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初心者にも核心がわかる・明治維新とは何だったのか

そもそもの説明 

明治維新とは、とりあえずの説明としては「徳川幕府による支配体制が倒され、明治政府の新体制が成立した変革」のことです。

明治維新という変革をどう評価するのか。歴史的にどういう意義があったのか。つまり、明治維新とは何だったのか。

それについて、私(そういち)なりの見解はもちろん述べます。しかし、それ以上に読者が自分で考えるための、基本的な視点や材料を提供したいと思っています。

ただし通りいっぺんの解説ではなく、明治維新をめぐる近年の議論や、根本的な歴史認識についても触れます。それを「歴史好きではない」という大人の初心者にも読みやすいように。

では、そもそも明治維新とは、いつのできごとを指すのか?(ある程度知っている人はとばしてください)

明治元年は1868年です。この年に旧幕府の勢力は、薩摩・長州を中心とする倒幕の勢力との内戦(戊辰戦争・ぼしんせんそう)に敗れて完全に力を失い、それにかわる新政府が成立しました。「旧」幕府というのは、この前年に将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が朝廷に政権を返上して、徳川幕府という政権が形式的にはすでになくなっていたからです。「最も狭い意味での「明治維新」は、この政権交代のことです。

しかし、その政権交代までの激動やその後の改革などを含む一連のできごとを「明治維新」と呼ぶことも多いです。

そして、その始まりを1853年のペリーの浦賀来航として、終わりの時期を「最後の内戦」といえる1877年の西南戦争とすることが比較的多いようです。

ただし、ほかの見解もあります。明治維新の始まりについては、幕府の支配が揺らぎ始めた「天保の改革」(1841~43)の頃とする説もあります。また「幕末」とは、天保の改革以後かペリー来航以後をさします。

そして明治維新の終わりについては、1871~73年の「廃藩置県」「地租改正」などのとくに重要な改革が実施された時期とする説や、1889年の大日本帝国憲法発布の頃とする説など、いくつかの説があります。終わりの時期についてのほうが、諸説分かれているのです。

とにかく、明治維新とは10年単位の時間のなかで進行した大変革だったと理解すればいいでしょう。

 

目 次

 

「善玉vs悪玉」のフィルターで捉えられる明治維新 

じつは明治維新というのは、この記事のような解説を、入門ではあってもそれなりに突っ込んで行おうとすると、扱いがむずかしいテーマです。

それは、多くの人が明治維新に関しなんらかのイメージ・先入観を持っているからです。

そして、そのイメージはたいていの場合、歴史を「善玉と悪玉のたたかい」としてみるフィルターを通してつくられている。

このフィルターは(私に言わせれば)歴史を理解するうえでの妨げになります。しかし、広く行き渡っているものですし、明治維新に関してはとくに強力に作用しています。

この「フィルター」について検討するところから、話を始めたいと思います。

 

戦前の国家が編さんした『維新史』の枠組み 

明治維新を「善玉vs悪玉」としてみる――これは、ドラマや小説の影響でしょう。さらにその元をたどれば、明治維新の勝者、つまり明治から昭和の戦前にかけて体制側が広めた明治維新の歴史像があります。

明治維新の勝者が、維新を正しい変革であり、それを推進した側(薩摩や長州など)の主体となる人物を先見の明のある「善」として描くのは当然です。一方、旧幕府側は愚かな敵役、つまり「悪」だったということになります。

歴史家たちによれば、このように維新で活躍した藩や個人と、その敵役に注目する見方や、誰をどう評価するかの選択は、明治の末期頃から形成されたものです。

そして、昭和戦前期に国家事業として編さんされた『大日本維新史料稿本』四二〇〇冊というぼう大な資料集や、それをベースにした『維新史』全六巻という著作で集大成されたのでした。(三谷博『日本史からの問い』60~61㌻、『維新史再考』4㌻など)

維新史の研究者三谷博さん(1950~)は、“いまでも多くの人はこれら[『維新史』など]で設定された枠組みに囚われているように見える”と述べています(『維新史再考』4㌻)。

この「枠組み」とはつまり、「倒幕」と「佐幕」という二極対立の図式です。『維新史』はこの対立図式にこだわっていました(『日本史からの問い』63㌻など)。「二極対立」とは要するに「善玉vs悪玉」。

たしかに「善玉vs悪玉」の枠組みは、維新を描くドラマなどには今も影響をあたえ続けています。維新を推進した側を格好いい「志士」として描く作品を、私たちは多くみてきました。

しかし、ときには幕府側の視点に立った作品もあります。たとえば今年(2021年)の大河ドラマ「青天を衝け」は、幕臣だった渋沢栄一(1840~1931)が主人公で、幕府側に魅力的な人物が多く登場します。最後の将軍・徳川慶喜は主役に準ずる扱いで、大物スターといえる草なぎ剛が演じています。

一方で薩摩などの倒幕側は、やや「曲者」に描かれているところがあります。たとえばこのドラマの西郷隆盛(俳優はお笑いタレントの博多華丸)は、よくある「実直な大人物」のイメージではなく、傑物ではあるが油断のならない「策士」です。

こういう描き方は、近年の明治維新にかんする議論の流行を反映したものです。

 

幕府にも開明的な人材が多くいた 

近年の明治維新を論じた本には、「薩長は善玉、幕府は悪玉」という図式を批判して、「従来の維新像を覆す」とうたうものがあり、ひとつの流れをつくっています。

そのような本でまず強調されるのは、幕府の側が「愚かな守旧派」などではなかったということです。幕末の徳川の家臣には、海外情勢や西洋の技術について積極的に学び、新しい日本のビジョンを描く人びとが数多くいた、というのです。

