでの伝統的なローマの政治は、「元老院」という議会の一種が力を持っており、元老院を構成する数百人の有力者による合議を重視した。これに対しカエサルは、自分1人に権限を集中させ、絶対的な権力者になったのである。カエサルは、彼に反対する元老院派によって暗殺されてしまった。それでも、カエサル以後のローマでは「1人の強大な権力者=皇帝による支配」ということが定着していった。つまり、一定の民主主義的な体制から、独裁的な体制へと変化した。カエサルは皇帝支配の基礎を築いたのである。

皇帝支配の時代のローマのことは、一般に「帝政ローマ」といい、それ以前のローマは「共和政ローマ」という。共和政とは国王や皇帝のいない政治体制のことである。

ローマで皇帝による支配=帝政が成立したのは、巨大化したローマに「権力の集中」による組織改革が求められていたからだ。カエサルは、それを自覚して、ローマの政治体制をより効率的で強力なものにしようとしたのだった。

帝政が成立した時代のローマでは、征服されたさまざまな民族を含む広大な領域の各地で、戦争・反乱などの重大事案が発生していた。国家が巨大化するにつれて、事案は増え複雑化していく。それに対処する意思決定を、伝統や合議を重んじる元老院で行うのでは、時間がかかり過ぎ、明確な方針も決めにくくなる。 現代のアメリカ合衆国で、緊急を要する世界各地の外交や軍事の問題を、いちいち議会で話しあうのではなく、大統領の裁量にほぼ任せているのも、それが現実的だからである。「皇帝による支配」は、現実に適合していたからこそ、定着した。

カエサルは、事実上の初代ローマ皇帝だった。ただし、皇帝にあたる称号や地位のあり方を確立した公式の初代皇帝は、カエサルの養子・オクタヴィアヌスである。オクタヴィアヌスは、カエサルの死後、ライバルとの戦いに勝利して権力を握った。そして、元老院から絶対的な権威を認められ「尊厳者」を意味するアウグストゥスという敬称を贈られた。そこで、アウグストゥス帝(在位:紀元前27~西暦14)といわれる。なお、元老院は権力の中心ではなくなったが、帝政ローマでも存続した。


エンペラーとカイザーの語源

アウグトゥス帝はおもに「インペラトル・カエサル・アウグストゥス」と称した。その後のローマ皇帝も、これを引き継いだ。皇帝に呼びかけるときは、インペラトルかカエサルが用いられた。

「インペラトル」とは、もともとは大きな軍功のあった「凱旋将軍」のことだったが、ここではローマ全軍の最高司令官であることを意味する。そして、この語は欧米で「皇帝」を意味する「エンペラー」の語源である。また、「カエサル」は偉大なカエサルの後継者であることを示す。これは、欧米で皇帝にあたる別の単語「カイザー」の語源となった。

帝政時代のローマで発行されたコインには、しばしば皇帝の肖像が用いられたが、アウグストゥス帝が描かれた同時代のコインには、肖像のまわりに「インペラトル・カエサル(カエサリ)・アウグストゥス(IMP CAESARI AVG)」と記されていた。IMPはインペラトル、AVGはアウグストゥスのことだ。

なお、漢字圏における「皇帝」の称号は、紀元前200年代後半、秦の始皇帝のときに創案されたものである。それをエンペラーやカイザーの訳語にあてた。

一般的な、広い意味での皇帝=エンペラーとは、多様な民族を含む大帝国の支配者のことである。なかには若干の複数の民族を支配する程度でも「皇帝」と称するケースもあるが、過大な表現である。一方、ローマ皇帝はまさに「皇帝」だった。アケメネス朝の王やアレクサンドロス大王も、大帝国の支配者だったが、西洋史の世界では「皇帝」はローマ皇帝から始まるという意識なので、ふつうは皇帝とはいわないのである。

 

なぜ、ローマは強大化したか? その国制の特徴

ではなぜ、ローマはこれほど強大化したのだろうか? 紀元前100年代のギリシア人の歴史家ポリュビオスは、その問題ついて考えた。彼の時代のローマはポエニ戦争に勝利してカルタゴを滅ぼし、さらにアンティゴノス朝マケドニア(ギリシアの主要部を支配)を征服するなどして、地中海での覇権を確立しつつあった。

