そういち総研

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アメリカ合衆国憲法の制定過程・議論と説得によって成立した憲法

アメリカ合衆国の基本設計といえる合衆国憲法は、どういうプロセスで生み出されたのか。

建国時のアメリカは、辺境の小さな共和国に過ぎなかった。それが200年以上経ち、世界最強の超大国になった今も、政治の基本システムは変わっていない。それは連邦制、三権分立、上下二院制、大統領制などから成り立っており、これを定めたのがアメリカ合衆国憲法である。

これだけ長持ちした近代国家のシステムは、世界史上あまり存在しない。少なくとも、今も活力のあるシステムでは、ほかにないだろう。たとえば明治維新も、近代国家としての日本を建国した、偉大な業績である。しかし、明治維新で成立した国家体制は第二次世界大戦で崩壊してしまい、アメリカほどは長持ちしなかった。アメリカ独立革命は、世界史上最も成功したシステムを生んだ、大きなプロジェクトだったといえる。

そして、「長持ち」したことだけが、アメリカ合衆国憲法の際立った点ではない。その成立過程にも特色がある。この憲法は、さまざまな民主主義的な議論や説得を通して成立したものだ。それが本来のあり方のはずだが、世界にある憲法の多くは権力によって一方的に押し付けられたものである。

アメリカのケースは例外的なものなのだ。しかし、「憲法とはどのようにしてつくられるべきか」についての、重要なモデルを示しているといえるだろう。憲法改正の議論がある日本でも、また冷静な議論が後退し、憲法の精神からも逸脱する面がみられる最近のアメリカでも、合衆国憲法の制定過程には、学ぶべき点があるはずだ。

なお、合衆国憲法の内容的な特徴については、この記事とあわせて本ブログのつぎの記事を。 

アメリカ建国の父の1人、ベンジャミン・フランクリンについて 

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目 次

 

憲法制定以前のアメリカ合衆国・「連合規約」の限界

アメリカ合衆国の独立宣言は1776年だが、1788年公布のアメリカ合衆国憲法が制定されるまで、国としての体制はきわめて未整備な状態だった。

憲法が制定される以前、独立したばかりのアメリカ合衆国は、ひとつの国家というよりは、13の共和国(州)が集まって結成した、国際機関に近いものだった。最高の決定機関は、13州の代表が集まる「連合会議」であり、それが当時の中央政府だった。こうした体制については、1781年に「連合規約」という一種の「憲法」が採択されていた。しかし、連合会議には、ふつうの政府が持っているような権限や組織がなかった。

まず、国民への課税権がなかった。政府の予算は、各州による分担金でまかなわれていた。これは、国連のような国際機関が参加各国の費用負担で運営されるのと似ている。国民から直接税金を集める権限は、州だけに認められていた。

連合会議には、独自の財源がないだけなく、十分なスタッフもいなかったし、警察や常備軍もなかった。また、重要なことを決めるときは、13州すべての合意が必要だった。

「そんな政府では、たいしたことはできない」と思うかもしれないが、事実そのとおりだった。たとえば、つぎのようなことがあった。

・各州がよその州からの商品に関税をかけるため、通商の大きな妨げとなっているのに、それを撤廃できない。

・「弱体な政府」ということで、外国から侮られている。たとえばイギリス軍は独立戦争の講和条約で「合衆国の領土」と認められた地域にいまだに居座っている。

・独立戦争のとき、連合会議(独立13州の集まり)の名義で外国などから借りた巨額の借金をどうやって返すのか。各州が連合会議に納める分担金も、滞納が増えているが、どうすることもできない。

「連合規約」に基づく「各州の独立を重視する体制」には、多くの問題があった。「このままではいけない。きちんとした中央政府が必要だ」と考える人が増えていった。

 

仕掛人・J.マディソン

そのひとりに、のちに「憲法の父」といわれるジェームズ・マディソン(1751~1836)がいた。マディソンは、アメリカ合衆国の基本設計を生んだ、憲法制定プロジェクトの仕掛人である。

当時のマディソンはまだ30代で、連合会議で地元バージニア州の代表を務めたことがあったが、ワシントンやジェファーソンのように独立戦争のときに特別な功績があったわけでもなく、それほど目立つ存在ではなかった。

