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アラビア科学(イスラム科学)の歴史2 近代科学の戸口まで来ていた

アラビア科学のさまざまな成果をみわたす

前回の記事(アラビア科学の歴史1)で、中世のイスラムの国ぐには世界の繁栄の中心で科学研究がさかんだったこと、その科学が古代ギリシアの遺産を受け継いだものであることを述べた。本記事では最盛期のアラビア科学(イスラム科学ともいう)のさまざまな成果について、より具体的に紹介する。

 

 
アラビア科学の研究活動は、800年頃から1100年代のものがメインだが、それは近代初期のヨーロッパの科学者にとって直接の「先行研究」だった。中世から近代初期にかけてヨーロッパ人はイスラムの学問・科学に積極的に学び、そこから近代科学を生み出した。

以下、「近代科学の先行研究」としてのアラビア科学の成果についてみていこう。そこで登場するアラビア科学の巨匠たちの著作は、中世の西欧に伝わって大きな影響を与えたのである。アラビア科学の成果は、まさに「近代の戸口まで来ていた」ものだった。しかし、そこにはおおいに限界もあった。

 

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イスラムの帝国(800年頃、アッバース朝を中心に複数の国家を含む)

 

目 次

  

近代化学のための「道具」を用意

アルコールやアルカリは、アラビア語に由来する。アラビア科学では、さまざまな実験をともなう化学的な研究がさかんに行われた。こうした研究は錬金術(安価な金属から貴金属をつくる術)という、オカルト的研究と強く結びついていた。

しかしそこから、「蒸留」(加熱・蒸発によって特定の成分を分離する技術)「結晶化」「濾過」のような、近代化学にも受け継がれる手法も発達した。

また、ビーカー、フラスコ、蒸留器、漏斗、加熱用の炉などの実験器具が改良され、今日のものの原型ができた。アラビアの化学研究は、近代の化学が成立するための、さまざまな「道具」を用意したのである。

 

代数学の確立・三角法・アラビア数字など

数学も、アラビア科学の重要な部門だった。その最大の成果は、代数学の確立である。700年代の数学者アル・フワーリズミーは、現在も用いられる「アルジェブラ=代数」と「アルゴリズム」(問題解決のためのシステマティックな計算)という用語や概念の生みの親である。光学や測量で不可欠な三角法も、アラビア科学が生んだものだ。

なお、現在世界じゅうで用いられている「1~9」と「0」の数字は「アラビア数字」といわれるが、その原型は700年代にインドからイスラム世界に導入された「ヒンドゥー・アラビア数字」である。これは現在もアラブ諸国で用いられている。

このヒンドゥー・アラビア数字がやや形を変え、西欧に伝わったのが、アラビア数字である。アル・フワーリズミーは、インド起源の「0」を導入した先駆者といわれる。


天文学・観測データの蓄積

天文学では、多くの観測データの蓄積があった。天体観測は、正確な暦や礼拝の時刻表を作成するなどの実用に貢献した。

権力者は観測所をつくり、当代一流の学者たちが観測・研究を行った。たとえば、学問を重視したアッバース朝のカリフ(イスラム世界の皇帝にあたる)マームーンは、800年代前半にバグダードに観測所を建設している。

アストロラーベ」といわれる、持ち運びできる小型の天体観測機器も発達・普及した。アストロラーベのメインのパーツは、金属製の円盤のうえに天球を投影した目盛りが刻まれたもので、これをほかのパーツとともに操作し、天体の位置や高度、時刻、緯度などを計算する。形状としては「星座早見表」をイメージすればいい。いわばアナログ式のコンピュータである。

 

力学運動についての議論

このほか、力学運動についても論じられた。1100年代前半のスペイン(当時イスラム王朝が支配)で活躍したイブン・バーッジャは、権威とされるアリストテレスの運動論を批判した。