私は、この手の「従来の維新像を覆す」的な本には懐疑的です。しかし、「幕府に開明的な人材が多くいた」という点は、そのとおりだと思います。幕末の最後の数年間には、幕府によるさまざまな改革もすすめられました。

そして、初期の明治政府は、官僚組織の最上層部は薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前)などの「勝者」の藩の出身者が主流でしたが、それ以下の実務官僚は、旧幕府の家臣が最大勢力でした。

“これらの旧幕臣は、洋学を通じて欧米の知識をもつ者や旧幕府時代の実務官僚などであり、江戸時代における幕府官僚制の遺産を明治政府が引き継ぎ、発展させた”ということです。(中村哲『集英社版日本の歴史16 明治維新』201~202㌻)

こうした人材をはじめとする、江戸時代のさまざまな遺産は、明治日本の近代化の基礎となったことはまちがいありません。

寺子屋の普及などによる識字率の高さ。前近代の社会としては高度に発達した商品経済・流通網・交通や通信の体系。統一的な貨幣制度等々…

こうした遺産も、「従来の維新像を覆す」系の本が強調することです。「江戸は素晴らしかった」というわけです。それは明治維新の価値を相対化することにもなります。私も、どこまで「素晴らしかった」かどうかは別にしても、江戸の遺産はやはり重要だったと思います。

 

徳川の新国家構想 

しかし、つぎのような話になると、「おおいにあやしいところがある」と思います。

ある本では、1867年(慶応三)の大政奉還(幕府が朝廷に政権を返上)の頃、徳川慶喜(1837~1913)は開明的な考えのもとに新しい日本の国家体制を構想していたと、強調しています。そして慶喜はイギリスのような議会政治の体制をめざしていた、とまでいうのです。

なお、大政奉還の頃の徳川慶喜たちは、倒幕側にかなり攻められていたとはいえ、まだまだそれに対抗するだけの力や条件を備えていて、いろいろな手をうっていました。大政奉還も、薩摩と長州が同盟して幕府を武力で倒す計画があることを察知して、攻撃されるまえに政権を返上したという、政治的な策略です。そうすると、「今の幕府の政権は不当なので、天皇の軍隊である我々がこれを討つ」という薩長側が掲げる名目が成立しにくくなってしまう。こういう大義名分的なことは、だいじなことでした。そして、慶喜たちは「幕府」という制度によらないで、自分たちが日本を治める体制を打ち立てようと構想していたのです。

この新体制の構想は、幕臣の津田真道(つだまみち、1829~1903)や西周(にしあまね、1829~97)らの立案にもとづくものです。津田と西は幕末にオランダに留学して法学を学んだ人材です。幕府にこういう人たちがいたという一例です。

「従来の維新観を覆す」系の、鈴木荘一『明治維新の正体』(毎日ワンズ)にはこうあります。

“大政奉還一カ月前の慶応三年九月に開成所[幕府の洋学教育施設]教授津田真道は慶喜を大頭領(大頭領)とする『日本国総制度』を慶喜に提出し、了承を得た。
 それからすると、徳川慶喜が考えた「大政奉還」とは、

「慶喜が政治上の指導者となって改革を断行する。そののちイギリス型の近代的議会主義へ転換する」

ことだったようである。”(新書版259㌻)

このような徳川による新しい政権構想について、前に述べた、昭和の政府による『維新史』は無視しました。「新時代を切りひらいた倒幕側と、守旧派である幕府側の対立」という図式には不都合だからです。しかし、戦後の研究のなかで光があたるようになり、近年はかなり重視されています。

 

注目すべきだが過大評価は禁物 

たしかに、こうした構想があったことは注目すべきです。しかし、過大評価もいけないと思います。

 「日本国総制度」のあと、大政奉還の翌月の慶応三年(1867)十一月付けで西周が作成した「議題草案(ぎだいそうあん)」という文書があります。これは、慶喜らによる政権構想の最終バージョンです。これから倒幕側との政治闘争に最終的に勝って、構築しようと考えていた体制のプランでした。

「議題草案」の構想は、政権中枢への参加メンバーの幅がそれまでの体制よりは拡大されるものの、結局は元・将軍である慶喜が政府のトップである「大君(たいくん)」として独裁的な権力をふるう体制です。

議会政治的な体裁もとられていますが、その議会(立法府)は、選挙によらない、大名という世襲の権力者が集まる「上院」がメインです。藩の家臣で構成される「下院」もありますが、そのメンバーは大名が選ぶのです。また、大名の領地は従来のままで、大名の政治的権限も大名が主導する立法府で決めるので、現状維持的になるはずです。そして、立法府のなかで対立があったときは、「大君」である慶喜がどうするかを決める。なお、天皇の政治的権限は、事実上認められていません。

これは、選挙された議員による「下院」が主導するイギリス型の近代的な議会政治とは大きく異なる体制です。そこからどのようにイギリス型に転換するのかは、まったく不明確です。

この「議題草案」については、田中彰さんの著作をおもに参照しましたが、田中さんはまとめ的にこう評しています。

明らかにこれは徳川統一政権構想である。大名会議なども組み入れた公儀政体論[政治参加の拡大]的よそおいのもと、…新たな官僚機構のもとで、徳川慶喜が絶大な権限を持つ統一権力の創出が企図されていたのである”(田中彰『明治維新』講談社学術文庫、45㌻)

しかし、その後戊辰戦争という旧幕府と倒幕側の武力衝突が起こって旧幕府は敗れ、「徳川の新国家構想」は実現しなかったのです。明治維新以後、慶喜は生きのびたものの、政治とは一切かかわらず生涯を終えました。

 

結局は「善玉vs悪玉」 

以上のような徳川慶喜らの構想から、「徳川による近代国家」がただちに実現しうると考えるのは過大評価であって、実態とはちがうと私は考えます。

しかし、過大評価する側の考えに立てば、明治維新などなくても、近代日本は徳川主導で切りひらかれていた、ということになるでしょう。そしてさらに、薩摩や長州は、日本の発展にとって必要のなかった争いを起こして政権を不当に奪いとったということもできる。

