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都市とは何か・メソポタミアで生まれた「最古」の都市ウルク

都市は、世界史や文明について知るうえで重要なキーワードである。ローマ帝国のローマや唐の長安のような、その時代を代表する大都市は、世界の文明の中心として繁栄した。文明のさまざまな要素は、おもに都市で生まれ、発展してきた。そもそも都市とは何か。そして、世界史上の重要な大都市の元祖といえる、メソポタミアのウルクについて述べる。

 

目 次

 
都市とは何か

そもそも「都市」とは何か。さまざまな議論があり、定説はないが、とりあえずつぎのように定義できるだろう。

都市とは「多くの人びとが密集して暮らし、食料生産に直接従事しない権力者や専門家が、住民の中核である集落」である。この定義で、「多くの人びとが密集して暮らす」というのは、一応はわかりやすいだろう。ただし、「どのくらいの人数なら“多い”といえるか」という問題はある。これは後で述べる。

では、「食料生産に従事しない権力者や専門家」とは何か。

これは、王や貴族などの権力者のほか、役人や軍人、神官や僧侶、学者や教師などの知識人、技術者・職人、商人、モノを運ぶ運搬者、そして医師や理髪師のようなサービス業の人びとなどである。現代の産業分類でいえば、1次産業(農林水産業)以外の、2次産業(工鉱業など)、3次産業(サービス業・公務員など)に従事する人びとだ。

しかも、日々の農作業の合間のかぎられた時間でその仕事をするのではなく、フルタイムかそれに近い専門的なかたちで行っているのである。

そして、そのような人びとが「住民の中核」というのは、どういうことか。

それはまず、「住民の多数を占める」ということである。現代の都市は、2次産業・3次産業の人たちが圧倒的多数を占めている。しかし、多数派でなくても、その都市の運営の根幹が、権力者と専門家によってコントロールされているならば、それは「住民の中核」である、といえる。

ただし5000年ほど前の、文明の始まりの時代の都市では、農業に従事する人びとが住民の多数を占めていた。その点で、今の都市とは様子が大きく異なる。それでもその集落を「大規模な農村」ではなく「都市」と呼ぶのは、そこでの生活と生産活動をコントロールする権力者や専門家の集団が確立していたからである。

当時の都市では、農民たちは権力者や専門家によって組織されていた。つまり都市の権力が計画的に整備したインフラや農地のなかで、指揮・監督を受けながら仕事をしたのである。収穫物も、権力者たちによって組織的に分配や保管がされていた。

つまり、都市においては、密集して住む多くの人びとのあいだに、社会的分業あるいは階級といったものが生じている。社会の分化(さまざまな役割や階級・身分に分かれていくこと)といってもいい。

そして、そのような社会の分化は、多くの人間が密集しているからこそ起こる。たとえば数万人が密集するコミュニティで、すべての人が役割の区別もなく平等で、おたがいの話し合いだけでうまくやっていける、などということはあり得ない。人びとのあいだの利害を調整し得る何らかの権力や専門家が存在しないことには、やっていけないはずだ。

都市といえる人数

では、どのくらい多くの人間が集まると分化が明確になるのか、つまり、たんなる集落ではなく都市といえる状態になるのか。

これも定説はない。C.クラックホーンという考古学者は、便宜的に「5000人」を「都市といえる人口の基準」としている。くわしくいうと「約5000人以上の人口規模」「文字」「記念儀礼的センター(神殿のような施設)」のうち最低2つの条件を満たしている集落が都市である、という説である。

これは、都市が形成された頃のさまざまな古い遺跡を調べたうえでの経験的な感覚にもとづいている。おおざっぱに「数千人」というのは、「都市といえる人数」の目安になるだろう。なお、「数千」の「数…」とは、本記事では「3~7」ということにする。

たしかに、「数千人」が住んでいたと思われる集落の遺跡だと、「神殿」らしい公共建築や、計画的に建設された道路や排水設備のようなインフラが存在する。それらは、一定の権力や専門家が存在しないとつくれないはずだ。こういうことは、「数百人~1000人」規模の集落では、はっきりしていなかった。

