そういち総研

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最初の文字はいつ・どのようにして誕生したか

世界で最初の文字は、いつ誕生したのだろうか? 選択肢で考えてみよう。
ア.1万年前 イ.7000年前 ウ.5000年前 エ.3000年前

アは、農耕の開始の時期に近い。ウは、大規模な都市文明が誕生した時代である。イは、農耕の開始と都市文明の誕生の中間的な時期。この頃、一部の地域では灌漑(かんがい)農業がはじまり、一定規模の都市も生まれている。なお灌漑農業とは、雨水に頼らず、水路で川などの水を利用する農業のことだ。エは、鉄器が普及しはじめた時期に近い。(答えは下に)




世界で最初の文字が生まれたのは、紀元前3300年(5300年前)頃のことである。メソポタミアという土地でのことだ。
答えはウということになる。そして、最も初期の文字は、つぎのような粘土板に刻まれたものだった。

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粘土板文書(そういちによる作図)

目 次

 

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メソポタミアにおける都市文明の誕生

紀元前3500年(5500年前)頃、今のイラクとその周辺にあたるメソポタミアで、大規模な建造物を備えた最も初期の重要な文明が生まれた。今の学者たちがシュメール人と呼ぶ人びとがつくった、いくつかの都市がメソポタミアにあらわれたのである。

その代表的なもののひとつに、メソポタミア南部のウルクという都市があった。紀元前3100年頃のウルクの面積は、250ヘクタールほどだった(1ヘクタールは100m×100m)。土を乾燥した「日干しレンガ」による建造物が立ち並び、2~3万人が住んでいたと考えられる。

その後4900~4700年前頃には、ウルクの面積は400ヘクタールに達し、人口は4~5万人の規模になっていた。そこにはそれだけの人口をまとめる、専門の役人などを抱えた支配の組織、つまり「国家」といえるものもあったのである。

今から5000年ほど前のウルクなどの、何万もの人が暮らすシュメール人の都市は、チグリス川・ユーフラテス川という大河の水をコントロールする大規模な灌漑の技術に支えられている。また、それだけの大事業を行うだけの組織も発達した。

灌漑によって広がった農地は、都市の人口を養う多くの食料を生み出した。もともと、メソポタミアの南部は、土地が肥沃で日照に恵まれており、開発しやすい平地でもある。水さえ利用できれば、大規模な農業を行うのに適していた。

世界最古の文字は、このウルクで紀元前3300年(5300年前)頃に生まれたのである。これはのちに「楔形(くさびがた)文字」という、紀元前のメソポタミア周辺で広く用いられた文字に発展した。

そして「文字がどのようにして生まれたか」は、ウルクの文明がどのような性質ものものだったかということが、深く関わっている。

 

資源に恵まれていなかったメソポタミア

灌漑農業に適していた一方で、ウルクのあるメソポタミア南部は天然資源には恵まれていなかった。石や木材がかぎられていたので、建築材料のメインは、ありふれた土を乾燥させ固めた日干しレンガだった。窯で土を焼き固めた「焼成レンガ」も用いられたが、大規模な建築の外壁の仕上げなど、かぎられたところでしか使われなかった。金属器の材料の鉱石も、採れなかった。この点は、石材やその他の資源に恵まれていたエジプトの文明(紀元前3300~3200年頃から繁栄)とは異なっている。

さまざまな資源は、遠く離れた各地から交易によって輸入していた。たとえば銅や銀の鉱石は今のイランの内陸部とアナトリアから、錫はイランのほか、さらに遠い内陸のアフガニスタンなどからも輸入した。銅と錫は、青銅器の材料である。青銅器は、紀元前3000年(5000年前)頃には量産されるようになったもので、当時の代表的な金属器だった(まだ鉄器の時代ではない)。また、木材はアナトリア東部や地中海東岸のレヴァント地方からのものである。これらの資源の原産地にはウルクからみて1000キロ以上離れた場所もある。

ウルクなどのメソポタミア南部の都市からは、コムギ、オオムギなどの穀物、羊毛を利用した毛織物、その他の工芸品などを輸出した。交易の輸送手段としては、当初は川による水運が中心だったが、紀元前3400~3300年(5400~5300年前)以降はロバの一種に荷車をひかせる陸上輸送も行われるようになった。

このようにシュメール人は、土と水と太陽しかない場所で、知恵と労働によって、自分たちの文明を築きあげたのである。

 

ウルク・ワールドシステム?