また、西郷隆盛(1827~77)や大久保利通(1830~78)らによる行いを具体的にみると、数々の乱暴で汚いことを行っている。まるでテロリストである。薩摩と長州(もともとは対立関係)の同盟をあっせんして幕府を倒すことに貢献したといわれる坂本龍馬(1835~67)は、イギリス人と組んで、そんなテロリストたちに武器を売ることで儲けていた…

先ほど引用した鈴木荘一『明治維新の正体』のサブタイトルは「徳川慶喜の魁、西郷隆盛のテロ」です。「魁(かい)」とは、「大きくて優れている」という意味です。

このような論をつきつめれば、明治維新というのは邪悪な過激派が立派なエリートを倒して行った、おおいなる過ちだったということになるのでしょう。

でも、私はこういう「従来の維新像を覆す」的な論理に、違和感があります。

この論理は、従来の明治維新の勝者の側がいう「善玉」「悪玉」をひっくり返したものです。その意味で「従来の維新観を覆す」ものではありますが、結局は「善玉vs悪玉」で歴史をとらえている。歴史の見方の基本は変わらない。つまり、「どっちがいい奴で、どっちが悪い奴だったか」ということがまず関心事で、「いい奴がやったことはいいことで、悪い奴がやったことは悪いに決まっている」という発想。

これは、明治維新という歴史上の複雑で大がかりな変革を理解する見方として、どうなんだろう…たしかにドラマだったら「善玉vs悪玉」もおおいに結構だし、私も歴代の大河ドラマを楽しんできましたが…

 

「変革がもたらした結果」にまず関心を向ける 

私は、明治維新のような社会全体におよぶ大変革を評価するときには、その変革を推進した人間が「いい奴」か「悪い奴」か詮索するよりも、つまり「どんな人間がどんな意図で行ったか」よりも、まず関心を向けるべきことがあると思います。

それは「その変革がどういう結果を社会にもたらしたのか」ということです。

これは、当たり前といえば当たり前のことです。現代でも、政治や企業経営で何かの変革が行われれば、その結果がまず問題になります。結果をきちんと検証しない場合もありますが、それは歪んだあり方です。

ここで論じている「従来の維新像を覆す」系の本は、たいていの場合「明治維新で社会がどう変わったか」をあまり論じていません。そういう意味でも、歴史の議論として疑問を感じます。

人物論・人物評価じたいは、もちろん歴史を論じるうえでの大事な要素です。しかし、明治維新ほどの大変革を理解するには、それよりも大事なことがある、といいたいのです。

 

明治維新の大変革① 中央集権化 

三谷博さんは、明治維新がもたらした政治的な変革は、「集権化」と「脱身分化」の2つに集約されると述べています。(『維新史再考』など)。

そして三谷さんは、とくに「脱身分化」つまり、武士がいなくなって、身分社会が解体されたことを重視しています。しかしその重要性は、人びとのあいだで十分認識されていない、とも述べている。三谷さんの本から引用すると…

“明治維新について、我々は何ほどを知っているだろうか。西洋への開国、尊王攘夷運動、王政復古、戊辰内乱、廃藩置県、文明開化、殖産興業、西南内乱、これらの事件や企図の連なりであったというのが大方の見方であろう。また、それを主導したのは薩・長であり、彼らが徳川幕府を打倒し、これに会津や東北諸藩が抵抗したという図式による理解も常識のようである。
 しかし、明治維新はそれだけだったのであろうか。近世の支配身分だった武士がいなくなった。これは維新を世界の諸革命と比べて論ずる根拠となる重要な事実だが、それは右の理解に含まれているだろうか”(『維新史再考』3㌻)

これは重要な指摘だと思います。そして、武士がいなくなった「脱身分化」と、藩が廃止されて集権的な国家が生まれた「集権化」は深く結びついている。以下、「集権化」と「脱身分化」について述べていきます。

「集権化」とは、天皇のもとに統一的な中央集権の国家をつくるということです。ここでは「中央集権化」ということにします。三谷さんの用語は言葉が凝縮されている分、初心者にはのみ込みにくいところがあると思います。

江戸時代の日本は、大名をはじめとする地方領主たちが支配する「藩」が全国に200数十~300ほどあって、それを最大の大名である徳川将軍の政府である「幕府」が束ねて支配する体制でした。将軍とは別の君主として天皇がいましたが、象徴的・精神的な権威であって、政治的な実権は皆無でした。

「大名」とは、1万石以上の領地を支配する藩主のことです。「石(こく)」は、米の分量とともに土地の生産力をあらわす単位です。「1石」相当の領地からは、1年間に1人が消費する米の平均量が収穫できるとされます。

以上の、徳川幕府による支配を「幕藩(ばくはん)体制」といいます。この呼び方は戦後の歴史学で定着した、比較的新しいものです。また、「藩」という概念や呼称も、幕末から明治にかけて定着したものです。

また幕府と、天皇の政府である「朝廷」との関係についても。まず、朝廷は武家に官位、つまり「天皇を頂点とする秩序における役職や身分」を授けました。徳川の将軍(征夷大将軍)も、形式的には朝廷から授かった役職です。

だからといって、朝廷が幕府の上に立っているということではありません。将軍の職は、徳川が実力で朝廷を動かして自分たちに授けさせたのです。また幕府は朝廷の構成員である公家を縛るルール=法度(はっと)を定め、これに違反した公家を処罰することもできました。

