そういち総研

世界史をベースに社会の知識をお届け。

古代ギリシアの文明は、西アジア(古代オリエント)の影響を受けて成立した

古代ギリシアのポリスは、紀元前500年頃から本格的な繁栄がはじまり、科学・哲学、すぐれた芸術・文芸、民主主義などの遺産を残した。ギリシアの文化はきわめて画期的だったので、ギリシア人が独創的にそれらを生み出したと一般には考えられがちだ。しかし、近年の歴史の研究では、古代ギリシアが先行する西アジアに学びながら、自分たちの文明を築いたことがわかっている。古代ギリシア人でさえ、模倣からスタートしたのである。

 

目 次

 

トップページ・このブログについて 

blog.souichisouken.com

   

ギリシアは西アジアのとなり

ギリシアとは、ヨーロッパの南東部のバルカン半島の南端の地域である。それが「ギリシア本土」といわれ、アテネやスパルタなどのおもな都市国家がある。ギリシア本土からみて東側のエーゲ海を渡った先にはアナトリア(今のトルコ)があり、西側の海(地中海)を渡った先にはイタリア半島の南端部がある。地中海を南にすすめばエジプトであり、東にすすめばシリアにたどりつく。つまり、ギリシアは西アジアの各地に隣接しているのである。

ギリシアは、メソポタミアなどの西アジアの中心的な地域にくらべると、文明の発展は遅れた。

西アジアとは、今のイラク・イラン・シリア・トルコ・エジプトなどの地域で、世界で最も古くから文明が栄えた場所である。今のイラク・シリアにあたるメソポタミアでは、紀元前3500年前頃に「最古」とされる都市文明がおこった。これは、シュメール人という人びとによるものだ。紀元前3100年頃にはエジプトの王国が栄えるようになった。最古の文字や、最初の実用的な金属器である青銅器は、西アジアではじめて生み出され、発展したのである。

紀元前2000年頃までには、西アジアの各地でさまざまな民族が国家を築くようになり、たがいに影響しあう「国際社会」を形成した。当時の世界で、そのように文明が発達した地域は西アジアだけだった。これに対し、ギリシアは周辺的な後進地域だったのである。なお、紀元前の西アジアのことを「古代オリエント」ということもある。


ただし、ギリシアでも紀元前3000年頃のかなり早い時期に、エーゲ海(ギリシアとアナトリアの間の海)のキクラデス諸島やギリシア本土で青銅器の使用が始まっている。これは、西アジアから伝わったものだ。ただし、青銅器の使用は限定的で、本格な都市も未発達だった。また、この時期にオリーブとブドウの栽培もはじまった。

古代ギリシア(そういちの著書『一気にわかる世界史』より)

f:id:souichisan:20180902170523j:plain


クレタ文明

その後、紀元前2000年頃には都市を中心とする国家が形成され、ギリシアは(その一部が)本格的な文明の段階に入った。

その文明の中心として栄えたのは、ギリシア本土の南端の先にある、地中海のクレタ島という島だった。この文明は、クレタ文明あるいはミノス(ミノア)文明といわれる。ミノスは、クレタ島の王国を築いた伝説の王の名である。クレタ島の遺構では、複雑な間取り・構造のため「迷宮」といわれるクノッソス宮殿が有名である。

クレタ文明では独自の文字(線文字Aといわれる)が生み出された。線文字Aは未解読であり、クレタ人の民族系統はわかっていない。

クレタ人はアナトリアのほか、シリア・パレスチナ、メソポタミア、エジプトといった西アジアの各地と交易などで接触を持った。銅や錫などの金属にかかわる交易は、とくに重要だった。

紀元前2000年頃にはエジプト側の文書に、クレタ人のことがはじめてあらわれるようになる。エジプトには、クレタ文明との関係を示す証拠がいくつか残っている。たとえば紀元前1500年頃にエジプト王が描かせた宮殿の壁画は、クレタからやってきた職人集団によるものだった。この壁画は1990年代に、ナイルデルタ南東部のアヴァリスの遺跡で発見されたもので、フレスコ画(生乾きの漆喰に描いたもの)の一種である。


ミケーネ文明

紀元前1500年頃からクレタ文明は徐々に衰退しはじめた。その原因はよくわからない。一方、ギリシア本土の最南端のペロポネソス半島で、クレタ文明の影響を受けた新たな文明が繁栄するようになった。この文明をミケーネ文明という。

