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繁栄の中心で起こる「大企業病」が、中国やイスラムの衰退をもたらした原因

世界史において、「世界の繁栄の中心」「覇権国」といえるような各時代を代表する強国・大国は時代とともに移り変わってきた。どれほど繁栄した国であっても、その勢いが永久に続くことはない。たとえば数百年前には、中国の王朝やイスラムの帝国は世界のなかで圧倒的な強国だったが、近代には衰えてしまった。かわりに台頭したのは欧米だった。


「繁栄の中心が移り変わる」とは、それまでの「中心」が停滞・衰退し、新しい中心に追い越こされていったということだ。なぜ、そのようなことが起きるのか?

 

目 次

 

従来の中心が負けるのはなぜか

なぜ、従来の繁栄の中心――それまで優位に立っていた強国・大国は新興勢力に負けてしまうのだろうか?それまで「繁栄の中心」だった国は、圧倒的な優位を築き、豊富なリソース(利用できる材料・資源)を持っているはずなのに。


これは「文明や国家が衰えるのはなぜか」ということだ。昔から歴史家や思想家がテーマにしてきた大問題である。いろいろな説や視点がうち出されているが、一筋縄ではいかない。とはいえ、世界史の基本的な事実を追っていると、みえてくることもある。

それは、衰退しつつある繁栄の中心では「成功体験や伝統の積み重ねによる、社会の硬直化」が起こっているということである。

繁栄の中心となった国・社会は、それまでに成功を重ねてきている。そのため、過去の体験にこだわって、新しいものを受けつけなくなる傾向がある。もともとは、先行するほかの文明や民族に学んだり、新しい発想を取り入れたりして発展したのに、そのような柔軟性を失って内向きになってしまう。

 

コダックのケース

これを私たちは、国や文明よりも小さなスケールでよくみかける。成功を収めた大企業が時代の変化に取り残されて衰退していくというのはまさにそうだ。「大企業病」というものである。

2012年に経営破たんしたアメリカのイーストマン・コダック社は、大企業病の典型である。コダック社は、写真フィルムの分野で世界最大の企業だった。世界ではじめてカラーフィルムを商品化するなど、業界を圧倒的にリードしてきた。しかし、近年の写真のデジタル化という変化の中で衰退し、破たんしてしまったのである。

これだけだと、「デジタルカメラの時代に、フィルムのメーカーがダメになるのは必然だろう」と思うかもしれない。しかし、世界の大手フィルムメーカーの中には、今も元気な企業がある。たとえば日本の富士フィルムはそうだ。そうした企業では、デジタル化に対応する事業や、フィルム関連の技術から派生した化学製品などに軸足を移していった。


コダックは、やはりどこかで対応を誤ったのである。何しろ、1970年代に世界ではじめてデジタルカメラの技術を開発したのは、じつはコダックなのだから。また、現在において有望な分野となっている、ある種の化学製品についても、コダックは高い技術を持っていた。

しかし、コダックは1990年代に大きなリストラを行い、のちに開花するそれらの技術や事業を売り払ってしまった。内向きの姿勢で、人材やノウハウを捨ててしまったのである。そして、伝統的に高い収益をあげてきたフィルム関係の事業を「自分たちのコアの事業」として残した。コダックはまさに「過去の成功体験にとらわれて、新しいものを受けつけなくなった大企業」だった。
(『日本経済新聞』2012年1月17日朝刊、1月20日朝刊などによる)

 

中国の用務運動

世界史の中では、たとえば1800年代の中国やオスマン帝国は、そんな大企業病に陥っていた。中国もオスマン帝国も、かつては「世界の繁栄の中心」といえる存在だった。しかし、1800年代になるとヨーロッパの列強から圧迫や攻撃を受け、明らかに劣勢だった。

そこで、ヨーロッパの技術などを受け入れる改革の動きもあった。そうした改革によって一定の成果や前進もあったが、社会が大きく変わるには至らなかった。

たとえば、1870~1880年代の中国(当時は清王朝)では、有望な若者たちを政府の費用で欧米に留学させるということがはじまった。

しかし、その若者たちが留学から帰っても、なかなか重要な仕事に就けない、ということがあった。

1880年代に海軍学校の学生や海軍の若手数十名をヨーロッパに留学させたのだが、これらの留学生は《帰国後重く用いられず、おおむね海軍以外の仕事についた》という。海軍の発展を担うはずだった人材を、その方面では活かせなかったのだ。また、1872年にはじまったアメリカへの政府留学生の派遣は、10年ほど続けられたが、《保守派の反対が強くて中絶した》のだった。(坂野正高『近代中国政治外交史』東京大学出版会、1973)