そして、各藩は今の都道府県よりもずっと独立性が強く「小さな国家」といえるものです。各藩には独自の軍事力や税制があり、幕府が各藩の家臣や領民に直接権力を及ぼすことは、原則的にはありません。ただし、高度の独立性があったのは、一部の大規模な藩だけで、その数は20~30ほどでした。

しかし一方で大名たちはみな、根幹では幕府に服従していました。幕府の命令によって軍務や工事を負担し、さらには参勤交代のような強制に従い、ときには領地を没収されたり、藩主を他所に移されたりしたのです。

明治維新では、幕府が倒されたあとは、一連の改革によってすべての藩が解体され、天皇を君主とする中央政府が一元的に全国を支配する統一国家が生まれたのでした。

 

版籍奉還から廃藩置県へ 

まず1869年(明治2)には、全国の藩主たちが自分の領地と領民を天皇に返上するという、版籍奉還(はんせきほうかん)が行われました。政府がそれを勧奨したり強制したりしたのです。「版」は領地のことで、「籍」は領民のことです。

版籍奉還によって藩主は「領主」ではなくなりました。しかし、新たに知藩事(今でいう知事)に任命され、自藩の政治をひき続き行うことになりました。

これは、藩主が「知事」に変わっただけ、という面もありますが、以前の「自分の領地から税を集め自分や家来を養う」という領主の立場から「政府から給料をもらう行政官」に変わったという、根本的な変更を含んでいました。それでも、元藩主がひき続き藩のトップである以上、実態としては中央集権にむけた変化は限られました。

そこで、1871年(明治4)には、廃藩置県が断行されました。藩は廃止されて県などが設置され、それまでの「知事」は解任されて東京に移り住むことになりました。そして、かわりに政府から派遣された役人が新たな「知事」となったのです(現代のように選挙で知事が決まるのではない)。

また、江戸時代の藩を受け継いでもともと300ほどあった府県は、3つの府と72の県に整理統合されました。

これで幕藩体制は完全に解体され、政府が直接に全国を統治する中央集権の体制が確立したのでした。

廃藩置県を行った時点で、政府は直属の軍事力を一定程度は整えていたので、その武力をバックに改革を推し進めることができました。また、かなりの藩が財政悪化などで疲弊し、「自分たちではとてもやっていけない」という感じになっていて、廃藩置県を受け入れる素地もありました。さらに、藩の指導層や知識人のなかには、主義主張として「中央集権化による強い国家の創出」を歓迎する者もいました。

 

大変革② 身分社会の解体 

さて、つぎは「脱身分化」です。ここでは「身分社会の解体」ということにします。

これは、支配者である武士とそれ以外の庶民(農民・町人)からなる、前近代的な身分社会が解体されたことです。「士農工商」といいますが、「農工商」は職種のちがいであって、身分としては「士」と「それ以外」という区分が実態です。

身分社会を定義すれば、「社会的な待遇や権利などの格差が生まれつき、法的に決まっている社会」ということです。現代の社会でも格差はありますが、それが「生まれつき」で、「法的に」そうなっているのがポイントです。

江戸時代には、武士の家に生まれないかぎり、特別な例外を除いて武士になることはできません。庶民が武士になったケース、あるいは名誉として武士の身分を形式的にあたえられたケースはありますが、やはりマイナーで低い立場です。庶民出身の武士が武家社会で一定以上の勢力になることは(少なくとも幕末の動乱の時代まで)考えられませんでした。

また武士は、今でいえば公務員にあたる行政の重要な職を独占していたので、そういう仕事に庶民が就くことはできません。また、武士は軍事力の担い手としての立場も独占していたわけです。

そして、武士とほかの身分のあいだの結婚は、制度的に禁止です。庶民が武士と結婚する場合も例外的にありましたが、その場合は庶民の出身者が武家の養子となって、一応は武士の身分になったうえで結婚する、などということが行われました。裁判での扱いも、武士と庶民とではちがいます。

さらに基本的なこととして、武士には税の負担はありません。武士はあくまで税をとりたてる側です。

また、武士に生まれたとしても、どんな家柄かによって武家社会のなかでどのような地位に就けるかは、ほぼ決まっていました。

たとえば福沢諭吉(1835~1901)が、ある史料を残しています。福沢は中津藩(今の大分県中津市)の下級武士の出身ですが、明治になって、武家社会の序列や格差の様子を『旧藩情(きゅうはんじょう)』という文章にまとめているのです。(以下、『旧藩情』の内容については山本博文『格差と序列の日本史』21~25㌻による)

福沢によれば、藩の武家社会の序列は「身分役名を詳細に分ければ百を超える」というほどの細分化された格差社会でしたが、大きくみれば「上士」=上級の武士と、それ以下の「下士」に分かれるといいます。

そして、上士のなかでも序列や大きな格差はあるものの、上士であれば元々は下のほうの者であっても、高い地位に出世することは可能でした。一方、下士には上士が占めている役職への昇進はほぼ閉ざされていました。

そして上士は、下士には下僕に対するような扱いをしました。福沢は「(下士は上士に対し)直にその名を言うを許さず一様に旦那様と呼んで」「その交際はまさしく主人と下僕の如し」と述べています。

福沢は自伝のなかで、血筋や家柄で地位が決まる「門閥制度は親の敵(かたき)」と述べています。『旧藩情』は、武家社会における門閥制度の理不尽な実態を、庶民や旧時代を知らない若者に知らせるために書いたものです。

とにかく、世の中が支配する側と支配される側に厳格に分かれ、さらに支配身分のなかでも、さらに身分差といえるものがあったのです。

これが、身分社会ということです。そして、身分社会の解体とは、要するに「武士という特権的な支配身分の解体」のことです。

 

廃藩置県で失職した武士たち 

廃藩置県の改革によって、それまで藩主の家来だった武士(藩士)たちは、その地位を失いました。失職したわけです。

さらに、政府は身分制度の改定を行い、大名、公家(の一部)を「華族」、一般の武士を「士族」、農民や町人を「平民」とすることにしました。この「平民」には、江戸時代に「えた・非人」として差別された人びとも含まれました。

