そういち総研

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図書館通いのフリーライター・ロンドンのマルクス

カール・マルクス(1818年5月5日~1883年3月14日)は、『共産党宣言』『資本論』などの膨大な著作で、後世に「マルクス主義」の教祖とされた思想家・経済学者である。今年2018年は生誕200年ということで、マルクスのことが取り上げられる機会が増えたようだ。この記事では、学説そのものよりも彼の学問への取り組みについて紹介する。それを知ると「なぜマルクスがあれだけの大きな影響を与えたのか」について、理解が深まるはずだ。また、「マルクスの理論に欠けていた点」のうち、一般にはあまり論じられていないことについても述べる。

 

目 次

 

 大英帝国の首都・ロンドンへ

マルクスの代表作は、『資本論』(第1巻1867年刊)という大著である。これを書いた頃のマルクスは、反体制活動で祖国ドイツを追われ、イギリスのロンドンにいた。1849年以降、マルクスは終生ロンドンで暮らした。そして、生涯にわたる盟友フリードリヒ・エンゲルス(1820~95)の経済的支援と学問的協力のもとで研究を行なったのである。

マルクスは、ロンドンにたどり着くまでに故郷のプロイセン(ドイツ東部)をふり出しに、ドイツ西部のボン、パリ、ベルギーのブリュッセルで暮らした。それらの各地で出版・言論活動を行い、ボン時代には大学教授をめざしたこともある。パリではエンゲルスと出会い、のちの1848年にはエンゲルスと共著で、代表作のひとつ『共産党宣言』を書いている。その後ドイツのケルンに戻ったが、政府に追放され、ロンドンにやってきたのである。

当時のロンドンは大英帝国の首都として、まさに「世界の中心」といえる都市である。1850年頃にはその人口は270万人に達し、当時の世界でダントツの規模だった。そして、世界の最先端をいく場所として、ほかのどの都市よりも、さまざまなものを受け入れる余地があった。だからこそ、祖国を追われた反体制の活動家も、暮らすことができたのだ。パリのときは、マルクスは当時の政権に追放されて、ブリュッセルに移っている。


貧乏暮らしと図書館通い

ロンドンのマルクスは、奥さんも子どももいるのに定職もなく、フリーライターの仕事やエンゲルスの支援などでなんとか暮らしていた。エンゲルスは、ドイツで紡績工場を経営する資産家の一族であり、かなりの経済力があった。マルクスにとって、アメリカの新聞『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』紙に時事問題などについて論説を書くことが、ほぼ唯一の定期的な収入源だった。

家財を質入れすることはしょっちゅうで、債権者が集金に来そうな日には、家族で知人の家に身を隠したりもした。

しかし、時間だけはあった。そして、ロンドン市内の大英図書館(大英博物館の図書室)に通い、経済や歴史の本をノートに抜き書きしながら読みあさったのである。

マルクスが、自宅の近所にある大英図書館へ頻繁に通いはじめたのは、1850年の6月からである。弁当を持って、朝9時から夜7時まで。図書館には予約制の読書室(机のある閲覧室)があり、普通は入手困難なその利用券を手に入れたのだった。

 

10年余りにおよぶ探究

図書館に通いはじめて最初の3か月、マルクスは経済専門誌『エコノミスト』のバックナンバーを熱心に読み、その後はさまざまな定期刊行物を読んでいった。

彼がめざしていたのは、従来の経済学を徹底的に批判したうえで、資本主義社会の根本的なしくみを明らかにすることだった。それを、当時の現代的な事象と歴史的な事実をふまえ、大哲学者ヘーゲル(1770~1831)の論理学を駆使しながら展開する。とにかく、きわめて野心的で大風呂敷なテーマだった。

ただし、若い頃のマルクスがおもに追及してきたのは、哲学や社会思想である。経済学の本格的な研究は、ロンドンではじめたことだった。だから、まずは『エコノミスト』あたりから読んで、専門家のあいだの「常識」を知ろうとしたのだろう。

また、大英図書館の読書室でマルクスは、『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』への原稿も書いた。そのなかには、1800年代のヨーロッパ情勢に関する傑作とされる著作もある(『フランスにおける階級闘争』『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』など)。