この批判は、西暦500年代のアレクサンドリアの哲学者ピロポノスの説を受けついだものだった。アリストテレス学派の運動論では、たとえば「10倍重い物体は10倍速く落下する」「投げた石が手を離れても飛び続けるのは、力を伝える媒体である空気が石を押し続けるから」といった(近代科学からみれば誤った)主張がなされるが、そこを批判したのである。

これは、ガリレオ・ガリレイ(1564~1642)の問題意識と基本的には共通している。

そして、イブン・バーッジャの説は、1100年代後半に同じスペインのイブン・ルシュドに取り上げられ、反論された。イブン・ルシュドはさまざまな分野で活躍した大学者で、アリストテレス支持の立場である。

アリストテレスの運動論をめぐる議論は、1300年代にイブン・ルシュドなどの著作を通じて西欧の学者にも伝わった。そして、当時のスコラ学者(キリスト教神学者・哲学者)のあいだでも論争が起こった。

こうしたスコラ学者の議論や、そこから生まれた説(1300年代のフランス人ビュリダンによる「インペトゥス=いきおい理論」など)は、ガリレオ・ガリレイにとって研究の前提だった。ガリレオは、ピロポノス的なアリストテレス批判を出発点として、アリストテレス理論の枠を出なかったスコラ学者の説やインペトゥス理論などと向き合い、それをのり越えていった。

 

光学研究、医学の巨匠たち

また、西暦1000年頃のイブン・アル・ハイサムによる光学の研究は、アラビア科学の最高の成果とされ、近代初期のヨーロッパの科学者に大きな影響を与えた。

たとえば彼は、日食を研究するために壁に小さな穴を空け、太陽光が穴を通過して太陽の映像が投射される装置を考案している。これは、写真の原理を先取りしたものだ。

アラビア科学における医学者としては、900年頃に活躍したアル・ラージーと、1000年代前半のイブン・シーナーがとくに有名である。2人とも多くの著作を残したが、アル・ラージーが病気の診断・治療に直接かかわる臨床研究の巨匠であるのに対し、イブン・シーナーは理論の構築にも力を入れた。

そして、どちらの著書も西欧の医学に、長いあいだ大きな影響をあたえた。アル・ラージーの『天然痘と麻疹について』は、天然痘についての最古の記述で、1700年代になっても訳本が西欧で出版され、熱心に読まれた。

イブン・シーナーの体系的著作『医学典範』は、アラビア医学を代表する基準書となっただけでなく、近代初頭まで西欧でも権威であり続けた。たとえばフランスの名門・モンペリエ大学医学部では、1600年代まで教科書として用いられた。

以上、アラビア科学について、その成果の一部をみわたした。ビーカーやフラスコ、代数学とアルゴリズム、国家による天体観測所、携帯型の天体観測器、アリストテレスの運動論への批判、写真の原理の先取り、近代初頭の西欧で教科書だった医学書……

たしかに最盛期だった800年頃~1100年代のアラビアの科学は、ギリシア・ローマの科学をさらに進化させ、「近代」に近づいていた。「近代への扉」のノブに手をかけるところまできていたのだ。

 

アラビア科学の限界

このようなアラビア科学の実像が、歴史研究で認識されたのは、1900年代、とくにその半ば以降のことだ。

1800年頃から欧米人は世界で圧倒的な力を持つようになったが、その結果、アラビア科学を含むイスラムの文化全般を不当に低く見るようになった。

数十年以上昔の欧米の多くの知識人や、その影響を受けた人びとが抱く歴史像では、アラビア科学は無視されるか、評価するとしても「ギリシア・ローマの遺産を保存して中世ヨーロッパに伝えた」というものだった。

しかし、現在では研究の結果、アラビア科学がギリシア・ローマなどの先行する文明の遺産を受け継ぎ、さらに進歩させたものだとわかっている。過去の遺産を単に「保存」しただけではないということだ。