ミケーネ人は線文字Bという独自の文字を生みだした。線文字Bは解読済みで、ミケーネ人の言語が古代ギリシア語だったことがわかっている。なお、クレタ島のクノッソス宮殿には数多くの線文字Bの文書(粘土板)が残っているので、クレタ文明とミケーネ文明のあいだで交流があったことはまちがいない。

ミケーネ文明は、紀元前1300~1200年代に最盛期を迎えた。城壁に囲まれた都市や宮殿が各地に建設され、そうした遺跡が数百か所みつかっている。それらの多くは、小規模であっても独立した国家をつくっていたとみられる。

そしてミケーネの都市は、紀元前1500年~1200年頃の西アジアにおける国際社会の一画を占めていた。文明の中心からは遠く離れた周辺(あるいは辺境)だったが、西アジアの先進地帯と関係を持っていた。

ミケーネ人は、アナトリアの西岸、シリア、エジプトと交易を行った。それらの地域では、多くのミケーネ式土器が出土している。

また、紀元前1300年代のエジプト王・アメンホテプ3世の葬祭神殿(王を祀るための神殿)で出土した複数の彫像の台座には、クレタの都市や宮殿、エーゲ海の島々などの地名が刻まれていた。この地名の一覧を考古学者は「エーゲ海リスト」と呼び、重視している。これは、エジプトとギリシアのあいだで相当な交流があったということだ。
 

「暗黒時代」からポリスの時代へ

その後ミケーネ文明は、紀元前1100年代には急速に衰退していった。都市が放棄されるなど、各地の共同体が崩壊することが相次いだ。その原因や経緯はよくわかっていない。

1100年代からの300年余りの間、ギリシアは「暗黒時代」といわれる混乱に陥った。この時期に文字の文化も失われてしまうほど、大変な事態になっていたようだ。

一方で、この時期には鉄器が普及するなどの、大きな技術的進歩もあった。鉄器が最初に量産されたのはアナトリア(今のトルコ)だったが、それがアナトリア南部のキプロス島を経由して、紀元前1000年頃にギリシアに入ってきた。

また、「暗黒時代」の混乱期にギリシアの住民も大きく変化した。ミケーネ人にかわり、新たにギリシア本土に南下してきた人びと(ドーリス人など)が有力になっていった。新しくやってきたドーリス人も、ミケーネ人と基本的には同じ言語、つまり古代ギリシア語を話す人たちである。

ミケーネ人の多くは、ギリシア東部やアナトリアの西岸(イオニア地方)に移住していった。ドーリス人は、ギリシア本土の南部やクレタ島などのエーゲ海南部に多く住むようになった。

なお、かつてはミケーネ人の国家が滅びた原因を「ドーリア人の侵入」によるとする説も有力だったが、今は下火である。そして、ミケーネ文明とそれ以降のギリシアのあいだの連続性を重視する見方が有力になっている。

ギリシアでは紀元前700年代に「ポリス」といわれる、都市を中心とする国――都市国家が数多く成立した。その中心はギリシア本土だったが、やや遅れてアナトリア西岸やイタリア半島南部(マグナ・グラエキアという)などの周辺部にも、ギリシア本土などからの移住者による「植民市」のポリスがつくられた。何百というポリスが成立し、それぞれは政治的に独立していたが、ギリシア語などの文化を共有していた。

フェニキア人との交流

そして、フェニキア人という人びとの文字を参考にして、紀元前800年頃には新たな文字もつくられた。古代ギリシア文字である。この文字は、のちのヨーロッパのアルファベットの原型となった。


フェニキア人は紀元前1100年頃から有力となった、シリアのシドンやティルスという都市を拠点とする民族で、地中海を舞台に交易をさかんに行った。また、北アフリカやスペインなどの地中海西部にも進出して、植民市をつくった。その中心は、今のチェニジアの首都チュニスの近くにあった、カルタゴという都市だった

地中海のエリアを東西で区分することがある。その場合、ギリシア本土の西側のアドリア海が東西の境目になる。アドリア海の西側にあるイタリア半島やさらに西のイベリア半島、北アフリカのカルタゴは、「西地中海」に属する。ギリシア、シリア、エジプトなどは「東地中海」のエリアである。西地中海の発展は、東地中海にくらべて遅れた。

