そういち総研

世界史をベースに社会の知識をお届け。

ヘレニズム時代とは何か 「古代ギリシアの普遍化」がなされた時代

ヘレニズム時代とは、おもに地中海沿岸とその周辺地域における時代区分で、アレクサンドロス大王の東征(アケメネス朝ペルシアなどへの進軍)が始まった紀元前300年代前半から紀元前1世紀後半までを指す。

その時期は、一般には「古代ギリシア」と「ローマ帝国」の時代の間のマイナーな時代として扱われがちだ。たしかにそういう過渡期的な性格もあるが、ヘレニズム時代はギリシア人が西アジア(今のイラン、トルコ、シリア、エジプトなど)の各地で支配者となり、ギリシアで生まれた文明が広い舞台で展開していったという意味で、古代ギリシアにとってのまさに黄金時代だったともいえるのである。

 

目 次

 

トップページ・このブログについて 

blog.souichisouken.com

  

アレクサンドロスの帝国
(そういちの著書『一気にわかる世界史』日本実業出版社 より)

f:id:souichisan:20190916220415j:plain

 

 アレクサンドロスの帝国

ギリシアのポリスは、アケメネス朝ペルシアを撃退したペルシア戦争(前499~前449)以後、アテネの覇権のもとで最盛期を迎えた。しかしやがてギリシアでは、有力なポリスのあいだの覇権争いが激しくなった。紀元前400年代後半には、アテネとスパルタが争ってスパルタが勝利したペロポネソス戦争があった。紀元前300年代前半には、スパルタとテーベが争ってテーベが勝利した。

その一方で、紀元前300年代後半には、ギリシアの北方の国家・マケドニアがフィリッポス2世という国王のもとで強大化して、ギリシア主要部のほとんどのポリスを支配下に置くようになった。

マケドニアは、ギリシア人の一派の国だが、ポリスよりも広い領域を支配する王国をつくっていた。国王が強い権力を持つ点も、ほとんどが国王のいない政治体制(共和政)をとるポリスの世界と異なっていた。マケドニアの軍事力の核は、貴族たちによる騎兵部隊だったが、フィリッポス2世はさらに農民や遊牧民による歩兵部隊を整備した。

マケドニアは、もともとはギリシア人の国の中では周辺的でマイナーな存在だった。それがギリシア全体を初めて統一したのである。ほんらいは、ギリシアのポリスは内輪での争いなどしている場合ではなかった。

そして、フィリッポスの死によって息子のアレクサンドロス(3世、大王、前356~前323)が20歳で王位につくと、アケメネス朝に侵攻してさらに勢力を拡大しようと動き始めた。それは打倒ペルシアをめざしていた亡き父の意思を継いだものでもあった。

なお、古代ギリシアの大哲学者アリストテレス(前384~前322)は40代の頃の数年間、少年時代のアレクサンドロスの教育係を務めた。フィリッポス王が、アテネで学問をおさめた高名な学者を招いたのである。

アリストテレスはトラキア地方というマケドニアの支配地域の出身でもあった。アリストテレスを学長とする学園がマケドニアの都スサの郊外に創立され、そこでアレクサンドロスや貴族の若者たちが学んだ。フィリッポスは王子や次代の重臣たちにギリシア人としての高い教養を身につけてほしかったのだろう。また、マケドニアの過去の王たちも、有力なポリスから学者を招いたり、オリンピア競技に参加したりしている。マケドニアは「辺境」ではあったが、ギリシア文化への一体感を持つ、広い意味でのギリシアの一部だった。

アレクサンドロスは、紀元前334年から7年ほどかけてアケメネス朝の各地へ遠征して勝利し、エジプト、メソポタミア、シリア、アナトリア、ペルシア(イラン)などの西アジアのほぼ全域を支配する大帝国を築いた。「アレクサンドロスの帝国」といわれるものである。この帝国の領域は、要するにギリシア+アケメネス朝である。

ギリシアというのは、これまでにみたように、もともとは西アジアにくらべ遅れて発展した地域で、西アジアからさまざまなことを学んで発展した。そのギリシア勢力が西アジア全域を支配するようになったのだ。