マディソンやその仲間たちは「連合規約を破棄して、しっかりとした政府をつくるために、新しい憲法を制定しないといけない」と考えた。

しかし連合規約は、国のありかたを根本で規定する一種の憲法である。これを破棄して「ほかの憲法に置き換えよう」ということを真正面から切り出すと、猛反発でつぶされてしまう恐れがあった。

マディソンに限らず、連合規約の体制に不満を持つ人たちは、規約の一部改正を提案してきたが、実現できなかった。中央政府の強化に反対する人は、当時のアメリカには大勢いた。イギリスの支配に不満を持つ人たちがやっと独立したのだから、政府というものに不信感を抱くのも当然である。連合会議という公式の場で憲法制定を議論するのは、困難なことだった。

 

制定会議への突破口

ではどうするか。マディソンたちは考えた――「憲法制定を目的とした特別の会議を開こう。メンバーは、そのための代表を各州で選出することにしよう」。

その場合、問題は2つあった。ひとつは「連合規約に定めのない、いわば非合法な会議で制定した憲法を、みんなが認めるだろうか」ということだ。それについは、こう考えた――「会議で憲法を制定するのではなく、会議で作成した憲法を認めるかどうか、各州の採決に委ねることにしよう。採決は、州議会ではなく、各州の有権者が選出した代表によって行う。人民全体の意思に基づくものであれば、憲法は権威を持つだろう」。

実際、そのような手続きによって合衆国憲法は制定されることになった。

もうひとつは「どうやって憲法制定会議の開催にこぎつけるか」である。さきほど述べたように、正面切って呼びかけたのでは、反対勢力につぶされてしまう恐れがあった。

 

憲法制定会議が始まる

結局、マディソンたちがとったのは、ねばり強く説得することと、少々だまし討ち的なやり方だった。

まず、マディソンらが中心となってバージニア州議会は、憲法制定ではなく「通商関係の問題を協議する」という名目で、会議の開催を呼びかけた。しかし、1786年9月に開かれたその会議では、13州のうち5つの州しか集まらなかった。連合会議をさしおいてそういう会議を行うことは、現体制への反抗を意味したので、多くの州が参加を控えたのである。

「今回は失敗だ」と判断したマディソンたちは「会議は中止だが、通商問題は他の問題との関わりが深く、連合体制全般の見直しと切り離せない。後日改めて全ての州の代表が集まり、連合規約全般の改正について協議すべきだ」と各州を説得した。

その結果、翌年(1787年)の5月にフィラデルフィアで、連合規約の改正問題を話し合う会議を開くことになった。これは「比較的小さな問題を、より大きな問題解決に取り組む突破口にする」というテクニックである。

1787年5月、各州の代表がフィラデルフィアに集まって、会議がはじまった。すると、マディソンたちバージニアの代表は、三権分立などを盛り込んだ自分たちの憲法草案を示し、「これをたたき台にして、新しい憲法を制定しよう」と提案した。すでにそんな用意をしていたのである。

会議は紛糾したが、結局「これからの会議で、バージニア代表による憲法草案を、条文ごとに検討していく」ということになった。

そもそも、「連合規約の改正」について話し合うはずだったのに、「新しい憲法の制定」を議論することになってしまった。憲法制定に反対の立場からみれば、「だまされた」ような展開である。憲法制定に向けた議論がはじまったことで、「憲法制定プロジェクト」は、最初の大きな山場をこえたことになる。

 

憲法を売り込む

ところで、経営コンサルタントのトム・ピーターズという人が「プロジェクト」についてこんなことを書いている。だいぶ前のビジネス書にあったものだが、普遍性のある本質を述べていると思う。

《ほとんど誰もが研究しないプロジェクト……というものを必死になって研究していくうちに、私はプロジェクトには四つの段階があることを発見した。
 〇創造(プロジェクトの企画)
 〇売り込み(お客さんを集める)
 〇実行(舞台の幕をあける)
 〇退場(バトンタッチ)
 *( )内はそういちが著者に表現に基づき補足
私がみる限り、「実行」以外の三つは、プロジェクト管理において、ほとんど(あるいはまったく)忘れられている。そして頭の古い連中は「実行段階」すらまったく勘違いしている。実行は「売り込み」の延長であることが多いのに、そのことがまるでわかっちゃいない》
(仁平和夫訳『セクシープロジェクトで差をつけろ!』TBSブリタニカ、2000年)