フェニキア人は西アジアの文明を、ギリシアや西地中海などの広い範囲に伝えたのだった。そして、ギリシア人はフェニキア人と接して影響を受けた。ギリシア各地で、紀元前900年頃~800年代の、フェニキア人との接触を示す遺物(青銅の器、装飾品など)がみつかっている。

また、前900年頃のクレタ島で、フェニキア人の職人(金細工師)が長期滞在していたとみられる痕跡もみつかっている。このように職人が西アジアからギリシアに移住して技術を伝えることは一般に行われていたと、一部の学者はみている。また、紀元前800~600年頃にギリシア人が、シリアの都市(アル・ミナ遺跡など)に、少数派ではあるが住んでいたこともわかっている。

 

ポリス形成期の、エジプトとの関係

ポリスの時代になってからギリシアは安定し、繁栄に向かっていった。多くのポリスが形成された時期(紀元前700~600年代)には、ギリシア人はとくにエジプトから、発達した学問や芸術を取り入れるなどの影響を受けた

たとえば、紀元前600年頃、ギリシア哲学の祖といわれるタレスはエジプトで学んでいる。ギリシア史で有名な「ソロンの改革」(紀元前600年頃)を指導した、アテネの政治家ソロンも、エジプトで法律学などを学んだことがある。

また、紀元前700~600年代のエジプトでは、ギリシア人を傭兵(金銭で雇う兵士)とすることが一般的に行われた。当時のエジプトには、ギリシア人傭兵がまとまって居住する駐留地のようなものあった。やがて、ギリシア人はエジプト人と交易をはじめた。ギリシア特産のオリーブ油やワインなどを輸出し、エジプトからは豊富にとれる穀物などを輸入するようになった。

 

「ギリシア人は特別」という偏見

ここで強調しておきたいのは、古代ギリシアの文明が西アジアと深く交流しながら成立したということだ。予備知識の少ない人にとっては、それはとくに抵抗のない話だろう。ギリシアは、先行して文明が栄えた西アジアの周辺に位置するのである。

ところが、古典的な教養を持つ欧米人やその影響を受けた人びと(以下、単に欧米人という)にとっては「西アジアの影響によるギリシア文明の成立」という説は、受け入れにくいのである。

従来の欧米人の教養では「ギリシア人はすばらしい文明を独力で築き上げた」と考えられてきた。隣接する西アジアとの関係については無視するか、ごく限定的にしか評価しない。欧米人にとって古代ギリシア文明は、他とは異質な・特別なものなのである。そのような考え方は、ルネサンス(中心地イタリアでは1300~1500年代)以降に一般的になった。

1800年代後半に主張された「アーリア人仮説」は、ギリシアを特別視する見解の典型である。言語学の成果などをもとに、アーリア人という印欧語族(あとで説明)の祖先となる特定の集団を想定し、その集団がギリシアにやってきて古代ギリシア文明を独力で築いた、というのである。今のヨーロッパ諸国とインドの一部の言語などをまとめて印欧語(インド・ヨーロッパ諸語)といい、その言語を話す諸民族をまとめて「印欧語族」という。

要するに、「アーリア人」という特別な輝かしい民族がいて、それが古代ギリシアの文明を築き、その後継者が今のヨーロッパ人(とくに西欧人)だというのである。

ここでいう古代ギリシア文明は、ポリスの時代以降のものをさす。ミケーネ文明やクレタ文明は別物だと考える。

以上のような古代ギリシアを特別視するストーリーは、現代の学問ではとても支持できない。先行する文明から学ぶことなく、オリジナルな素晴らしい文明を生み出した民族など、存在しない

「最古」の都市文明を築いたシュメール人にしても、先行する新石器文化であるウバイド文化などの影響を受けている。そして、シュメール以後に西アジアで繁栄した民族で、シュメールの遺産と無関係なケースはない。古代エジプト人も、シュメール人から影響を受けている。紀元前の西アジアの諸民族が使った文字は、どれもシュメール人やエジプト人による文字か、それを参考にしてつくったものだ。

 

バナールの『黒いアテナ』

それでもギリシア人は特別だというのなら、それは偏見によるものだ。そして、欧米人のあいだではその偏見は力を持っている。ただし、近年は一部の専門家・知識人が認識を変えるようにはなった。

1980年代に歴史学者マーティン・バナールは『黒いアテナ(ブラック・アテナ)』という本を出版した。同書のサブタイトルは「古代ギリシア文明のアジア・アフリカ的ルーツ」であり、古代ギリシア文明がエジプトを含む西アジアの強い影響を受けて成立したことを論じている。そのような論を全面展開した先駆けである。