ただし、だからといって、アラビア科学が科学の歴史において真に革命的なものだったとはいえない。

アラビア科学の成果は、たしかにいろいろとあった。しかし、それはギリシア・ローマの科学研究の枠組みを大きく超えるものではなく、その枠組みをより精緻にするなど、一定の手直しをしたものにすぎなかった。イスラムの国ぐにでの科学研究は、近代の扉を開くものではなかった。

アラビア科学の特色や成果とされることが、ギリシア・ローマ起源であることも多い。錬金術の研究は紀元後1世紀から200年代にローマ帝国ですでに盛んになっていた。天体観測器アストロラーベは、紀元前100年代のギリシアで原型がつくられている。「アストロ」はギリシア語で星のことだ。

 

前提はつねにギリシアの科学

アラビア科学の基礎や前提には、つねにギリシア・ローマの学者たちの書物があった。ローマの学者は古代ギリシアの科学をそっくり受け継いでいたので、要するに「ギリシアの科学」といってもいい。

なかでも、アリストテレスはイスラムの多くの科学者たちにとくに信奉され、その著作は学問全般にとっての「教科書」のようなあつかいを受けた。

たとえば、さきほど述べた大医学者イブン・シーナーは、西暦100年代に活躍した、ローマを代表する医学者ガレノス(ギリシア人)から、おおいに影響を受けている。ガレノスは、ギリシアの医学の元祖であるヒポクラテス学派(紀元前400年代~)の医学に精通し、アリストテレスをはじめとするギリシアの哲学についても深く学んでいた。

そしてそれはイブン・シーナーも同様だった。ガレノスもイブン・シーナーも、その議論の仕方や学問体系のスタイル、基本的発想は、アリストテレスの影響がつよくみられる。

たとえば、病気の原因としてイブン・シーナーは「質料因」「形相因」「起動因」「目的因」の4つの原因があるとしているが、これは、森羅万象に関してアリストテレスが述べた概念である(その内容についてはここでは立ち入らないが、哲学史ではおなじみの項目だ)。

イブン・シーナーは、ガレノスが拠って立つ古代ギリシア以来の「四体液説」という身体についての理論を基本的には支持していた。この理論は一言でいえば「病気は四種類の体液(血液、粘液、黒胆汁、黄胆汁)の調和が崩れることで起こる」というもので、もちろん今の医学からみれば空論である(なお、イブン・シーナーは病気の原因として「四体液」以外のさまざまな要素もあげている)。

そして「四体液」という発想は、世界を構成する基本要素として空気・水・土・火の「四元素」があるという、アリストテレスによって集大成された理論とも結びついている。その理論では、空気は熱と湿の性質を持ち、水は寒と湿、土は寒と乾、火は熱と乾である、などと説明される。そしてガレノスなどによれば、「四体液」のそれぞれも、四元素のような属性の組み合わせで成り立っているという。

イブン・シーナーもガレノスも、こうした四元素説の立場である。この四元素の説は、近代科学の原子論などに基づく物質観とは相容れない。

ただしイブン・シーナーは、ガレノスやアリストテレスの説をただくり返したわけではない。独自の観察や経験に基づく知識をつけ加え、理論の修正や強化を行った。ガレノスに対し異論も述べている。

そしてガレノスへの批判は、ほかのアラビア医学の巨匠たち――アル・ラージーも、医師でもあったイブン・ルシュドも行っている。とくに、アル・ラージーのような臨床重視の立場からみれば、理論体系よりも実際の経験が優先されるのは当然のことだった。

つまり、アラビアの医学者たちは、ギリシアの医学を、彼らの時代なりにアップデートしたのだった。しかし、ガレノス的な枠組みを破壊して新しい近代医学への突破口を開くということまでは行わなかった。

 