つまり、ふつうの物書きなら「代表作」といえるような作品だ。しかし、マルクスにとってはあくまで「バイト」であり、納得のいかないものだった。これらの仕事について、マルクスは周囲に「あいも変わらぬ下らない記事ばかりでいらいらする」ともらしている。彼がやりたかったのは、あくまで理論的な探究だった。

大英図書館通いを、マルクスは10年余り続けた。さまざまな本からの抜き書きは今の大学ノートで数百冊分にもなった。1867年に第1巻が出た『資本論』は、そんな勉強の成果だった。

 

貧乏なフリーライターが世界を動かす

彼の著作は、後世に影響を与えた。1900年代には、「マルクス主義」をかかげる革命が、ロシアなどさまざまな国でおこった。「貧乏なフリーライターが図書館通いをして書いた本が、世界を動かした」のである。

そんな本を書いたマルクスはたしかにすごい。一方で「図書館も、使い方しだいですごい道具になる」ということにも感心してしまう。

「マルクス主義」というものの評価はともかく、マルクスが後世に大きな刺激――それもきわめて大きな――を与える学問的著作を残したことはたしかだ。そういう仕事をするうえで、彼は長い時間をかけて、ぼう大なインプットや理論的探究をしているわけである。

これほどの時間やエネルギーを、ひとつの大きなテーマについやすことは、一般的な知識人にはほぼ不可能だ。大学教授なら、授業やその他の雑務がある。10年間毎日のように朝から晩まで図書館にこもることなど、考えられない。マルクスの権威や影響力の源泉には、圧倒的な勉強量ということがある。その迫力に、のちの多くのインテリたちが魅せられたのだ。

ただしあとでみるように、その迫力と、理論の正しさは別の問題である。

 

最新の「情報インフラ」を活用

そして、マルクスが通った大英博物館の図書室(大英図書館)は、当時の世界で最大の図書館だった。しかも本格的な図書館としてオープンしたのは1850年代のことで、マルクスの時代には最新の施設だった。単に新しい図書館というだけでなく、このような巨大な・よく整備された公共図書館というもの自体の先駆けである。当時の「世界の中心」といえる大英帝国の首都ならではの施設といえるだろう。

マルクスが図書館通いをしたのには、「ビンボーなので思うように本を買えないから」という面もあっただろう。しかしそれ以上にマルクスは、当時の最新鋭の「情報のインフラ」をフル活用していた、ともいえる。

才能ある思想家が、その時代なりに豊富な情報に触れ、その情報をトコトン利用し、徹底して時間をかけて材料を集め、自分の体系を構築していった。「才能×情報×時間」ということだ。これは、歴史的な書物が生まれるひとつの典型的なあり方だろう。

 

マルクス生誕200年

今年2018年は、マルクスの生誕200年ということで、マルクスを回顧する動きが世界各地であった。

『週刊東洋経済』(2018年6月2日号)に掲載されたカール・ビルト(元スウェーデン首相)のコラムによると、マルクスの生誕地であるドイツのトーリアでマルクス像が設置されたり、中国の祝賀式典で習近平主席がマルクスについて「抑圧や搾取のない理想社会への道筋を示した」と礼賛したりしているという。

また、ドイツの祝賀行事では、欧州委員会のユンケル委員長がマルクスを擁護して「自身が意図しなかったことに対して責任を負わされている」と発言したのだそうだ。

コラムの筆者・ビルトさんは、そのようなマルクス礼賛や擁護の発言をつよく批判している。それを要約すると、こうなる。

・共産主義国家による残虐行為はマルクス思想が歪曲されたせいだ、などど擁護したところで、マルクスの描いた未来構想の影響はやはり無視できない

・資本主義を否定した国がたどった末路と、資本主義を受け入れた国の発展をみれば、マルクス主義の失敗は明らか。そして、私有財産制を否定し、国家が経済をコントロールする社会からは、経済の活力だけでなく自由そのものが奪われてしまった

こうした見解は、現代では一般的なものだろう。私そういちも基本的にはその通りだと思う。

 

人間味がないから全体主義を生んだ?