資源を外国の各地から輸入し、自分たちの発達した産業による製品を輸出する――これは現代の世界でも変わらない高度な文明国のあり方だ。その原型はすでにシュメール人のときに成立していたのである。

ウルクなどのメソポタミア南部に資源を供給した各地では、ウルク的な遺物(土器など)や都市遺跡がみつかっている。

西アジアの各地に張りめぐらされたウルクのネットワークを、考古学者のギルレモ・アルガゼは「ウルク・ワールドシステム」と名づけた。1990年代のことである。アルガゼは、ウルクという「中心」が、進んだ文明の力で周辺各地を従属させ、一種の「帝国」を築いていたと主張した――たとえば近代のスペインやイギリスが世界各地に植民地のネットワークを築いていたように、である。

これは刺激的な問題提起だったが、現在は支持する専門家は少ない。ある地域に対してウルクの技術や文化が影響をあたえたことと、ウルクによる政治的な支配とは別の話である。そして、周辺の各地でも独自の交易網を築いていたことが、近年は明らかになっている。

しかし、ウルクの交易ネットワークが「帝国」的な支配ではなかったとしても、ウルクという発達した中心が西アジアの広い範囲に強い影響をおよぼしたことはまちがいない。

 

文字の誕生

大量の食料を生産・保管することや、交易によるさまざまな物資やりとりが発展すれば、それらのモノを管理するための記録の必要性が高まる。保管庫にあるモノの出入りを記録する、遠隔地を含むさまざまな関係者と情報のやり取りをする、といったことだ。

最も古い文字は、そのような物品管理のための小道具や記号が発達した結果、ウルクで生まれた。紀元前3300年(5300年前)頃のことである。 

「管理の小道具」とは、トークンといわれる小さな粘土のカタマリである。トークンは、管理されるモノに対応する一種のミニチュア模型である。さらに、複数のトークンを、ブッラといわれる中空の粘土の球で包み込んでまとめることも行われた。そして、備忘としてブッラの表面に中身のトークンの数や内容を記すようになったのが、文字の起源なのである。

トークンは、紀元前8000年(1万年前)頃にはすでにあった。おそらくは本格的な農耕が始まった結果として生まれたのである。そしてずっと後に、文字の誕生に近い時代になって、トークンをブッラで包むという工夫が行われるようになった。

こうした文字の起源は、デニス・シュトマント=ベッセラという研究者が、1970年代以降の20年余りにおよぶ研究で明らかにしたもので、議論はあるが、現在は定説となりつつある。シュトマント=ベッセラは、文字の起源という大問題の謎を解いたのである。

物品管理のための記録システムは、ウルク以外の場所でも工夫されていたが、それを最初に文字の体系にまで発達させたのがウルクだった。ウルクで生まれた文字システムは、その後メソポタミア全体で共通のものとなった。

なお、エジプトでは最も古い文字は、紀元前3300(5300年前)頃のものがみつかっている。それには土器にインクで書かれたものと、象牙の札に刻まれたものがあった。これを「原エジプト文字」という。

これは、ウルクの最古の文字とほぼ同時期なので、エジプトの文字はメソポタミアとは独立に生まれた可能性がある。しかし、初期のエジプトの文明がメソポタミアから一定の影響を受けていた痕跡もあるので、ウルクの文字から何らかの影響があった可能性も考えられる(つまり、なんとも言えない)。そして、エジプトの文字じたいはウルクの文字とは別物である。エジプトの文字は、のちに有名なヒエラティック(神官文字)やヒエログリフ(聖刻文字)といわれるものに発展した。また、中国で漢字の源流とされる甲骨文字が登場するのは、紀元前1400年(3400年前)頃である。