コペルニクスやガリレオはあらわれなかった

これは医学にかぎったことではなく、アラビア科学のほかの分野についても言えることだ。

天文学についても、イスラムの天文学者たちの主流はプトレマイオスに代表される「天動説」(地球中心説)の宇宙モデルを前提としていた。

観測データの蓄積は、天動説の(誤った)モデルを精緻化することにおもに用いられた。プトレマイオスの学説を批判的に検討したり、そのモデルの修正を主張したりする学者もあらわれたが、天動説を根本から否定することはなかった。

つまり、近代初期のヨーロッパでおこったコペルニクスとその後継者たちによる天文学の革命のようなことは、アラビア科学では起きなかった。

ガリレオのようにアリストテレスの運動論をくつがえして、近代力学への突破口を開く者もいなかった。イブン・バーッジャのように、ギリシア・ローマ時代の説にもとづいてアリストテレス批判をすることもあったが、それ以上の大きな展開はなかった。

ガリレオは執念深く実験をくり返して、自分の落下運動に関する理論を築いた。瞬間的で測定が困難な落下運動の代替として、振り子の運動を調べたり、さらには斜面をつくって球体を転がし、その速さを計測するといったことをしている。そのように本格的な実験的手法でアリストテレスの権威に挑戦する研究は、アラビア科学では行われていない。

また、化学的な研究がさかんだったといっても、その物質観はさきほど述べた「四元素説」によるもので、原子論に基づく近代化学とは異質なものだった。アラビア科学の学者たちは、アリストテレスの影響を強く受けていたので、たいていは反原子論者だった。

要するにアラビア科学では、コペルニクスやガリレオはあらわれなかったのだ。それは周知の、あたりまえのことだといえばそのとおりだが、きちんとおさえておく必要がある。

 

イスラム世界における原子論

ただし、イスラムの学者のなかに、原子論という近代科学の基礎となる説を支持する者が全くいなかったわけではない。「ムータジラ派」という、ギリシア哲学の影響を受けて合理的な説明に基づく神学を確立しようとする学者たちがいて、その系統に原子論者といえる人びとがあらわれた。

しかし、ムータジラ派は800年代には一定の勢力だったものの、クルアーンを絶対視する正統派の神学からみれば異端であり、少数派だった。そして、この学派は900年代には衰えていった。そこで、「合理的な神学」から派生した原子論支持の動きも、ほぼ消えてしまったのである。

原子論は、つきつめれば神を否定する唯物論につながる考えである。そのためキリスト教国家になってからのローマ帝国でも弾圧された。原子論がイスラム世界で発展しなかったのは、当然のことだともいえる。

 

「革新」よりも「精緻化」「応用」

なお、近年はアラビア科学について「近代科学を先取りした」という事例が強調されることも多い。たとえば「近代力学の先駆といわれるインペトゥス理論(前述)にはイブン・シーナーなどからの影響がみられる」「近代初期に西欧で発見されたとされる血液循環の理論は、アラビア科学に先駆者がいる」などと言われたりする。

しかし、これらの「近代科学の先取り」は、アラビア科学のなかでは大きな流れをつくることはなく、萌芽のままで終わったのである。

近年は知識人のあいだでアラビア科学の意義や成果を強調する傾向が定着している。それは「ヨーロッパ中心主義」の偏向を正す材料として、多文化主義的な思想からも支持される。しかし、その思想によってアラビア科の実態を歪めて捉えて、過大評価してはいけない。

つまり、イスラムの帝国で研究されたのは、ギリシアとローマの科学だった。ローマ帝国の科学は、ポリスやヘレニズムの時代のギリシアの科学をそっくり引き継いだものだったので、端的にいえば、アラビア科学はギリシアの科学だった。

ペルシアやインドなど、ほかの伝統からの要素が加わっていたとしても、ギリシアからの要素が圧倒的な比重を占めていことはまちがいない。

そして、イブン・シーナーが生きた西暦1000年頃からみて、紀元前300年代のアリストテレスは1300年余り前の人物である。1000年以上前の学者の書いたものが、学者たちに権威ある学術書として扱われているというのは、まさに根本的なレベルでの進歩の停滞、といえるだろう。