ここで「プロジェクト」とは「創造的・挑戦的で明確な目標を設定し、人材を結集して、期限を限って行う大仕事」と定義しよう。企業の商品開発や新規事業の立ち上げ、科学や技術の研究はまさにそうだ。そして革命や戦争も、スケールの大きなプロジェクトの一種といえる。

トム・ピーターズがテーマにしているのは「プロジェクトマネジメント」ということだ。つまり、創造的な大仕事をどうやって成し遂げるか。それは、自分の仕事や、組織や、社会を変革するための方法といってもいい。アメリカ合衆国の建国という「プロジェクト」は、それを考えるうえでおおいに役立つ、歴史的な事例である。

合衆国憲法の制定過程は、ほとんどが「議論と説得=売り込み」で占められている。さまざまな「売り込み」の過程で議論を重ねながら、憲法は形を整えていったのである。

「売り込み」というのは、試行錯誤を伴う。「どう説得したら受け入れてくれるだろうか」「ここをこう変えればいいだろうか」などと考えて、売り込みの対象に働きかけていく。机の上で計画を練っているだけとは異なる、仮説・実験的な世界である。

マディソンが抱いた憲法制定の構想から、このプロジェクトははじまった。その構想を、マディソンはまずバージニアの人たちに売り込み、今度は合衆国全体に売り込もうとしているわけである。最初は、憲法制定会議のメンバーという限られたリーダーたちに。それがうまくいけば、今度は憲法の採択を委ねる合衆国の人民全体に売り込むのである。

じっさい、4か月にわたった憲法制定会議で憲法案が採択されたあと、今度は各州でそれを採択するかどうか、世論全体を巻き込む議論が行われた。

州のなかには、憲法反対派の勢力が強いところもあった。そのひとつであるニューヨーク州で、マディソンは、ニューヨークの政治家で憲法制定を推進してきたハミルトン(1755~1805)とともに、憲法案の支持を訴える論説を新聞に多数掲載している。これはのちに『ザ・フェデラリスト』というタイトルで本にまとめられ、古典になっている。

この憲法制定というプロジェクトの場合、まさに実行は売り込みの延長だった。延長というより、イコールといったほうがいいかもしれない。

 

押し付ける権力の不在

「憲法を売り込む」というのは、私たちがふつうに抱く憲法制定のイメージとは異なる。憲法というのは「どこか知らないところで作成されたものが公布され、そのまま施行される」というイメージがある。

たしかに、明治憲法(大日本帝国憲法)や現在の日本国憲法はそうだった。明治憲法が公布されたときには、警察に対し「この憲法について批判的なことを演説等で言っている場合には、法に照らし処分せよ」という指示が内務大臣から出されている。日本国憲法にしても、内容は民主的であっても、それは日本を占領し絶大な権力を持っていたGHQが主導して決めたものである。国民の代表が集まって何か月にもわたって議論するなどということは、なかった。

合衆国憲法をつくった人たちには、明治政府やGHQのような押し付けはできなかった。それだけの警察や軍隊やその他の政府機構が整備されていないのである。それを、これからつくろうとしているのだ。各州のあいだでも、軍事や経済などで突出した力を持つ州や党派は存在しなかった。

押し付けることのできる権力がない以上、プロジェクトを推進しようとする人たちは、関係者にそれを売り込む以外にない。

そして、そのような状況だからこそ、売り込むだけの構想と情熱があれば、マディソンのように大物とはいえない者でも、重要なプロジェクトでリーダーシップをとることができたのである。


独裁を拒否した建国の父

そして、「突出した権力が存在しない状態」は、単なる成り行きの結果ではなかった。そこには、独立革命のリーダーたちの強い意志が働いていた。むしろ「成り行き」にまかせた場合、特定の個人や党派が武力を掌握し、それを背景に権力をふるいはじめることが多い。

アメリカ独立革命でも、憲法制定の数年前、大陸軍(独立戦争のときの植民地の軍隊)の将校の一派が、司令官のワシントンをかついで独裁的な軍事政権をつくろうしたことがある。そのプランを知ったワシントンはそれを拒否し、司令官を辞めてしまった。