 

粘土板に刻む

ウルクで生まれた「最初の文字」は、ペンのような先の尖った棒で粘土板に刻むという方法で書かれた。メソポタミアに多く生えている葦(あし)の茎を斜めに切ったペンである。粘土板の材料は、日干しレンガと同じく、どこにでもある土だった。紙の発明は紀元前100年代の中国でのことで、ずっと後のことである。

粘土板は、かなりかさばるものの、きわめて低コストなこと、乾燥して固まると耐久性にすぐれているといった長所があった。それは「広く普及した、最古の記録メディア」といえる。

最も初期の文字は絵文字的な要素があったが、しだいに画数も整理されて抽象的な形となり、複雑なルールを備えた、本格的な文字のシステムが整っていった。紀元前2500年頃には文字としての体系がほぼ完成した。 こうして発達した文字は、その形状から「楔形(くさびがた)文字」といわれる。初期のメソポタミアの文字については「原楔形文字」という。

 

「書記」という専門家の誕生

そして、文字記録をあつかう「書記」という専門家も生まれた。シュメール人の都市には、書記を養成する学校もあった。学校はシュメール語で「粘土板の家」と呼ばれた。

今から5000~4000年前の文明の始まりの時代には、読み書きができる人は、きわめてかぎられていた。読み書きは、特別な教育を受けた者だけのスキルだった。王のような特権階級の人でも、多くは読み書きができなかった。読み書きができる王は、そのことを自慢した記録を残していることがある。

ずっと後の、2000数百年前以降の先進的な国(たとえば古代ギリシア、ローマ)では、特権階級の人びとは当たり前に読み書きができたが、文明の始まりの時代は、そうではなかったのである。

 

ウルク古拙文書

文字の最初期から紀元前2900年(4900年前)頃までの、ウルク出土の粘土板を、考古学者は「ウルク古拙(こせつ)文書」と呼ぶ。ウルク古拙文書は、これまでに断片を含め約5000枚が発見されている。そこには1000種類ほどの文字がみられる。

これらは基本的に表意文字という、ひとつひとつの文字が一定の事物や概念をあらわすものだ。漢字も表意文字の一種である。古拙文書の多くの文字は、意味や読み方が解読されているが、不明なものもある。

では、その「ウルク古拙文書」にはどのようなことが書かれていたのだろうか? これも選択肢で考えてみよう。
ア.日常的・実務的な記録 イ.法律などの行政に関するもの ウ.宗教や神話に関するもの エ.その他

古拙文書の大部分の8割は、穀物や家畜などの管理のための、モノや数量の記録である。最初の文字記録は、日常の実務がおもな目的だった。答えはアということになる。物品管理の小道具から文字が生まれたのであれば「やはり」ということなのかもしれない。ただし、これらは国家権力による行政や経済活動にかんするものでもあった。

この時代のウルクでは、農業による生産活動や収穫物は、国王を頂点とする国家がほぼすべてを管理していた。のちの時代のように、自分の農地を耕す独立の農民がいて、それを国家が政治的に支配するというのではない。

ウルクの住民の大部分は、国家の指揮・監督に従って都市周辺の農地を耕す農民だった。その点、商工業やサービス業に従事する人びとが多数を占める、のちの時代の都市とは異なる。遠隔地との交易も、民間の商人ではなく、国家の役人によって行われた。こうしたあり方は、近代の社会主義国家にも似たところがある。そして、5000年ほど昔のこの時代には、一般の民間人が文字の記録を残すことは少なかったのである。

また、古拙文書の残り1~2割は「語彙リスト」と呼ばれる、さまざまな単語が記されたものだ。書記をめざす生徒が学習のために書き残した単語帳のようなものが残ったのである。そのなかには、国家組織のさまざまな職業・役割の一覧である「官職リスト」や、約90の都市名・地名を記した「都市リスト」といわれるものもある。