アレクサンドリアの建設

大帝国を築いたアレクサンドロスは、西アジアの各地にギリシア人による支配の拠点を建設しようとした。帝国の各地にアレクサンドリアという名のギリシア風の都市が建設された。その中で最大で最も有名なものが、エジプトのアレクサンドリアである。この建設事業は、ギリシアの文化と西アジアの文化の融合をおし進めることにもなった。また彼はペルシア王家の王女を妻にめとり、さらには数多くの自分の臣下のギリシア人と、ペルシア人の女性を結婚させることも行った。

しかし、アレクサンドロスは紀元前323年に、何らかの熱病のため32歳の若さで急死してしまった。

大王の死後まもなく、帝国の後継をめぐる内紛が起こった。争いが数十年続いた結果、紀元前300年頃から280年頃にかけてアレクサンドロスの帝国の跡地に3つの大きな王国などが並び立つ体制が成立した。

3つの王国とは、ギリシアを中心とするアンティゴノス朝マケドニア、プトレマイオス朝エジプト、エジプト以外の西アジア主要部を支配するセレウコス朝シリアである。それぞれの王朝の名称は、王朝の創始者でアレクサンドロスの部下だった将軍の名にちなんでいる。ギリシア人の王朝がエジプトやシリアなどの西アジアを支配したのである。

一方、アケメネス朝の領域だった地域のうち、インダス河西岸、中央アジア、イラン北部から黒海沿岸といった周辺部は、早いうちに現地の勢力が上記のギリシア人王朝から独立していった。また、紀元前100年代になるとパルティアという国が強大化して、セレウコス朝からイランやメソポタミアを奪った。パルティアは紀元前200年代に建国された中央アジアからの騎馬遊牧民による国家である。

 

ヘレニズム時代

アレクサンドロスの帝国が分裂した後も、西アジアからギリシアを中心とする地中海沿岸の広い範囲にかけて、ギリシア人やギリシア文化の影響は続いた。アレクサンドロス帝国だった各地にギリシア人が移住・植民し、支配階級を形成していった。当時のギリシア人は活動的で、技術や適応力にすぐれていたので、官僚や軍人のほか、商工業で活躍した。

アレクサンドロスの時代から、ローマが地中海を囲む巨大な帝国を築く紀元前1世紀までの約300年を「ヘレニズム時代」と呼ぶ。ヘレニズムという語は、1800年代にヨーロッパの学者(ドイツの歴史学者ドロイゼンなど)が使い始めたもので、 ギリシア人が自分たちを「ヘレネス(ヘレン)」と称したことにちなんでいる。アレクサンドロスの帝国の跡地にできた、ギリシア人が優勢な国ぐには、ヘレニズム諸国といわれる。ヘレニズム諸国では、ギリシア語が公用語となった。ただし、それまでに西アジアの国際語だったアラム語も、引き続き広く用いられた。


ヘレニズム世界の範囲

ギリシア人やギリシア文化の影響が強い「ヘレニズム世界」といえるのは、マケドニア(ギリシア)、エジプト、シリアの3つの王国の勢力圏である。さらに、紀元前200年代からはイタリアや北アフリカ西部などの西地中海の地域も、文化などを共有するかたちでヘレニズム世界に組みこまれていった。これらの地域は、ヘレニズム諸国に征服されたわけではないが、おもに交易を通じて影響を受けた。当時の西地中海には、フェニキア人のカルタゴや、まだ発展途上だったローマなどの国があった。

西アジアのなかで、とくにヘレニズムの影響を受けたのは、アナトリア西部、シリア、エジプトである。 これらの地域は、かつてはギリシアの文明が成立するときに深い影響を与えたが、今度は逆にギリシアの影響を強く受けるようになった。

