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世界史の中のベートーヴェン・「市民のお抱え音楽家」の先駆け

今年2020年はドイツの作曲家ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)の生誕250年。そこでベートーヴェンについて、いろいろと取り上げられています。本記事では、その人物像や音楽そのものよりも、「世界史の大きな流れのなかにベートーヴェンの活動がどう位置づけられるか」について述べます。世界史をメインテーマとする本ブログらしく、ということです。そして、この記事をアップした12月16日は、彼の誕生日とされる日です(正確な誕生日はわかっていないが、12月17日に洗礼を受けた記録があり、そこから推定すると12月15日か16日の生まれ)。

目 次

  

音楽家は「貴族のお抱え」だった

世界史の流れの中での、ベートーヴェンの立ち位置を一言であらわすとしたら、「〈市民のお抱え音楽家〉の先駆け」と言えるのではないかと、私は思います。

「市民のお抱え」というのは、「貴族のお抱え」に対する、私そういちの造語です。

ベートーヴェンはおもに1800年代前半に活躍しました。それ以前の1700年代の音楽家は、特定の貴族のお抱えとして生計を立てていました。雇い主の貴族の注文に従い、たとえば冠婚葬祭のようなイベントのために作曲し演奏するのです。

つくられた曲は原則として、その場かぎりの消耗品です。少数のすぐれた作品については、楽譜が流通するなどして、ほかの場所で後々まで演奏されることもありました。しかし、1700年代の作曲家の一般的な意識としては、自分の曲を「後世に残す芸術作品」とはあまり考えていなかったのです。つまり、現代のような「芸術家」意識は、なかったわけではないですが、かなり弱かった。

1700年代の当時、有力な貴族は、自分専用の楽団員を雇い、演奏ができる空間を自邸に所有していました。

そのような貴族の楽団で職を得て、楽長などに出世できれば、音楽家のキャリアとしては大成功でした。あるいは、才能を認められて特定の貴族にパトロン(経済的な支援者)となってもらう、というのも音楽家の身の立て方の典型でした。

ベートーヴェンの祖父(同じ名のルードヴィヒ、1712~1773)はまさにそのような、貴族に認められて出世した、平民の音楽家でした。ドイツの地方都市ボンで、努力の末に宮廷楽団の楽長になった人だったのです。

 

弱かった芸術家意識

1700年代はいわゆる「クラシック音楽」が開花した時代です。1700年代前半にはバッハ(1685~1750)が、後半にはモーツァルト(1756~1791)が活躍するなど、歴史に名を残す大作曲家が登場しています。彼らは今の私たちの感覚では、まさに「偉大な芸術家」ですが、同時代における彼らの立場はそうではなかったのです。

音楽家に対する同時代の一般的な社会的評価は「特別な技能で貴族に使える召使い」に過ぎませんでした。

ただしバッハやモーツァルトぐらいになると、それなりの芸術家意識、つまり「価値ある作品を世に残す」という意識は、ないわけではありません。

たとえばモーツァルトは、自分の作品に作品番号をつけて整理するといったことを始めた先駆者だといわれます。彼以前にはそういうことをする作曲家は、ほぼいませんでした。モーツァルトが作品に番号を振ったのは、「記録や整理に値する、価値ある仕事をしている」という自覚があったからでしょう。それは、芸術家意識といっていい。

しかしそれでも、モーツァルトが残した300通の手紙のなかに「芸術」という言葉はひとつもないのだそうです。(中野雄『ベートーヴェン』文春新書、52ページ)
 

貴族がクラシック音楽を育てた

1700年代のクラシック音楽は、要するに貴族に奉仕する道具でした。貴族のイベントを飾り、その権威を演出することが、第一の存在意義でした。あるいは、キリスト教の教会での、布教のための道具でした。

だから「つまらないものだ」というのではありません。

当時の西ヨーロッパ(フランス、ドイツなど)の富や権力は、国王を頂点とする貴族が握っていました。そして、高度の文化は――音楽だけでなく文芸も絵画も学問も、貴族やその支援を受ける文化人がほぼ独占していました。そういう、目や耳の肥えた、感覚の鋭い貴族たちを満足させる高度の音楽として、1700年代のクラシックは発達したのです。

クラシックの高みは、貴族の精神の高みをベースにしているといってもいいかもしれません。貴族がクラシックを育てたのです。

そして、そのような文化的活力のある支配階級が君臨していたということは、当時の西ヨーロッパがおおいに発展を遂げ、勢いがあったということです。たしかに当時の西ヨーロッパは、世界で最も経済・文化の発達した、「世界の中心」になりつつありました。ヨーロッパによる世界制覇の時代が始まろうとしていました。

