ベンジャミン・フランクリン(1706~1790 アメリカ)は、ワシントン、ジェファーソンと並ぶアメリカ独立の功労者で、電気学などの科学研究や、さまざまな社会事業で活躍した。哲学や社会科学の分野でも業績がある。アメリカでは最もおなじみの偉人の1人である。
「時は金なり」ということわざは、フランクリンの作だとされている。彼は、丁稚小僧から身をおこして、印刷業で財を成した。商売上手だった彼を、「拝金主義者」という人がいる。しかし、フランクリンは、働かなくても食うに困らないだけの資産を築くと、40代で事業から手をひき、好きな科学の研究に没頭した。とくに電気学の分野では、世界的な権威になった。また、大学や病院の設立、郵便制度の改革などの社会事業でも活躍した。そして、晩年のアメリカ独立の際には、外交の仕事などで大きな役割を果たした。
お金のことを気にしなくてよかった彼は、どの仕事も自分の信念に沿って、思いきり取り組むことができた。彼は、お金を「自立して自由に生きる」ための手段と考えたのである。
フランクリンは、1700年代のアメリカで成立していた(初期の)近代社会を精いっぱい生きた、成功者の典型である。典型的な「近代人」といってもいい。
私たちが生きている社会(現代の先進国)もまた、近代社会である。フランクリンが知恵と努力で成功していく様子は、「近代社会を生きるうえで大切なこと」や、そもそも「近代社会とはどういう社会か」ということを、生き生きと教えてくれる。民主主義、自由、個人主義、資本主義の経済活動といった、近代社会で重要とされる事柄を否定する傾向も強くなっている今、私たちはフランクリンについて知っておいたほうがいい。
目 次
- 明るい苦労人
- 10歳で学校教育は終わり
- 印刷工として働く
- お金と向き合う
- 世界が広がっていく
- 勉強サークル・ジャントー
- 世界初の公共図書館を設立
- 地域の若きリーダーに
- 科学の研究
- 近代社会ならではの活躍
- 学ぶことは「楽しみ」だった
- 「楽しさ」の源泉
- お客さんを得るために
- 明るい生き方の秘訣
- 参考文献
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アメリカ100ドル札のフランクリン
明るい苦労人
困難にも負けず勉学を続けた偉人の物語は、多くの場合、悲壮な感じがする。たとえばキュリー夫人や野口英世はそうだ。2人とも若いうちは貧乏で、いろいろ苦労をしている。それを必死の努力でのり越えて研究者となり、偉大な業績をあげた。それが感動的なので、2人は「偉人」の古典的な定番なのである。
しかし、不利な条件下で勉学を続け、苦労したはずなのに明るい印象の偉人もいる。ベンジャミン・フランクリン(1706~1790)は、まさにそうだ。彼は、「不利な条件に負けず、明るく生きて人生をきりひらいた」偉人だった。その「究極のかたち」といっていい。
フランクリンの人生については、「伝記の傑作」といえる、すぐれた自伝がある。この『フランクリン自伝』は岩波文庫などにも入っており、かなりよく読まれている。これが彼に関する第一の資料である。そして、アメリカでは『自伝』のほかに、彼についてのさまざまな伝記や著作が出ている。『フランクリン全集』というぼう大な著作集もある。
フランクリンは、アメリカでは非常に有名な、代表的な偉人である。たとえば、100ドル紙幣の顔だったりする。しかし、日本ではフランクリンについての著作は、そんなに多くない。彼の人気や評価は、日本ではあまり高くないのだ。しかし板倉聖宣著『フランクリン』(仮説社、1996年)という読みやすく、すぐれた伝記もある。ここでは、この本と『自伝』をおもに参照しながら、彼の人生の、とくに成功者になるまでの前半生をみていこう。
10歳で学校教育は終わり
フランクリンは、1700年代後半のアメリカで活動した、政治家・社会活動家である。そして、科学者としても活躍した。「凧をあげた実験で、カミナリが電気であることを突きとめた」というのは、「科学者フランクリン」の有名なエピソードである。
