そういち総研

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戦争をひきおこした原因には、戦前の格差社会があった

昭和の戦争について考えるとき、戦前の社会についてのイメージや知識が、私たちには不足していることが多い。戦前の格差社会や貧困は、戦争をひきおこしたさまざまな要因のうち、とくに根本的なものだ。

 

目 次

 

格差の是正という正義

誰もが「平和は大切」というけど、戦争はなかなかなくならない。それは、平和を求めるのと同じくらい強力な正義が、しばしば戦争と結びついているからだ。

何かというと、「世の中の不平等・格差を是正したい」という思いである。それですべてが説明できるわけではないが、この正義は戦争をひきおこすうえで少なからず作用している。

たとえば革命はしばしば内戦をともなう。そして革命とは、現存する格差社会をひっくりかえそうとする政治変革のことだ。格差のピラミッドの頂点にいる人びとをひきずりおろす。そして、たいていは大義名分として「不当な格差を是正すること」をかかげる。

あるいは、国際的なテロにかかわる勢力の多くは、欧米などの先進諸国と自分たちとのあいだの格差に怒っているのである。そして、日中戦争や太平洋戦争といった昭和の日本の戦争にも、格差社会ということが大きく影響している。

 

基礎知識①:日中戦争の開始

ここで、昭和の日本の戦争について、基礎知識の確認を。ご存知の方は、とばして先へどうぞ。

日本は、1931年(昭和6)に軍部(陸軍)の主導で、つまり政府の指示とは関係なく一部の軍人の独断で、満洲(今の中国東北部)を制圧するための軍事行動を開始した。これを満州事変という。

当時の日本は、明治時代の日露戦争(1904~05)以降、中国の遼東半島の南端を植民地として支配し、満洲の南部を走る鉄道(南満洲鉄道)と沿線のさまざまな利権を有していた。これはロシアから獲得したものだ。遼東半島には、関東軍という大規模な日本の軍隊が駐留していた(遼東半島を、日本の植民地としては「関東州」と呼んだので「関東軍」という)。

満州事変は、満洲での日本の勢力をさらに強大にするために、関東軍がひきおこしたのだった。要するに、日本がほぼ領土として支配していたのは遼東半島の一部だけだったが、広大な満洲全体を領土にしようとしたのである。

そして、日本軍は翌1932年(昭和7)には満州の広い範囲を支配するようになった。日本の満洲での行動は、アメリカやイギリスが主導する国際社会では「侵略」だと非難された。しかし、日本政府や国民の多くは、軍部の行いを後追いで支持した。満州事変の頃から、国の方向性に対し、軍部が大きな影響をおよぼすようになっていった。

さらに日本は満洲の南側の、華北にも勢力を伸ばそうとした。1937年(昭12)以降は、中国との戦闘が本格化して「日中戦争」に突入した。その後日本軍は中国の広い範囲に侵攻しておもな都市をおさえたが、中国側の激しい抵抗にあい、中国での支配を確立することができなかった。

一方、アメリカ・イギリスと日本のあいだの対立はさらに深まっていった。中国が日本に支配されるのは、中国に既得権がある欧米諸国には認められないことだった。

 

基礎知識②:太平洋戦争の開始

そして、1941年(昭16)12月には日本軍がハワイの真珠湾にあるアメリカ軍基地を奇襲攻撃して、日米の戦争(太平洋戦争)がはじまった。

アメリカとの戦争は、日中戦争の行き詰まりから生じたものである。

つまり、こういうことだ――太平洋戦争の前夜、日中戦争を戦い抜くために、東南アジアにある石油などの資源を手に入れる、という考えが日本の指導者のあいだで有力になった。当時オランダの植民地だったインドネシアには、相当な規模の油田があった。

さらに、1941年8月にアメリカは日本への石油の輸出を禁止した。1930年代には、日本が輸入する石油の大半はアメリカからのものだったので、これは日本にとってきわめて深刻な事態だった。石油がなければ戦争はできない。日本とアメリカのあいだで、関係改善のための外交交渉も行われたが決裂した。

