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古代ギリシア・アテネ(アテナイ)の民主主義・入門 教科書ではわからない、その価値

この記事では、世界史の「定番」的な項目のひとつ、アテネの民主主義(民主政)について述べています。教科書や学校の授業では今ひとつわかりにくい、その特別な意味や価値をお伝えします。

(前提の知識、ご存知ならスキップ)
古代ギリシアは、文化的には共通性のあるひとつのまとまりだったが、最盛期には何百ものポリス(都市を中心とする国家)が分立し、統一の国をつくることはなかった。これらのポリスが最も栄えたのは紀元前400~300年代で、この時期を古代ギリシア史のなかでは「古典期」という。

そして、古典期のギリシアで最も栄えたポリスであるアテネでは、多くの市民が直接政治に参加する民主主義の政治(民主政)が行われていた。

古代ギリシアの文化遺産にはさまざまなものがある。そのなかで民主主義は学問(哲学など)と並ぶ、最重要項目である。そして、古典期におけるアテネの民主政は、ギリシアの民主政のなかで最も高度に発達したものだ。

古代ギリシアのほかのポリスでは、少数の貴族の支配や、1人の権力者による独裁体制をとる国もあり、民主政のポリスばかりではなかったが、やはり民主政は有力ではあった。そして民主政のポリスの多くは、アテネの影響を受けていた。


*なお、言葉の使い分けとして、「民主主義」は、おもにその理念や思想に光をあてた言葉で、「民主政」は、具体的な政治運営のあり方を念頭においた場合に用いる。まあ厳密ではないが。

 

古代ギリシア主要部

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目 次

  

アテネの民主主義を簡単にスルーしない

アテネの民主主義について、数十年以上前の知識人のあいだでは、「民主主義の理想」であるかのように述べることも、かなりあった。しかし、近年はその限界を強調することが多い。「女性や奴隷、外国人は政治から排除されているので、本来の民主主義とは別物」「無知な多数派を扇動する、大衆迎合的な権力者(デマゴーグという)が政治を動かす『衆愚政治』に陥った」といったことが強調されるのである。

「今の民主主義とちがって参加者が限定される」「衆愚政治の側面があった」というのは、たしかにその通りだ。アテネをやたらと理想化するのはまちがっている。

しかし、だからといって、アテネの民主主義について簡単にスルーしてしてはもったいない。

アテネの民主主義は、世界史上における「驚異の出来事」だった。以前に、古典期のアテネの体制についてはじめて具体的に知ったとき、私はおどろき感動した。日本では弥生時代にあたる2300~2400年前に、これだけの手の込んだ制度に基づいて、多くの人びとの政治参加を実現した国家があったのだと。

これを知らずして世界史は語れない。民主主義についても語れない。この記事では、アテネの民主政の「おどろくべき達成」といえる面に、おもに光をあてる。

 

ペルシア戦争の勝利と民主主義

ギリシアのポリスが繁栄期に入ろうとしていた紀元前500年代、ギリシアの東側の西アジア(現代史でいう中東、アラブと重なる地域)では、アケメネス朝ペルシアという国が成立した。西アジアの広い範囲を支配する、当時としては空前の大帝国である。ギリシアのすぐとなりに、そのような大国が出現したのである。そしてアケメネス朝は、ギリシア人の領域に勢力を伸ばそうとした。

 

アケメネス朝ペルシア

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その結果、紀元前400年代の前半には、ギリシア人とアケメネス朝の間で、4回にわたって戦争がくりかえされた。ペルシア戦争である。ギリシアのポリスはアテネやスパルタを中心として結束し、アケメネス朝と戦った。そして、いくつかの合戦や海戦で勝利した。マラトンの戦いサラミスの海戦プラテイアの戦いなどは名高い。

ギリシアは、アケメネス朝を征服したわけではないが、撃退することに成功した。

ペルシア戦争の結果、ギリシアのポリスは当時の国際社会(地中海全域と西アジア)において、「列強」といえる地位を得た。なにしろ、あのアケメネス朝に勝ったのである。ペルシア戦争以後、アテネの主導のもとでギリシアのポリスの黄金時代が始まった。紀元前400~300年代のことである。この時期のことを、ギリシア史では「古典期」という。

大帝国のアケメネス朝をギリシア人が撃退したことは、当時の常識では予想外のことだった。

そして、ギリシアの勝利の背景には、民主主義の発達ということがあった。ギリシアでは、すべてのポリスではないにせよ、最大勢力であるアテネをはじめ、民主主義的な体制をとる国が多くあった。

