そういち総研

世界史をベースに社会の知識をお届け。

ベネチア(ヴェネツィア)共和国の歴史に学ぶ、ゆるやかで幸福な没落

目 次

 

これからの繁栄の基盤は?

今の日本にとって最重要の長期的課題は、「これからの繁栄の基盤をどうするか」ということではないだろうか。

この数十年の日本の繁栄の基盤は「家電や自動車などの工業製品をつくり、輸出すること」だった。つまり「工業立国」ということ。

しかし、この基盤は近年かなり揺らいでいる。中国などの新興の工業国の台頭やIT化の進展などの、大きな環境変化がその背景にある。工業立国としてのお株を新興国に奪われ、日本のお家芸だった従来型の工業が、産業の花形ではなくなってきている。

これまでの繁栄の基盤が揺らいでいるなら、私たちはこれからどうするかを考えないといけない。

そこで、世界史上の事例として、ベネチア共和国は参考になる。

ベネチアは、中世イタリアの有力な都市国家のひとつである。そして、その長い歴史のなかで、環境の変化に応じて繁栄の基盤を変えている。

1300~1400年代の最盛期のあと、ベネチアはそれまで繁栄を支えてきた東方との中継貿易が衰退すると、ものづくりや地域経済重視にシフトし、さらに後には文化国家や観光立国に変貌していった。国際社会でのプレゼンスは大きく低下したが、国民生活は高い水準を維持した。そして、1700年代末に征服されるまで、国の独立を保ったのである。 

 

ベネチア(ヴェネツィア)の発祥

ベネチアの歴史は西暦400年代にまでさかのぼる。西ローマ帝国の末期の時代である(西ローマ帝国は476年に崩壊)。その頃ローマ帝国の中心・イタリア半島は、ゲルマン人の一派であるゴート人や遊牧民のフン人などによる攻撃を受けていた。

その難を逃れて、イタリアの周辺地域などからやってきた人たちが、のちにベネチアに発展する小さな集落をつくった。

ベネチアは、イタリア北東部のアドリア海に面した一画にある。そこはラグーナ(潟)といわれる浅瀬に囲まれ、それが外部からのアクセスの障害になっていた(ただし、ラグーナの地理に通じた地元の人間なら難なく通れた)。異民族から逃れて移り住むには好都合な場所で、国防上も有利だった。

ただし、ベネチアの一帯は沼地が多く荒れた土地で、農業には向かない。人が住みつかなかった悪条件の土地に、ベネチア人の祖先はやむなく移ってきたのだ。

初期の時代のベネチア人は、漁業と塩づくりで生きていた。水産品と塩を外に売りに行って食糧その他を手に入れた。さらに建設資材を調達して、浅瀬を埋め立てて集落を拡大することもすすめていった。

そして、600年代末には、「ド―ジェ」という国家元首が統治する体制が成立した。元首は、終身制であるが世襲ではなく、特権的な有力者=貴族による選挙で選ばれる。

つまり、ベネチアは王国ではなく、一定の民主主義に基づく共和国だった。商人でもある貴族たちによる集団支配の体制である。なお、この「貴族」は世襲である。1人に絶対的な権力が集中することはタブーだった。元首でさえ、さまざまな行動の制約を受けた。

そして、多少の動揺は何度かあったが、歴史の最後までこのような共和国体制を維持し続けたのである。

 

貿易の発展・最盛期へ

やがて、ベネチア人は本格的な貿易業に乗り出し、それをおもな生業とするようになった。もともと、塩や海産物を船で外に売りに行っていたことの発展形である。

その当初、ベネチア人は東側の近くにあるビザンツ帝国(東ローマ帝国)からの積荷を、川をさかのぼって運び、イタリア本土(北西部など)で高く売って利益を得ていた。

ビザンツ帝国は、体制崩壊を免れたローマ帝国の東半分の地域である。中世初期の頃には、ビザンツのほうが西欧よりもはるかに経済・文化が栄えていた。

ベネチアは長いあいだビザンツ帝国の属国だった。しかし、うまく立ち回って高い独立性を確保していた。そして、ビザンツの傘下にいるかぎり、西欧の王国やローマのカトリック勢力は簡単には攻めてこない。これがベネチアの安全保障の基本である。