1600年代後半から1700年代前半には、フランスではルイ14世(在位1643~1715)に代表されるような強大な権力を持つ国王があらわれ、その支配を貴族が支える、という体制がピークに達していました。「絶対王政」といわれるものです。絶対王政的な体制は、同時代のドイツ・オーストリアでも発達しました(なお、当時のドイツとオーストリアは広い意味での「ドイツ」としてまとめて扱うことができます)。

なお、当時のヨーロッパの貴族とは、日本でいえば「武士」「大名」にあたると考えればよいです。税を取り立てるための自分の領地を支配し、権力を支える武力の担い手であり、国や地方の行政を担う官僚でもあった人たち。ルイ14世のような国王は、日本でいえば武士の頂点に立つ「将軍」です。

 

「印税」中心の収入

以上、「貴族のお抱え」だった1700年代の西ヨーロッパの音楽家の状況について述べました。ベートーヴェンは、このような貴族に従属する立場を乗り越えていきました。

ただしそれは彼が30代(1800年代初め)以降に、作曲家として大成してからのことです。彼も若い頃は、お金を出してくれる貴族のオーダーに応じて演奏したり作曲したりしていました。ベートーヴェンはピアノ演奏の名手でした。さらに駆け出しの頃は、音楽好きの貴族や貴族の子どもたちに音楽を教えることが大事な収入源でした。

ベートーヴェンの父親ヨハンは、祖父と同じ宮廷楽団の音楽家でしたが、酒に溺れて生活能力のない人だったので、10代の頃からベートーヴェンは、音楽の仕事で家計を支えていたのです(父母のほか、弟がいた。母親のマリアはベートーヴェンが17歳のときに病死)。

大成してからのベートーヴェンの収入のメインは、広い意味での印税、つまり「不特定多数のお客さんからの投げ銭」です。彼の作品の演奏会の興行収入や、楽譜の出版による利益からの支払いが、ベートーヴェンの収入の大きな部分を占めました。貴族からの支援もありましたが、その支援が不可欠ということではなかったのです。

印税中心の収入構造というのは、現代の音楽家に通ずるものです。現代のようにレコード・CDや音楽配信というものがないだけで、「不特定多数からの投げ銭」がおもな収入源という構図じたいは、ベートーヴェンも現代の成功した音楽家も同じなのです。

 

市民階級の台頭

そして、このように「不特定多数からの投げ銭」がおもな収入源になり得たのは、1700年代末から1800年代初頭にかけて、社会の大きな変化があったからです。

それは、産業・経済の発展による市民階級の台頭ということでした。ここでいう「市民」とは、貴族以外の平民の人びとで、とくに都市で暮らす人たちのことです。日本でいえば、町人です。さらに言えば、都市で暮らす平民のうち、かなり裕福な人たち。

こうした「市民」には、まず、産業革命の産物である大規模な工業やそれに関わる輸送や商業にたずさわる人びとがいました。そして、高度化する社会でさまざまなニーズを満たす専門家たち(公務員、法律家、医師、教師、学者など)もいました。こうした市民は、おもに農地や農民を支配して富を得ていた貴族とは異なり、新しい経済・社会を基盤として台頭してきたのです。

そして、市民たちは、以前は貴族の独占物だった音楽をたしなみ始めました。市民の数は、富裕層であっても、貴族よりもはるかに多かったので、音楽市場は急速に拡大しました。

ただし、市民の各人には自分の楽団や音楽ホールを所有する経済力は、特別な大資本家を除いては、ありません。そこで、ビジネス目的で劇場がつくられ、切符を買えば劇場で誰でも音楽を聴ける、興行としてのコンサートがさかんになりました。貴族の邸宅での演奏を楽しめるのは貴族と招待客だけでしたが、それとはちがう、公共的に開かれた音楽の空間が普及していきました。

またレコード以前の時代、音楽愛好家は楽譜を買って、それをみて自分たちで演奏していました。これは、昔の音楽の楽しみ方の常道で、1700年代にもあったことです。しかし、音楽を愛好することが貴族だけでなく市民のあいだにも広まったことで、楽譜への需要がかつてないほど高まりました。そして、楽譜出版のビジネスが発達して発行部数が増え、作曲家は潤ったのです。

ベートーヴェンは、こうした「市民が台頭する社会での、音楽市場の急拡大」の流れに乗って、成功したのです。その意味で、彼は「市民のお抱え音楽家」であり、その先駆けとして代表的な存在です。