マルクス主義をかかげる国はみな、抑圧的な全体主義国家となってしまった。それはなぜなのか?

「全体主義国家」とは、個人の自由を否定した、国家権力が無制限の独裁的な力を持つ国のことだ。かつてのソ連やそれに従属する東ヨーロッパ諸国は、まさにそうだった。

ビルトさんは、あるポーランドの哲学者(レシェフ・コワコフスキ)の主張を引用して、マルクスは生身の人間にまるで興味がなかった、マルクスの無機質な教義が全体主義へとつながっていった、という主旨のことを述べている。

《(コワコフスキいわく)「人間には生死がある。男もいれば女もいる。老いも若きもいれば、健康な者もそうでない者もいる。マルクス主義者はこうした事実をほぼ無視している」マルクスの無機質な教義に基づく政府が例外なく全体主義に向かったのはなぜか。その理由を、コワコフスキ氏の洞察は教えてくれている》(『週刊東洋経済』2018年6月2日号、72ページ)

これはちょっと……と私は思う。これは要するに「マルクスの思想は人間味がなく、だからその理論に基づく国は非人間的なものになった」という話だ。これはいくらなんでも、幼稚で単純すぎる感じがしないだろうか。

そしてそもそも、マルクスは「理論」を追求していた。理論には一般化・抽象化がともなうものだ。マルクスが人間をあつかうときに、議論が抽象的で無機質になってしまうこと自体は仕方のないことではないか。問題にすべきは「教義が無機質」などということではなく、理論としての内容のはずだ。

やはり、根本的なまちがいがあった

マルクスを礼賛する習近平の主張は、自分たちの共産党独裁を正当化するためのものだ。これは、世界の多数派の人には受け入れられないだろう。

「マルクス主義の失敗はマルクス自身のせいではない」という擁護論については、マルクス礼賛よりは支持者がいるかもしれないが、その数はかぎられるはずだ。

やはりマルクスの考えには、理論としての根本的なまちがいが含まれていたのである。

それは、マルクス主義をかかげた国家がどうなったかをみれば、明らかだ。マルクスの考えに大きなまちがいがないのに、それを受け継いだマルクス主義者があれだけの失敗をおかすなんて、ふつうは考えられない。でも、なぜかマルクス主義にかんしては「悪いのはマルクス主義者で、マルクス本人はまちがっていない」みたいなことが、たまにいわれる。

しかし、マルクスの何がどうまちがっていたのか正確につかんでおかないと、私たちはまた同じようなまちがいをくり返すのではないだろうか。社会主義国だけでなく、西側の先進国にも、マルクス主義の信奉者はおおぜいいたのである。

つまりこれから先、マルクス主義をかかげる国の失敗の記憶が薄れてしまえば、どうなるのか? 

そこに現代的な何か―ーたとえばエコ、共生、格差解消、インターネットのもたらす「解放」等々の新しい装いの「人間味」や「理想」の要素を取り入れた、21世紀バージョンの「マルクス主義」的な何かがあらわれたら? 「マルクス主義の国家は失敗したから」「マルクスの理論は人間味がないから」みたいな認識しかなかったら、また大きな失敗をするかもしれない。

「三権分立」論の欠如

おととし(2016年に)亡くなった政治学者の滝村隆一さんは、マルクス主義者として出発した人だったが、ソ連などの社会主義国家のひどい状況が広く認識されるようになった1970年代以降、「マルクスの何がまちがっていたのか」を解明しようとした。

滝村さんは、マルクスの残した政治理論・国家理論について再検討した。一方で、世界史におけるさまざまな国家についても研究を重ねている。

そして、滝村さんが達したひとつの結論は、「マルクスおよびマルクス主義には、三権分立についての議論が欠けている」ということだった。

立法府や行政府の行うことを、司法が憲法などに基づいてチェックするという国家の基本構造。それを絶対的に守るべきものと考える国民のコンセンサス。それが近代国家の根幹をなしているという認識がマルクスには欠けていて、マルクス主義者たちもその誤りをそっくり引き継いでいるのだと(滝村『国家論大綱』など)。