その後、800~900年代には、ベネチアの貿易業はさらに発展した。ビザンツの背後にあるアジア(インド・中国など)からの商品も、さかんに取り扱うようになったのだ。イスラム(西アジア・アフリカ)との取引もはじまった。東方との貿易がベネチアの「繁栄の基盤」となったのである。

そのメインの商品は、高価でかさばらない絹布と香辛料だった。これらを西欧の各地に高値で売って、一方で西欧の金属製品や毛織物などを仕入れてビザンツやイスラムに売りさばいた。このほかワイン、油、干しぶどうなども重要な商品だった。

また、貿易業とともに、造船業や製鉄業も急速に発達した。のちにベネチアは海運大国になっていく。建物やインフラの整備もすすんだ。海軍を中心とする相当な軍事力も保有するようになった。

そして、1100年頃に始まり1200年代末まで続いた「十字軍」の運動は、ベネチアにとってさらなる発展の契機となった。十字軍は、西欧のカトリック勢力が「聖地奪還」などを大義名分としてイスラムへの侵攻を行ったものだが、それに絡む物資調達や輸送をベネチア商人は多く請け負うなどして、巨額の利益を得たのである。

そしてこの時期、東地中海のいくつかの島を支配化において、拠点とするようにもなった。

1200~1300年代には東方と西欧を結ぶ貿易のビジネスは最高潮に達した。この時期、東西の交流・通商に関心が高いモンゴル帝国が栄えたことは、ベネチアにとって追い風となった。

また1400年頃以降は、東地中海の各地を貿易のための拠点として支配下におさめる動きが活発化した。さらに、この時期にはベネチアの対岸の地域でも領土を大きく拡大した。このようなベネチア周辺の新たな領土は、いわば「陸のベネチア」である。

「陸のベネチア」の拡大は、フランス、ドイツなどの北側の地域とつながる商業路の安全確保を、おもな目的としたものだ。

そして1400年代は、ベネチアの絶頂期だった。貿易や海運業がおおいに利益をあげ、政治も安定していた。貴族や富裕層のあいだでは学問もさかんになり、文化力も高まった。

なお、ビザンツ帝国は1200年頃からはすっかり衰えていたので、「ビザンツの傘」ということは成立しなくなっていた。しかしベネチアは、すでに強国になっていたので、問題はなかった。

*なお、人口についてここで確認しておこう。1171年の史料によればベネチアの人口は6万6千人だった。そして1548年にはベネチア市の人口は15万人、その支配地の「陸のベネチア」(テッラフェルマという)の総人口は142万人だった。

 

環境の変化

ところが1400年代後半から、国際環境が大きく変化しはじめた。モンゴル帝国は解体し、そのあとに新しい大国としてイスラムのオスマン帝国(オスマン・トルコ)が台頭してきた。オスマン帝国は1453年にはビザンツ帝国を完全に滅ぼしてしまった。

そして、オスマン帝国は東地中海のベネチアの拠点の一部を奪ったりもした。ただし、このように軍事的には対立していても、オスマン帝国とベネチアの通商はさかんだった。

そして、1400年代末には大航海時代が始まった。その先鞭を切ったのはポルトガルによるアフリカ周り航路の開発である。大西洋側からアフリカの南端をまわってインド洋へ出て、アジアに至る航路。ポルトガル人はこのルートでアジアに出て香辛料を仕入れ、西欧で売ることをはじめた。

しかし、ポルトガルがもたらす香辛料は、回り道のきわめて遠い距離を輸送するため高コストで、流通量も限られた。そこで、ベネチア経由の香辛料もかなりの競争力を保った。

ベネチアの貿易業が決定的に衰えたのは、1500年代末以降に、オランダやイギリスが強大になってからのことだ。これらの国ぐには、ポルトガルよりも大規模な活動を行い、多くの香辛料を以前より低コストで西欧にもたらした。そのほかの東方の品物についても同様だった。