それは、近代における科学の進歩とは、様子がまったく異なる。現代の科学者たちは、たとえばガリレオやニュートンのような数百年前の偉大な科学者の本を、歴史的・哲学的関心で取り上げることはあっても、自分自身の研究の指針となる「教科書」として扱ったりはしない。たいていの場合は、前の世代の科学の本を手に取ることはない。

アリストテレスのほかに、幾何学のユークリッド、天文・地理のプトレマイオス、そして前に述べたガレノスとヒポクラテスはアラビア科学でとくに重視された巨匠たちだ。これらの学者たちは数百年~1000年以上のちのイスラム世界の科学者にとって「偉大な教師」だった。ギリシアの哲学・科学は、きわめて長期にわたって強い生命力をもっていたのである。

 

以上、古代ギリシアで生まれた学問・科学の遺産が、その後の長い時間にわたって生き続け、基本的な枠組みとして学問・科学を既定したということである。つまり、大きな「革新」よりも、古代からの枠組みを精緻化したり応用したりすることが中心だった。それがアラビア科学の根本的な性格である。

 

科学研究の後退

アラビア科学の研究は、1200年代あたりから衰退傾向となった。ただし「1400年頃まではすぐれた業績もかなりあったので、〈衰退〉はもっと後だ」という見解もある。

しかし、これまでみてきたようなアラビア科学を代表する研究は1100年代までに集中しており、1200年頃までにアラビア科学が創造性のピークを過ぎたことはやはり否定できない。その後も科学研究の伝統が続いていたとしても、である。

科学史家の伊東俊太郎は、アラビア科学の重要性を日本の知識人や読書家に知らせるうえでの功労者だが、こう述べている――アラビア科学は“十三世紀(1200年代)にはすでに峠を越し、十四世紀にはその最後の光芒を放ちつつ、十五世紀の後半以後はまったく衰えた”(『近代科学の源流』中央公論社、137㌻ カッコはそういちによる)。

 

神秘主義の台頭

イスラム世界で科学研究が後退する一方で、盛んになったのは「神秘主義(スーフィズム)」といわれる思想だった。これは、単純にまとめれば「論理や教義がどうのこうのといった理屈をこねずに、とにかく神を信じ、神に近づこう」という考え方である。

この思想は、イスラムの歴史の比較的初期の700年代にはあった。しかし、イスラムの教義や法を論理的に練り上げることを追求する神学者や法学者(「ウラマー」という)からみれば、「正統」とはいえないものだった。そして、理性的にものごとを認識しようとする哲学や科学とは、根本から対立する。

1000年代後半から1100年代初頭に活躍したアブー・ハーミド・アル・ガザーリー(1058~1111)は、神秘主義を代表する知識人である。そして、現在のイスラム世界でも「知の巨人」として、尊敬を集めている。

ガザーリーは、若くしてイスラムの正統派の知識人であるウラマーとして名をなしたが、やがて神秘主義に傾倒するようになった。そして、神秘主義を擁護するための論理を追求しようと、ギリシアの学問を徹底的に学んだ。

ギリシアの学問は、本来は神秘主義の論敵である、理性を重視する人びとが得意とするものだったが、ガザーリーは「敵の道具である〈論理〉を、自分たちも活用すべき」と考えた。

そして、ガザーリーは大きな成功をおさめた。アリストテレス的な論法を駆使して敵をつぎつぎと論破し、多くの支持を集めた。

ガザーリーのギリシアの学問への理解は、その学問への反対者だったにもかかわらず、きわめて高いレベルだった。中世の西欧では、彼の著作はラテン語訳され、アリストテレスなどのギリシアの哲学を理解する手引きとして読まれた。

しかしガザーリーは、その論理を駆使して物質現象における「因果関係」という観念を否定したりもしている。「すべての原因は神だ」というのである。これは学問・科学の否定である。