そして、それでも旧武士=士族の3分の1くらいは、役所・学校・警察などで公務員としての職を得ることができました(三谷『日本史からの問い』77㌻)。

1881年(明治14)末でみると、中央と府県の役所に勤める官吏のうち士族は3分の2を占め、学校教員の4割は士族でした(中村『明治維新』296㌻)。ただし、その職は世襲ではないわけです。

一方で、士族の3分の2ほどは自営業や民間の賃金労働の仕事に就くか、まったくの無職になったのです。

また、平民も武士のように苗字を名乗ることになり、士族と平民のあいだの結婚も自由になりました。

身分によって職業が制約されることもなくなりました。職業の自由というものです。そこで、平民が公務員となって昇進することも可能になり、実際にそのケースも増えていきました。

さきほどの1881年(明治14)のデータでは、中央と府県レベルの官吏の3分の1は平民です。市町村レベルの役所だと、平民は官吏の9割を占めていました。

裁判も、1872年(明治5)には身分による違いはなくなりました。

また江戸時代には、人びとの移動や移住には制約がありました。実態としては、農村から都市への出かせぎや移住などはありましたが、それを幕府や藩は本来禁止すべきこととして扱いました。武士のおもな収入源は農村からの年貢なので、農村から働き手が流出することは避けたかったのです。明治以降は、そのような縛りはなくなって移動の自由が成立しました。中央集権の国家になった以上、それは必然的なことでした。

 

武士の特権の、徹底的なはく奪 

一方、旧武士=士族は、特権を徹底的にはく奪されていきました。1876年(明治9)には、「廃刀令」によって「武士の魂」である刀を帯びて歩くことは禁止されます。また、その頃には、1873年(明治6)の徴兵制施行によって、徴兵された平民が多数を占める軍隊が組織され、軍事力の担い手としての武士の立場も失われました。

しかし、それでも新政府は明治維新以降、華族や士族(華士族)に対し、武士だった頃の地位に応じた等級別に、年金(家禄という)を支給し続けました。これは当初は米で、のちに最後の頃には現金で支払われました。

この年金の額は、元大名の華族や上級の武士だった士族はともかく、下級武士だった者にとってはそれだけで生活するにはまったく足りないものでした。

そしてその華士族への年金も、1876年(明治9)に、将来的には打ち切られることが決まりました。

その決定により、華士族には政府から証文が渡されました。武士の頃の地位に応じて、等級別の年金の数年~十数年分が分割して償還される(支払われる)ことが約束された債券です。そして、以後国からの支給はないということになったのです。「秩禄処分(ちつろくしょぶん)」というものです。

華士族への年金=家禄は、政府の収入に対し3分の1の規模にもなる、大きな財政負担でした。また、家禄に対する世論の非難が徴兵制以降は高まっていて、新聞上で華族や士族は国の「いそうろう」「平民の厄介者」とまで言われることがありました。世の中は、すっかり変わったのです(中村哲『明治維新』289㌻)。

このようにして、明治維新から10年余りで、かつての武士の特権は完全に失われていきました。

明治初期の旧武士=士族の人口は家族も含めると、全人口の5~6%を占めていました。その頃の日本の総人口は3500万くらいです。その5~6%というと100数十万人。士族は全体からみれば少数派ですが、相当なボリュームです。それらの人びとの特権が、10年ほどで消滅してしまったのでした。

ただし皇族や、元大名と元公家(あとは明治維新の特別な功労者)からなる華族は、その後も特権的な存在として残りました。ただし、華族は合わせて500家族ほどで、国全体からみればごく少数の例外でした。

以上のような新政府の政策に反発した士族による、武力蜂起もありました。この「士族反乱」は、各地で計20数回は起きたといわれます。しかし、どれも限定的な動きで、新政府に弾圧されてしまいました。

士族反乱のうち、西郷隆盛が薩摩の士族を率いて立ちあがった1877年(明治10)の西南戦争は、最大で最後のものでした。この戦いに西郷らが敗れてからは、政府への抵抗は武力ではなく、おもに言論によって行われるようになります。西南戦争以後、日本では「内戦」といえるような「国内勢力どうしの大規模な武力衝突」は起きていません。

明治維新の結果、かつての支配身分だった武士は、滅ぼされてしまったといっていいでしょう。こういう変革を「革命」というのです。

 

奇妙な革命? 

そもそも明治維新をおしすすめた主体は、倒幕をめざす武士の一派でした。中心となったのは、薩摩・長州という、有力な外様(とざま)の藩主とその家臣(藩士)たちです。それに一部の公家が協力しました。「外様(外様大名)」とは、おおまかに「徳川家康の頃からの家来でも徳川の親戚筋でもない大名家」のことです。

そしてごく初期の明治政府では、トップの中枢に有力な藩主や公家がいたのですが、廃藩置県のあとの頃からは、政権の中枢をもっぱら藩士たちが占め、主導権を握るようになっていました。

それは木戸孝允(長州、1833~77)、西郷隆盛、大久保利通、大隈重信(佐賀、1838~1922)、板垣退助(土佐、1837~1919)といった人たちです。これに続く世代として伊藤博文(1841~1909)や山県有朋(1838~1922)のような、のちの時代に最高権力者となる人たちもいました。また、廃藩置県の際、それまでの藩主にかわって各府県に派遣された「知事」の多くも藩士たちです。