そしてこの頃には、ベネチアの海運業も衰退しはじめた。商品の輸送を、オランダやイギリスの船に任せることも一般的になった。なお、海運力の衰えは、森林を乱伐したため造船用の木材が不足したことも影響している。

1600年頃から、国際社会でのベネチアのプレゼンスは急速に低下していった。

しかしこうした凋落傾向は、イタリア全体に共通のことだった。中世末期のイタリアでは、複数の国家が並立していた。ベネチア共和国のほか、フィレンツェ共和国、ミラノ公国、ナポリ王国がその代表だが、それらのイタリアの諸国も1500年代には勢いにかげりがみえていた。

そして1400年代末から1500年代にかけて、イタリアはフランスとスペインの覇権争いの戦場となった(イタリア戦争、1494~1559)。この戦争でイタリアは荒廃し、ナポリなどの大半がスペインに征服されてしまった。そのなかでベネチアは、どうにか独立を保った。

一方、1500年代初頭(1508~1516)には、ベネチアは「ベネチア包囲網」といえる諸国の攻撃を受け、最大の危機に陥っていた(カンブレー同盟戦争)。

これは、1400年代に「陸のベネチア」が拡大したことに対し、「ベネチアは帝国を築こうとしている」と警戒する国ぐにが同盟して、ベネチアを攻撃したのである。この同盟(カンブレー同盟)には、ローマ教皇、イタリアの諸国、神聖ローマ帝国(≒ドイツ)、スペイン、フランス、イングランドなどが参加していた。

ベネチアはこの戦争に敗れ、独立は保ったものの「陸のベネチア」のほとんどを失った。ただし、10年もたたないうちに領土はほぼ回復した。イタリア戦争などで国際情勢が混迷するなかでの、巧みな外交と戦闘による成果である。

1500年代半ばには、ベネチアの国勢はかなり回復した。しかし、その後オランダやイギリスの台頭で大きな環境変化に直面したのである。

 

ベネチアと日本の歩みの共通点

ここまでのベネチアの歴史をみて、どうだろうか? 近現代の日本の歩みと重なってみえるところがあるのではないか。

世界の片隅の、海に守られたロケーション。貿易によって食糧や資源を確保する以外に生きる道はない。覇権を争う大国のはざまの有利なポジションで、ビジネスに励む。知恵を絞って懸命に働き、経済大国に。

その勢いが国際社会では「脅威」とされてバッシングを受ける。

そして頂点を極めたあとは、巨大な新興国が台頭して、繁栄の基盤が揺らいでいく…

第二次世界大戦後の日本は、米ソが対立する冷戦構造のなかで、アメリカ陣営に属し、その軍事力の傘のもとで経済に専心した。これは、ベネチアがビザンツ帝国の傘のもとで活動したのと似たところがある。

そして、日本は経済に最も勢いがあった1980~1990年頃に、欧米が主導する国際社会から警戒され、バッシングを受けた。この時代、「プラザ合意」(円高ドル安を誘導し、アメリカの対日貿易赤字を削減することを意図した欧米と日本の合意)や日米貿易摩擦といったことがあった。

これは、戦争にはもちろん至らなかったものの、強大化したベネチアを警戒して、カンブレー同盟という包囲網が結成されたのと似ている。

そして、オランダやイギリスが台頭してベネチアのビジネスに深刻なダメージをあたえた様子は、現代の世界で、中国などの新興国の工業が急発展し、日本の脅威となっているのと重なるのである。

また、オランダやイギリスの躍進の基礎には、大西洋を航海する技術があった。その技術革新に、ベネチアは海洋国家であるにもかかわらず、ついていけなかった。新しい技術を取り入れることに消極的でさえあった。

その様子も、今の日本と似たところがあるのではないか。日本は、かつては「電子立国」といわれたこともあったのに、今のIT化の技術革新では後れをとっている面がある。

ただし、貿易業の開始からベネチアが頂点に達するまでの歴史は数百年にわたるが、工業国家としての日本の歴史は、明治・大正の頃から数えても100年余りにすぎない。日本の歩みは、ベネチアと比べれば短く圧縮されたものだ。近代社会の変化の速さということがあるのだろう。

 

変化への対応

ではベネチアは、1500年代以降の大きな変化にどう対応したのだろうか?