「軍事独裁なんて論外だ」と、ワシントンたち「建国の父」は考えたのである。そういうリーダーが率いる革命政府だからこそ、自由な議論ができたのである。

また、軍事独裁を拒否した背景には、それを可能にするだけの地理的条件があった。アメリカ大陸は、脅威であるイギリスやスペイン(アメリカ西海岸は、当時はスペインの植民地)の本国から遠く離れていた。「それが、隣接するヨーロッパ中の王国を敵にまわさなければならなかったフランスの革命との大きなちがいだ」ということを1830年代に『アメリカの民主政治』(翻訳は講談社学術文庫など)という本を書いた、フランスのジャーナリスト・トクヴィルは指摘している。

同じことが列強の侵略を恐れた明治維新の日本や、欧米の資本主義国と敵対したソヴィエト連邦との比較でもいえる。さしせまった脅威がないから、強大な軍事力も、それを動かす権力者もたいして必要なかったということだ。

 

上下二院制をめぐる議論

では、憲法制定会議ではどのような議論が行われたのか。

フィラデルフィアの会議に集まったメンバーの多くは「何らかの憲法を制定し、中央政府の強化をはかる必要がある」と考えていた。一方で「その政府が暴走するのが心配だ」と考える人も少なくなかった。

ここで「暴走」というのは、おもに「立法府=議会の暴走」をさしている。「議会のメンバーを人民による選挙で選んだら、多数派である財産のない人びとの代理人が優勢になる。そのような議会が権力をふるったら、財産のある少数派の人びとを踏みにじるのではないか」と懸念したのである。憲法制定会議のメンバーは「財産のある少数派」に属していたので、そのように考える傾向があった。

バージニア州が示した憲法草案(バージニア案)は、上下二院制で、人民による直接選挙で選ばれた下院が、権力の中心になっていた。上院の議員については、各州の議会が指名した候補を、下院の承認を経て選出することになっており、下院が上院に優越していた。これに対し、「人民による選挙で選ばれた下院に権限が集中するのは、望ましくない」という反対意見が多く出された。

そこで、各州の議会が下院の承認なしで上院議員を選出することとし、上院と下院が対等になるようにした。上院は直接選挙ではないので、「財産のない多数派」の優位は薄められるはずだ。だから、上院は「下院に対する抑止力」となるだろう――そういう考え方で「上下二院制」の枠組みは決まっていった。

「選挙権に財産上の制限を設けてはどうか」という意見も出されたが、「やはり人民全体から選ばれた議会でないと権威がなく、政府が安定しない」という意見がまさって、財産上の制限は設けないことになった。

また「各州の定数配分をどうするか」という問題もあった。これは、人口の大きな州と小さな州の間で紛糾する大問題になったが、「下院は人口比例、上院は各州平等」ということでどうにか妥協が成立した。

議会の定数配分の問題が決着することで、会議の討論は最大の山場を越えた。あとの点については、いろいろな議論はあったものの、決裂の危機までには至らなかった。

 

民主主義の行き過ぎを抑制する

さて、ここで重要なのは、「上院・下院の間の均衡」というしくみが決まった背景には、現在の私たちが考える「民主主義」とは異質の発想があったということだ。民主主義とは、政治的な意思決定への人民の参加のことである。それが行き過ぎないよう、抑制するしくみが必要だという考え方が、この憲法制定会議を通じてしばしば出てくる。

しかし一方で「人民による承認こそが、政府権力の基礎である」という民主主義的な発想も、基本的な前提となっていた。

このような「相反する考え方のせめぎ合い」の中から、合衆国憲法は生まれた。

「三権分立」や「上院・下院の間の均衡」といった、「特定の権力の暴走を抑制する」ということが、アメリカの政治システムの根本的な原則である。

そして「たとえ人民の支持に基づく権力であっても、行き過ぎないように」ということになっている。このような原則は、憲法の起草者たちが「安定した権力を確立するために民主主義の必要性を理解しながらも、民主主義が社会の有力者(=少数派)である自分たちをおびやかすことを懸念した」というところから発している。

 