ポリュビオスはローマの政治体制について、主著のなかでつぎのようなことを述べている――「ローマの国政は貴族政的な要素、民主政的な要素、君主政的な要素、の3つから成り立っており、すべてのことがこれら3つの要素で公正かつ適切に編成されている」と。

そして「ローマの国制は全体として貴族政なのか、民主政なのか、それとも君主政なのかは判然としない」という。

ローマにはコンスル(執政官)という強力な権限を持つ大統領のような公職があるが、それをみれば君主政にもみえる(ただし独裁を防ぐため2人選出され、任期は1年限り)。しかし、元老院という有力者の合議体に目をむければ、少数のエリートが支配する貴族政だともいえる。一方で民衆の権限も、多くの市民による合議体である民会などを通してかなり認められているので、民主政の面もある……そのような意味のことをポリュビオスは述べている。なお、彼はローマ人の有力者カトー家の支援のもとでローマに暮らしたこともあり、ローマの社会について豊富な知見を持っていた。

つまり、当時(紀元前100年代)の共和政ローマにはコンスルを頂点とする公職者、元老院、民会という3つの権力があり、それらがけん制し合いながらもうまく調和して、外部との戦いにおいて国全体の力を結集することができた。そして、そのような「調和」を生み出すさまざまなルールや慣習が機能していた。そこにローマの強さの秘訣があった。ポリュビオスはそこまでは明言していないが、おおむねそのように理解していたのではないだろうか。

このように、かなり複雑な組織や制度を持ち、それが法的なルールによって運用されるという国家のあり方は、そもそもはポリスの時代の古代ギリシア(紀元前500~300年代が最盛期)で最初に発達したことだった。

ただしローマは、アテネのような純度の高い民主政ではない。まず、市民が法的に平等ではない。元老院を構成する貴族的な人びとと、平民などのそれ以外の人びとに分かれていて、それぞれの身分なりに市民としての権利を有しているのである。なお、ローマには市民のほかに、ギリシアのように奴隷もいた(これについては後述)。

そして、市民の多数による議会、つまり民会にしても、ローマでは貧富の差に応じて一票の重さに差が生じる制度になっていた。つまりローマではギリシアと比べ「身分社会」的な面が強く見受けられる。

それでもローマは、当時としては高度に発達した組織・制度に基づいて政治を行う国家として、古代ギリシア以来の伝統を継承していたといえるだろう。一票の重さに格差があったとしても、それは特定の権力者の恣意に左右されない、法的な制度なのである。

ローマ人のあいだでは、紀元前500年頃にローマのリーダーたちがアテネに行って法や政治のあり方を学んだという伝承がある。それは現代の研究では史実ではないとされている。しかし、ギリシアのポリスの政治的伝統を、ローマ人が強く意識していたことのあらわれといえるだろう。

これに対し、ヘレニズム最強の国家であるプトレマイオス朝には、このように発達した組織・制度は存在しなかった。プトレマイオス朝では、専制的な権力者である王と、その周りにいる職務権限の不明確な側近たちが政治を動かしているだけだった。そのような権力者を拘束する法や慣習の力はきわめて弱く、元老院や民会のような合議体は、存在しない。 ギリシアのポリスやローマにくらべれば、組織としてはぜい弱な体制だった。そこで、プトレマイオス朝は富裕な国だったが、国の力を結集して外敵と戦うということでは、ローマにはかなわかったのである。

 

現代の学者の議論

そして、「ローマの国制は全体として貴族政なのか、民主政なのか、君主政なのか判然としない」というポリュビオスの見解は、現代の歴史家とも共通したところがある。共和政ローマの政治体制をどうみるかについて、歴史家のあいだでは今も論争がある。少数の貴族が支配する寡頭制か、民主的なものかという議論である。

たとえばドイツの歴史学者ゲルツァーは、1912年に共和政ローマの政治体制について「ノビレス支配」という説を発表した。ノビレスとは、元老院のメンバーのなかでもとくに有力な家系の人びとのことである。つまり、ローマにおける「貴族」のことだといっていい。そのようなノビレスこそが共和政ローマの政治を支配したというのである。この見方は1900年代のローマ史研究に大きな影響を与えた。