ギリシアの民主主義では、権力の集中を排除して、市民のあいだの平等をはかることが重視された。そのことは、ポリス全体の結束力を高め、ペルシア戦争での勝利を後押しする要因となったはずだ。つまり、巨大な敵に対して、国家の多くの人びとが一丸となって必死に戦ったのである。

たとえば、上陸してきたペルシア軍を迎え撃ったマラトンの戦い(紀元前490年)では、アテネを中心とするギリシア軍1万人は、2万人ほどのペルシア軍に圧勝している。

このときのギリシア軍は「重装歩兵」という、甲冑・盾・槍で武装した兵士たちで固められていたが、その兵士たちが司令官の指揮のもとにペルシア軍に一挙に突入し、白兵戦を戦ったのである。この合戦でのペルシア側の死者が6400人ほどだったのに対し、ギリシア側はわずか190人余りだった。ギリシア軍の気迫は、すさまじいものだっただろう。

 

手の込んだ制度設計

では、そもそも民主主義とは何か。民主主義とは国家の政治的な意思決定に、それに従う国家の多数の人間が参加できるということである。「意思決定への参加」ということが、キーワードだ。

それには、独裁的な権力を否定し、国家を構成する人びとのあいだの平等を認めることが前提となる。

民主主義に対置されるのは「独裁」である。「独裁」は政治学的な用語で「専制」ともいう。なお、独裁・専制には、1人の君主が圧倒的な権力を持つ君主専制と、貴族や官僚のような少数の特権的集団による独裁(寡頭政という)とがある。

ポリスが成立した当初は、「貴族」といえる特権的な人びとが権力を握る体制がギリシアでは一般的だった。しかしやがて多数派の平民たちが力を伸ばし、多くのポリスで民主主義的な体制が成立していった。

ギリシアのポリスのなかで、民主主義が最も発達したのがアテネである。アテネでは紀元前508年のクレイステネスというリーダーが主導した改革で、徹底した平等主義の制度をほぼ完成させていた。

たとえば、アルコン職というポリスのトップを市民のあいだのくじ引きで決める制度である。また、独裁者になろうとする危険人物を市民の投票によって追放するといった制度も設けられた。その投票では、陶器のかけらに追放すべき人物の名前を記したので「陶片追放」という。

そして、一種の議会制度もクレイステネスの時代とそれ以降の改革で整備されていった。アテネの最高決定機関としては市民全員が参加できる「民会」があったが、そのような全員参加型の機関は実務的には機能しにくい。そこで、市民の代表500人による「評議会」を新設し、民会を補佐することとした。

 

そして、国内をフェレー(「部族」「部会」などと訳される)という、大きな単位で区分した。10のフェレー(十部族)が置かれ、各フェレーから50人ずつの代表が評議会のメンバーに選ばれた。軍隊の司令官(将軍職)も、各フェレーから1人ずつである。フェレーという単位は、アテネの国制の柱だった。

また、村落レベルの細かい区分として、デーモスという単位も設けられた。その数は100数十(史料で知られているのは139)ほどで、このデーモスを基礎にフェレーは組織された。

そして、フェレーを組織するにあたっては、人口のほか、都市部・沿岸部・内陸部といった地域特性のバランスも考慮されている。つまり、フェレーのあいだで人口やその他の属性でばらつきが生じないように配慮されていた。

これには、貴族政の名残や家柄による対立などの、従来の政治を一新するねらいがあった。また、評議会のメンバーには任期があり、再選も制限されていた。権力の集中を避け、市民の平等をはかるためである。その他のさまざまな役職についても同様だった。

このように、アテネの民主主義は、相当に考え抜かれた・手の込んだ制度設計だった。そして、法的なルールが市民のあいだで共有され、政治的な権限が家柄や個人の威光ではなく、組織や役職に基づくことが原則となっている。法や組織を備えた民主主義といっていい。

なお、軍の司令官である将軍職は、抽選ではなく選挙で選ばれ、例外的に再任やほかの職との重任が可能で、任期に制限がなかった。

紀元前400年代後半、アテネの指導者として市民の絶大な支持を得て活躍したペリクレスは、将軍職に十数年間続けて選ばれている。アテネの民主政の最盛期には、抽選で選ばれ任期の制限があるアルコンは国のトップとしては名目的になり、将軍のなかの実力者が事実上の国のトップとなった。

