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15分で読む・初心者のための世界史まとめ 5000年の大きな流れを短時間で見わたす

世界史5000年余りの大きな流れを、15~20分で読める分量でまとめてみた。各時代の世界で最も繁栄した「中心」といえる地域に焦点を合わせ、その移り変わりを追いかけるという方法で述べている。「あれもこれも」と盛り込もうとせず、多くのさまざまな国や地域については省略している。記述の中心となるのは西アジアとヨーロッパであり、そこに中国が若干加わるということ。

「15分で読む世界史」などというのは「無謀だ」と思う人もいるかもしれないが、多くの人が世界史に入門するうえで、おおいに役立つはず。

近代以前(古代・中世)の分量が多く近代史が少ないと感じる方もいるかもしれないが、いずれ別に近現代史の全体像を短くまとめた記事をアップしたい。

 

目 次 

 


西アジアにおける文明の始まり

メソポタミアから周辺へ

紀元前3500年頃、西アジアのメソポタミアで大規模な建造物や青銅器などを備えた、最も初期の重要な文明が生まれた。数万人規模の都市が栄えるようになり、文字の使用も紀元前3300年頃に始まった。

メソポタミアで生まれたこの文明は、その周辺の西アジアの各地――エジプト、シリア、アナトリア(今のトルコ)、ペルシア(今のイラン)などにも広がった。紀元前2000~1500年頃以降は、その頃の世界で鉄器を初めて実用化したヒッタイト(今のトルコにあった)など、古くからの中心であるメソポタミアにも大きな影響をあたえる強国が周辺の地域から生まれた。

 

メソポタミア(濃い緑)とその周辺

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 鉄器時代の始まり

紀元前1100年頃からは、西アジアでは世界で初めて鉄器の本格的な普及が始まり、鉄器時代に突入した。鉄器は青銅器よりも高度な製造技術が必要だが、原材料の入手が比較的容易であり、鉄器時代になって初めて金属器が広く用いられるようになった。その影響でさまざまな技術革新もすすんだ。

また、鉄器時代の最初の数百間に、西アジアではユダヤ教(シリア・パレスティナ)やゾロアスター教(ペルシア)といった一神教が生まれた。一神教は、それまで一般的だった多神教(都市や地域ごとの神など)を超える普遍性や、より深い教義を持っており、その誕生は文化における大きな革新だった。

 

アケメネス朝ペルシア

鉄器時代が始まってから数百年を経て、紀元前500年頃には西アジアの主要部を統一する大帝国・アケメネス朝ペルシアも成立した。この国を築いたペルシア人の根拠地(今のイランにあたる)は、それまでの西アジアでは周辺的な地域だったが、そこから強大な勢力が生まれたのである。何十もの民族を束ねて支配する国家を、ここでは「大帝国」と呼んでいるが、アケメネス朝ペルシアはそのような大帝国の元祖である。

 

アケメネス朝ペルシア

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ギリシアとヘレニズム

ポリスの繁栄

一方、紀元前500年頃からはギリシアの文明がおおいに繁栄した。ギリシアはもともと周辺的な地域だったが、隣接する西アジア(今のトルコ、シリア、エジプトなど)の強い影響を受けて発展した。台頭した時代のギリシア人は、統一国家をつくらず数多くの都市国家=ポリスに分かれていた。そのなかで最大のポリス・アテネなどで、科学・哲学、民主主義、彫刻、文学など、後世に大きな影響をあたえた文化が花ひらいた。

 

ギリシアとその周辺

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ヘレニズムの時代

そして紀元前300年代には、ギリシア人の一派であるマケドニアが台頭してギリシア全体を統一した。さらにアレクサンドロス大王の時代には、アケメネス朝ペルシアを倒して西アジアの広い範囲を征服して大帝国を築いた(アレクサンドロスの帝国)。