そこで、煮詰まった日本としては「東南アジアへ侵攻するしかない」ということになった。そして、東南アジアを攻めるにあたっては、太平洋のアメリカの戦力をたたいておきたいと考え、おもな基地のある真珠湾を攻撃したのである。真珠湾攻撃とほぼ同時に、日本軍は東南アジアへの侵攻も開始している。

このように、昭和における日本の戦争は、大きくみて2つのステップで拡大していった。①日中戦争(1937~45)→②太平洋戦争(1941~45)ということである。満州事変(1931)は、日中戦争の前段階といえるだろう。

昭和の日本は、アメリカとの戦争で決定的な破局に向かったが、そもそもの始まりは、満州事変→日中戦争ということだった。

この記事は、「昭和の戦争の、そもそもの始まり」に関するものだ。「なぜ日本人は、こんな戦争を始めてしまったのか」について考えるための基礎知識である。日中戦争からさらに太平洋戦争にまで突き進んでいった過程については、ここでは踏み込まない。

 

戦前の格差社会

さて、さきほど述べたとおり、昭和の日本の戦争には、当時の格差社会ということが大きく影響している。

満州事変の前年、1930年(昭5)ころの日本は、今の日本よりもはるかに「格差社会」だった。当時の日本では「成人人口の上位1%」にあたる高額所得者、つまりごくかぎられた富裕層が、全国民の所得の2割ほどを占めていた。この「上位1%シェア」は、今の日本(2010年ころ)だと、1割ほどである。

しかも、その富裕層の所得の半分ほどは、金融資産からの利子・配当や不動産からの地代・家賃などの、いわゆる「不労所得」だった。

これに対し、今の日本の「上位1%」の所得では、不労所得は全体の1割ほどにしかすぎない。今の「上位1%」の所得の8割は給与所得である。つまり、不労所得ではなく、自ら働いて給与として得たものが、今の富裕層の所得のメインなのだ。

(以上は『週刊エコノミスト』2014年8月12日・19日合併号の森口千晶・一橋大学経済研究所教授のレポートによる)

つまり、戦前の富裕層は今よりも多くの富を独占し、しかもその富のおもな源泉は「不労所得」だったということである。

そして、少数者がより多くの富を独占していたということは、貧しさにあえぐ多くの人たちがいたということだ。たとえば、借金のカタに売られてしまう農家の少女がいる。農家の次男・三男にはうけ継ぐ田畑はなく、かといって都会に出ても職がなかなかみつからない。都会には、低い待遇でギリギリの生活をする給与生活者たちがいる。

戦前の日本経済は未発達で、工場やオフィスで働く仕事はかぎられていた。「都会へ出れば何かの職がみつかる(それがあたりまえ)」というのは、戦後の高度経済成長(1955頃~75頃)以降のことだ。

戦前の日本は、一部の既得権を持つ人たちを除いて、生きるのが今よりもずっと大変だったのである。もちろん「今とくらべて」ということで、「さらに昔とくらべてどうか」ということはおいておく。

単純化していうと、少数の「持てる者」のほか、親から十分な田畑をうけ継いだ者以外には、つねに貧困との闘いや貧困に落ち込むリスクがあった。その一方で、ばく大な不労所得で贅沢三昧をしている人びともいた。

 

人口過剰(格差問題)の解決策

こうした、1930年(昭和5)頃の貧困・格差の問題と戦争の関係について、戦前を知るエコノミスト・下村治(1910~89)は、当時をふりかえって1960年代につぎのように述べている。

《当時の困難な社会、経済、政治の問題すべての根底のあったのは人口過剰という問題でした。(そういち注:ここでいう「人口過剰」とは、人びとに十分な職や富をいきわたらせることができないという「格差・貧困の問題」として理解するといいだろう)》

《農村の生活水準の低さ、都市における失業問題、その失業者の帰農による生活困難の加重が、国民多数の心を圧迫した社会的、政治的な問題であり、そういう問題に押されて、歴史全体が思わざる方向に押し流されるという結果になったのです》