一方、イラン、メソポタミア、中央アジアでも、ギリシア文化の影響は残ったが、それは比較的限られていた。そこで、ヘレニズム世界から一応は除外してよい。

ただし、たとえば今のアフガニスタン北部とその周辺には紀元前200~100年代にバクトリアというギリシア人王朝の国が栄えた。この地方のサトラップ(セレウコス朝の地方長官)だったギリシア人が独立してつくった国である。このバクトリアについてもヘレニズムの重要な国家に含めることがある。

そして、1世紀頃からはバクトリアの後継といえるクシャナ朝という王国が栄えるようになった。この国をつくったのは大月氏(だいげっし:中国での呼称に基づく)という、東アジアに起源をもつ騎馬遊牧民だった。クシャナ朝では仏教が有力となった。そして、西暦100年代にはクシャナ朝のガンダーラ地方で、初めて仏像がつくられたのである。「ガンダーラ仏(ぶつ)」といわれるものだ。仏教では本来は偶像崇拝を禁じていたが、バクトリア時代から伝わるギリシア彫刻の伝統に影響を受け、仏像をつくるようになった。つまり、仏像はヘレニズム(ギリシア文化)の影響で生まれたということである。

バクトリアやガンダーラ仏のことは、ヘレニズムの影響が広い範囲に、長期にわたって及んだことをよく示している。

 

巨大できらびやかな文化

ヘレニズム諸国の文化=ヘレニズム文化は、ポリスが繁栄した時代に生まれたギリシア文化が、西アジアの文化と融合して、より普遍的なかたちで展開したものといえるだろう。ここで「普遍的」というのは、さまざまな民族などの幅広い人びとにとって受け入れやすい、ということだ。

ヘレニズム諸国でのギリシア人の王は、民主主義が有力だったそれまでのギリシアの国家権力とはちがって西アジアの大王のような専制君主となった。ギリシア人の王たちは自らを神格化して、礼拝することを人びとに求めた。これは絶対的な君主に対し否定的だったそれまでのギリシアの伝統とは相容れないものだが、エジプトなどの西アジアではおなじみのことだった。

そして、国王の主導で大規模な建設事業がすすめられ、そこにギリシアの発達した技術や知識が用いられた。

建設事業の最大のものは、計画的に新しい都市をつくることだ。西アジアの有力な王たちは、それを行ってきた。たとえば、アッシリア帝国のたアッシュールナシパル2世による新都ニムルドの建設(紀元前800年代)は一例である。エジプトのアメンホテプ4世(イクナートン)のテル・エル・アマルナや、アケメネス朝のダレイオス1世のペルセポリス(紀元前500年頃)もそうだ。メソポタミアを支配下ネブカドネザル2世によるバビロンの再建(紀元前600年頃)も、新都の建設に準ずるものといえるだろう。

アレクサンドロス大王による各地のアレクサンドリアの建設は、西アジアの王たちが行ってきたことを、さらに雄大なスケールで展開しようとしたものだったのである。

ヘレニズム諸国の国王が主導した文化は、物量の巨大さやきらびやかなことにこだわって、富や権力を誇示するものだった。

たとえばこんなことがあった――プトレマイオス朝エジプトの王・プトレマイオス2世が紀元前275年頃に、両親を神格化した大きな祭りを行った。その大イベントでは、ポリスの時代のオリンピア競技のような数々の体育競技が行われ、プトレマイオス朝と友好関係にあった各国の使節も招待されていた。そして、競技の審査員や使節をもてなすための華やかなパビリオンや黄金で飾った迎賓館が建てられた。

また、祭りの一環として行われたパレードは、金ぴかで大がかりなものが満載だった。黄金の羽をつけた勝利の神ニケの像、120人の幼い子供たちを乗せた黄金の大皿、数百リットルの酒が入る黄金の酒器、ヒョウの毛皮でつくった12万リットル入る酒袋、巨大な山車、そして黄金の冠をつけて浮かれ騒ぐ人びと……これは、優勝者に月桂樹の冠を贈った、かつてのオリンピア競技の質実剛健な様子とはだいぶちがう。