しかし近年では(1980年代以降)イギリスのミラーが、ゲルツァーの説を批判してローマの民主政的な側面を再評価する説を打ち出し、一定の支持を得ている。民会や民衆は従来の通説よりももっと影響力があったと、ミラーは論じている。

このような現代の歴史家による議論をみていると、ポリュビオスによる考察は、2000年以上前のものとしてはなかなかのものだ。つまり、ローマの政体の多面性を捉えたという点では、大事なところをつかんでいたといえるだろう。

 

ローマ皇帝の多面性

そして、カエサルやアウグストゥスが基礎を築いた帝政ローマの体制も、多面的な性格を持っている。ローマ皇帝による支配には、共和政時代の寡頭制や民主政的な要素もあった。

前に述べたように、アウグストゥス帝は「インペラトル・カエサル・アウグストゥス」をおもな称号としたが、ほかにいくつもの肩書を持っていた。たとえば聖職者のトップである大神祇官、コンスル(執政官)、護民官、地方長官である属州総督といったものだ。

これらはみな、共和政ローマの重要な役職だった。たとえば護民官は平民を保護する役職であり、元老院などの国家機関の決定に対する拒否権を持っていた。そして共和政のもとで任期が1年と定められていたので、皇帝であっても終身で地位が保障されていたわけではなく、手続き上は毎年その地位を更新するかたちをとっていた。

そしてインペラトルは、もともとは共和政における伝統的な称号である。またアウグストゥスという敬称は、元老院という共和政ローマを代表する機関からのものだった。

つまりローマ皇帝は、いくつかの重要な役職・機関が共和政のもとで持っていた権力を、1人の人間に集中させた存在なのである。

だからこそ、共和政のさまざまなルールに基づく制約が、皇帝にもある程度は及ぶことになった。建前であっても共和政の伝統を尊重する姿勢が、皇帝には求められた。アウグストゥスも、自分が行ったのは「共和政の再建」であると主張した。共和政末期の内乱で崩れた伝統を立て直した、というのである。これには、独裁的な権力を得るにあたって、元老院や市民の反発を防ぐ意味があった。アウグストゥスは「王」と自称することはなく、自分を「市民のなかの第一人者=プリンケプス」と位置づけた。

しかし一方で、アウグストゥスは元老院の時代が終わったことも確信していた。だからこそ、元老院に対し自分の国政に対する権限を返納することを、二度にわたってあえて申し出ている。これは元老院に対し「私に代わって国を治められるならやってみろ」と脅すようなものだ。そして申し出の結果、彼は元老院から「アウグストゥス」という尊称や、さらに強い権限を与えられることになった。

帝政ローマは1人に権限が集中する独裁体制だが、権力の行使に関し、当時としてはそれなりの法や制度、そして一定の民主主義的な性格を備えたものだった。民主主義に関しては、ここでは立ち入らないが、皇帝は市民の支持を得るため「パンとサーカス」といわれる、食糧配給や無償の娯楽の提供に尽力したりしたのである。

 

アメリカ大統領と似ている

このようなローマ皇帝という存在を、現代人にイメージしやすく例えるとしたら、「アメリカ大統領に似たところがある」といえるだろう。

アメリカ大統領は、世界最強の超大国の元首で、強力な権限が与えられてはいるが、常に国民や議会の支持を気にしなくてはならない。さまざまな法の拘束もある。もちろんローマ皇帝はアメリカ大統領ほど民主主義の制約を受けないが、構図としては共通点があるということだ。

ただし任期があり、後任を選べないアメリカ大統領とちがって、ローマ皇帝は終身の立場で、後継者を自分の血筋から選ぶことができた。ローマ帝国の最盛期とされる、有力な皇帝が5代続いた「五賢帝」の時代(西暦96~180)には、血筋によらない人選が主流だったといわれていたが、近年の研究では、それはたまたま世継ぎがいなかったためだという。つまりローマ皇帝は世襲の君主であり、「王朝」といえるものを築いたのである。しかしその後継者選びでも、元老院や軍隊の賛同を得ることはやはり重要だった。