出版当時、この本は大きな反響を呼んだ。「ギリシアは特別」と信じる欧米のインテリにとって、ショッキングな内容だったのだ。そして、さまざまな批判を浴びた。バナールの説には証拠のあつかいや論の立て方に問題があったともいわれる。しかし、「古代ギリシアが西アジアから多くを学んだ」という大筋においては、バナールは正しかった。その後の研究や議論が、それを明らかにしていった。

私たちは、歴史の教養でおなじみのさまざまな民族や人物に対し、一定のイメ―ジや感情をを抱くものだ。なかでも、古代ギリシア人は最も古い時代のスター的存在であり、それにたいしては、特別視する強力な偏見が作用してきたのである。

 

ポリスの繁栄のはじまり

ギリシアは、夏は晴天が続くが、冬は比較的雨が降る穏やかな気候である。ギリシア人はそこでオリーブやブドウやコムギなどを栽培した。しかし、岩地が多く耕地面積がかぎられるため、コムギなどの穀物の生産では限界があった。

そこでギリシア人は、オリーブ油やワインを輸出してコムギなどを輸入した。そこから、ギリシアのポリスの本格的な繁栄がはじまった。オリーブやワインの輸送は船で行われ、ポリスの多くは沿岸部にあった。ギリシア人は、貿易が国を支える商業民族であり、海を舞台に活躍する海洋民族だった。

ギリシア人の活動範囲は、シリア、エジプトなどの西アジアの地中海沿岸部、エーゲ海に面したアナトリア(イオニア地方)のほか、地中海の西側のイタリア半島やイベリア半島(今のスペイン)、北アフリカの地中海沿岸部にまでおよんだ。

 

ペルシア戦争の勝利

ギリシアのポリスが繁栄期に入ろうとしていた紀元前500年代、西アジアではアケメネス朝ペルシアという巨大な国が成立した。西アジアのおもな範囲の全体を束ねる大帝国である。ギリシアのすぐとなりに、そのような超大国が出現したのである。アケメネス朝の「大王」であるダレイオス1世は、ギリシア人の領域にも勢力を伸ばそうとした。

その結果、紀元前499年から20年ほどの間に、ギリシア人とアケメネス朝の間で、大きな戦争が3次にわたってくりかえされた。ペルシア戦争である。ギリシアのポリスはアテネやスパルタを中心として結束し、アケメネス朝と戦った。そして、苦戦の末にいくつかの合戦や海戦で勝利した。マラトンの戦い、サラミスの海戦、プラテイアの戦いなどは名高い。ギリシアは、アケメネス朝を征服したわけではないが、撃退することに成功した。

大帝国のアケメネス朝をギリシア人が撃退したことは、当時の常識では予想外のことだった。そして、ギリシアの勝利の背景には、民主主義の発達ということがあった

 

ギリシアの民主主義

そもそも民主主義とは何か。民主主義とは国家の政治的な意思決定に、それに従う国家の多数の人間が参加できることである。それには、独裁的な権力を否定し、国家を構成する人びとのあいだの平等を認めることが前提となる。

民主主義に対置されるのは「独裁」である。「独裁」は政治学的な用語で「専制」ともいう。なお、独裁・専制には、1人の君主が圧倒的な権力を持つ君主独裁と、少数の特権的集団による独裁(寡頭政という)とがある。

ギリシアのポリスのなかで、民主主義が最も発達したのがアテネである。アテネでは紀元前508年のクレイステネスというリーダーが主導した改革で、徹底した平等主義の制度をほぼ完成させていた。

たとえば、アルコン職というポリスのトップを市民のあいだのくじ引きで決める制度である。あるいは、独裁者になろうとする危険人物を市民の投票によって追放するといった制度も設けられた。その投票では、陶器のかけらに追放すべき人物の名前を記したので「陶片追放」という。

そして、一種の議会制度もクレイステネスの改革で整備された。アテネの最高決定機関としては市民全員が参加できる「民会」が伝統になっていたが、すでに10万人単位の総人口だったアテネでは、そのような全員参加の機関は日常的には機能しにくい。そこで、人口などを目安にいくつかの行政区を置き、その行政区から選出された市民の代表によって構成される「五百人評議会」を新設し、民会を実務的に補佐することとした。