なお、くわしくいうと、ベートーヴェンの時代のドイツ・オーストリアは、本格的な産業革命(蒸気機関などの機械力を用いた産業・経済の大変革)は、それほどは進んでいません。それが当時進んでいたのは、まだイギリスだけです。しかし、「産業革命前夜」といえるさまざまな産業の発達や経済の変革は、ドイツでもすでにありました。

 

先行事例・ハイドンのロンドン公演

ただし、「市民のお抱え」ということは、ベートーヴェン以前に例がないわけではありません。ベートーヴェンの一世代前の大作曲家ハイドン(1732~1809)はそうでした。

ハイドンは、1790年代に、ロンドンの劇場で大規模な公演を行って、名声と多くの収入を得ています。当時のハイドンはオーストリアの貴族の宮廷楽団で楽長を務めながら、作曲家として名声を得ていました。その彼を呼んで大規模な興行を打とうとしたプロデューサーがいて、ハイドンは、宮廷楽団の職を辞してロンドン公演を行ったのです。後でも述べるように、当時のイギリスは、ドイツよりも一足早く市民の台頭がすすんでいました。

ハイドンは、ベートーヴェンの師匠でもありました。ベートーヴェンは、故郷のボンから音楽の都ウィーンに出てきたばかりの22才のとき(1792年)に、作曲を学ぶためにハイドンに弟子入りしたのでした。

 

「市民のお抱え」は本望

そして、ベートーヴェンは、自分が「市民のお抱え音楽家」となったことを本望に思っていたはずです。

彼は自分のような平民の音楽家が「貴族の召使い」として扱われることに、明らかに不満を持っていました。

たとえば彼には、こんなことがありました――彼が36才の1806年、大切なパトロンだったある侯爵の館に滞在していた際、不本意なかたちでピアノ演奏を促され、それを渋ると侯爵が侮蔑的な脅迫めいたことを言ったのに腹を立てて、館を出ていってしまったのでした。(青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』平凡社、142~144ページ)

また、彼には「自分は価値ある作品を後世に残す芸術家なのだ」という意識がありました。そのことは彼の発言や書き残したものから明らかに伺えます。たとえば、前に「モーツァルトの残した手紙には“芸術”という言葉が出てこない」と述べましたが、ベートーヴェンの手紙や日記には「芸術」が頻出します。

彼の作品の多くは、パトロンである貴族の注文や意向よりも、自分の創作意欲を優先してつくったものでした。

さらに、ベートーヴェンは、政治思想的には国王や貴族が支配する体制に批判的な「共和主義」の立場だったといわれます。国王のいない体制のことを「共和政」といい、それを支持するのが「共和主義」です。

そして、ベートーヴェンは、台頭する市民によって国王が支配する体制が劇的に打倒されたフランス革命(1789~)を、同時代人として見聞きして、この革命に関心を寄せたのでした。

なお、ドイツではこのような革命はベートーヴェンの時代には起きることはなく、国王や貴族による支配は続きました。それでも市民の台頭ということはドイツでもすすんでいったのです。また、イギリスでは1600年代後半に、国王の支配を打倒する「イギリス革命」が起きて、1700年代には資本家や地主などの有力な市民が権力を握る、議会政治の体制が成立しました。イギリスはフランスやドイツよりも先をいっていたのです(ただしイギリスでも、有力な貴族の影響力はある程度残りました)。

 

独立の芸術家として

不特定多数の人びとの投げ銭による「市民のお抱え」とは、特定の有力者に従属しない「独立の芸術家」ということです。

独立の芸術家として、パトロンの趣味や意向におもねることなく、自分が良いと思う作品をつくり続ける――それが可能な立場になったベートーヴェンは、どんどん実行していきました。

音楽学者の岡田暁生さんは“ハイドンおよびモーツァルトと比べた時のベートーヴェンの決定的な違いは、彼の音楽が一八世紀までの貴族世界と決定的に縁を切っている点にある”と述べています(『西洋音楽史』中公新書、121ページ)。

それは岡田さんの説明を要約するとこういうことです――ハイドンやモーツァルトの音楽には、辛辣で挑発的で緊張をはらむようなところがあっても、決して宮廷社会のマナーから逸脱することはなかったが、ベートーヴェンの音楽は違う。無作法というか、挑戦状を叩きつけるような調子がある、と。