フランクリンが若いころのアメリカは、イギリスの植民地だった。それが、イギリスとの戦争を経て、1776年に「アメリカ合衆国」として独立した。アメリカ独立では、晩年のフランクリンはリーダーの1人として大きく貢献している。
彼はもともとは、印刷業者として成功した人だった。若いころから政治や科学の世界を志していたのではない。しかし、「本業」のほかにもやりたいことを追求していくうちに、社会のリーダーや科学者になっていったのである。
フランクリンは、1706年にアメリカ東海岸の町・ボストンで生まれた。17人兄弟の15番目。父親は石けんやロウソクをつくる職人だった。
兄たちは職人や船乗りになったり、商人のところに奉公に出たりしていた。父親は、ベンジャミンは牧師にしたいと考えた。とても利発で、もの覚えがよかったからだ。そこで、ベンジャミンが8歳のとき、ラテン語を教える学校に入学させた。古い聖書は、古代ローマの言葉であるラテン語で書かれていたので、キリスト教の聖職者になる人は、それを学んだのである。
彼の学校での成績は優秀だった。しかし、学費の負担が重く、しかたなく1年で辞めた。そして、寺子屋のような読み書きの基本だけを教える学校に入りなおした。しかし、そこも学費を払いきれず1年で退学。彼の学校教育は、10歳で終わった。
印刷工として働く
その後、ベンジャミンは印刷業者として独立したばかりの兄の元で働くことになった。やがて彼は、仕事場であつかう本や新聞などの印刷物を、仕事の合間に読みあさるようになった。それでかなりの勉強ができた。数学や科学の初歩まで学んでいる。印刷業には、「多くの情報や知識に触れる文化的な仕事」という面があった。
いろんな勉強の仕方があるものだ。こんな彼の様子をみると、ろくに学校に行けなかったことが小さく思えてくる。ほんとうは重たいことなのだが、フランクリンの前向きな努力は、それをさらりと超えてしまうところがある。
豊富な情報が流通し、工夫や努力しだいで誰もがその情報にアクセスできるというのは、今に続く近代社会の特徴である。その原型は近代初期における印刷の普及である。印刷業に身を置く少年時代のフランクリンは、その環境(ただし現代よりもはるかに情報量は限られてた)をフルに活用したのである。
16歳のときには、自分で何か書いてみたくなり、女性のペンネームで(自分の正体を隠して)、地元の新聞にエッセイを投稿したりした。それが好評で、エッセイは十数回にわたって掲載された。ろくに学校に行けなかった16歳の少年が、プロのライター顔負けの文章を書いたのである。
17歳のときには、兄とケンカしてボストンの町を飛び出してしまった。そして、ボストンの南にあるフィラデルフィアという大きな町に出て、印刷所に就職した。
そして19歳のときには、イギリスのロンドンに渡った。きっかけは、知り合った地元の有力者が「ロンドンへ行って印刷機を買い、独立するといい」と強く勧めたことだった。その人は「力になるから」と言ってくれたのである。しかし、ロンドンに行ってみると、その有力者はウソつきで何もしてくれないことがわかった。フランクリンは自力で印刷工の仕事をみつけ、働きはじめた。
ロンドンでも彼は、読書による勉強を続けた。限られた給料をやりくりして、本を少しずつ買ったりした。
お金と向き合う
『フランクリン自伝』をみていると、家計のやりくりなどのお金の話がときどき出てくる。そして、かなりこまかいことまで書かれている。たとえば、兄の印刷所で働いていたときに、「昼食は自分で弁当をつくって持って行った」という話がある。
昼休みになると、兄や同僚は外食をしに出ていく。フランクリンはひとり職場に残って弁当をさっさと食べてしまうと、あとは本を読んですごした。弁当を持っていくことで、お金が節約でき、勉強の時間もとれて一石二鳥だった、ということを彼は述べている。
また、「ロンドン時代の下宿が、安い家賃で夕食も出してくれたので助かった」といった話も、『自伝』にある。これもお金と時間の節約になったということだ。ロンドンでの彼は、仕事が終わって一杯やりに行く同僚を後目に、まっすぐ下宿に帰っては好きな読書をする毎日だった。こんなふうに堅実に暮らしながら、彼は勉強した。