この帝国はアレクサンドロス大王の死後分裂したが、その跡地にギリシア人が支配する王国が複数成立して、ギリシア文化と西アジアの文化が融合した「ヘレニズム」の文化が、地中海とその周辺の地域で栄えた。ヘレニズムの国ぐにのなかでは、エジプトを支配したプトレマイオス朝がとくに強大で、その首都アレクサンドリアは経済・文化の中心としておおいに繁栄した。

 

アレクサンドロスの帝国

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ローマ帝国

大帝国の形成

紀元前200年代からは、ギリシアの西となりのイタリア半島でおこったローマが台頭した。ローマは、当初は限られた範囲を支配する都市国家だったが、イタリア半島全体を統一した後、ギリシアを含む周辺の国ぐにをつぎつぎと征服していった。

そして紀元前1世紀(2000年前頃)には、地中海を囲む巨大なローマ帝国を築いた。ローマは、ヘレニズム文化が栄えた範囲(ヘレニズム世界)をすっかりのみ込んでしまったのである。なお、ローマの文化や技術は、ギリシアの文化に全面的に影響を受けたものである。

ローマ帝国は西暦100年代に最盛期をむかえ、繁栄の中心はギリシアからイタリア半島にシフトした。帝国の首都ローマ市は100万人規模の巨大都市となった。ローマ帝国の都市には、かつてない規模で水道をはじめとする公共設備が建設され、帝国全土には壮大な道路網が建設された。

 

ローマ帝国帝国(西暦100年代の最大領土)

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キリスト教

ローマ帝国の重要な文化遺産のひとつに、キリスト教がある。これは紀元後まもなくイエス・キリストが、ローマ支配下のパレスチティナ地方で創始したものだ。イエスはユダヤ教徒で、ユダヤ教の宗教改革を行おうとするうちに、新たな教義を切りひらいたのだった。

キリスト教は当初は弾圧されたが、しだいに信者を増やしていった。そして、西暦300年代にはローマ帝国公認のものとなり、300年代末には国教(国をあげて信仰する特権的な信仰)となった。ローマは、キリスト教の帝国となった。

 

西ローマ帝国の崩壊

その後、繁栄をきわめたローマも100年単位の時間のなかで衰退していった。400年代後半には、帝国の西半分(西ローマ帝国)がゲルマン人の侵入や内乱によって体制崩壊してしまった。繁栄の中心は崩壊を免れたローマ帝国の東半分(東ローマ帝国、ビザンチン帝国ともいう)であるギリシア周辺に再び移った。

なお、西ローマ帝国が崩壊した西暦400年代~500年頃を、世界史上の大きな時代区分では「古代」の終わり(そして「中世」の始まり)とすることが一般的である。

東ローマ帝国にはかつてのローマ帝国の勢いや活気はなかったが、長いあいだ重要な国家であり続け、1400年代にイスラムの大国オスマン朝に滅ぼされるまで続いた(ただし末期の頃は衰退して小国となっていた)。

 

中国文明の成立

文明の成立から春秋戦国時代まで

ローマ帝国と同時期に、中国では漢王朝が繁栄した。中国では、紀元前2000年頃から大河の流域で本格的な文明(黄河文明、長江文明)が栄えるようになり、いくつもの国家が生まれた。紀元前700年代からは国ぐにのあいだの勢力争いが激しくなり(春秋戦国時代)、その争いのなかで経済や文化が急速に発達した。儒学の祖・孔子などの「諸子百家」といわれる、さまざまな思想の源流となった学者が活躍した。

 

秦による統一と漢王朝

そして、紀元前200年代には秦の始皇帝によって、当時の中国全体が初めて統一された。秦の支配は短期間で終わったが、まもなく漢王朝がその統一を引き継いだ。漢王朝は、一時期途絶えたものの、紀元前200年頃から西暦200年代までの長期にわたって続いた。漢王朝の滅亡後、中国は数百年にわたる分裂の時代に入った(魏晋南北朝時代)。


漢王朝(前漢)