つまり、貴族に遠慮することなく、芸術家として自己主張しているということでしょう。

彼の代表作の「第九」(1825年初演)には、第4楽章の歌詞をみると、そんな「独立の芸術家」としての彼の精神が具体化されています。

第九の第4楽章の歌詞は、ドイツの詩人シラー(1759~1805)の詩を、ベートーヴェンが抜粋・編集し、自分自身でも加筆したものです。第4楽章の冒頭にある「おお、友よ、これらの調べではない!もっと快い調べを共に歌おうではないか、もっと喜びあふれる調べを」という口上は、ベートーヴェンによるものです。

批評家のあいだでは、第九でうたわれる「神」は、キリスト教の神を超えた、もっと普遍的な存在なのだと解釈されることがあります。歌詞に出てくる“創造主”は“星空の彼方に住む、愛する父”と抽象的に表現され、教会の神とは特定できません。

ベートーヴェン研究家の青木やよひさんは、この点について、“(晩年のベートーヴェンにとっての)神の概念そのものは「人間の力を超えた宇宙の創造主としての目に見えない存在」であることに変わりはないとしても、祈りの対象を厳格なカトリック信仰の枠内に収めておくことが不可能になりつつあったのではないか”と述べています(『ベートーヴェンの生涯』平凡社ライブラリー、229ページ)。

そして、だからこそ、この曲は現代においてヨーロッパを超えて日本や中南米やアフリカでも受け入れられているのだと、青木さんはいいます。時代や民族を超えた普遍的なメッセージが「第九」にはあるわけです(第九にはそのほかにさまざまな音楽的な挑戦があったのですが、それは私そういちには扱いきれません)。

1800年代初頭はまだ、キリスト教は社会通念として絶大な影響力を持っていました。それを超える「神」をうたいあげるなどというのは、パトロンの社会的立場を配慮しなければならない作曲家には難しいことです。

たしかに、彼の日記などの書き残したものをみると、キリスト教を超えた、より普遍的な世界認識を求めてさまざまな勉強をしていたあとが伺えるといいます。たとえば1700年代の哲学者カントの著作や、インド思想に学ぼうとしていたりするのです(青木『ベートーヴェンの生涯』227~228ページ)。こういう思想的な探究を行った音楽家としても、ベートーヴェンは先駆けだったのでしょう。

 

盛大な葬儀

ベートーヴェンは病気(肝硬変とみられる)で、1827年に56歳で亡くなりました。その葬儀は、支持者たちの手で盛大に行われ、2万人のウィーン(当時、人口20~30万)の人たちが彼を偲んで町の広場に集まったといいます。彼はほんとうに多くの市民から人気や尊敬を得ていたのです。

それにしても、ベートーヴェンに匹敵する偉大な作曲家といわれるモーツァルトとはえらい違いです。モーツァルトは、1791年に35才で亡くなったとき、見送る人もないまま、遺体が共同墓地に埋葬されていったのに…

モーツァルトは晩年(30才を過ぎた頃から)、貴族たちの趣味の枠内におさまらない、自分の「芸術」を深く追求する傾向が強くなりました。しかし、これは当時の貴族社会では受け入れられませんでした。そして、当時はまだ市民が主役の新しい音楽市場も未発達です。そこで、モーツァルトはしだいに孤立していったのでした。(中野『ベートーヴェン』50~51ページ)

モーツァルトの死は、ベートーヴェンの死の30数年前のことで、2人の生きた時代は、時間的にそれほどは大きく隔たっていません。ちょうど一世代の違いです(ベートーヴェンは、17才のとき一度だけウィーンのモーツァルトの自宅を訪ねたことがある)。

でもその一世代の間に、音楽家・作曲家の社会的なポジションは大きく変わったのです。それは「市民の台頭」による社会の変化がもたらしたことでした。前近代の身分社会から「近代社会」への劇的な変化がすすんだということです。

 

参考文献 

①中野雄『ベートーヴェン』文春新書(2020)

 産業革命や市民階級の台頭などの社会変革のなかにベートーヴェンを位置づける視点が明確な評伝で、最も参考にしました。

  

②青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』平凡社ライブラリー(2018)

「苦難に満ちた、孤高の天才」といった従来の通俗的なイメージではない、多くの人と交わり、その人たちに支えられ、自由人として生きたベートーヴェン像を、詳しい研究に基づいて提示しています。

ベートーヴェンの生涯 (平凡社ライブラリー0867)

ベートーヴェンの生涯 (平凡社ライブラリー0867)

 

 

 ③岡田暁生『西洋音楽史』中公新書(2005)

素人にもわかるように「そもそも」のところから説明してくれる、貴重な音楽史の概説書。おもに第四章「ウィーン古典派と啓蒙のユートピア」を参照。音楽家が貴族から自立するうえでの公共の劇場での演奏会や楽譜出版の意義について、明確に説明してくれています。 

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