しかし、内気でカタブツな感じではなく、人づきあいも好む、明るい人柄だった。それは、いろんな人と結びついていった彼の人生をみればわかる。
お金のことは、『フランクリン自伝』のひとつの大きなテーマである。若いころの「弁当生活による節約」について書いているくらいだ。のちに自分の商売を営むようになると、お金の話は、もっと重要なことがいろいろ出てくる。
自分のサイフの中身を、こんなにも自伝に書いたのは、フランクリンがおそらく史上はじめてである。今でもそうだが、「お金のことを語るのは格好悪い」というのが多くの人の感覚だ。昔は、そのような考えは今以上に強かった。とくに本を書くような「文化人」のあいだではそうだった。だから、フランクリンは『自伝』で「常識破り」なことを書いたのである。そこには「金銭的な生活設計は、重要なことだ。もっとオープンに語られるべきだ」という信念があった。
しかし、それに対する批判も少なくなかった。『自伝』を読んで、「フランクリンは金の亡者だ」という人もいた。
「日本では、フランクリンの人気はイマイチ」ということを前に述べたが、その原因のひとつに、「お金のことをオープンに語る」という彼の姿勢が日本の知識人にきらわれた、ということもあるようだ。しかし最近は、個人の「マネープラン」ということもよく言われる。「お金と人生」をテーマにした本もいろいろある。世の中が変わってきたのである。フランクリンは、その先駆者ということだ。つまり、資本主義の社会でお金と向き合う(向き合わざるを得ない)近代人がどう生きるべきかという問題について、いちはやく自覚した先駆者である。
世界が広がっていく
さて、勉強を続けるフランクリンだったが、あるとき、仕事で活字を組んでいた哲学書の内容に根本的なまちがいがあると感じ、気になった。そこで、自分でも関連する論文を書き、それを活字で組んで、小冊子としてわずかな部数印刷した。ささやかな自費出版だが、彼が最初の著作といえる。
その後、彼の冊子を読んだライオンズという人物が訪ねてきた。どうして冊子を手に入れたのかはわからないが、彼も哲学書を出版していて、興味を持ったというのである。
その後ライオンズは、マンデヴィルという学者を紹介してくれた。マンデヴィルは「私欲と経済」をテーマにした『蜂の寓話』という本で歴史に名を残している。さらにマンデヴィルからはペンパートンという、ニュートンの弟子の科学者を紹介してもらった。小冊子の発行は、彼の世界を広げてくれたのである。
21歳のとき、フランクリンは結局アメリカに戻ることにした。そして、ロンドン行きの船で知り合ったフィラデルフィアのデナムという商人と仲良くなり、彼の店で働くことになった。フランクリンは商店の仕事に熱心に取り組み、簿記などのビジネスのスキルも習得した。しかし、しばらくするとデナムは病気で亡くなってしまい、商店も消滅。彼は、印刷工の仕事に戻った。
勉強サークル・ジャントー
1720年代のこと。20代前半のフランクリンはフィラデルフィアで再び印刷工の仕事に就いた。そしてそのころ、町の若者たち十数人を集め、勉強のサークルを始めた。
これは、毎週金曜の夜に集まって、読書会やレポートの発表などを行うというものだった。テーマは、社会問題、自然科学、芸術・文化などさまざま。この会を、彼は「ジャントー」(「秘密結社」という意味)と名づけた。
こういうサークルは、議論が白熱するうちにいろいろ気まずいことがおこったりするものだ。今のネット上と同様である。フランクリンはそれを防ぐためにサークル運営のルールを定めた。「議論のための議論はしない」「独断的な意見で討論を混乱させたら、罰金を払う」といったことである。こうした組織運営の工夫もあってか、ジャントーは長続きした。その後40年にもわたって続いたのである。
世界初の公共図書館を設立
しばらくすると(1730年代はじめには)、ジャントーの活動から画期的なひとつの成果が生まれた。それは、図書館の設立ということだった。