共和政をどうやって安定させるか

このような捉え方は、アメリカ史の専門家の間でも、一定の有力な見方である。なかには「合衆国憲法は、支配階級による保守反動の産物だ」というニュアンスで説明する論者もいるが、それはちょっとちがうのではないか。

たしかに、憲法制定を進めた人びとの「社会の有力者としての保守的な考え方」は、憲法に作用しているだろう。しかし、制定会議をリードしたマディソンのような人たちは、もっと普遍的な視点から問題をとらえていた。

それは「共和政というものは不安定で長持ちしない」という当時の政治理論の通説を、いかに乗り越えるかということだった。

共和政とは、国王などの世襲の君主がいない政治体制のことだ。古代ギリシアのアリストテレス以来、「共和政では国がまとまらず、結局は君主政になってしまう」ということが言われていた。また「共和政は、本来小規模の国に適しており、アメリカのような広大な連邦国家には向いていない」というのも、当時の通説的な考え方だった。

「連邦の共和国であるアメリカを安定したものにするには、どのような政治システムがよいのか」――これは、挑戦のしがいのある課題だったはずだ。

 

連邦共和国という画期的な試み

この問題を研究するためマディソンは、5月の憲法会議を控えた数か月の間、古今の政治学や歴史の書物を読み漁っている。その中には、友人で当時フランスに公使として派遣されていたジェファーソンに頼んで送ってもらったヨーロッパからの書物も、多く含まれていた。

本を読みながら、マディソンは考えた。

「たしかに、歴史上の事実をみると、共和政は不安定で長持ちしない、というのは否定できない。ではなぜ不安定なのか。強力な統治者がいないために、人びとがいくつもの党派に分かれて争い、国が乱れるからだ。そのうち、争いを勝ち抜いた特定の党派が、貴族や君主におさまってしまう」

「人間がさまざまな党派をつくって対立することは、社会ではどうしても避けられない。ならば、特定の党派だけが圧倒的な力を持って他の党派を圧殺しないような、チェックや抑制のシステムをつくればよいではないか。そうしたシステムを備えていれば、政府に強い権限を与えても、特定の党派の力で政府が暴走することはないはずだ」

そして「党派の間のチェックや抑制ということでは、小さな国よりも、むしろ多種多様なものを包摂し得るアメリカのような大きな連邦国家のほうがよい」という、ひとつの結論にたどりついたのだった。

この考えは、『ザ・フェデラリスト』に収録された論文にまとめられている。

《社会が小さくなればなるほど、そこに含まれる党派や利害の数も少なくなり、党派や利益が少なくなればなるほど、多数派が同一党派として形成されることが多くなってくる。また、多数派を形成している個人の数が少なくなればなるほど、また彼らがおかれている領域が小さくなればなるほど、彼らが一致協力して、他を抑圧する計画を実行しやすくなる。しかし、領域を拡大し、党派や利益群をさらに多様化させれば、全体中の多数者が、他の市民の権利を侵害しようとする共通の動機が存在するにしても、それを共有する人びとすべてが、自身の強力さを自覚し、互いに団結することはより困難になるであろう。
かくして、広汎な地域と適切な構造とを備えた連邦こそ、共和政体にともないがちな病弊を処置する共和政的な匡正策にほかならないのである》(『ザ・フェデラリスト』(第10編)斎藤眞訳、岩波文庫)

「民主主義を基礎にしないと、安定した国家は成立しないが、民主主義には多数者による少数者の圧殺という危険がつきまとう」という考え方は、アメリカ建国時よりも現代において一層重要になっている。国家=政府の力が、当時よりもはるかに大きくなっているからだ。

アメリカ建国の父たちが現代の先進諸国の政府をみたら、その組織や権力の大きさに驚くだろう。その巨大な組織は、民主主義の政府が運営している。「多数派の権力をバックに、こんな大きな政府が暴走をはじめたら、たいへんなことになる」と、建国の父たちは思うだろう。

 

「強い大統領」による議会の抑止

さて、憲法制定議会での議論に戻ろう。アメリカの大統領は行政府の長として強い権限を持つが、これも議会の暴走を懸念する考え方が影響している。

バージニア案は、行政府の長は議会が選出ことになっていた。これは、イギリスや日本で採用されている議院内閣制的な発想だ。しかしこれには強い反対があり、大統領を議会で選ぶことは否定され、議会を抑止できる強い権限を与えることに決まった。

