目 次
- 「どうでもいい仕事」が増えている
- 昔はコンプライアンス部なんてなかった
- 「社会に必要な仕事」の待遇
- 現象に名前をあたえて問題提起した
- ブルシット・ジョブは、先進国におけるレント(利権)の肥大化
- 仕事の本質は「苦行」ではなく「ケア」
- 良書だが、この本を読み通す人がどれだけいるか
「どうでもいい仕事」が増えている
イギリスの文化人類学者・デヴィッド・グレーバーによる『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』(酒井隆史・芳賀達彦・森田和樹訳、岩波書店)を読んだ。
「ブルシット・ジョブ(Bullshit Jobs)」とは、訳せば「クソみたいな、どうでもいい仕事」ということになる。とくにホワイトカラーの「どうでもいい仕事」を指す。
現代社会では、ホワイトカラーの「どうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」が増えているのだと、グレーバーは言う。
たとえば企業の管理職や役所に付随する仕事。人事・広報やコンプライアンスの業務、さまざまなコンサルタント、金融のプロ、企業の顧問弁護士、会計士……これらの多くはそれにあたる。
こうした仕事すべてがブルシット・ジョブだというのではない。ただ、こうした仕事は、グレーバーが主張するつぎの「ブルシット・ジョブの主要類型」にあてはまる傾向が強い。その類型とはこういうものだ。(本書の表現を私そういちがやや要約)
1.取り巻き 誰かを偉そうにみせるためだけの仕事
2.脅し屋 雇用主のために人を脅したり欺いたりする仕事
3.尻ぬぐい 組織のなかのあってはならない欠陥を取り繕う(解決するのではない)仕事
4.書類穴埋め人 組織が実際にはやっていないことをやっていると主張するために存在する仕事
5.タスクマスター 他人に仕事を割り当てるだけの仕事
こういう要素は、さまざまな仕事のなかに存在しないわけではないが、ブルシット・ジョブの場合は、これらの要素のどれかが仕事のメイン、あるいは全てであり、仕事をする本人がそれに意味を感じていないのである。
昔はコンプライアンス部なんてなかった
そして、ブルシット・ジョブは、数十年前よりも大幅に増えているのだと、本書では述べている。たしかに私もそうだと思うし、多くの人も同感だろう。
昔はコンプライアンス部なんて会社にはなかった。人事や広報のスタッフはもっと少なかった。こんなにさまざまな分野のコンサルタントはいなかった。
また、実務的な世界だけでなく、クリエイティブな分野でもブルシット・ジョブの増加はみられるのだそうだ。アートの世界では、昔はアーティストと画廊のオーナーがいただけだったが、今はいろいろな分化した専門家がアートの取引に関わっている。それらの新しい仕事にはブルシットなところがあると。
ハリウッドでも、近年は脚本家や監督、プロデューサーの間にいろんな役職者が何層にも存在しており、その人たちはとくに何をすることもなく、自分がすることを探して毎日を過ごしているという。
そして、こうした「どうでもいい仕事」に就く人たちの多くは、本音では「自分は人や社会の役に立っていない」と感じている。にもかかわらず、しばしばかなりの高給で、ステイタスも高いのであるーーグレーバーはそう主張する。
私自身は、本書が「ブルシット」だという、コンプライアンスや内部監査といった仕事を会社勤めの頃に担当したことがある。そこで、このあたりを読んでいて身につまされる感じがしてならなかった。私のキャリアのかなりの部分は、ブルシット・ジョブだったのかもしれない。
「社会に必要な仕事」の待遇
そして、自分の仕事をむなしいと感じる高給取りが多くいる一方、社会に不可欠な、ニーズの高い仕事をする人たち(コロナ禍で普及した表現でいえば、エッセンシャルワーカー的な人たち)が不遇な目にあったりしているのではないか。
グレーバーが言うように、生産現場などのブルーカラーの仕事は、この何十年かで効率化がすすんで「どうでもいい仕事」はあまり存在しなくなった。しかしその現場では多くの非正規社員が働いている。
医療や介護の現場は、日本ではいつも人手不足だ。にもかかわらず労働条件・待遇が良くないことも多い。とくに介護の現場はそうだといわれる。本来なら「どうでもいい仕事」が存在する余地はないはずだが、いろんな記録や打ち合わせなどの業務負担が大きく、本来の業務にしわ寄せが生じることもあるという。
記録も打ち合わせもたしかに必要な仕事だが、やりすぎると「どうでもいい仕事」の側面が生じてしまう。仕事が「ブルシット化」しているのである。
なんだかまずい状況だ。本書は、こういう現代社会の状況について問題提起している。
現象に名前をあたえて問題提起した
たしかに「ブルシット・ジョブの蔓延」はやはり大問題ではないかと、私も本書を通して思った。
この問題については、かなりの人が経験的に感じてはいるのだろう。しかし、明確には意識されてこなかった。そもそも、誰かの仕事について「これはブルシットだ」というのは、話題にしにくいところがある。また、ブルシットな仕事を問題視するとしても、政府などの公的部門に特有のことだと思われ、民間を含む社会全般の問題だという視点は、一般的ではなかった。
しかし著者のグレーバーは、この現象に「ブルシット・ジョブ」「ブルシット化」といった名前をあたえて、人々に意識化を促したのである。
ただし、本書によれば「そんな問題は存在しない」という主張もあるそうだ。
その主張は、「以前にはなかったさまざまな職業が存在するのは、社会が高度化して社会的分業がすすんだ結果で、問題などではない」とか、あるいは「資本主義社会では、市場原理が働く以上、ニーズのない仕事は淘汰される。現に対価が支払われている仕事が、不要な・どうでもいい仕事ということはあり得ない」といったものである。