しかも、これらの政府の要職を占めた人びとの大部分は、藩士のなかでも高い身分ではなかった下級武士の出身でした。

やや単純化していえば、明治維新は「下級武士の一派が藩主や天皇をかついで幕府を倒し、天下をとった革命」でした。

しかし、権力者にのぼりつめた元・下級武士たちは、かつての自分の藩主を政権から排除し、一方で自らの出身母体である武士の特権を奪っていきました。そして、天皇という権威のもとで新しい秩序をつくり、そこに君臨しようとした。この改革でとくに困ることになったのは、かつての下級武士の多数派です。かつての下級武士には、新政府で高官となる者や、官吏の職を得た者もいましたが、それができなかったケースのほうが多かったのです。

下級武士が起こした革命で武士が滅ぼされ、とくに多数派の下級武士が既得権を失って苦しんだ――見方によっては、これは矛盾のある、奇妙な革命です。

しかし、当時の明治政府の権力者たちにとっては、かつての藩主との関係や、出身地の藩士たちのことよりも、自分たちが立ち上げた新政府をなんとか軌道に乗せて、自分が生き残っていくことがまず大事だったのでしょう。

また、同じく下級武士出身で「門閥制度は親の敵」と述べた福沢諭吉のように、武家社会の身分秩序を憎む気持ちも、彼らのなかにはあったかもしれません。もちろんそれは、単なる恨みではなく、社会のあるべき姿を追求する気持ちでもあります。

たとえば伊藤博文は、そうだったかもしれません。伊藤は急進的なかたちでの秩禄処分(士族への年金打ち切り)をすすめようとして、より穏健な方針だった木戸孝允などのトップリーダーと意見対立しています。(中村『明治維新』287~288㌻)

こう考えると、最初のほうで触れた、徳川慶喜がトップに立つ「徳川統一政権構想」がもしも実現していたら、つまり討幕側が勝利しなかったら、「身分社会=武士身分の解体」はどうなっていだろうか、などとも思ってしまいます。

あの「徳川統一政権構想」だと、元・将軍が絶対権力者で、諸大名が立法府の主体です。そのような、従来の身分秩序の頂点にいた人たちが横すべりしたような政府が、武士を支配者とする秩序を、急速に徹底的に破壊するとは考えにくいです。それでも最終的には武士身分は解体されたかもしれませんが、もっとゆるやかで不徹底なものになったのではないでしょうか?あるいは、次の段階の別の「革命」を必要としたかもしれません。まあ、これは「もしも」の話で、結局は何ともいえないのですが。


最初の国家構成法「政体」における人材登用の方針

一方、旧幕府軍との戦いに(一部抵抗が残っていたものの)勝利した新政府は、1868年(明治元)四月に「政体」という法令を公布しています。これは政府組織を構成するうえでの基本ルールを定めた「国家構成法」といえるもので、その最初のものです。

その条文のなかには、「九等からなる官制のうち、一等官には親王、公卿、諸侯でないかぎりなれない」とある一方、二等官以下は原則として「藩士、庶民といえども人材を登用する法を設けて二等官にまでなれる(ただし男性のみ)」という規定がありました。(三谷博『維新史再考』312~313㌻)

藩士だけでなく、庶民にも政府高官になることが可能だというのです。大臣級の最高の地位については、公家や大名限定とはえ、こういうことが政府の基本原則として打ち出されたのは画期的なことです。三谷博さんはこの条項を“要するに、幕末にしきり唱えらえれた「人材登用」が制度化された”ものであり、「脱身分化」の開始だと評価しています。(『維新史再考』311㌻、313㌻)

また、この「人材登用」に関する「政体」の条文は、「政体」よりも1か月前に公布された「五箇条の誓文(ごかじょうのせいもん)」という、明治政府の基本方針をより具体化する一項目といえます。

五箇条の誓文には、たとえば
「広く会議を興し、…」(第一条)
「上下心を一にして、盛んに経綸を行ふべし(日本人は身分をとわず国家の経営に参加すべし)」(第二条)
「官武一途、庶民に至る迄、各其の志を遂げ、…(庶民を含め自己実現を遂げて)」(第三条)
といったことが述べられていました。

下級武士たちがおもに実務を担って成立させた明治の新政府では、そのスタート時点から、従来の身分秩序の解体という方向性が意識されていたのです。

 

改革は何をもたらしたのか 

「中央集権化」と「身分社会の解体」という、明治の初期に行われた大改革。これは明治維新による変革の核心でした。

しかし、そうした“基本的事実は忘れられがち”だと、三谷博さんは言います。多くの人は、国家編さんの『維新史』のような枠組み、つまり私の言い方だと「善玉vs悪玉」の枠組みにとらわれて、そうなってしまうということです(『維新史再考』4㌻など)。

もちろん「中央集権化」と「身分社会の解体」のことは、教科書などでも述べられています。しかし、その重大性が人びとのあいだで十分認識されていないのではないか。

では、「中央集権化」と「身分社会の解体」は、社会をどう変えたのか。

これこそが肝心なことです。それについて、三谷さんのような、明治維新の核心をとらえている論者でも強調していない、基本的で重大な変化があります。

それは明治維新以降、本格的な人口増加が始まったということです。

 

歴史人口学による江戸時代の人口 

日本の総人口は、江戸時代が始まった1600年頃の1500万人から、1720年には3100万人に増加しました(なお、1600年頃の人口については1200万人から1600万人まで、いくつかの説あります)。この間の年平均の増加率は0.61%です(鬼頭宏『図説 人口でみる日本史』77㌻、以下断らないかぎり日本の人口データは同書による)。

この「江戸時代前半」といえる時期は、新田開発などで耕地が大幅に増えるなど、活気のある成長期でした。

江戸時代は、人口についての史料が、数百年前としては豊富に残っています。全国各地で「宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)」という戸籍簿のようなものがつくられ、1720年代から1846年までは6年に一度、幕府が全国の人口を集計することも行われました。