チャイルドによる都市の定義

そして、このような「都市の定義・条件」は、「文明社会とは何か」ということでもある。

多くの人びとが集まる、権力者と専門家が中核をなす「都市」という場で、大規模な建築やインフラが建設され、文字記録、学問・芸術、発達したものづくりや活発な交易等々が生まれた。つまりそれは、「文明」が生まれたということだ。そして最初の文明は、都市の文明、つまり「都市文明」だったのである。

考古学における都市の定義では、ゴードン・チャイルドという学者が1950年に提唱した説が、大きな影響をあたえた。古代都市には以下の10項目の条件が備わっている、というものだ。

つまり「大規模集落と人口集住」「第一次産業以外の職能者」「生産余剰の物納」「神殿などのモニュメント」「支配階級」「文字」「暦や算術」「芸術」「長距離交易」「支配階級に専属の工人」といった要素である(項目の表現は著者:そういちが簡略化)。

本記事での都市の定義――“多くの人びとが密集して暮らし、食料生産に直接従事しない権力者や専門家が、住民の中核である集落”――は、チャイルドがあげる条件をもとにしている。10項目というのは羅列的で多すぎるし、重複する点もあるので、もっと整理できるはずだ。

 

都市が提供するサービス

そして、都市の権力者や専門家は、人びとにさまざまなサービスを提供する。都市がもたらすサービスとは何か。これについて、ある考古学者たちは、つぎのように整理している(大津忠彦・常木晃・西秋良宏『西アジアの考古学』)。

まず、文明の始まりの時代において最も重要だったのは、外部の略奪者などの脅威から守る、といった安全の確保である。

そして、農業のためのインフラ整備や食料倉庫の運営による、食料の安定的な供給。さらに神殿などの宗教施設、高度の工芸品、さまざまな嗜好品や娯楽による精神的な充足。

まず安全で、そして食べ物にありつけて、さらに美しいもの・おもしろいもの・おいしいものを楽しめる――たしかに都市とはほんらいそういう場所だ。そのような環境やサービスを、権力者と専門家が主導してつくりだしている。だからこそ多くの人びとが都市に集まり、権力に従う。このことは、遠い昔も現代も変わらない。

 

シュメール人の都市・ウルク

紀元前3500~3300年(5500~5300年前)頃、今のイラクやシリアの一画にあたるメソポタミアという地域で、のちの世界に大きな影響をあたえた、初期の文明が生まれた。シュメール人(シュメル人)という人びとによって、一般に「最古」とされる都市が築かれたのである。ウルクという都市である。その後数百年のうちに、シュメール人によるほかの都市もできていった。

これらのシュメール人の古い都市は、チグリス川とユーフラテス川の下流(メソポタミア南部)の、川沿いの地域で発生した。直径300~400キロほどの、比較的かぎられた範囲でのことだ。 

メソポタミア(そういちの著書『一気にわかる世界史』より)

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そのなかでウルクは、最古でかつ最大級の都市だった。紀元前3300~3200年(5300~5200年前)頃のウルクの面積は100ヘクタールほどで、人口は1~2万人と推定される。1ヘクタールは100m×100mである。東京ドームは4.7ヘクタールで100ヘクタールはその21倍にあたる。

その後、紀元前3100年(5100年前)頃にはウルクの面積は250ヘクタールほどになった。この当時のウルクには3~5万人が住んでいたと考えられる。土を乾燥してつくったレンガ(日干しレンガ)による建物が立ち並び、同様のレンガによる城壁(都市壁)に囲まれていた。「250ヘクタール」は、城壁の内側の面積である。

その後ウルクの面積は、紀元前2900~2700年(4900~4700年前)頃には600ヘクタールに達し、全長9.5キロメートルの城壁に囲まれていた。推定人口は6万~12万人である。


ウルクの都市計画

ウルクはまだほんの一部しか発掘されていないので、くわしい全体像はわかっていない。 ただし、メソポタミアのいくつかの都市遺跡の発掘から、5000~4000年前のシュメール人の都市の一般的な様子は、ある程度わかっている。

都市の中心的な区域には神殿(と思われる建造物)があり、大規模な都市ではその頂点の高さは数十メートルに達した。市街地の建物は平屋がほとんどだった。住居はランダムな建て方で、びっしりと並んでいる。

ただし、都市全体をみると、メインの街路や「神殿」や食料庫などの公共の建造物については、一定の都市計画に基づく配置がみられる。街区のおおまかな区分には計画性があるが、街区内では自然発生的に建物が密集しているのである。住宅が立ち並ぶ居住区と、陶器や金属器などをつくる工房が集まる区域を区分する、ということもみられる。