このようなローマ皇帝のあり方については、より制約を受けない絶対的な専制君主が支配する、一般的な意味での「帝政」(中国の皇帝政治はこれにあたる)とは区別して「元首政」と呼ぶこともある。そして、元首政の時代を「帝政前期」ともいう。「帝政ローマの前期」ということだ。

ということは「後期」もある。そこでは元首政とは異なり、絶対的な専制君主としての皇帝が支配するようになった。それは西暦200年代末以降のことだ。これは「帝政後期」という。これについてはまた別の機会に述べる。帝政前期(元首政)は、紀元前27年に始まるアウグストゥスの治世から西暦200年代末までである。

 

ローマ帝国の支配体制

では、元首制の時代=帝政前期のローマ帝国は、どのような組織・体制でさまざまな民族を支配したのか。

その体制は、イタリア半島を拠点とするローマという領域国家の市民たちが、支配的な共同体として多くの異民族の共同体(国や地域社会)を束ねて君臨するというものである。ローマの支配下に入った異民族の共同体では、地域に根ざした権力者やその組織は(地域によって程度の差はあるが)温存された。そして、それぞれの地域の支配者を中央から派遣された地方長官と軍隊が支配するという体制である。異民族の共同体で暮らす民衆を、ローマの権力が直接掌握することは、裁判のような例外はあるが、日常的には行わない。「間接支配」というものだ。

ローマ帝国全体は「本土」であるイタリア半島と、その他の「属州」という単位に分けられていた。属州は、たとえば「エジプト(アエギプトゥス)州」がかつてのエジプトの王国に相当するなど、ほぼ旧王国レベルの単位である。属州の数は、西暦100年頃のローマ帝国の領土が最大となった時代には40弱だった。

属州は、アウグストゥス帝の時代に皇帝の管轄と元老院の管轄に分けられた。皇帝管轄の属州は、おもにイタリアから離れた周辺部であり、元老院管轄の属州はイタリアに近い、中心的地域にあった。統治や防衛が難しい地域を、元老院よりも強力な皇帝の権力が統治することとしたのである。

最盛期とされる西暦100年代のローマ帝国全体の人口は、約6000万人だった。これは市民・奴隷などのすべての人びとの合計である。アウグストゥス帝が没した西暦14年頃の人口については、4500~4600万人という推定がある。最盛期について「8000万人」「1億人」といった推定もあるが、比較的多くの本にあるのは「5000~6000万人」という推定である。これは、当時の世界人口の約5分の1にあたるといわれる。ただし、世界人口の推定はローマについての推定よりもさらに不確実である。

また、西暦100年代には中国は後漢王朝の時代だったが、後漢の人口はローマ帝国に匹敵するものだったとみられている。

ローマ帝国には、現代のような整備された人口統計は、存在しない。一定の戸口調査(課税や徴兵のための戸籍調査)が行われてはいたが、その調査記録そのものは残っていない。しかし、人口に関わる一定の文字資料がいくらかは存在するほか、建造物や遺跡などを手がかりに、当時の人口を推定できる。より古い時代はもちろん、同時代のほかの国とくらべても、ローマ帝国については比較的多くの記録や遺物が残っている。

 

「奴隷制」の社会

そしてローマ帝国は、ギリシアのポリスと同様に、奴隷の労働力が大きな役割を占める、奴隷制の社会だった。農業、家庭、商工業、鉱山、行政機関など社会の至るところに奴隷がいた。帝政ローマで奴隷が全人口に占める割合は、15~20%だったと推定されている。

奴隷の供給源は、ローマとの戦争に負けた人びと、山賊・海賊にさらわれた人びと、捨てられた子どもなどである。とくに領土拡大のための戦争は、多くの奴隷を生み出した。

奴隷以外の人びとは、モノとして売り買いされることがない「自由人」である。自由人には生来の自由人と、奴隷などの身分から解放された自由人とがあった。生来の自由人が、参政権などが認められる「ローマ市民」の典型である。一方、解放された自由人には「ローマ市民」となった者もいたが、一定の財産権はあるが参政権がないなど、市民としての権利が認められないケースも多かった。