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イスラムと中国の繁栄

ムハンマドの登場とイスラム帝国の成立

600年代前半には、西アジアの一画であるアラビア半島で、アラブ人のムハンマドがイスラム教を創始し、信徒による国家を建設した。その「イスラム教徒の国」は急速に勢力を拡大して、ムハンマドの死後数十年経った700年頃までには巨大なイスラム帝国を築いた。西アジアの全域、北アフリカ、イベリア半島(今のスペイン)がイスラムの勢力圏となった。イスラム帝国では隣接する東ローマの影響を受け、ギリシア・ローマの遺産に基づく学問が盛んになった。

イスラム帝国(800年頃)

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イスラムの拡大

その後数百年は、イスラムの国ぐにが世界の繁栄の中心となる。ただし、イスラム帝国は800年代には分裂し、いくつものイスラムの国ぐにが並び立つようになった。

また900~1000年代には中央アジア(イランやインドに隣接する内陸の地域)にも新たにイスラムの王朝が成立していった。そして1400年頃以降は東南アジアにもイスラム教が広がり、現代のような巨大なイスラム世界が形成された。

また、イスラムの中心的な地域では,700年代後半からバグダード(今のイラクにある)が最大の都市として繁栄したが、1100年頃からはエジプトの都市カイロに繁栄がシフトしていった。

 

唐・宋の繁栄

ほぼ同じ時期、唐(とう)・宋(そう)などの中国の王朝も、おおいに繁栄した。唐の最盛期は700年頃、宋は1000年頃である。イスラムの繁栄の時代(西暦700年頃~1500年頃)は、中国の王朝の絶頂期でもあった。その頃の中国はイスラムと並ぶ「もうひとつの世界の中心」だったといえるだろう。

近代をきりひらいた「三大発明」といわれる、火薬、羅針盤、印刷術は、唐から宋にかけての中国で発明された。当時の中国がそれだけ高い技術を持っていたということだ。世界で最初の紙幣も、宋の時代の中国で発行されている。

 

騎馬遊牧民の活動

一方、絶頂期の中国は、強大化した騎馬遊牧民に圧迫を受けた。宋王朝は北部の地域(華北)を騎馬遊牧民の女真族に征服され、南部の地域(華南)に逃れた。そのような騎馬遊牧民の活動のピークは、1200年代のモンゴル人による大帝国だった。

モンゴル人は、東は中国、西はイスラム帝国の中心部に至るユーラシア(アジア+ヨーロッパ)の広い範囲を征服してしまった。中国の元王朝(1300年頃)はモンゴル人の政権であり、イスラム帝国の伝統の中心だったアッバース朝という王朝は、モンゴル軍によって滅ぼされたのである。しかし、1300~1400年代にはモンゴル人の勢いは衰え、その帝国は崩壊してしまった。

モンゴル帝国

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また、モンゴル人以外でとくに有力な騎馬遊牧民としては、トルコ人がいた。トルコ人もユーラシアの広い範囲で活動したが、その一派はアナトリア(今のトルコ)でイスラムの国家を建設した。のちにそのなかからオスマン朝の勢力が台頭して、1500~1600年代にはイスラム世界の広い範囲(今のアラブ・中東)を支配する大帝国に発展していった。

 

ヨーロッパの台頭

東西ヨーロッパの誕生

ローマ帝国の西半分(西ローマ帝国)が滅びたあと、その跡地にはいくつかのゲルマン人の王国が成立した。しかし、ローマ帝国の時代にくらべ、経済や文化はふるわず、社会は不安定だった。

そのなかで800年頃にはフランク王国が強大化し、今の西ヨーロッパの大半を支配するようになった。フランク王国は800年代半ばには分裂し、その結果現在のドイツ、イギリス、イタリアのもとになる王国・領域が生まれた。

またほぼ同じ頃にイギリスでも(フランク王国の支配下ではなかった)、現在のイギリスのもとになる王国が生まれた。これらの国ぐにのもとで、経済や文化も活気を取り戻し、1000年頃からはその動きが加速していった。