「都市国家」としてのウルク

このような都市のあり方は、王にあたる権力者や、その支配を支える官僚のような専門家が存在していたことをうかがわせる。そして、当時の文書(粘土板文書)をみると、多くは行政的な記録で、「王」にあたる語や、公共的な組織におけるさまざまな職業・役割を列挙した文書も登場する。

紀元前3000年(5000年前)頃にウルクで制作された「ウルクの大杯」といわれる遺物がある。石灰岩でできた高さ1.1メートルの大型の器で、神殿への貢納品だったとみられる。そこには、明らかに支配者とわかる人物――立派な衣服を身に着け、衣服の一部を従者にもたせている男性の姿が描かれている。

「ウルクの大杯」は、そこに国家といえるものが成立していたことを伝えているのである。

文明の始まりの時代のメソポタミアでは、ウルクのようなひとつの都市を核とするかぎられた地域が、国家の範囲だった。「都市国家」といわれるものだ。のちの時代のように広い領域を支配する国家は、まだ存在しない。

ウルクの住民の大多数は、農業に従事していた。権力者の指揮に従って、ウルクの城壁の外に広がる耕地を耕し、ムギ類などの作物をつくっていた。一方で、陶器や金属器の生産や商業活動などを専門的に行う人びともいた。

 

西アジアという地域

なお、メソポタミアとその周辺の地域――シリア・パレスティナ、アナトリア(今のトルコ)、エジプトとその西側の北アフリカ、今のイランにあたる地域、アラビア半島など――を合わせて「西アジア」という。

これは、世界史における地域区分でそのように呼ぶのである。北アフリカの一部も、政治・経済、文化の面でつながりが強いので、この地域に含めることが多い。紀元前の西アジアを「古代オリエント」ということもある。

また、とくに近現代において「中東」「アラブ」と呼ばれる地域は「西アジア」と、ほぼ近い範囲を指す。とくに「中東」はそうである。「アラブ」にはアナトリア(トルコ)やイランは含まないことも多い。地域区分にもいろいろな主張があり、唯一の決定的なものはない。

 

シュメール人の発見

紀元前の西アジアで栄えた民族のうち、シュメール人のことは長いあいだ忘れられていた。紀元前の西アジアを舞台とする「旧約聖書」にも、その名前は登場しない。シュメール人の遺跡がはじめて本格的に調査されたのは、1870年代のフランス隊によるラガシュという都市の発掘からである。

その後研究が進み、それまでに知られていたどの文明よりも古いことがわかった。1900年頃~1920年代には、シュメールのおもな都市であるニップル、ウル、ウルクの発掘が欧米の調査隊によって行われた。

なお、シュメール(シュメル)というのは、もともとは、シュメール人よりも遅れてメソポタミアで台頭したアッカド人という人びとによる呼称である。地名としては、シュメールはメソポタミア南部をさす。その地域は、シュメール人自身の言葉では「キエンギ」というので、キエンギ人といってもよさそうだが、そうはいわない。

そして、シュメール人がメソポタミアにいつやってきたのか、どこからやってきたのかなど、シュメール人のルーツに関することは、わかっていないのである。

 

ウルクは最古の都市か? メソポタミア北部のテル・ブラク

「最古の都市はどこか」については、いくつかの説がある。しかし、「ほとんどの専門家が都市として認める」遺跡として、ウルクは最も古いものだ。ほかの遺跡では、そこまでの意見の一致はない。


また、その後の西アジアの文明にきわめて大きな影響をあたえたという点で、元祖的な存在である。世界最古の文字はウルクで生まれた。

ウルクの文字が本当に「最古」かどうかについても、議論がないわけではない。しかし、ウルクで発達した文字のシステムは、のちに西アジア全域へ広がっていった。ウルクで開花したものが後世に多大な影響をあたえたという点で、ウルクが重要な起点であることはまちがいない。

これは文字にかぎらず、さまざまな技術や文化についていえることだ。つまり、シュメール人の都市が最古であるかどうかはともかく、世界史上の画期的な節目であることは確かなのである。