《つまり、当時の状況のもとでは、右と左を通じて、人口過剰の状態を、経済のメカニズムの中で内部的に解決することはできないと思ったわけです。資本主義体制を崩すことがその解決であると考えた人は左(そういち注:社会主義的な方向)に行き、領土の狭いことが悪いのだと思った人は右(軍国主義的な方向)に走ったわけです。そして、この後者の考えがその後の日本の運命を決定的に左右することになったのです》

(原田泰『世相でたどる日本経済』日経ビジネス文庫、260~261㌻ 原文は『私の日本経済論2』日本経済新聞社、1966年)

下村は大蔵官僚出身で、池田勇人首相(在任1960~64)のブレーンとして活躍した人物である。池田首相の「所得倍増計画」という政策を立案して、高度経済成長に深くかかわっている。下村の発言は、戦前の社会の状況をきわめて端的に述べているのではないだろうか。

このような混迷の状態であれば、軍部が権力を握り、社会を軍国主義的に統制していくことには、「正義」や「正当性」が生じてくる。「不平等な格差社会を正す」という正義である。

それは「こんな不平等な世の中、まちがっている!」という怒り、といってもいい。世の中を大きく変えることになる戦争を、歓迎する人もいたことだろう。「日本の領土が大きくなったら、自分たちにも、何かいいことがあるのではないか」というわけだ。

 

農民に訴える、陸軍のビジョン

今でいえば「格差の是正」ということを、当時の陸軍は積極的に国民に訴えていた。どうやって是正するのかといえば、領土拡大によってである。本来は、軍が政治に関与することは法で禁止されていたが、それはなし崩しになっていた。

歴史学者(日本近現代史)の加藤陽子は、つぎのような話を紹介している。1930年頃、のちに評論家となる石堂清倫(きよとも、1904~2001)は青年時代に、故郷の石川県のある町で公会堂に大勢の農民が集まり、陸軍省から派遣された少佐の講演を聞いているのを目撃した。

少佐は、現在の農民の窮乏にふれた後、その解決には思い切った手段が必要だと述べていた。そして、これについて左翼は土地の平等配分を要求しているが、今の日本の農地をすべての農家に均等配分しても、1件あたり五反分(そういち注:農家として零細な規模)にしかならない、という。

なお、当時は少数の地主に農地の所有が集中するという傾向があり、少ない農地しか持たない多くの農民が、苦しい生活を送っていた。

ここからは、石堂が回想する少佐の発言を引用する。

日本は土地が狭くて人口が過剰である。…だから、国内の土地所有制度を改革することでは改革はできない。ここでわれわれは、国内から外部へ眼を転換しなければならない。満蒙(そういち注:満洲とその周辺の内陸部)の沃野をみよ。…他人のものを失敬するのは褒めたことではないけれども、生きるか死ぬかという時には背に腹はかえられないから、あの満蒙の沃野を頂戴しようではないか。これを計算してみると、諸君は五反分ではなしに一躍十町歩(そういち注:五反分の20倍)の地主になれる》

(加藤陽子『シリーズ日本近現代史⑤満州事変から日中戦争へ』岩波新書、7~8㌻ 原文は石堂清倫『20世紀の意味』)

この講演の少し前、1929年(昭4)10月のニューヨーク株式市場での大暴落をきっかけに、世界経済は急激に落ち込んでいった。「世界大恐慌」というものだ。日本も大恐慌の影響を受けた。農村は不作にもみまわれて困窮し、都会は失業者であふれた。

たとえば、新潟県の調査では、1932年(昭7)1月~6月に新潟県の農村で売られた子女は4900人余りにのぼった。「売られた」というのは、金銭とひきかえに、辞めることのできない奴隷的な労働についたということだ。およそ「4900人」の内訳は、「芸妓1750人、娼妓1500人、酌婦1600人など」だった。今でいえば「水商売」や「風俗」である。(北岡伸一『日本の近代5 政党から軍部へ』中公文庫、277~278㌻)