そのころ、勉強熱心なフランクリンたちは、もっと本を読みたいと思っていた。しかし、当時の本は高価で、なかなか買えない。買うのに手間もかかった。当時のアメリカには、大きな町でも専門の本屋はなかった(本は、文具店や雑貨店などで片手間に取り扱っていた)。本を買おうとすると、かなりの場合イギリスから取り寄せないといけなかったのである。
そこで、フランクリンたちはジャントーの仲間で蔵書を持ち寄って図書館をつくろうと考え、実行した。当時はまだ一般の人が利用できる公共図書館というものはなかった。
しかし、この「本を持ち寄る」というやり方はうまくいかなかった。各人がなくしていいようなダメな本ばかり持ち込んだからである。たまに良い本が持ち込まれても、誰かが借りたまま返さないで、なくなってしまうなどということもあった。こういうことが何度かくりかえされると、良い本が集まらなくなってしまう。
そこで、フランクリンたちは図書館を「おおぜいから小口の資金を〈会費〉として集めて基金をつくり、それで本を買う」方式に切り替えた。会費を払った人でなくても、その都度料金を支払えば図書館を利用できた。すると、蔵書は充実して会員も増えていき、大成功。
最初の「持ち寄り方式」がうまくいくには、「自分の大事な本をみんなに差し出す」という自己犠牲が必要だった。しかし会費制だと、各人に無理を強いることなく、全体の利益を実現できる。そこがポイントだったのである。
フランクリンは、その後もさまざまな公益事業で活躍していくが、この図書館のような、みんなの利益をはかるしくみづくりがたいへん上手だった。
このとき設立されたフィラデルフィア図書館は、世界初の公共的な(誰もが利用可能な)図書館だった。それまでの図書館は、王侯貴族の私的な本のコレクションであり、一般の人が利用できるものではなかった。
フランクリンたちが「図書館をつくろう」と動き始めた当初、町の人の反応は冷たいものだった。リーダーのフランクリンはまだ20代前半の若者だったので、なかなか信用してもらえない。図書館が実現したのは、多くの人への働きかけを粘り強く続けた結果である。
一方、本業のほうでも進展があった。ジャントーの友人の家族から出資を受けて、その友人との共同経営ではあるが、印刷業者として独立することができたのである。22歳のときのことだった。まもなく、結婚もした。
地域の若きリーダーに
フランクリンは仕事に励み、商売を広げていった。印刷所の経営を始めた翌年には、『ペンシルバニア新報』という週刊新聞の編集発行も始めた。
当時、出版の世界はまだ未成熟で、日刊紙も全国紙もない時代である。印刷業者が出版業も兼ねることは、珍しくなかった。フランクリンは記事の多くを自分で書いた。それが好評で、部数を伸ばしていった。当時の新聞というのは、現代とちがってメディアとしての専門化が進んでおらず、新規参入の余地が大きかった。これは、今のインターネットの世界とも通じるところがある。
もうひとつ、大きな収益源となった出版物に、28歳のときに発行を始めた『貧しいリチャードの暦』というオリジナルの暦があった。当時、暦は最も広く普及していた出版物だったが、フランクリンはさまざまな工夫こらして、実用だけはない、読んで楽しい暦をつくった。これが評判を呼んでベストセラーとなったのである。やがて、お金をたくわえたフランクリンは、出資者から事業を買い取って、共同経営を脱した。
30歳ころには、フランクリンはフィラデルフィアの若きリーダーの1人になっていた。公的な活動もさかんに行った。町の消防組合の創設を主導して実現したり、フィラデルフィア郵便局の局長に就任したりした。当時は、政府による公共サービスが未発達で、こういう事業を住民が手づくりで行なっていた。また、ペンシルバニア植民地議会の書記(事務局の要職)にも選ばれた。
科学の研究
30代のフランクリンは、商売に公務に多忙な中、学問にもいそしんだ。彼にとって学問は、大好きな道楽だった。とくに惹かれたのは科学の研究である。