西ヨーロッパでは、ローマを本拠地とする「カトリック」のキリスト教が、圧倒的に有力となった。そこには、フランク王国がカトリックを採用したことが影響している。一方、東ローマ帝国とその周辺では、カトリックとは異なる「東方正教」といわれるキリスト教が有力となった。1000年頃からはカトリックの西ヨーロッパと東方正教の東ヨーロッパという区分が明確になっていった。
 

イタリアとスペイン・ポルトガル

1400~1500年代には、イスラムの文化を吸収してイタリアの都市国家とスペイン・ポルトガルが台頭した。これらの国ぐには、西ヨーロッパのなかではイスラムの国ぐにと距離が近く、深い関係にあった。スペインとポルトガルはもともとはイスラムの支配下にあったが、1400年代にはキリスト教徒の勢力がイスラムの支配者を追い出すことに成功した。

1300~1400年代にはイタリアを中心にギリシア・ローマ文化(イスラムの国ぐにで研究されていた)の復興をかかげるルネサンスが花ひらいた。一方、1400~1500年代になると「大航海時代」が始まり、スペインとポルトガルがアメリカ大陸などの海外に進出して多くの植民地を築いた。大洋を超えて地球規模の範囲で勢力を拡大する国家が、初めて登場したのである。

スペイン・ポルトガルのアメリカ植民地

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オランダの繁栄

1600年代には、スペインに支配されていたオランダが独立して台頭し、商工業でおおいに栄えた。首都アムステルダムを中心に株式会社や銀行などの近代的な金融のしくみも急速に発達した。ヨーロッパの繁栄の中心は、イタリア・スペインのある地中海沿岸から、ベルギー・オランダなどの西ヨーロッパ北部へとシフトしていった。

オランダ周辺

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イギリスからアメリカへ

イギリスの台頭

一方、1600年頃以降、オランダと海峡をはさんでとなりにあるイギリスの台頭が始まった。イギリスは1500年代~1600年頃までは西ヨーロッパのなかでは周辺的な国だったが、当時のオランダ・ベルギーから多くを学んで発展した。

1600年代のイギリスではピューリタン革命、名誉革命といった市民革命の結果、国王の権力は制限され、1700年頃には議会が大きな権力を持つ体制が生まれた。そして、その体制のもとで人びとの自由が大きく拡大して社会の活力が高まった。

 

産業革命と欧米の世界制覇

1700年代後半にはイギリスで産業革命がおこり、蒸気機関の利用などによって生産や輸送のあり方が一変した。1800年代半ばまでにその動きは他の西ヨーロッパ諸国やアメリカにも波及した。その後の技術や産業の発展で、西ヨーロッパは世界の中で圧倒的な存在になった。

1900年ころには、アジア・アフリカの広い範囲が西ヨーロッパ諸国(欧米)に支配されてしまった。とくに1800年代のイギリスは、世界中に植民地を持つ「大英帝国」として繁栄した。

1800年代後半には、世界の広い範囲が汽船や鉄道による交通網や、電信網(海底ケーブルで大洋を超えた通信も可能になった)で結ばれるようになった。現在のグローバル化の原型といえるものが成立したのである。

ヨーロッパの植民地(1913年)

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アメリカの時代

1900年ころからは、イギリスにかわってアメリカ合衆国が台頭した。アメリカは、もともとはイギリスの植民地だったが、1700年代末にイギリスとの戦争に勝利して独立した。独立後のアメリカは、イギリス以上に自由や民主主義が発達し、当時としては最も活気に満ちた社会となっていった。

そして1800年代末からは、電気の利用などの産業革命をさらに前進させる革新がつぎつぎと行なわれた。1900年ころ、アメリカの工業力は世界の中で最大となり、のちに軍事力や科学・文化でも同様となった。

2000年代(21世紀)になると中国などの新興国が台頭し、「衰退した」ともいわれるが、現在もアメリカは「世界の繁栄の中心」であり続けている。


 

以上のような「中心の移り変わりに注目する」という方法で書かれた世界史の入門書があるので、興味のある方は以下の本をぜひ手に取ってみてください。このブログの著者そういちの著書です。 

一気にわかる世界史

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