なお、「市民」としての参政権は、女性や奴隷にはあたえられなかった。古代ギリシアにおける市民とは、原則として槍や甲冑などの装備を自前で用意して、戦争に参加できる人びとだった。装備には費用がかかるので、それなりの経済力がないと市民としての義務は果たせない。

ただし、ペルシア戦争の際には、自前の武器や装備を持てない貧しい市民も、軍艦の漕ぎ手などで活躍した。当時の軍艦は数多くのオールを漕いで進むタイプのものだった。

権力の集中を排除する平等主義は、ポリス全体の結束力を高め、ペルシア戦争での勝利を後押しする要因となったはずである。つまり、巨大な敵に対して、国家の全員が一丸となって必死に戦ったのだ。

 

新しいタイプの国家

ギリシア人は民主主義的な制度を整え、社会の結束を実現した。これは、かつてない新しいタイプの国家だった。それまでの世界におけるおもな文明国は、すべて国王の独裁・専制を原理としていた。

アケメネス朝ペルシアも、まさに皇帝専制の国家だった。多数派の人びとが政治的な意思決定に参加することなど、考えられなかった。そのような体制だったアケメネス朝の軍勢には、ギリシアのような結束や必死さはなかった。ミケーネ人の国家も、国王を頂点とする専制的な体制だった。

全員参加型の民主主義は、未開の部族の小規模なコミュニティではめずらしくない。文明以前の社会、たとえば新石器文化の集落ではメンバーのあいだの格差は比較的小さく、絶対的な権力も成立していないのがふつうだ。しかし、文明化して大規模な共同体(国家)を築くと、独裁・専制の体制になるのが一般的である。古代ギリシア以前の西アジアのおもな国家は、すべてそうだった。

ところがギリシアのポリスの場合には、かなりの規模の文明国でありながら、民主主義の体制が発達した。「文明国なのに民主主義」という、同時代の基準でみれば特異な体制を実現したのだった。そして、民主主義を運営するための、手の込んだ組織や制度を築いたことも画期的だった。

ギリシアで民主主義が発展したのはなぜか?これといった定説はない。そのような原因論は、答えをみつけるのがむずかしく、ここでは立ち入らない。ただ、ギリシアの民主主義が同時代の国家とくらべ特異だったことを、確認しておく。

ペルシア戦争の結果、ギリシアのポリスは当時の国際社会(地中海全域と西アジア)において、「列強」といえる地位を得た。なにしろ、あのアケメネス朝に勝ったのである。ペルシア戦争以後、アテネの主導のもとでギリシアのポリスの黄金時代が始まった。 

 

ギリシア人が生み出した文化

ポリスが最も繁栄した紀元前400~300年代のギリシア人は、これまで世界のどこにもなかった、発達した文化を生み出した。


その代表的なものに、学問(哲学や科学)がある。それまでの西アジアにも相当に発達した学問はあり、ギリシア人はそれにおおいに学んだ。しかしギリシア人の学問はそれをはるかに上まわる論理性や系統性を持っていた

古代ギリシアを代表する学者である、紀元前400年頃から300年代のプラトンやアリストテレスは、現代の書籍に換算して数千~1万ページに相当する著作を残している。しかもこれは「現代にまで残っているもの」に限っての分量であり、失われた文書も多くあった。アリストテレスは、論理学・政治学・経済学・心理学・力学・天文学・気象学・生物学・生理学等々、きわめて幅広い分野について研究を行った。そんな学者が、今から2300年余り前のギリシアにいたのである。

学問だけではなく、演劇や詩などの文芸や、彫刻などの美術においても、ギリシア人は後世に大きな影響をあたえた。ルネサンス(おもに1300~1500年代)のヨーロッパで文人や芸術家が、偉大な古典としてあがめた作品が生み出されたのである。またギリシア人は演劇が好きで、どのポリスにも野外型の劇場がつくられ、さまざまな作品が上演された。

そして古代ギリシアの彫刻は、かつてない新しい文化が生まれたことを、視覚的にわかりやすく示している。あのように写実的に生き生きと人間を描いた彫刻は、西アジアにはなかったものだ。


ただし、そのようなすぐれた彫刻も、ギリシア人が何もないところから生み出したものではない。それは紀元前600~500年代の、ギリシア彫刻の初期にあたる「アルカイック期」の作品をみればわかる。アルカイック期に多くつくられたクロース像(“青年像”の意)というギリシア彫刻は、エジプトの影響が明らかである。予備知識のない人がみれば「これがギリシア彫刻?」と思うはずだ。私たちが一般にイメージするギリシア彫刻は、紀元前400年代の「古典期」以降のものだ。