それは本を読むだけではなかった。あるとき彼は、科学者を町に呼び、連続の科学講座を主催したりもしている。そうやって、学校で得るような系統的な知識を学んだ。
また、科学を実際の生活に役立てようともした。彼は、36歳のとき(1741年)、燃料効率のすぐれた(薪の使用が少なくて済む)新式の暖炉を発明している。熱などに関する科学知識を応用したものだ。暖炉の燃費は、当時の切実な問題だったので、この発明は反響を呼んだ。
しかし彼は特許をとらず、その発明を誰もが利用できるようにした。そして、暖炉のしくみを説明する小冊子を作成し、配布したりもした。本業で稼いでいたので、今さら発明で儲けるつもりはなかったのである。
さらに、当時の新しい分野だった電気学にも興味を持つようになった。ジャントーの仲間などとともに、いろいろな実験を行なった。そんな中、42歳のときには、のちに「先端放電現象」と名づけられる現象を発見した。フランクリンは、新発見のレポートを、ロンドンの知り合いの科学者に送りました。コリンソンというその科学者の推薦で、フランクリンの報告は、権威ある学会誌に掲載された。科学者フランクリンの誕生である。
近代社会ならではの活躍
ここまでの活躍は、フランクリン84年の生涯のほんの序章にすぎない。ここからが彼の人生の本番である。しかし、著作や出版、社会事業、政治活動、科学の研究といった、その後の展開の出発点となる要素が、この時点(40歳頃まで)ですでに出そろっている。その後の彼の活躍は、それまでの各領域での活動を、さらに大きく発展させたものだった。
多方面にわたる膨大な著作。病院や大学の創設。全国規模での郵便事業の統括。植民地全体の政治への関与。独立革命のリーダーの1人としての活躍。最晩年にはアメリカ合衆国憲法の制定に貢献した。貧しさのためほとんど学校に行けなかった独学者が、最後は国家のリーダーにまでなったのである。
そして科学研究では、さらに発見を重ね、電気学の分野で世界的な権威となった。たとえば、2種類の電気について「プラス」「マイナス」という呼び方を提唱したのは、フランクリンだった。
このようなフランクリンの活躍は、近代社会ならではのものだ。近代社会とは、職業の自由、経済活動の自由、言論の自由などのさまざまな自由が(少なくとも理想としては)すべての人に認められた社会のことだ。そのような「自由」の上に立って、フランクリンは活動した。これに対し、前近代の社会は、生まれによって社会的な地位や職業が決まってしまう身分制社会だった。フランクリンの時代の「自由」は、今の私たちの社会(現代の先進国)とくらべれば未発達な面があったが、それでも当時の「自由」をめいっぱい活用して、彼は自分の人生をきりひらいた。そして、図書館、病院、大学、郵便、科学研究、市民革命(アメリカ独立)などの、近代社会の基礎をなす領域で功績を残した。
学ぶことは「楽しみ」だった
ここまで、フランクリンの人生の、おもに前半のところをざっとみわたした。彼の人生の初期には、いろいろな大変なことがあった。学校にはほとんどいけずじまい。働きはじめてからも、悪い人にダマされたり(イギリスへ渡った際)、雇い主が亡くなって仕事を失ったりもした(デナムさんの件)。それでも彼が働きながら明るく学び続けることができたのはなぜだろうか。
最も基本的なのは、彼にとって学ぶことは「楽しみ」だった、ということではないかと思う。彼には、学問による立身出世という考えはなかったはずだ。そんなことが期待できる身分ではないと思っていたのだろう。学校を出ていない一介の印刷工。まずしっかり仕事をして、その合間に好きな学問をしているだけ。
つまり、「何にもならならいとしても、かまわない」という気で勉強しているのである。こういう、たいした望みを持たないで、好きなことに打ち込む人間というのは強い。「なんでオレは認められないのだ」「このまま終わってしまうんじゃないか」とか悩んだりしないで、淡々と前進できるからだ。個人主義の近代人にありがちなこととして、自我・自意識が強すぎて、余計な重圧を抱え込み崩れていくケースががあるが、フランクリンはちがう。好きなことに打ち込んで自分を大切にしながらも、「強すぎる自我」とは距離を置く、よいさじ加減の個人主義なのである。