そうした史料をもとに、歴史人口学者はかなり正確な人口を推定できるのです。

しかし、1720年頃以降、日本の人口は停滞期に入ります。この停滞は幕末まで続きました。1846年の日本の人口は3230万人で、120年以上経ってもほとんど増えていません。1721~1846年の年平均の増加率は、わずか0.03%です(この時期についても3000万人から3200万人程度まで、推定がいくつかあります)。

人口の動きは、社会・経済の活力と密接に関係があります。そのことは、今の日本で人口が減少しつつあることを思えばイメージしやすいはずです。かつての成長の時代が終わって低成長の成熟社会になり、日本に以前ほどの活気がなくなっていることは、多くの人が認識しているでしょう。そしてそのような時代に、おもに出生率の低下によって人口減少が始まっているのです。

歴史人口学者の鬼頭宏さん(1947~)は、江戸時代後半の人口の停滞について、こう述べています……この時代、人口の増減は地域によってかなりの違いがあり、大きな災害もくり返された。しかし、そういう個別的なことの積み重ねで、結果として人口停滞となったのではない、と。

“この時代は、ひとつの文明が成熟して、人口と資源、エネルギーとの間に緊張が高まった時代である。日本列島の環境が許容する人口規模の天井に接近したために、もはや技術発展を実現して生活様式を大きく転換しない限り、人口は増える余地がなくなった時代なのだ。江戸文明というひとつの文明システムが、発展の限界に達したのが18世紀[1700年代]だった”(『図説 人口でみる日本史』102㌻)

 

明治維新以降の転換 

ところが、明治維新以降、それまで百数十年にわたって停滞していた人口が、はっきりと増加に転じました。

ただし、鬼頭さんなどの歴史人口学者は、「人口増加は、幕末の前の1820年代には始まっていた」と指摘しています。

1846年の幕府による最後の全国人口調査から、明治政府による近代の戸籍制度が始まる1872年(明治5)までは、全国の人口を集計した史料が存在せず、「空白」となっています。しかし、研究者はほかのいろいろな史料から推定して、どうにか「空白」の時代の全国の人口についても明らかにしています。その推定によれば、「明治維新のかなり前から人口増加が始まり、明治以降の人口増加につながっている」ということです。

こういうことが歴史人口学の研究で言われているので、多くの学者は「明治維新で人口が増え始めた」ということを強調しないのかもしれません。

しかし、もう少し人口の動きをみてみましょう。鬼頭さんによれば、1846年の日本の人口は3230万人で、1872年(明治5)には3481万人。この期間の年平均の増加率は0.29%です。

これに対し、明治維新以降の1873~78年における人口増加率は年平均0.91%。1878~83年は0.90%です(人文地理学者・高橋眞一さんによる)。

その後増加率は1880年代は0.6~0.7%台になりますが、1894年以降はおおむね1%台を超えるようになります。

なお、明治元年(1868)の直前・直後をみると、1863~68年は0.58%、1868~72年は0.46%。(高橋「江戸後期から明治前期までの年齢別人口および出生率・死亡率の推移」2017)

そして、その人口増はおもに出生率の上昇によるものでした。

1890年頃からの「年平均1%台」の人口増加はその後も続き、大正15年(1926)には増加率は最高の1.68%に達しました。この年に人口は初めて6000万人を超えています。そして大正期以降は、死亡率の低下が人口増に大きく影響するようになりました。

前に述べたように、江戸時代の前半(1600~1721)は人口増加の時代で、その年平均の増加率は0.61%でした。これに対し1872年(明治5)以降はその増加率を明らかに超える状態が何十年も続いたのです。

つぎのグラフは、江戸時代から西暦2005年までの日本の人口を示したものです。ここまでのまとめです。

 

日本の人口のグラフ
(板倉聖宣『歴史の見方考え方』のグラフを模倣しそういち作成)

 

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人びとのエネルギーを解放した 

以上のように、明治維新以後、とくに中央集権化や身分社会の解体といった大改革が行われた1870年代以降、人口増加は明らかに加速し始めます。幕末の頃からの人口増加とは、ペースが変わってくる。その後、高い増加率は何十年も続いていく。

明治初期の変革が、社会に空前の変動をもたらし、そこから始まった巨大な運動がその後長期にわたって持続したことがうかがえると思いませんか?

「中央集権化」と「身分制の解体」は、江戸時代に抑制されていた日本人のエネルギーを解放した、といえるのではないでしょうか。

そのエネルギーが、鬼頭さんのいう江戸時代の「限界」を突破していった。人びとのエネルギーは、大小さまざまな技術や組織・システムなどの改革・改良に向かっていった。

それはそうでしょう。武士以外の人びとは社会を動かす中枢の役割に関与できず、武士だとしても、生まれた時点でどこまで昇進できるかが決まっている社会と、そうでない社会では人びとのやる気は全然ちがうはずです。

こうした「エネルギーの解放」ということを、最も根底的なレベルで示しているのが、この人口増です。

 

「上級国民」が優遇される社会を想像してみる 

想像してみてください。仮に、今の日本社会で人口の数%を占める数百万人の「上級国民」という人びとがいたとします。

その上級国民以外は、公務員や、大企業の管理職にはなれない。また上級国民は税金や裁判で優遇されていて、上級国民と一般国民のあいだの結婚は禁止されている…これらのことが、「忖度」などではなく明確に憲法や法律で決まっている。

そんな社会だったら、一般国民はやる気がなくなりますよね。前向きに、積極的に生きる気持ちはおさえられてしまう。でも、江戸時代ってそういうことだったわけです。

そして、何かの革命が起こって、上級国民の特権がすべてはく奪されて、法的にはみんな対等ということになったら、多数派の一般国民にとって、喜ばしいはずです。貧富の差などのさまざまな格差は残っていたとしても、です。

 