ローマ市民とは、もともとは都市国家ローマの市民のことである。これは、ギリシアのポリスの市民と同様のものだ。つまりもともとは自営の農民が大部分で、いざとなれば兵士として国家のために戦う人びとだった。

しかし紀元前1世紀には(「同盟市戦争」という戦争以後)、イタリア半島全域の、ローマに組み入れられた旧来の都市国家の市民にも、ローマ市民権が与えられた。

それまでのイタリア半島は、かつては都市国家だったいくつもの共同体をローマという都市国家が束ねて支配する体制だった。しかし、イタリア半島全体に市民権が拡大することで、半島全体が領域国家としてまとまることになった。このため、各都市の「国家」的な性格は失われていった。そして、イタリア半島のローマ市民の共同体が、帝国の「本土」として、それ以外の地域を属州として支配するようになったのである。

イタリア半島は、属州からの収奪でおおいに繁栄した。ローマ市民は、すでに紀元前100年代(「第三次マケドニア戦争」以降)には、若干の例外を除いて直接税を支払う義務がなくなっていた。つまり、大帝国を形成したローマ市民は、国家に税を納めるよりも、属州から集めた富で福祉を受ける立場になったのである。 1世紀~100年代には、ローマ市民権を有するのは帝国全体の1割前後の人びとだった。

そして、帝政ローマの時代を通じて、ローマ市民がイタリア半島から帝国各地に移住することが行われた。また、属州民のうちローマの支配にとくに協力的な有力者や、ローマ軍に入隊して長年勤めた者には市民権が与えられた。その結果、ローマ市民の人数や分布範囲は拡大していった。

 

小規模な官僚機構、大規模な軍隊

では、支配体制をもう少し具体的にみていこう。まず、帝政前期の皇帝政府は、各属州にどのくらいの役人を派遣したのか? 

ローマ帝国の最盛期といえる100年代半ば、帝国全体で「官僚」といえる公職者は、300人に満たなかった。 ただしこれは現代でいえばエリート官僚の上位職といえるもので、その職務を実務的に支える下級の官吏にあたるスタッフや請負業者のような存在がいた。その実態は研究者たちにも不明な点が多い(多少わかっている点については折にふれて述べる)。

なお、ここでは「官僚」とは、公職者のうちエリートの上位職を指し、「官吏」というときはそれ以外の中・下級職も含んでいる。

こうした官僚は、社会の最上層である元老院階級か、その次のクラスの、帝国全体で数万人がいた「騎士階級」の人びとから、皇帝が任命した。官僚の職はエリートの社会奉仕とされ、公式には無報酬だった。しかし実際にはさまざまな役得があり、多くの収入を得ることができた。

属州のトップである総督をはじめとする、属州統治のための官僚はこの300人のうちの160人ほどだった。そこで、各属州には数名が派遣されただけである。最も人数が多かったエジプト州でも、アウグストゥス帝の時代には総督1、軍団長官3、アレクサンドリアの司法官1、財政管理官1、郡監督官3の計9名である。
 
一方、軍隊は官僚よりもはるかに大規模に配置された。アウグストゥス帝の時代には、軍隊は帝国全体で30万人弱であり、そのほとんどは外敵からの防衛のため、周辺部の皇帝直轄の属州に配置された。

このうち正規軍といえる、ローマ市民による帝国直属の兵士が12~13万人で、10数万人は現地人による補助軍だった。このほか、1万人ほどの近衛軍団が、ローマ市で皇帝の警護などにあたった。 さらに、西暦100年代のハドリアヌス帝(在位:117~138)の時代には総勢40万人の軍隊を擁した。全軍はまず「軍団」という単位から成っており、ひとつの軍団は数千人~1万人程度の規模だった。

武官のトップである軍団長、それを補佐する軍団副官などの高級将校は、平常時には軍営地(軍隊が駐留する基地)の管理のほか、属州の行政や裁判に関する業務も担った。軍人本来の仕事とはいえないが、官僚の人手が足りないので柔軟に対応していたのである。軍団幹部も広い意味での官僚であると考えれば、帝国全体の官僚は800人ほどになる。それでもやはり限られた人数だ。

なお、この軍隊は志願兵や職業軍人からなる常備軍だった。共和政時代には戦争などの必要なときに市民を招集していたが、アウグストゥスが常備軍に切り替えた。

 