そういう反論はたしかにありそうだ。これに対しグレーバーは「ブルシット・ジョブは資本主義の外にある現象だ」ということを述べている。
ここを私なりに説明すると、「たしかに社会の高度化とか、市場原理といったことは現代社会の基本にあるが、いつもその原理に従って動いているとは限りませんよ」ということだ。高度化や市場原理から逸脱した堕落したあり方も、この社会には存在しているのではないだろうか。ブルシット・ジョブはまさにそれなのだ。
ブルシット・ジョブは、先進国におけるレント(利権)の肥大化
ブルシット・ジョブとは何かというと、経済における「レント」というものの一種ではないかと、グレーバーは述べている。レントとは、経済用語で「制度や権力がもたらす利権」のことである。レントを追い求めることを指す「レントシーキング」という言葉もある。
“もし資本主義の論理に逆らっているようにみえるとすれば、ブルシット・ジョブの増殖に対するただひとつのあり得る説明は、いまのこのシステムが資本主義ではないからということになる”(本書251㌻)
“それはますますレント取得のシステムとなりつつある”(252㌻)
この点を、私なりに補足したい。ブルシット・ジョブにかんする大事なところだ。
経済発展が停滞している発展途上国では、まっとうな生産的活動による利益を追求するのではなく、企業や有力者がレントシーキングばかりに力を入れる傾向がある。権力者に対し、賄賂を含むさまざまな働きかけを行って、利権を得ようとするのである。レントシーキングは、資本主義の市場原理に反する行為である。
だから、レントというと社会・経済が未熟な発展途上国的なものと思いがちだ。しかし、現代の先進国ではブルシット・ジョブの蔓延というかたちで、レントの極度の肥大化ということが起こっているのではないだろうか。
ブルシット・ジョブの蔓延とは、現代の先進国における「レントの肥大化」の現象なのである。それを可能したのは、工業や輸送などでの技術進歩による生産性の向上である。
本来なら、その向上した生産力をもとに、労働時間を短縮する方向に進んでもよかった。しかし、現実の社会では、たくさんの「どうでもいい仕事」が新たにつくり出されたのである。
レントがはびこる非効率で歪んだ経済は、そのうち機能不全を起こして衰退していくのだろう。そうなれば多くのブルシット・ジョブを維持する余裕も、社会から失われていく。
そして、そうなったときには、社会にほんとうに必要なさまざまな領域の活動も、すっかり傷んでいるにちがいない。今のコロナ禍での、社会に余裕がなくなった状況では、医療や介護などのエッセンシャルワーカーの多くが負担や苦しみを強いられているようだ。だから、ますます心配になる。
そういう、不幸な未来は避けなければならない。でも、「ブルシット化」ということは、今の社会に深く根を張っているので、なかなか難しそうだ。
仕事の本質は「苦行」ではなく「ケア」
本書を読むと、「仕事って何だろう」ということを、根本から考えさせられる。
本書によれば、日本だけでなく欧米でも、「仕事はそれ自体が尊い」「仕事は苦行でなければならない」「給料は苦行への対価」という価値観は根強くあるのだそうだ。そういう価値観を見直すことを、本書は促している。
こういう価値観のセットが強く作用していたからこそ、巨大な生産力を労働時間の削減に向けるのではなく、新たな仕事をつくり出し、その「むなしさ」の苦痛に耐えている人たちに給料を払うことが正当化されるのである。
グレーバーが「仕事とは何か」に関して強調しているのは「ケアの提供(人の世話をする、人の役に立つ)」という要素である。ケアこそが仕事というものの核心にあるのではないかと。そして、介護のようなわかりやすいかたちのケアだけでなく、たとえば橋を建設することも、橋を利用する人たちへのケアの提供という面があるのだとも述べている。
本書から私が得た大事な結論のひとつは「仕事の本質は苦行ではなく、人へのケアの提供である」ということだ。人へのケアという要素が自覚され実行されるなら、その仕事はブルシットではない。本書のなかで「ブルシット的」とされる仕事であっても、そうではないものとして取り組むことも、場合によっては可能かもしれない。そんなことを思った。
良書だが、この本を読み通す人がどれだけいるか
現代の社会や生き方について考えるうえで、本書はおおいに参考になる。ただ、400ページ余りの重厚な本で、学者的な書きぶりがやや読みにくいところもある。この記事では、それをできるだけかいつまんで述べたつもりである。本書からの引用も、読みやすさのためにあえてほとんど入れなかった。
そして、たしかに分量があるだけ、さまざまな事例や論点について述べ、議論を深めてはいるのだが、このかなり分厚くて税込みで4000円ほどもする本を手に取って読み通す人は、必ずしも多くはないのでは?でも、そうなっては残念な本だ。
さまざまなところで話題になっても、実際に現物をきちんと読んだ人がそれほど多くない本というのがときどきある。近年だとピケティの『21世紀の資本』などはそうだ。本書もそのひとつになってしまわないか心配だ。
この本とは別に、著者自身か、著者監修による簡略バージョンをつくって、より多くの人に読まれたらいいのに、などとも思った。
デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』
もしも本書を読むのがしんどい、という場合には、つぎの新書に収録されているグレーバーへのインタビューで、ブルシット・ジョブについて手短に知るのも良いかと。
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