まず、製造業へのシフトを試みた。1500年代になると、ベネチアでは毛織物や絹織物の生産がさかんになった。毛織物については羊毛や半製品を輸入して加工し、高級品を製造した。絹織物は「陸のベネチア」の養蚕業がもたらす糸を用いた。

ベネチアでは、こうした繊維産業は以前から一応はあったが、生産は限られていた。狭いベネチアでは、大きな工場の土地や工業用水の確保が難しかったのだ。しかし変化への対応として、当時の最もメジャーな産業に活路を見出そうと、織物の生産に本格参入したのである。また、繊維産業のほかに、工芸品の生産、印刷・出版なども活気づいた。

しかし、ベネチアの毛織物は、一時は西欧やオスマン帝国の市場でかなり売れたものの、1500年代後半にはイギリスなどの新興国の製品に押されて、衰退してまった。新興国の製品は、安価で品質はまずまず、色や柄は繊細なベネチア製とはちがって、カラフルでわかりやすいものだった。市場の多数派はそちらを求めたのである。

しかし、一部の芸術性の高い工芸品、絹織物、高級家具などの贅沢品の分野では、ベネチアの製品は一定の競争力を保ち続けた

 

1600年代における経済の再編

そして、1600年頃からベネチア経済ではさらなる再編成がすすんだ。内需や地域経済へのシフトということが起こったのである。

貿易や海運、造船の仕事が衰退し、輸出用の製造業もそれほどは振るわないなか、1600年代のベネチアでは食料品の加工・販売業者、飲食店が増加した。これは、食文化の発達をおおいにうながした。洋品店、宝石商、香辛料販売などのさまざまな小売業も増えた。建設業や印刷業も伸びた。

そのほか、サービス業も職種の幅が広がり、就業者が増えた。たとえば街路清掃、門番、牛乳配達などのデリバリー、洗濯業、インク売りなどの細々した用品の販売といった仕事である。

また、ベネチアの港は、国際商業の拠点から地域の物流を担うローカルな港へと変化した。地域のニーズを満たす製品や、「陸のベネチア」などの近隣で産出する農産物や原料を取り扱うことが、おもな役割となった。港に来る船は、大型船が減って近距離用の中・小型船が中心になった。しかしそれによって、港は新たな繁栄期をむかえたのである。

このような経済の再編によって、国際社会でのプレゼンスが低下しても、国民生活は高いレベルを維持し続けた。1600年代のベネチアは、新しい「繁栄の基盤」を築くことにかなり成功した。

 

「文化国家」への変貌

そして、1600年代以降のベネチアは、「文化国家」として評価されるようになっていく。

たとえば、1600年代前半、ベネチアでは劇場がつくられるようになり、多くの観客を集めた。このような一般向けの劇場は、当時はまだ珍しいものだった。同時代のヨーロッパのほかの国では、演劇やコンサートはおもに宮廷内で行われ、一般の観客にはオープンではなかった。

そして、1600年代のイタリアでは音楽と演劇を融合させたオペラという新しい芸術が生まれ、ベネチアはオペラの中心地のひとつとなった。

祭り・イベントも、1600年代にはおおいに盛んになった。当時のヨーロッパ諸国では、君主の権威を高めるために、国家が祝祭的なイベントに力を入れる傾向があったが、ベネチアはそれがとくに盛んだった。国際社会での地位が低下するなかで、文化的な発信をして、国の威信を復活させようとしたのである。

この目論見は成功した。ベネチア人のプロデュース力は高く、国内外の多くの人びとを魅了するさまざまなイベントを生み出した。また、洗練されたデザインの新しい建物も多く建設され、都市の景観も向上した。