このような状況に対し、当時の政府は有効な対策を打てなかった。たとえば、現代なら農家に政府が低金利で資金援助するといったことが考えられるが、それは行われなかった。そこで、陸軍が農民に「満洲の土地を頂戴しよう」という宣伝をする余地が生じ、そこに説得力も生まれたのである。

 

陸軍パンフレット

さらに、1934年(昭9)に陸軍が発行したPRパンフレットで「国防の本義と其(その)強化の提唱」というものがある。通称「陸軍パンフレット」といわれる。そのパンフレットは、軍が主導する戦争を戦うための国家体制――つまり軍国主義の体制を樹立することを国民に訴えたものだった。

「陸軍パンフレット」では、国防とは「国家生成発展の基本的活力」だとしたうえで、つぎのように述べている。

国民生活の安定を図るを要し、就中(なかんずく)、勤労民の生活保障、農村漁村の疲弊の救済は最も重要

陸軍が「国民生活の安定」が大事だというのである。(さきほど引用した)加藤はこれについて《なんだか、今の政党の選挙スローガンとまちがえそうな文句》と述べているが、本当にそうだ。

また、同年(1934年)に陸軍の内部でつくられた計画書(「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」)にも、さまざまな農民救済策があげられていた。義務教育費の国庫負担、肥料販売の国営、農産物価格の維持、耕作権などの借地権維持など……

ただし、こうした構想は、戦争が始まれば実現せずに終わってしまうのである。しかし、当時の国民のあいだには「軍部が社会や政治を変革してくれるのでは」という期待があった。

(パンフレットからの引用も含め、加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社、316~317㌻)

 

貧乏サラリーマンとしてのエリート軍人

そもそも、軍国主義の体制をリードしたエリート軍人だって、戦前の格差社会のなかであえいでいた。つまり、昭和戦前期の若手・中堅の将校たちについて、「安月給の貧乏サラリーマンだった」という見方がある。

岩瀬彰『「月給百円」サラリーマン 戦前日本の「平和」な生活』(講談社現代新書)では、戦前の軍人の俸給一覧表や陸軍中尉の妻の手記などから、当時の将校たちの暮らしの厳しさについて述べている(あくまで「エリートの割には」という厳しさだが)。ある事例によれば、当時の将校は、同年代のエリート官僚とくらべて半分くらいの年収だったという。

岩瀬は「貧乏サラリーマンとしての軍人」という視点を、評論家の山本七平(1921~91)から得たのだそうだ。山本の見方を岩瀬は、こう要約している。

《戦前の社会が軍人に対する見かけの尊敬を保ち、軍人にも高いプライドを維持させる一方で、待遇面では「明白な貧困が彼ら自身にあり、また彼らの目前にあった」という低レベルに放置していたことが、ニ・ニ六事件の青年将校始め軍人を心理的におかしくしていった要因のひとつ》(同書202㌻)

 

軍人不遇の時代もあった

また、日本軍について研究した歴史学者・戸部良一は、第一次世界大戦(1914~18)後の「平和」「軍縮」の動きのなかで、当時の日本のエリート軍人が不遇な目にあっていたことを指摘している。ポストが増えず、思うように昇進できなかったり、軍人を軽視する世間の風潮に傷ついたり、ということがあったのだ。

《東京の市電では、将校のマントや乗馬用の靴に着けている拍車が邪魔だとして、乗客から嫌みを言われることがあったという。軍服を着て市街を歩くことを嫌がる将校も出てきた》(戸部良一『シリーズ日本の近代 逆説の軍隊』中公文庫、251㌻)

また戸部は、将校の生活の苦しさがどの程度だったか、判断はむずかしいとしながらも、《いずれにせよ、軍人の経済的境遇が議論の対象となっていたことからすれば、彼らの経済状態が以前に比べて思わしくなかったことは間違いない。少なくとも、下級将校にとって生活は必ずしも楽ではなかった》と述べている。(同書249㌻)