「楽しさ」の源泉
さらに、その「楽しさ」の源泉は何なのだろうか。もちろん、学問や知識じたいの楽しさはある。だがそれだけではない。何よりも「自分の勉強に対してお客さんがいる」ということが、フランクリンにとっては重要だった。つまり、自分の勉強の成果を人に楽しんでもらったり、役立ててもらったりする。それが、うれしかったのである。
「お客さん」を得るためには、自分の勉強を頭の中にしまい込まず、文章などの「作品」にして発表しなくてはならない。彼は人生の初期から、それを行ってきた。
まず、16歳のとき新聞に投稿したエッセイで、自分の文章で読者を得られることを知った。ロンドン時代に哲学の小冊子をつくったのは、この体験があってのことだ。この小冊子の発行によって、いろんな出会いがあった。自分の考えを作品化することで、世界が広がるのを体験したのだった。
もし、知識を得るだけの、お客さんのいない勉強だったら、こういう楽しみはなかった。それだと、勉強はどこかで挫折してしまったかもしれない。
じつは、独学などの不利な条件で学ぶ人の多くが、そうなってしまう。彼らは、自分のお客さんをみつけることができないまま、意欲を失ってあきらめてしまう。環境に恵まれず、それでも食い下がって勉強する独学者は、多くの場合自分の勉強を作品にして人にみせようとは考えない。「自分なんて……」と思ってしまう。それは、エライ人や恵まれたエリートのすることだ、と。
しかし、それはまちがった考えである。いわゆる教育のある人は、若い未熟なうちから「自分の作品」を発表する経験をしている。授業や課外活動での発表や創作など、さまざまな表現をさせられている。恵まれた環境にある人ほど、一般にその機会が多い。周りには文化的な活動をする大人がいて、その様子もみている。それで何となく「作品をつくる」「お客さんを得る」という大事なことを知るのである。「自分が作品を人に見せるなんて……」と思っては、大事なことを知る機会を失う。
多くの独学者は、「作品をつくる」「お客さんを得る」という機会には恵まれていない。本や教科書を読むことだけが勉強だと、つい思ってしまう。しかしそれだけでは楽しみや手ごたえが足りなくて、勢いが続かない。続くとしたら、資格や学位を得るなどの切実な縛りがある場合にかぎられる。それは恵まれない独学者の大きなハンデだ。
「お客さんを得る」とは、別の言い方をすれば「市場に働きかける」ということだ。世の中はさまざまなニーズや関心を持つ人びとの集合――つまり「市場」なのだという意識。そして、市場には誰もが参加できる。これは、近代的な発想である。近代社会は「市場社会」でもある。
お客さんを得るために
「お客さんを得る」といっても、人はなかなかお客さんにはなってくれない。学校の先生やゼミの仲間なら、生徒の発表につきあってくれるが、それは学校という環境が特殊なのである(それが学校のすばらしいところだ)。
ふつうの世間(市場)では、無名の人間の作品につきあってくれる人はまれである。そこをなんとかして、お客さんを開拓しなくてはならない。若いフランクリンは、そのための努力や工夫を行った。
まず、自分の作品を鑑賞にたえるものにする努力。文章ひとつにしても、彼は少年時代からセンスがあったが、意識的な努力もかさねた。ロンドンでつくった哲学の小冊子は、ある人物から「内容はともかく文章が読みにくい」とアドバイスされた。そこで彼は、読みやすさで定評のある著者の文章を模範にして、暗記して書くなどのトレーニングを積んだのである。
また、質の高い作品をかたちにするうえで、印刷工としてのスキルを習得したことも重要だった。印刷という、情報発信にかかわる(当時としては)最新のテクノロジーを自在に使いこなすことができたのである。それは今でいえば、インターネットやコンピュータ関連の高度な技術を身につけているようなものだ。その時代なりのテクノロジーを積極的に用いることは、やはり重要である。