これは、明治時代の日本で欧米への留学生が重く用いられたのとは、かなり様子がちがう。

このような留学生の派遣は、当時の中国ですすめられていた「洋務運動」という、欧米の技術や科学を導入する改革の一環だった。しかしこの改革は保守派の強い抵抗にあうなどして行き詰ってしまった。当時の保守派は、英語などのヨーロッパの言語を学ぶための教育機関(同文館という)の設置や拡充にも抵抗している。

 

オスマン帝国のタンジマート

1800年代半ばのオスマン帝国では、「タンジマート」と呼ばれる西欧化の改革が進められた。技術導入のため、イギリスなどから各分野の専門家を「お雇い外国人」として招いた。しかし、なかなか成果があがらなかった。

たとえば、オスマン海軍に招かれた何人ものイギリス人が《自分たちの助言がいれられず、改革が進まないことに失望し、オスマン帝国を去っていった》という。オスマン海軍では、士官学校に何人かの外国人教官をまねいたものの、人材の育成が進まず、《(軍艦や大砲の)操作にあたっては、外国人の技師や機関士に頼らざるをえな(い)》状況が続いたのだった。(小松香織『オスマン帝国の近代と海軍』山川出版社、2004)

これも、明治時代の日本人が外国人から熱心に学んで、短期間のうちに技術を習得して自立していったのとは異なる。


文明が衰退するとき、そこに大企業病が

1800年代の中国やオスマン帝国には、それなりの財力や組織もあった。さまざまなヨーロッパ人との接点があり、多くの新しい情報に触れることもできた。しかし、改革はうまくいかなかった。保守的な抵抗勢力の力が強く、新しいことを吸収する意欲も弱かったのである。結局、中国の王朝もオスマン帝国も、1900年代前半に滅亡してしまった。

中国もイスラムの帝国も、ヨーロッパが台頭する前は「繁栄の中心」であり、新技術などの文明のさまざまな成果も生み出してきた。たとえば西ヨーロッパの発展の基礎になった「三大発明」といわれる、火薬・羅針盤・活字による印刷といった技術は、もともとは中国で発明されたものだ。

しかし、中国ではそれを十分に発展させることはできなかった。これは、コダックがデジタルカメラなどの、未来に花ひらく技術を開拓しながら、それを十分に育てることができなかった姿と重なる。

このような大企業病は、国家でも組織でも、さまざまな人間の集団で広くみられるものではないだろうか。

だからこそ「繁栄の中心」は、永遠には続かないのだ。繁栄が続くと、どこかで大企業病にとりつかれて、停滞や衰退に陥ってしまう。そして、その停滞を「周辺」からの革新が打ち破る。その結果、新たな中心が生まれ、遅れをとった従来の中心は周辺になってしまう――そうしたことが、世界史ではくりかえされてきた。中国やイスラムが衰える一方、近代のヨーロッパが勃興したのは、まさにそういうことだ。個々の国家をみても、たとえばローマ帝国でもイギリスでも、衰退期には大企業病的な硬直化がみられる。

以上、文明が衰退するときにはそこに大企業病がみられる、ということだ。「なぜ文明は衰退するか」については、さらに論ずべきことがあるはずだが、とりあえずこのくらいにしておく。ここでは「なぜ」に立ち入るよりも、まずは現象的なことを、事実としておさえることにしたい。

 

参考文献

①坂野正高『近代中国政治外交史』東京大学出版会、1973年 

近代中国政治外交史―ヴァスコ・ダ・ガマから五四運動まで (1973年)

近代中国政治外交史―ヴァスコ・ダ・ガマから五四運動まで (1973年)

 

  

②小松香織『オスマン帝国の近代と海軍』山川出版社、2004年 

オスマン帝国の近代と海軍 (世界史リブレット)

オスマン帝国の近代と海軍 (世界史リブレット)

 

 

本記事は下記のそういちの著作からの抜粋をもとにしています。もしも手に取って頂ければたいへんうれしいです。 

一気にわかる世界史

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