「大統領が議会を抑止する必要がある」と、会議のメンバーの多くは考えたのである。また、強い大統領を置くことは「中央政府を強化する」という考え方にも合致していた。

問題は、大統領をどうやって選出するかである。「人民による直接選挙で」という案も出された。しかし、「それでは大きな州が大統領を決めてしまうことになる」「国が広く、交通手段もないので、候補者の資質を有権者が十分に知ることができない」といった反対意見があり、「州ごとに人民が大統領選挙人を選挙して、選挙人が大統領を選出する」という間接選挙を行うことになった。

また、政府の強大化による危険を恐れる人は、「1人に権力を集中させると、暴君と化す恐れがあるので、行政の長は複数のほうがよい」と主張したが、受け入れられなかった。会議のメンバーの多くは「1人に権限を与え責任を持たせないと、政府は適切に機能しない」と考えたのである。

 

合衆国憲法の発効

5月に始まった憲法制定会議は、合衆国憲法案の起草を終えて9月半ばに完了した。その答申をうけた連合会議では激しい論争になったが、結局は制定会議の提案に沿って、憲法案を各州に送付した。各州で憲法を採択するかどうかを決める「批准会議」を開いて、9つの州が批准すれば憲法は発効することになった。

憲法案が示されると、各州でさまざまな論争が起こった。しかし、約10か月のあいだに11の州が批准し、1788年6月、ついに合衆国憲法は発効することになった。このとき批准しなかった2つの州も、1790年までにはすべて批准した。

 

建国の父たちは、仕事が終わると去っていった

最後にもうひとつ、アメリカ建国の父たちの、革命家としての特異な点について述べておきたい。それは「彼らは革命・建国というプロジェクトを終えると去っていった」ということである。

「アメリカ独立の三大功労者」とされる、ジョージ・ワシントン(1732~99)、トマス・ジェファーソン(1743~1826)、ベンジャミン・フランクリン(1706~90)の「その後」はどうだったのか。

ワシントンは、独立戦争の総司令官としてきびしい戦いを勝利に導いた。ジェファーソンは、「独立宣言」(1776年)の起草者として知られる。フランクリンは科学者や社会事業家として活躍した人物で、独立革命ではフランスを味方につける外交などで活躍した。

ワシントンは、57歳で合衆国憲法が定める初代のアメリカ大統領に就任した(任1789~97)。大統領を2期務めても人気が高く、「もう一期」という声もあった。しかし辞退して政界から引退し、家業である農園の経営者にもどった。これが先例となって、「大統領は2期まで」という慣習ができたのである。

ジェファーソンは、58歳で第3代大統領になり、2期務めている(任1801~09)。大統領をやめてからは政界から身を引き、しばらく田舎で隠遁生活をしている。その後、バージニア大学設立の活動を行い、初代学長に就任した。大学が開校した翌年、83歳で亡くなっている。

憲法会議の当時すでに高齢だったフランクリンは、会議の翌年にすべての公職をやめ、その2年後の1790年に84歳で亡くなった。

そしてマディソンは、ジェファーソン大統領のもとで国務長官となったあと、第4代大統領に就任し、2期務めて(任1809~17)政界を引退したあとは、バージニアで余生を送った。晩年はジェファーソンとともにバージニア大学設立の活動を送っている。

 

去り際と引き継ぎが見事だった、めずらしい革命

歴史上の有名な革命家たちが、革命を終えたあと、引退生活や第二の人生を送ったというのは、じつは珍しいケースだ。ほとんどの革命家は、フランス革命のロベスピエールや大久保利通や西郷隆盛のように革命後の闘争で殺されるか、レーニンや毛沢東のように「永久政権」を志向し、死ぬまで引退しないのである。

革命は、革命家という専門チームによって短期間に成し遂げられる社会変革であり、まさにプロジェクトの一種だ。

プロジェクトとは、前に述べたように「創造的・挑戦的で明確な目標を設定し、人材を結集して、期限を限って行う大仕事」のことだ。プロジェクトである以上、どこかでピリオドが打たれないといけない。プロジェクトチームを解散し、平常の体制にバトンタッチしなくてはならない。トム・ピーターズは、プロジェクトの最終段階として「退場(バトンタッチ)」ということを言っている。