そして、ジャントーという場をつくったことは大きかった。ジャントーは彼にとって、自分の考えを気楽な内輪で発表して、テストする場所だった。ジャントーの仲間は、試作品のテストにつきあってくれる最初のお客さんなのである。フランクリンは、その反応をみて合格したもの、または反応をふまえ改善したものを、世の中に公表した。新式暖炉のような発明も、科学の研究も、社会事業の構想も、たいていはまずジャントーで試したうえで「市場」に出したのである。
「試作品をテストする」という方法を活用したおかげで、フランクリンは、独学者にありがちな「ひとりよがり」とは無縁だった。彼が世の中に打ち出したものは、みな高い水準に達しており、人びとの関心に訴えるものだった。これは近代科学の核心をなす「仮説・実験」的な方法と通じるやり方だ。
明るい生き方の秘訣
以上の話のキーワード。
「自分を大切に、しかし自意識過剰にならない」
「勉強を作品にして、自分のお客さんをみつける」
「その時代のテクノロジーを積極的に用いる」
「試作品をつくってテストする」
この4つがフランクリンの明るい生き方の秘訣である。近代社会を力強く生きていくための秘訣といってもいい。そこには「個人主義」「市場」「テクノロジー」「科学的方法」などの近代ならではの要素が深く関わっている。フランクリンの生涯にはいろんな要素が詰まっているので、ほかにもまだまだ「秘訣」はあるだろうが、ここではこの4つに光をあてよう。
彼はこれらの秘訣を、不利な条件にもかかわらず自分の手探りでつかみとった(そこには偶然や幸運も作用しただろう)。こういうことを、恵まれた育ちの人は、与えられた環境のなかで何気なく教わる。そして、社会に出るとかなりの割合で何気なく忘れてしまう。フランクリンは、それよりもはるかに自覚的に深く学びとったので、この秘訣をトコトン使いこなすことができた。不利な環境を乗りこえた人間の強さである。この秘訣は、彼の全人生の活動を支えた。
フランクリンのお客さんは、最初は周囲のごく限られた人にすぎなかった。それでも、うれしいことだった。そのうれしさを原動力にしてさらに勉強し、工夫してつぎの作品をつくる。それでより多くのお客さんを得る。うれしくてさらに勉強して、工夫して……そういう「正のフィードバック」が極限までいってしまったのが、フランクリンという人なのである。
私たちも、フランクリンのやり方をまねてみるといいのだろう。彼と同じ近代社会に生きているのだから。彼のやり方は、恵まれない条件を克服しようと努力するなかであみ出された。きびしい条件下で使えるものは、大抵どこでも通用する。つまり、恵まれない人も、恵まれた人も関係なく役に立つはずだ。
今の時代は、知識を得ることも、「作品」をつくることも、それを社会に発信することもフランクリンの時代よりずっと簡単になった。たとえばインターネットのような、いろんな道具が揃っている。しかし印刷、新聞、郵便など、現在の道具の原型といえるものは、フランクリンの時代にすでにあった。だからこそ、私たちの社会もフランクリンの時代のアメリカ植民地も、同じ近代社会といえるのだ。
ならば、それらの道具を活用して、やれることをやってみればいいのではないかと思う。
フランクリンは、アメリカでは非常に有名な偉人だが、日本ではそうでもない。しかし、彼のことは知る価値がある。
参考文献
① 板倉聖宣著『フランクリン』仮説社、1996年
フランクリンについて、初心者にも読みやすく、しかも深く述べられている。本記事のメインの資料。フランクリンについて「近代社会を精いっぱい生きた」というのは板倉による表現。
② フランクリン著、松本・西川訳『フランクリン自伝』岩波文庫、1957年
③ 池田孝一訳・亀井俊介解説『アメリカ古典文庫1 フランクリン』研究社、1975年
フランクリンは合衆国憲法の制定会議に重鎮として参加し、閉会の際には名演説を行った。合衆国憲法には実験的な近代国家アメリカの精神が集約されている。合衆国憲法の制定(そこでのフランクリンの名演説)については、当ブログのつぎの記事を。