このあたりは、やや歯切れが悪い。近年の研究では、「文明の歴史はシュメールから始まる」という従来の通説に反対する立場も、力を持っているからだ。

それは、シュメール人の都市が生まれたメソポタミア南部ではなくメソポタミア北部で、数百年~1000年ほど早く(紀元前4200年頃には)数千~1万人規模の都市が生まれていた、というものである。

メソポタミア北部のテル・ブラクという大集落もしくは都市の遺跡について調査が進んだ結果、そうした見解がでてきた。こちらが「最古の都市」ではないか、ということだ。テル・ブラクは、シュメール人とは別の人びとによってつくられたようだ。なお、テル・ブラクというのは現在の呼び方であり、この都市が当時どう呼ばれていたのかはわからない。

メソポタミア北部が都市の発達で先行していたとすれば、メソポタミア南部のシュメールの都市は、北部の影響を受けたと考えられる。ただしそこはまだ明らかではない。

 

チャタル・ヒュユク遺跡

また、テル・ブラク以上に古い「都市」として、トルコ(アナトリア南東部)のチャタル・ヒュユク遺跡も近年注目されている(チャタル・フユク、チャタル・フユックとも)

この遺跡は、1960年代に発掘が始まったが数年で中断し、1990年代に調査が再開された。紀元前6850~6300年(8800~8300年前)頃には、卵型の長径500メートル・短径300メートルほどの主要エリアに住宅などが密集し、ピーク時には数千人規模になっていた。しかし、紀元前6000年頃には人が住まなくなっている。

チャタル・ヒュユクの住居は地下室になっており、一定の区画ごとに壁画や装飾を備えた公共施設(宗教的なもの?)と思われる部屋があった。

チャタル・ヒュユクで一定の「都市」が生まれたのだとしても、その伝統は順調に発展することはなく、途絶えてしまったようだ。発展が続いたならば、ウルクのような数万人規模の都市がもっと早く生まれていたはずだが、そうはならなかった。

また、埋葬された人びとの墓や副葬品などをみると、大きな格差はみられない。王宮のような、権力者の住居とはっきりわかる建物も発見されていない。「都市」「文明」としては未発達の面がある。

このように近年は、シュメール以前の「都市」も注目されている。今後の研究で、シュメール以前の古い都市の存在がさらに明らかになるかもしれない。

しかし、シュメールの都市は先行するメソポタミア北部、あるいはチャタル・ヒュユクをはるかに超える発展を遂げ、後世に多大な影響をあたえた。「数万人」という規模の都市は、ウルクが初めてだった。その事実が揺らぐことはないだろう。シュメール人の都市は、その後の西アジアの多くの文明にとって直接の源流となったのである。

 

人口の推定方法

ウルクの人口を知る直接の手がかりとなる記録や文書はない。そこで、考古学者の多くは発掘調査でわかった遺跡の面積(建物が密集している範囲)に、「面積あたりの人口密度」をかけるという方法で人口を推定している。

数千年前の集落については、人類学者のあいだで「1ヘクタールあたり100人程度(125人)」として計算する方法がある。たとえば、「面積250ヘクタールのうち、8割の200ヘクタールが実質的な居住面積」としたうえで、「200×100人=2万人」といった計算を行うのである。 また、「1ヘクタールあたり250人」という説もある。

本記事では、「0.8」をかけるのを省略し、また数字に幅をもたせて「1ヘクタールあたり100~200人」として話をすすめている。ここでの議論では、その精度で問題はない。

そして、1ヘクタールあたり300人、もしくはそれ以上という見解もあり、これはシリアのダマスカスなど現在の西アジアの都市の人口密度(1ヘクタールあたり400人)に近い。「100~200人」というのは、控えめなほうの推定である。

 

ほかの地域の都市

ウルクのような数万人という人口を持つ都市は、5000年前頃のメソポタミアが先駆けである。ほかには、メソポタミアに次いで古くから文明が栄えたエジプトで、紀元前3100年(5100年前)頃には本格的な都市ができた。

また当時、メソポタミア周辺のほかの西アジアの地域(シリア、今のイランなど)にも都市はあったが、ウルクにくらべれば小規模だった。

メソポタミアからさらに遠く離れた地域では、本格的な都市が生まれるのは、後の時代のことである。インド西部の「インダス文明」の中心であった、ハラッパーやモヘンジョダロなどの都市が繁栄したのは紀元前2600年(4600年前)頃からのことだ。モヘンジョダロは130ヘクタールの規模である。 中国の「黄河文明」は、さらに後の、紀元前2000年(4000年前)頃以降である。