三権分立は、立憲主義(国家権力が憲法によってコントロールされること)を具体的に実現するしくみである。近代国家の基本設計といってもいい。

その観念がないまま、政治・経済のすべてをにぎる政府をつくったら、それはもうどうしようもない強力な全体主義国家になるしかない。

滝村さんは《マルクスの共産主義人間解放思想は、学的国家論の脱落のうえに成り立っていた》と述べている(『国家論大綱』第1巻下、714㌻)。この「学的国家論」とは、国家に関する体系的な理論ということだ。そのなかで「三権分立」に関する理論は核心的なものであると、滝村さんは考えていた。

 

欠落が重大な結果を生むことも

マルクス主義の根本的なまちがいは、私有財産の否定だけではないということだ。「私有財産の否定」は、マルクス主義において積極的に主張されたことだった。しかし「三権分立」については、マルクスは積極的に否定しているのではなく、それを無視・軽視しているのである。

そこから、労働者(プロレタリアートという)に支持された政府に権限を集中させればそれでよいという「プロレタリアート独裁」の発想も生まれることになる。

社会主義国家は、少なくとも当初は一定以上の民衆の支持を得ていたし、民主主義をかかげてもいた。多くの場合、外見的には西側諸国と似た体裁の「憲法」も制定されている。しかし、現実には民主主義も立憲主義も全否定する国家が生まれてしまった。

その根本には三権分立の否定ということがあった。そして、その誤りはマルクス自身のものだった。マルクスほどの学識のある人物――あれほどの学問的な研さんを積んだ人物でも、そのような基本的なところでまちがえてしまったのである。

しかし、マルクスに魅せられたインテリは、それを「誤り」「欠落」とはとらえなかった。積極的な「主張」だけでなく、思想における「欠落」も、重大な影響をもたらすことがあるのだ。

こうやって滝村さんの主張をもとに考えると、じつにあたりまえな感じもする。でも、世界の常識にはなっていないようだ。なにしろ、ビルト元首相のような欧米のインテリでさえ、「マルクスの理論には人間味がない」みたいなことしかいっていないのだから。

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そういちによる画

 

参考文献

おもに①ブリッグス著、大内秀明監修・小林健人訳『マルクス・イン・ロンドン』社会思想社、1983年をもとにした。ロンドンにおけるマルクスの生活や、時代背景などを生き生きと伝えていて興味深い。ただし、現在は入手困難かもしれない。

ほかには、②大内兵衛著『マルクス・エンゲルス小伝』岩波新書、1964年、③マクレラン著、杉原・重田・松田・細見訳『マルクス伝』ミネルヴァ書房、1976年といった、昔の時代のスタンダードな伝記で、基本的な事実を確認した。

 

滝村隆一は、マルクス主義における三権分立論の欠如について、このように述べている。

《国家権力の形式的制度論の核心である〈三権分立〉論……これは、……私が61(1961)年以来擁護してきたマルクス主義人間解放思想全体を、根底から揺さぶり倒壊させる性格をもっていた……
因みに、蜂起した人民が……ひとたび革命的権力……を構成するや、この公的権力は、かつてない巨大な専制国家権力へと転じて、無限に肥大し自己増殖しつづけた。それは〈普遍人間解放〉の名の下に、〈民主主義〉と〈人権〉を圧殺し、少なくとも結果的には〈世界史〉上もっとも邪悪で醜悪な社会構成を、必然化させた。〈三権分立〉を全的に否定した、すべての〈国家権力〉構成は、〈親裁〉(1人の絶対権力者が統治する独裁)体制へと収斂される、純粋な〈専制国家〉を現実化させるほかないからである。
この意味でマルクスの共産主義人間解放思想は、学的国家論の脱落のうえに成り立っていた》(『国家論大綱』第1巻下714ページ、カッコはそういちによる) 

国家論大綱〈第1巻 下〉

国家論大綱〈第1巻 下〉

 

三権分立の意味については、本ブログのつぎの記事を。 

1800年代のロンドンの発展・インフラなどについては、本ブログのつぎの記事を。 

 (以上)