 

僭主政治の苦い経験

なぜ、そこまで権力の集中を避けようとするのか? それは、独裁政治の苦い経験があったからだ。

それは、紀元前500年代のことである。当時のアテネでは、従来の少数の貴族による支配が揺らいで、台頭する多数派(平民)の政治力が大きくなりつつあった。この頃は貴族政治から民主政への過渡期である。

そして、紀元前561年に、ぺイシストラトスという人物が平民からの支持を集め、さらに武力で貴族勢力を排除してアテネを治めるようになった。

ペイシストラトスは強大な権力を得たが、支持層である多数派のために、当時としてはまずまずの善政を行った。しかし、その後を継いだ息子ヒッピアスは、典型的な暴君となった。自分の親衛隊を用いて、多数の人びとを謀反の疑いで捉え、処刑したりしたのである。

その後、紀元前510年にスパルタの支援を得たアテネ市民の一派が、ヒッピアスを打倒した。そして紀元前508年から、クレイステネスの改革が始まったのである。

古代ギリシアの用語では、ペイシストラトスは「僭主」といわれる。これは、「武力で、非合法的に独裁的な権力を得た者」のことだ。僭主が良い政治を行うこともあるだろう。しかし、それが暴走した場合は、取り返しのつかない恐ろしいことになる。そして、実際にそれは起こった。これを二度と繰り返さないために、アテネでは1人への権力集中を徹底的に避けるようになったのだ。

 

かつてない、新しいタイプの国家

なお、「民主主義」といっても、アテネの民主主義に参加できる人びとは、限定されていた。市民としての参政権は、女性や奴隷、外国人にはあたえられなかった。

古代ギリシアにおける市民とは、理想的には槍や甲冑などの装備を自前で用意して、さきほど述べた「重装歩兵」として戦争に参加できる人びとだった。装備には費用がかかるので、それなりの経済力がないと市民としての義務が十分には果たせない。

アテネの市民とは、参政権を独占する特権的な人びとの集団だったともいえる。しかしその特権的な層の厚さは、それまでのどの社会よりも上回っていたのである。

 

ここで、アテネの人口規模とその内訳を確認しておこう。最盛期だった紀元前400年代後半のアテネの総人口は20~30万人と推定されている。ただしこれは、都市部だけでなく周辺も含めた「アッティカ地方」とよばれる地域全体の人口である。都市部に限定すると、その人口は10~15万人とみられる。これは、市民だけでなく奴隷や外国人も含めた数だ。

そして、20~30万人の総人口のうち、参政権のある男子市民4~5万、市民の家族16~17.5万、奴隷6.5~10万、在留外国人2.5~5万。

つまり、全人口の5~6分の1の人びとに参政権があったのだ。たしかに現代の民主主義とくらべれば限定的だ。

しかし、たとえば革命直後の1791年のフランス憲法のもとでは、参政権を持つ国民は、一定の財産を有する全体の16~17%(2600万人中430万人)である。日本で初めて国政選挙が行われるようになった頃の、1889年(明治22)の選挙法のもとでは、有権者は全人口の1%(45万人)にすぎない。つまり、アテネの「限定的な」民主主義は、近代の選挙制度の初期の頃よりも、割合として多くの人びとが参加していた。

ギリシア人はこのような民主主義的な制度を整え、社会の結束を実現した。これは、かつてない新しいタイプの国家だった。

それまでの世界におけるおもな国家は、すべて国王の独裁・専制を原理としていた。アケメネス朝ペルシアも、まさに大王(皇帝)専制の国家だった。多数の人びとが政治的な意思決定に参加することなど、考えられなかった。そのような体制だったアケメネス朝の軍勢には、ギリシアのような結束や必死さはなかった。

民主主義的な意思決定は、未開の部族の小規模なコミュニティではめずらしくない。「文明」以前の社会では、メンバーのあいだの格差は比較的小さく、絶対的な権力も成立していないのが一般的だ。

しかし、文明化して大規模な共同体(国家)を築くと、多くの場合、独裁・専制の体制になる。ギリシアの文明が起こる前から栄えていたメソポタミアやエジプトなどの西アジアの国家は、すべてそうだった。

ところがギリシアのポリスでは、かなりの規模の文明国でありながら、民主主義が発達した。君主専制でも寡頭政でもない体制である。「文明国なのに民主主義」という、同時代の基準でみれば特異な体制を実現したのだった。