 

農村から都市へ

最古の都市、少なくとも「最初の数万人規模の都市」だった、メソポタミアのウルク。その紀元前3300~3200年(5300~5200年前)頃の面積は100ヘクタールで、推定人口は1~2万人。

そして、紀元前2900~2700年(4900~4700年前)頃には600ヘクタール、人口6万~12万人。

では、ここから2000年ほどさかのぼって、紀元前5000年(7000年前)頃の「最大の集落(都市)」の規模は、どのくらいだったのだろうか?

紀元前5000年頃には、世界のどこにもウルクのような本格的な都市はない。ただし、チャタル・ヒュユクという数千人規模の集落あるいは都市があったわけだが、同様の規模のものがあとに続いていくつもできて、さらに発展したということではない。

紀元前5000年頃の西アジアで最も大規模な集落の面積は10~20ヘクタール規模である。その推定人口は、これまで行ってきた方法によれば1000~4000人(推定に大きな幅があるが、仕方ない)。そのような農耕集落があったのはメソポタミアではなく、おもに今のシリア、レバノンなどの一画(レヴァント地方)や、今のトルコにあたるアナトリアの東南部のことだった。

それらは、「都市」と「村」の中間のようなものだったといえる。このような10ヘクタール級の大規模集落は、すでに紀元前7500~7000年(9500~9000年前)頃の時期に出現していた。

西アジアにおける定住生活の開始は、紀元前1万年(1万2000年前)頃の時期である。このときはまだ狩猟・採集が中心の暮らしである。原始的な農耕も行われていたが、かぎられていた。

本格的な農耕の時代は、紀元前8000年(1万年前)頃の前後に始まり、それから定住生活も本格化した。農耕の開始から数百年~1000年ほどの比較的短期間のうちに、先端的な地域ではかなり大きな集落が生まれたことになる。

そして、その後は長いあいだ「10ヘクタール級」が、集落の規模の最大値だった。さらに、紀元前4200年(6200年前)頃にはメソポタミア北部で、テル・ブラクのようなより大きな集落または都市が生まれた。

そして紀元前3500~3300年(5500~3300年前)頃には、メソポタミア南部でウルクという都市が生まれた、ということである。その大規模化が始まったのは、紀元前4000年(6000年前)頃のことである。 その1000年ほどの間に人口数千人の集落が最大だった状態から、数万人の都市が出現するまでになった。

これは、かなり急速な発展だったといえる。少なくとも、紀元前の遠い過去についての一般的なイメージとは異なる発展のスピードである。数千年前の時代にも、そのようなことがあったのだ。

 

参考文献

ウルクや同時代の都市の様子、都市の定義をめぐる議論については、おもに下記を参考にした。

①小泉龍人『都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る』講談社、2016年 

都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る (講談社選書メチエ)

都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る (講談社選書メチエ)

 

 ②大津忠彦・常木晃・西秋良宏『西アジアの考古学』同成社、1997年 

西アジアの考古学 (世界の考古学)

西アジアの考古学 (世界の考古学)

 

 ③中田一郎『メソポタミア文明入門』岩波ジュニア新書、2007年 

メソポタミア文明入門 (岩波ジュニア新書)

メソポタミア文明入門 (岩波ジュニア新書)

 

 

シュメール人の発見、「都市国家」ウルクについて

④前田徹『初期メソポタミア史の研究』早稲田大学出版部、2017年 

初期メソポタミア史の研究 (早稲田大学学術叢書)

初期メソポタミア史の研究 (早稲田大学学術叢書)

 

 テル・ブラク、「農村から都市へ」の発展について

⑤常木晃「都市文明へ」『西アジア文明学への招待』筑波大学西アジア文明センター編、悠書館、2014年 

西アジア文明学への招待

西アジア文明学への招待

 

 チャタル・ヒュユクについて

⑥マイケル・ローフ『図説 世界文化地理大百科 古代のメソポタミア』朝倉書店、1994年 

古代のメソポタミア (図説 世界文化地理大百科)

古代のメソポタミア (図説 世界文化地理大百科)

 

ウルクにおける文字の誕生については、つぎの本ブログの記事を。

 (以 上)