出版や学芸も、1600年代には一層さかんになった。ベネチア市内には、この規模の都市としてはじつに多い数の書店が軒を並べていた。

また、1600年代後半には、ヨーロッパではじめての「コーヒーハウス」がベネチア市内にオープンした。これは、イスラム発の飲物であるコーヒーを提供する、カフェの原型といえる飲食店である。

 

1700年代の「観光立国」化

1700年代になると、ベネチアは歓楽の都として有名になる。さまざまな楽しみや文化を求めて、ヨーロッパ各国の人びとがベネチアにやって来るようになった。

ほかの都市にはない独特の景観・街並み。共和国の体制が1000年続く、かつてのイタリアの栄光が今も生きている都市。さまざまなグルメや演劇・音楽を楽しむことができ、すばらしい祝祭・イベントが頻繁に行われている。見事な工芸品やファッション。本屋や図書館も充実している。治安も良く、安全である…

さらにカジノや娼館のような「不道徳」な楽しみの場所でもベネチアは有名だった。「ベネチアの娼婦はすばらしい」と絶賛する、当時の有名な文化人もいた。ということは、そのほかの接客・サービス業でもすばらしい「おもてなし」をする人たちがたくさんいたはずだ。

こういう都市は、たしかに人を惹きつけるだろう。ヨーロッパ各国の王侯貴族や富裕層のなかには、ベネチアが気に入って何か月もの長期滞在をくり返す者も大勢いた。

また、ベネチアは一種の留学先としても人気だった。当時のヨーロッパでは、上流階級の若い男子は、教育の総仕上げとして、年単位の時間をかけてヨーロッパ各地を巡るツアーを行うのが慣習だった(家庭教師などが同行した)。これを「グランド・ツアー」というが、その目的地としてベネチアは定番だった。「若いうちにベネチアはぜひみておけ」ということだ。

さまざまな歓楽や文化があふれる「観光立国」――これがベネチアが長い歴史の果てにたどり着いたあり方だった。

それなりに発達した商業や製造業も残っていたのだが、それらはもうベネチアの基幹産業ではなくなっていた。

ベネチアの、かつての経済大国や地域の強国としての姿は、すっかり過去のものになっていた。だから、ヨーロッパの人びとは以前のようにベネチアと競い合ったり、ベネチアを警戒したりする必要はなくなった。そういう国の文化は、愛されやすい。さまざまな文化を発信する没落傾向の国というのは、人気を集めるのである。

ベネチアの人びとの価値観も、大きく変わった。かつての緊張感や勤勉さが後退し、人びとは「先を考えず今を楽しむ」ようになった。そして、ベネチアでは経済力や地位に応じて、誰もがそれなりの楽しみを得ることが可能なのだ。

そして、最下層の貧民だったとしても、ベネチアでは貧民救済の福祉がほかの国よりも充実していたし、市民は貧民に対して比較的親切だった。ベネチアを訪れた外国人のなかには「ベネチアではなぜこんなに乞食が厚かましくのさばっているのか」と困惑する者もいたくらいである。

また、女性の解放も、当時のほかの国にくらべればすすんでいた。この時代のベネチアの奥様たちは「女子会」のサークルをつくって、女子だけでパーティーをしたり旅行に行ったりした。男尊女卑の時代、ほかの国ではまずあり得ないことだった。

こういう「楽しみ優先」の社会は、おそらく良いことばかりではない。そこにはさまざまな無気力や頽廃のような暗い面もともなっている。しかし、ここではそこには立ち入らず、肯定的な面を取り上げた。

最盛期を過ぎてからのベネチアを単に「無気力で頽廃した国」と捉えるのは、従来的な古い見方である。近年の歴史研究をふまえれば、最盛期以後のベネチア共和国の歩みには「ゆるやかで幸福な没落」といえる面があることは確かだ。私たちは、そこに注目して参考にすべきである。