 

6000人が集まるアテネの民会

アテネの民会の議場は、パルテノン神殿などがあるアクロポリスの丘からやや離れたプニュクスの丘という一画にあった。その遺構は今も残っている。露出した石灰岩を刻んでつくったステージがあり、それを扇形の平坦な聴衆席が囲んでいる。

聴衆席の収容人数は、紀元前400年代(アテネの最盛期)で約6000人。それが民会の成立に必要な定足数だった。数万人の男子市民全員が集まるわけではない。そして、民会の開催は紀元前300年代末のアリストテレスの記述(『アテナイ人の国制』)によれば月4回にも及び、かなりの頻度だった。

民会でとくに重要な議題は軍事・外交に関することだった。そのつぎが国家の功労者への顕彰(名誉の授与)や外国人への市民権授与である。軍事以外の日常的な財政については、民会はほとんどタッチせず、市民の代表によって構成される、前述の「評議会」にほぼ委ねられた。評議会は、民会での議案を作成・提出する機関でもあり、その権限は大きかった。

それにしても、今から2400~2300年前に、6000人以上が年間に何十回も集まって国政ついて議論する国家が存在したのである。そして、その運営は相当込み入ったルールに基づいている。これはたしかに世界史上初めての、画期的な政治体制だった。

ギリシアで民主主義が発展したのはなぜか? これといった定説はない。そのような原因論は、答えをみつけるのがむずかしく、ここでは立ち入らない。ただ、ギリシアの民主主義が同時代の国家とくらべ特異だったことを、確認しておく。

 

繁栄の基礎としての民主主義

アテネで民主政が行われたのは、紀元前400~300年代の200年弱の期間である。300年代の終わり頃には、ギリシアのおもなポリスの全体が、アテネも含めギリシア北部のマケドニア王国に支配されるようになり、根本的な体制が変わってしまう。

アテネの民主政については、冒頭にも述べたように、衆愚政治に陥ったことなど、その限界や負の側面についての指摘がある。

たしかに、アテネではデマゴーグ、つまり今でいえばポピュリスト(大衆迎合)的なリーダーが台頭して、国の方針を誤ったこともあった。たとえば、一部の政治家が焚きつけて世論が盛り上がり、侵略戦争を正しい情報や準備もないまま行った結果、大失敗したりもした。

しかし一方で、200年の民主政の間に、アテネは経済的にも文化的にもおおいに繁栄した。その繁栄をベースにほかのギリシアのポリスを配する一種の帝国を築いた。そして、人類史上不滅といえるさまざまな文化遺産を残した。

そのようなアテネの活気やパワーと民主主義は関係があったとみるのが自然だろう。民主主義は、多くの人びとの社会への参加意識とともに、活力や才能、パワーを引き出したのである。

しかし、同時代のアテネの知識人のあいだでは「反民主主義」の傾向が根強くあった。哲学者のプラトンは、民主主義を否定し、哲学を身につけた貴族的なエリートが国を治めるべきだと主張した。

プラトンの主張はかなり極論だが、民主主義に否定的な知識人は、ほかにも多くいた。アリストテレスは、政治体制としては民主政を一応は評価していたが、現実のアテネの民主政治については批判的だった。

そして、民主政に関する、古代ギリシアにおける考察のほとんどは、民主主義に批判的な知識人によるものなのである。一方、現実の体制は民主主義だったのに、「民主主義」派は、政治理論を書き残していない。(橋場弦『民主主義の源流 古代アテネの実像』講談社学術文庫、22~23ページ)

こういうバイアスがあるので、今の知識人も、アテネの民主政をつい厳しい目で見てしまう。「それが知的な姿勢」と思ってしまうのだ。

でも、このバイアスを自覚して、そこから距離をおいてアテネの民主政を素直にみれば、「これはすごいものだ」とわかるはずだ。

そもそも、自国の現体制である民主政を強く批判するプラトンのような学者が、「知の巨人」として活動し続けることができたのである。それも、逃げ場所のない狭いコミュニティのなかでのことだ。そんな文明国が2400年ほど前にあったのだ。 

 

参考文献

①橋場弦『民主主義の源流 古代アテネの実像』講談社学術文庫(2016年) 

民主主義の源流 古代アテネの実験 (講談社学術文庫)
 

 

②M・I・フィンレイ『民主主義ー古代と現代』刀水書房(1991年) 

 

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