都市のコミュニティによる自治

このように、数百人というわずかな人数の官僚しか属州に派遣されていないので、日常的な行政や徴税などの業務は、地元の権力者・有力者に任せるしかない。属州では、おもに都市のコミュニティが帝国の行政に協力することで、ローマ帝国の支配は成り立っていた。

そして、都市のコミュニティをまとめる自治の組織として、元老院の地方版といえる「都市参事会」という合議体が各地におかれた。都市参事会は地元の有力者によって構成され、そのメンバーから行政の実務を担う公職者も選ばれた。それらの公職者の下にも下級の官吏にあたるスタッフがいた。

ローマ帝国の行政について研究した新保良明は、こう述べている――“皇帝政府に直属する末端官僚を帝国各地に大量配置せずとも、各都市が彼らに代わる機能を果たし得た……そのため、皇帝政府が都市に対し常時、直接介入する必要はなかった”(『古代ローマの帝国官僚と行政』ミネルヴァ書房、340㌻)

以上のような、広大な帝国がいくつもの属州によって構成され、それらの属州のうえに、支配者的な共同体が君臨するという国の体制――これは、ローマ帝国よりも数百年前のアケメネス朝ペルシアと基本的には同じである。アケメネス朝は、紀元前500~400年代に繁栄した、西アジア(今のイラン、シリア、トルコ、エジプトなどの地域)の広い範囲を支配した国家である。今のイランの一画であるパールサ地方を拠点とするペルシア人が、さまざまな国家・民族を征服して築いた大帝国だ。

アケメネス朝では、ペルシア人の本拠地であるパールサ地方の共同体が、20~30の州を束ねて支配していた。ローマ帝国でパールサ地方にあたるのは、イタリア半島である。そして、パールサ地方のペルシア人も、イタリア半島のローマ市民も、税を免除されるなどの優遇を得ていた。また、ローマの属州総督は、アケメネス朝のサトラップにあたる。属州の権力者を通しての「間接支配」ということも、ローマ帝国とアケメネス朝は共通している。

アケメネス朝の統治のやり方は、おもにヘレニズムの王国を通してローマ人に影響を与えた。ローマが征服したヘレニズムの王国でも、サトラップにあたる地方長官が置かれるなど、アケメネス朝の制度を受け継いでいた。徴税や財政の運営でも、ヘレニズムの国ぐにからローマ人は多くを学んだ。

一方、共和政時代のローマ人がギリシアのポリスの政治に大きな影響を受けたことは、前に述べた通りである。

ローマ帝国で、古代ギリシアとアケメネス朝の伝統が総合された。つまり、民主的な要素や発達した法的なルールに基づく統治という、ギリシアのポリスで生まれた要素と、アケメネス朝で初めて安定的に実現した、多くの異民族を支配する大帝国という体制――この2つが一体になったのが、元首政のローマ帝国だった。  

 

参考文献

①青柳正親『皇帝たちの都ローマ』中公新書、1992年 

皇帝たちの都ローマ―都市に刻まれた権力者像 (中公新書)

皇帝たちの都ローマ―都市に刻まれた権力者像 (中公新書)

 

②新保良明『古代ローマの帝国官僚と行政』ミネルヴァ書房、2016年 

古代ローマの帝国官僚と行政:小さな政府と都市 (MINERVA西洋史ライブラリー)

古代ローマの帝国官僚と行政:小さな政府と都市 (MINERVA西洋史ライブラリー)

 

③比佐篤『貨幣が語る ローマ帝国史』中公新書、2018年 

④島田誠『コロッセウムから読むローマ帝国』講談社選書メチエ、1999年

⑤村上堅太郎・長谷川博隆・高橋秀『ギリシア・ローマの盛衰』講談社学術文庫、1993年

⑥南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』岩波新書、2013年

⑦藤原武『ローマの道の物語』原書房、1985年

⑧長谷川岳男・樋脇博敏『古代ローマを知る事典』東京堂出版、2004年

⑨桜井万里子・本村俊二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論社、1997年

⑩ウルリッヒ・マンテ『ローマ法の歴史』ミネルヴァ書房、2008年