独立の共和国としてのベネチアの歴史は、1797年にナポレオンが率いるフランス軍に降伏することで終わった。ベネチア人はとくに抵抗せず、征服されてしまった。

 

これからの日本の選択肢「ベネチア化」

これまでみてきたことから、最近の日本が「ベネチア化」しつつあるのは明らかだ。もちろんそれは1600~1700年代の衰退期のベネチアである。

そして、これからの日本のあり方として、良いかたちでベネチア化していくことは、有力な選択肢だと思う。

ただし、国民の生活水準を高いまま維持したいなら、選択肢としてまず考えられるのは、かつての「経済大国」路線を、時代にあわせて更新していくことだ。

その場合、最先端の技術や発想によるさまざまな新しい産業を発展させ、世界との競争に勝たなくてはならない。ただ、これはかなりむずかしくなってきていると、多くの日本人は感じているのではないだろうか。

そこで「ほかの選択肢はないのか」といえば、それがベネチア化だ。

つまり、輸出産業は高付加価値の路線を極めていく。ただし、独善的ではない、市場のニーズに応えるものをつくる。

グローバル化一辺倒ではなく、国内需要や、東アジアなどの世界のなかの地域経済も重視する。

近年続々と生まれている新しいサービスの産業を、「枝葉」や「傍流」ではなく、全体としては「これからの産業の本流」として位置づけ、発展させていく。
 

そして、「文化国家」化をおおいにすすめて世界の人びとを惹きつける国になる、ということ。

これは、さらにハードルが高いことだ。たしかに最近は、さまざまな日本文化や日本的サービスが海外の多くの人びとから支持されている。日本への外国人観光客は急激に増えた。

かつて「エコノミック・アニマル」とまでいわれた日本人だったが、もう恐るるに足らないので、前より愛されるようになったのだろう。

しかし、それが長続きしてさらに発展するためには、文化の底力のようなものが必要だと思う。私たちはその力をこれから育てていけるだろうか?

この点で、私は不安を感じる。1600年代のベネチアのリーダーは、国家の威信のための文化的発信に強い関心を持っていた。かなりの場合、学問・芸術に対する関心も深く、そこにお金を投じることに積極的だった。

しかし今の日本のリーダー、とくに政治家は、どうも「文化」には冷淡なようだ。建前はともかく、本音ではそうだと思う。そうでなければ、学校教育の予算が先進国で最低レベル(対GDP比など)になったり、国全体の研究開発費でほかの主要国から遅れをとったりするはずがない。

また、多くの文化人がぼやくように「日本では芸術に対する公的支援があまりに少ない」ということにもなっていないだろう。多くの図書館が予算不足できびしい状態におかれることもない。そして、そういう政治や行政のスタンスを、私たち国民の多くもそれほどは気にしていない。

衰退期のベネチアのリーダーや国民は、おそらく文化が好きだったし、それが国の繁栄の基盤になり得ること、つまり何らかのかたちで結構なお金になることを知っていたと思う。

私たちも、ベネチアの例などを参考にしながらそれを共有していったらいい。

たしかに最近の日本とかつてのベネチアのあいだには似たところがある。しかし自覚や戦略がないままの「ベネチア化」では、ベネチアのようにはいかず、ただの没落になってしまうだろう。



2024年2月発売の拙著。世界史5000年余りの大きな流れ・通史を初心者向けにコンパクトに述べています。

 

参考文献

ベネチア(ヴェネツィア)の歴史に関するつぎの2つの本を参照した。①は1600年代以降の衰退期のベネチアをおもな主題にしている。②は従来あまり注目されなかった「陸のベネチア」の重要性について詳しい。どちらもベネチア史についての解説書としておすすめできる。

 

 ①永井 三明『ヴェネツィアの歴史 共和国の残照』刀水書房(2004)

 

②中平 希『ヴェネツィアの歴史 海と陸の共和国』 創元社(2018)

 

ベネチアと深い関係にあったビザンツ帝国についての当ブログの記事 

 

このブログについて 

 

ブログの著者・そういちの著作  

一気にわかる世界史

一気にわかる世界史