これに対し、1100年代後半の哲学者イブン・ルシュドは著作で反論した。イブン・ルシュドは前に述べた、アリストテレスの運動論についての論争で登場した学者で、アリストテレスの信奉者である。

しかし、イブン・ルシュドは多くの賛同を得ることはできなかった。彼はスペインのイスラム王朝で裁判官や君主の侍医を務めたエリートだったが、異端とみなされて晩年は不遇であり、監禁されたまま没した。かつて、キリスト教が圧倒的となったビザンツ帝国(東ローマ帝国)では、哲学者や科学者が「異端」として弾圧されたことがあったが、それと同様のことがイスラム世界でも起こったのである。

一方、アル・ガザーリーの思想は、「正統」とされる神学のなかに取り入れられていった。

アル・ガザーリーの成功の陰で、イブン・ルシュドが弾圧され没した頃(1100年代後半)から、イスラム世界では合理的な学問・科学への関心が後退していった。急速にそうなったかどうかは別にして、ガザーリーの成功は時代の変化を象徴するものだ。

それにしても、理性と対立するイスラムの神秘主義でさえも、ギリシアの学問を利用して大きく飛躍したのである。ギリシアの遺産の重要性を、ここでもあらためて確認しておきたい。

 

 参考文献

①伊東俊太郎『近代科学の源流』中央公論社(1978)現在は中公文庫 

近代科学の源流 (中公文庫)

近代科学の源流 (中公文庫)

 

 本書で伊東はこう述べる。“「アラビア科学」は、八世紀後半におけるギリシア科学書のアラビア語への翻訳に始まり、十世紀から十一世紀にかけてその頂点に達し、十二世紀にアラビア語訳されたギリシア科学書のラテン訳が始まるとともに、自らが保有し発展させたギリシア科学をラテン世界に引き渡し、十三世紀にはすでに峠を越し、十四世紀にはその最後の興亡を放ちちつつ、十五世紀の後半以後はまったく衰えた”

 

②ハワード・R・ターナー『図説 科学で読むイスラム文化』青土社(2001) 

 

③ジョージ・G・ジョーセフ『非ヨーロッパ起源の数学』講談社(ブルーバックス、1996

④小杉泰『イスラーム 文明と国家の形成』京都大学学術出版会(2011) 

 

⑤佐藤次高『世界の歴史8イスラーム世界の興隆』中央公論社(1997)

⑥ダニエル・ジャカール『アラビア科学の歴史』創元社(2006) 

アラビア科学の歴史 (「知の再発見」双書)
 

 

⑦板倉聖宣『科学の形成と論理』季節社(1973)、板倉『科学と社会』季節社(1971)

⑧前嶋信次『アラビアの医術』平凡社ライブラリー(1996) 

アラビアの医術 (平凡社ライブラリー)

アラビアの医術 (平凡社ライブラリー)

  • 作者:前嶋 信次
  • 発売日: 1996/05/01
  • メディア: 文庫
 

 

⑨『【縮刷版】科学史技術史事典』光文堂(1994)「アル=カーヌーン(医学典範)」の項 「ガレノス」の項 『科学史技術史事典』「四元素説」の項 『科学史技術史事典』「体液病理学説」の項

⑩五十嵐一訳『科学の名著 イブン・スィーナー 医学典範』朝日出版社、1981年の月報所収、種村季弘「アヴィケンナ焚書」、同書所収の伊東俊太郎による解説「アラビア科学とイブン・スィーナー」

⑪板倉聖宣『ぼくらはガリレオ』岩波書店(1972)同書はガリレオの実験について詳しい。

⑫板倉聖宣『原子論の歴史 復活・確立』仮説社(2004)

⑬小杉泰『イスラームとは何か』講談社現代新書(1994)

⑭アル・ガザーリー、神秘主義については、タミム・アンサーリー『イスラームから見た「世界史」』紀伊国屋書店(2011) 小杉『イスラームとは何か』 

イスラームから見た「世界史」

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