現代の文化人なら多くの場合、こうした金ぴかのイベントよりも、ポリスの時代のオリンピアのほうに価値や魅力を感じるはずだ。そこにある精神性などを評価するのである。

そして、政治体制についてはなおさらである。君主を神格化する王政よりも、民主主義のほうが良いにきまっている……

しかし、これは現代人の尺度である。ヘレニズム世界で暮らす多くの人びとの尺度はちがっていた。ポリスの時代のギリシア文化は確かにすぐれていたが特殊性が強く、そのままではほかの社会では受け入れにくいものだった。ギリシア人の伝統的な神を祀り、優勝者は月桂冠……というのよりも、権力者をとりあえずの神として金ぴかのパレ―ドで浮かれるお祭りのほうが、多くの人にとってわかりやすい。つまり、さまざまな民族に受け入れられやすいという意味での「普遍性」がある。

また、アテネで行っていたように数千人の市民が集まって話しあう政治体制など、当時の世界ではギリシア以外では考えられないことだった。広大な王国を統治する政治体制としては、専制的な君主政が現実的な選択肢だったのである。

ポリスの時代のギリシア文化が、世界の広い範囲に受け入れられるには、変化が必要だった。その際に、古代ギリシアについて現代人が評価する要素(たとえば民主主義)が切り捨てられることもあった。また、現代の文化人からみて堕落と思われるような異質な要素が入りこむこともあった。

 

古代ギリシアの普遍化

そのせいか、多くの歴史家はヘレニズム時代に対して冷淡である。学校の授業でも、アレクサンドロス大王が死んだあとのヘレニズム時代は「古代ギリシア」と「ローマ帝国」の間の、マイナーな時代として扱われる。たしかにヘレニズムの大国は古典期のギリシアほど創造的とはえいないし、巨大なスケールということではローマ帝国にはかなわない。だから、世界史の通史のなかでは扱いが小さくなってしまう。本ブログでの扱いも、ややそうなっている。

しかし、ヘレニズム時代はギリシア人が西アジアの各地で支配者となり、ギリシアで生まれた文明が広い舞台で展開していったという意味で、「古代ギリシア」にとってのまさに黄金時代だったともいえるのである。

ヘレニズム時代を再評価する概説書を書いた、フランスのP・プティとA・ラロンドは、こう述べている。

“ヘレニズム文明はギリシア古典文明より魅力的な文明であった。ギリシア古典文明は特異すぎて、……(ギリシア人によって)直接入植が行われた地域を除くと、広まらなかったからである。ヘレニズムは、オリエント(西アジア)と接触を重ね、さらに幅広く、さらに人間的な意義を持つ合成を重ねることによって、アレクサンドロス大王のあと、新たな伝搬力をもつにいたった”
(『ヘレニズム文明―地中海都市の歴史と文化』文庫クセジュ、2008年、130㌻、北野徹訳、カッコはそういちによる)

つまり、ヘレニズム時代は「古代ギリシアの普遍化」がなされた時代だった。

ただし、西アジアで普遍化したギリシア文化=ヘレニズム文化が大きな影響力を持ったのは、一部の都市に限られる。農村などの多くの地域にはヘレニズムはあまり浸透しなかった。また、メソポタミアのような古来の文明の中心地帯でも、「ギリシア化」は進まなかった。メソポタミアはギリシアから遠かったことに加え、従来の文明の力が強かったのだ。

そのような限界はあったにせよ、とにかくギリシア文化は大きく分布範囲を広げ、各地の最も活気のある場所で展開していったのである。

 

参考文献

① P.プティ、A.ラロンド『ヘレニズム文明―地中海都市の歴史と文化』文庫クセジュ、2008年 

ヘレニズム文明―地中海都市の歴史と文化 (文庫クセジュ)

ヘレニズム文明―地中海都市の歴史と文化 (文庫クセジュ)

 

 
② 野町啓『学術都市アレクサンドリア』講談社学術文庫、2009年 

学術都市アレクサンドリア (講談社学術文庫)

学術都市アレクサンドリア (講談社学術文庫)

 

 
③ 桜井真里子・本村俊二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論社、1997年

 

ギリシア文明の成立については、当ブログのつぎの記事を。