国家の財産を帳簿で記録する書記。エリートの“知識人”をめざし単語帳で学習する生徒――そんな人たちが、5000年近く前の世界にいたのである。メディアが粘土板というだけで、行っていることの本質は今の私たちと変わらない。

そこにはまちがいなく、都市的な文明生活があったのである。

「神殿都市論」への批判

考古学者のなかには、都市や国家の誕生において、宗教的な動機を重視する人たちもいる。その立場からは、「まず神殿ありきで都市や国家が発達した」という主張がある。「都市文明の初期の時代には、耕地はもっぱら神殿の所有であり、神に仕える神官たちが経済を仕切っていた。そして、その後世俗の経済がとってかわった」というのである。これは、神殿都市論という説だ(神殿経済論ともいう)。

さらに「宗教的なことを書き記すために文字が生まれた」と言われることもある。しかしウルク古拙文書という、最古の文字記録をみるかぎり、書き記した側のおもな関心は世俗的なことにあったようだ。当時の社会において、宗教が重要な役割を果たしていたことは十分に考えられる。しかし、「まず神殿ありき」のような過大評価をしてはいけないのではないか。

神殿都市論は目新しい説ではない。1920年代にダイメルとシュナイダーという学者が唱えて以来、「旧説」といわれながらも、かなりの影響力がある。今でもその説に基づいて、初期の都市文明について述べている本をみかける。

しかし、反対者は少なくない。たとえば初期のメソポタミア史を専門とする考古学者・前田徹は、神殿都市論を“同時代資料の安易ともいえる利用による”説だとつよく批判している。 前田のように数多くの粘土板文書を慎重に読み解いてきた研究者からみると、神殿都市論は、十分な証拠に基づかず想像をふくらませてつくりあげたフィクションに思えるのだろう。

参考文献

メソポタミアにおける文字の誕生については、とくに以下を参考にした。①②ともトークン・ブッラを経て文字にいたる過程について、比較的詳しく述べている。また、専門家によるメソポタミアの文明についての入門・概説書としておすすめできる。とくに②は「ジュニア新書」だけあって、読みやすい。

①ハロー『起源――古代オリエント文明:西欧近代生活の背景』 青灯社、2015年

起源―古代オリエント文明:西欧近代生活の背景

起源―古代オリエント文明:西欧近代生活の背景

 

 ②中田一郎『メソポタミア文明入門』岩波ジュニア新書、2007

メソポタミア文明入門 (岩波ジュニア新書)

メソポタミア文明入門 (岩波ジュニア新書)

 

 

このほか、メソポタミアの都市文明全般については、つぎの本が参考になる。
③前川和也『図説 メソポタミア文明』河出書房新社、2011年 

図説 メソポタミア文明 (ふくろうの本/世界の歴史)

図説 メソポタミア文明 (ふくろうの本/世界の歴史)

 

 ④小泉龍人『都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る』講談社、2016年 

都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る (講談社選書メチエ)

都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る (講談社選書メチエ)

 

 「神殿都市論」への批判は、考古学者・前田徹のつぎの論文集による。
⑤前田徹『初期メソポタミア史の研究』早稲田大学出版部、2017年 

初期メソポタミア史の研究 (早稲田大学学術叢書)

初期メソポタミア史の研究 (早稲田大学学術叢書)

 

このほか、エジプトの文字、メソポタミアからの影響については、下記を参照した。

⑥高宮いづみ『古代エジプト 文明社会の形成』京都大学学術出版会、2006年
⑦古代オリエント博物館 編集・発行『世界の文字の物語-ユーラシア 文字のかたちー』2016年

また、冒頭の粘土板の図は、⑧前田徹『都市国家の誕生』山川出版社(世界史リブレット)、1996年 にある写真に基づく。

都市文明の誕生、都市ウルクについてはつぎの本ブログの記事を。

  (以上)