ギリシア人は、彫刻についても西アジアから基礎を学んだ。そしてそこから独自のものを発展させていった。さまざまな領域で、それを行ったのである。

パピルスの使用と読み書きの普及

ところで、当時のギリシアでは、文書はおもにパピルスに書かれた。パピルスは「パピルス草」という水草を薄く切ってタテヨコに貼り合わせてつくる。紙に似ているが、紙よりはかさばるし、折ったり綴じたりするための丈夫さが足りない。そこで、まとまった文書は巻物にした。

パピルス草はエジプトとその周辺でしか育たないため、パピルスはエジプトの特産品だった。ギリシア人はこれを大量に輸入して、エジプト人以上に大量に用いた。

紀元前500~400年代以降のギリシアでは、書籍の出版や販売も行われていた。文芸、実用、学術などさまざまな分野の本が出版された。どれもパピルスの巻物である。印刷の技術はまだなかったので、手書きで原稿を写し取った「写本」だった。そのような写本をつくる工房や書籍商が存在した。

ということは、それらの本を読むことができる人びとが、ある程度まとまった層として、当時のギリシアには存在していたということである。ただし、当時のギリシアの具体的な識字率はわからない。

しかし、少なくとも特権的な恵まれた人びとのあいだでは、読み書きはあたりまえになっていた。ギリシア以前の西アジアでは、読み書きは専門家の特殊技能であり、国王などの権力者ができないことも多かった。古代ギリシアでは、かつてないレベルで読み書きが普及したのである。

 

西アジアのさまざまな遺産に学ぶ

ギリシア人が西アジアに影響を受けながらも、それを大きく超える文化を生み出せたのはなぜか?これも明確な説明はむずかしい。しかし、台頭しつつあった頃のギリシアが、西アジアのさまざまな遺産を包括的に学び取ったことは、重要だったはずだ。

ギリシア人は、最も近くにあるアナトリアからも、やや離れたシリアからもエジプトからも直接的に学んだ。なお、シリアはメソポタミアの影響を強く受けているので、シリア経由でメソポタミアからも学んだといえる。

たとえば、青銅器や鉄器はアナトリアからやってきた。ギリシアではコインがさかんに用いられたが、コインもアナトリアからのものだ。世界最初のコインは、アナトリアで生まれた。シリアのフェニキア人からは文字や航海や商工業を学んだ。エジプトからは高度の学問や芸術を学んだ。傭兵として軍事や国家の組織も学んだことだろう。等身大を超える大型の青銅像の製造技術は、エジプトから伝わった。ギリシアの神殿建築は、エジプトの神殿から影響を受けている。


そのように西アジアの遺産のさまざまな側面を学ぶことが可能な位置に、ギリシアはあった。そして、商人や傭兵や留学生として西アジアの各地に行くなどして、先行する文明を吸収したのである。

一般にきわめて創造的だとされる古代ギリシア人でさえ、こうなのだ。世界史上のほかの有力な民族も、同じことだろう。つまり、まったくオリジナルの文明などあり得ないのだ。

古代ギリシア関連の記事 民主主義や文化などの個別テーマを掘り下げたもの。 

  

 
西アジアで生まれた最も初期の文明(メソポタミア文明)については、当ブログの次の記事を。 

 

参考文献

おもに以下を参考にした。どれも「古代ギリシアと西アジアの関係」「東地中海のなかでのギリシア」ということを主題としている。

①岡田奏介『東地中海のなかの古代ギリシア』山川出版社(世界史ブックレット)、2008年 

東地中海世界のなかの古代ギリシア (世界史リブレット)

東地中海世界のなかの古代ギリシア (世界史リブレット)

 

②周藤芳幸『古代ギリシア 地中海への展開』京都大学出版会、2006年 

古代ギリシア 地中海への展開―諸文明の起源〈7〉 (学術選書)

古代ギリシア 地中海への展開―諸文明の起源〈7〉 (学術選書)

 

 ③手嶋兼輔『ギリシア文明とはなにか』講談社、2010年

ギリシア文明とはなにか (講談社選書メチエ)

ギリシア文明とはなにか (講談社選書メチエ)

 

(以 上)