多くの革命では、革命がいったん成功すると、内部の権力闘争がはじまる。そして、勝ち残った1人のリーダーによる独裁体制に落ち着くのである。そして新しい指導者は、独裁を正当化するため「革命はまだまだ終わらないぞ」と宣言する。つまり、プロジェクトはいつまで経っても完結しない。これは社会主義国で典型的にみられたことだ。

明治の日本では、明治維新の功労者たちが、公職を退いたあとも法的根拠のあいまいな影の権力者(元老など)として君臨した。明治の日本を「元老支配の体制」とする見方も有力である。ただしこれは、社会主義国の独裁よりも柔軟で、民主主義的な議論の余地もある体制だった。

また「元老たちはすぐれたリーダーだった。元老たちだからこそ、困難な時代に、どうにか国のかじ取りができた」と評価する人たちもいる。しかし、だからこそ「元老たちが死んだあと、かじ取りを失ったために、日本はコントロール不能に陥った。その結果があの戦争だった」ともいわれるのである。

たしかにそういう面があるのだろう。「元老による支配」というのは、法的な根拠のあいまいな権力による支配であり、ルールやシステムよりも「指導者の個人的力量」に依存した体制だ。だから、その個人がいなくなったら、うまく動かなくなってしまう。

ルールやシステムを最も極端に否定したのが、アドルフ・ヒトラー(1889~1845)のナチス・ドイツである。ナチス・ドイツでは、最後まで独自の憲法は制定されなかった。ナポレオン(1769~1821)も、スターリン(1879~1953)も、毛沢東(1893~1976)も、憲法などの法典を整備して国家の基本設計を明示しているのに、ヒトラーはそういうことはしなかった。

すべての権力はヒトラーに集中していたが、総統にもしものことがあった場合、権力の継承はどうするかといったことは一切決められていなかった。ヒトラーにとっては、自分の永久政権のあとに、国がどうなろうと知ったことではなかったのだろう。そんなリーダーに率いられたナチス・ドイツの「世界戦争プロジェクト」は、史上最悪のものとなった。

一方、アメリカ建国の父たちは、永久政権や元老による支配体制を築くかわりに、後継者にも操縦可能な「システム」を置いて去っていったのである。これは、プロジェクトとしては美しいしめくくりだ。

トム・ピーターズは著書のなかで「映画のシェーンが、カムバック!といわれて、のこのこ引き返して居座ってしまったら、どうしようもない」ということを述べていた。(『シェーン』は1950年代の西部劇で、流れ者のシェーンというガンマンが、農場を営む善良な一家を、地元の暴虐な連中の攻撃から守るという話。戦いが終わってシェーンが馬に乗って去っていく後ろ姿に、助けられた一家の少年が「カムバック!」と叫ぶシーンが有名)

アメリカ独立革命は、革命家の去り際と引き継ぎが見事だった、めずらしい革命だったのである。

 

参考文献

 ・アメリカ合衆国憲法制定の経過や議論については、①M.ジェンセン『アメリカ憲法の制定』南雲堂、1976年 に詳しくまとめられている。 

アメリカ憲法の制定 (1976年) (新アメリカ史叢書〈4〉)

アメリカ憲法の制定 (1976年) (新アメリカ史叢書〈4〉)

 

 
② 『ザ・フェデラリスト』(岩波文庫)
憲法制定を主導したリーダーたちが、国民にその意義を訴えた論説をまとめた本。三権分立について論じた一節もある。 当時の議論が生き生きと伝わってくる政治思想の古典であり、おすすめ。

文庫版は一部分の訳だが、同書の全訳もある。 

ザ・フェデラリスト

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  • 作者: アレグザンダハミルトン,ジェイムズマディソン,ジョンジェイ,Alexander Hamilton,James Madison,John Jay,斎藤真,武則忠見
  • 出版社/メーカー: 福村出版
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・アメリカ独立革命全般について

③五十嵐武士ほか『世界の歴史21 アメリカとフランスの革命』中公文庫

④五十嵐武士『アメリカの建国』東京大学出版会、1984

⑤斎藤眞『アメリカ革命史研究 自由と統合』東京大学出版会、1992年 など

 
(以上)