そして戸部は、つぎのようにまとめている。(そういちが多少要約した)

「社会から批判されて受けた心の傷が、その後の軍人を突き動かしたと考えるのは短絡的だろう。また軍人が生活上の不安を国防上の不安にすりかえて、テロ事件や満洲事変を起こしたというのも短絡的すぎる。しかし、一部の軍人が大陸で冒険的な軍事行動を始めたり、強引な政治的介入を行ったりするのを、多くの軍人が黙認したり支持したりしたのには、以前に受けた心の痛手に一因がある」(同書255㌻)

そして、戦争に突入すると、軍人の給与・待遇は大幅に改善されたのだった。大手をふって軍服で街を歩くようにもなった。

 

二・二六事件と五・一五事件

さきほどの引用にあった「ニ・二六事件」とは、1936年(昭11)2月に起きた、一部の軍人によるクーデタ事件である。陸軍の若手・中堅の将校が、1400人余りの兵卒を率いて東京で軍事行動を起こしたのである。

クーデタとは、国民の支持とは関係なく武力によって政権を倒し、権力を奪い取ることだ。二・二六事件も、当時の政権を倒そうとしたが、すぐに失敗に終わった。しかし、複数の政府高官(大蔵大臣の高橋是清など)が殺害され、一時は国会議事堂や首相官邸などが占拠された。

これは、過激な軍人の恐ろしさを世間に印象づけた。この事件は、日本でさらに軍部が強くなるのを後押ししたといえるだろう。

また、二・二六事件の数年前の1932年(昭7)5月には、「五・一五事件」という、一部の海軍将校が主導するテロも起きている。これは、二・二六事件ほどの大規模なものではなかったが、首相官邸などが襲撃され、犬養毅首相が射殺される事態となった。

 

テロの正当化

二・二六事件も五・一五事件も、首謀者たちは「今の無能で腐敗した政権を倒し、軍部が主導する革新的な政権を打ち立て、社会の問題を解決する」ことを主張した。

今ならこうしたテロは、絶対的に否定されるだろう。しかし、当時の政府や世論はちがっていた。五・一五事件の1年余りあとに公表された、司法・陸軍・海軍の三省による共同声明は、おどろくべきものだった。

それは要するに「このテロは、行き詰まった国や社会を救おうとしたもので、その行き詰まりの原因は、政党や特権階級の腐敗にある」と説明しているのである。「犯人はそう主張している」という形ではあるが、同調するかのように主張をていねいに述べている。そして、こうした論調に共感する人は少なくなかった。

司法・海軍・陸軍三省の共同声明はつぎのとおり。

《本件犯罪(そういち注:五・一五事件)の動機および目的は、各本人等の主張するところによれば、近時のわが国の情勢は、政治、外交、経済、教育、思想および軍事等のあらゆる方面に行きづまりを生じ、国民精神また頽廃(たいはい)を来したるを以て、現状を打破するに非(あら)ざれば、帝国を滅亡に導くの恐れあり

しかしてこの行きづまりの根元は、政党、財閥および特権階級がたがいに結託し、ただ私利私欲にのみ没頭し、国防を軽視し、国利民福を思わず、腐敗堕落したるによるものなりとなし、その根本を剪除(せんじょ)して、以て国家の革新を遂げ、真の日本を建設せざるべからずというにあり》

(猪木正道『軍国日本の興亡』中公新書、201~202㌻)

1914年(大正3)生まれで戦争の時代を経験した、日本近代史の研究者・猪木正道(1914~2012)はこの声明について、こう述べている。

今日冷静な目でこの共同声明を読めば、一九三三年頃の日本人がすでに発狂していたと断定しなければなるまい

《これではまるで、虐殺された犬飼首相のほうが悪人で、テロリストは「皇国のためになると信じた」愛国の志士だということになる》
(同書202㌻)

たしかに、そのとおりだ。「発狂」というのは強い表現だが、それがあてはまるといっていいだろう。下村治に言わせれば「農村の生活水準の低さ、都市における失業問題」などの重圧に苦しんだすえに、こうなってしまったのである。

 

戦後、格差はどうなったか

「格差社会」への怒りが戦争を生んだーー少なくとも戦争へと国を導いたひとつの要素だとしたら、その結果は「格差の解消」という面でどうだったのか? 最初のほうで引用した、森口教授のレポートをまたみてみよう。

終戦(1945年)を境に、「上位1%が社会の所得の2割を占める」という状態は崩壊してしまった。 「上位1%」が占めるシェアは、今よりも少ない8%程度になる。いっきょにそうなった。

富裕層の所得の大半を占めていた利子・配当所得や、地代を中心とする不動産所得は、吹き飛んでしまった。それらの所得のベースになっている、社会資本や土地への権利などが消えてしまったからである。戦災で失われたり、戦後の政治変革によって既得権が奪われたりした。

敗戦の結果、戦争前夜に多くの人たちが苦しんだ「格差社会」は消滅したのである。ただし、その過程で軍人・民間人合わせて230万人(200~300万人)もの日本人が亡くなった。戦場となったアジア諸国にも多大な被害や苦痛をもたらした。

「格差」への不満や怒りというのは、恐ろしいものだ。方向性をまちがうと、とんでもない負のエネルギーとなって社会に禍(わざわい)をもたらす。戦前から戦争の時代にかけての日本の経験は、それをよく示している。

それだけに格差の問題は、おろそかにはできない。この問題を、平和のうちに民主的にうまく取り扱うことが必要である。これは「民主的な意思決定による、課税と分配」によって行われることになるはずだ。でも、ほんとうにうまく扱えるのか?という問題はあるだろう。

 

参考文献

文中でも引用した、以下の本をおもに参考にした。どれも満洲事変から日中戦争の頃の政治の動きや社会状況について、しっかりと学べる読みやすい本であり、おすすめできる。ただし、②④⑥は、明治から昭和にかけての幅広い時代を扱う。①⑤は、満洲事変から日中戦争にかけての時代に特化している。

①加藤陽子『シリーズ日本近現代史⑤満州事変から日中戦争へ』岩波新書、2007年

満州事変から日中戦争へ―シリーズ日本近現代史〈5〉 (岩波新書)

満州事変から日中戦争へ―シリーズ日本近現代史〈5〉 (岩波新書)

 

 ②加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』2016年、新潮文庫(この記事では2009年の単行本を使用) 

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)

 

岩瀬彰『「月給100円サラリーマン」の時代』ちくま文庫、2017年(この記事では原著の『「月給百円」サラリーマン 戦前日本の「平和」な生活』講談社現代新書、2006年を使用) 「戦前の都会での生活」を知るのに良い 。

「月給100円サラリーマン」の時代: 戦前日本の〈普通〉の生活 (ちくま文庫)

「月給100円サラリーマン」の時代: 戦前日本の〈普通〉の生活 (ちくま文庫)

 

④戸部良一『シリーズ日本の近代 逆説の軍隊』中公文庫、2012年 

シリーズ日本の近代 - 逆説の軍隊 (中公文庫)

シリーズ日本の近代 - 逆説の軍隊 (中公文庫)

 

 ⑤北岡伸一『日本の近代5 政党から軍部へ』中公文庫、2013年 

日本の近代5 - 政党から軍部へ 1924~1941 (中公文庫)

日本の近代5 - 政党から軍部へ 1924~1941 (中公文庫)

 

⑥猪木正道『軍国日本の興亡』中公新書、1995年 猪木はいわゆる「保守」の知識人だが、戦争を賛美することはなく、冷静に近代日本の歩みについて述べている。猪木のような、戦前・戦中を(若いながらも大人として)経験した知識人は、もういなくなってしまった。 

軍国日本の興亡―日清戦争から日中戦争へ (中公新書)

軍国日本の興亡―日清戦争から日中戦争へ (中公新書)

 

 

第二次世界大戦の基本的な経緯については、当ブログのつぎの記事を。 

(以上)