板倉聖宣『歴史の見方 考え方』 

明治維新以後に本格的な人口増加が始まったことや、その重要性について、私は大学生だった1980年代の終わりに読んだ、板倉聖宣『歴史の見方 考え方』(仮説社、1984)という本から学びました。

また「革命はもたらした結果が重要」ということや、明治維新を武士が武士の世を終わらせた「奇妙な革命」であるという見方も、同書で板倉さんが述べていることです。かなり昔の本ですが、この本は今も古くなっていません。上記の人口のグラフも、板倉さんによるものを模倣したものです。

板倉聖宣(いたくらきよのぶ、1930~2018)さんは科学史家出身の教育学者ですが、歴史教育の基礎として、歴史そのものの研究も行いました。

板倉さんは、この本のなかで「歴史の大きな流れは、人物中心の歴史ではわからない」と述べています。だから、その社会を成り立たせている人間全体の流れに着目する必要がある。そこで“まず着目すべきものは、その人間の数――人口”であると。(87~88㌻)

そして、明治維新以後の人口増について、こう述べます。

じつは江戸時代の後半の藩のなかには、人口を増やすためにさまざまな手をうったところもあった。「子どもを間引きしてはいけない」と坊主に説教させたり、出産祝い金や育児支援金を出したり…でも人口は増えなかった。

“それなのに,その同じ大衆が,明治維新以後,子どもを産み育てるようになったのです。これはどうしたことでしょう。
 きっと一般民衆は明治維新とその後の政治の動きに希望を見出すようになったにちがいありません。それで,子どもを産み育てるようになったと思うのです”(190~191㌻)

 

歴史学者たちの見落とし 

ただ、板倉さんのこの本では、民衆が明治維新をどうとらえたかを示す、個別の発言やできごとについては述べていません。それよりも「全体の流れ」を示す、いくつかの統計――鉱山の産出量や車両の増加など――を取り上げています。それが板倉さんの方法で、たしかに重要なデータです。

しかし、今回私は「民衆が明治維新に希望を見出した」ことを示す、個別的な話も取り上げたいと思って、いくつかの明治維新の概説書などにあたりました。おおいに勉強になりましたが、しかし、そのくらいでは特別これといった材料はみつかりませんでした。

それでも、たとえば福沢諭吉の『学問のすゝめ』という「新時代の身分は生まれつきではなく、学問をするかどうかによって決まる」ことを最大のメッセージとする本が明治前期の大ベストセラーになった、ということがあります。これは、当時の民衆の雰囲気を示す一例でしょう。

この本は1872年(明治5)に第1分冊が出て大好評だったためシリーズ化され、その後数年で第17分冊まで出版されます。

そしてこの『学問のすゝめ』シリーズは、累計で300万部は売れました。

当時の日本の人口が3500万くらいですから、今の日本なら「シリーズ累計1000万部」くらいの超ベストセラーです。たしかに一定の教育のある人しか読まなかったのでしょうが、しかし「読書する人なら誰もが読んだ」といえるくらい売れたのです。そして、「身分社会の終わり」を歓迎する時代の雰囲気が、この本をベストセラーにしたのでしょう。

このほかにも、もっときちんと探せば、より適切な何かがみつかるのではと思いますが、今後の宿題とします。

しかし、私の調べ方が浅いとはいえ、「明治維新に希望を見出す民衆」のことが、一般的な概説書ですぐにみあたらないのは、主流の学者たちの関心の持ちかたを示しているのではないでしょうか。

つまり、明治維新を研究する有力な学者たちが「明治維新以後に人口が増え始めた」ことを重視せず、明治維新が民衆にとって「明るい希望」といえる面があったとは、あまり考えていないということです。これらのことは、多くの学者が見落としている、といっていいのでしょう。

板倉さんも、そのような歴史学者の見落としを指摘しています。歴史の本で取り上げられる民衆といえば、悲惨な貧困にあえいでいるとか、一揆を起こしたとか、そういうことばかりであると。板倉さんの著書が出た頃からかなりの年月が経ちましたが、おそらく状況は変わらないようです。

ただし近年は、「江戸時代の庶民は、悲惨ではなくてそれなりに充実した暮らしをしていた」ことを強調する本がかなり出ています。

その指摘じたいは、江戸時代の良かったところを過大評価さえしなければ、意味があると私も思います(しかし、過大評価の傾向が強い)。

ところが、明治維新が「庶民にとってどうだったのか」になると、その「明るい希望」としての面に注目することは流行らないようです。

 

「生きづらい明治社会」? 

2018年に出版された、松沢裕作『生きづらい明治社会』(岩波ジュニア新書)という本があります。著者の松沢さんは1976年生まれで、比較的若手の学者です。この本はサブタイトルにあるように、明治時代を「不安と競走の時代」として描いています。そして、この本はかなりの評判を呼んだようです。

この本でも、明治維新によって身分制が廃止されたこと、人口増や経済発展が始まったこと、武士以外の人びとによる政治参加が始まったことなどの改革について「はじめに」の部分で簡単に触れています。

しかし、それを「大きな変化」と認めつつも、“このような変化は「良い変化」だったのでしょうか”と問いかけ、こう述べています。

“私には、これまで明治時代の歴史を研究してきて感じることが一つあります。それはこのような大きな変化の時代の、そのさなかに自分が生きていたら、とても不安だっただろうということです。これまでの社会の仕組みがガラガラとこわれ、見通しのはっきりしないなかで新しい社会の仕組みがつぎつぎとできあがっていく。良くも悪くも人生に見通しが立てられた時代がいきなり終わってしまったわけです。私は臆病なので、そんな社会に生きることを考えると、なかなかつらいだろうなと思ってしまいます”(『生きづらい明治社会』はじめに)

そして、そういう社会で自分を発揮して成功をつかめる人はいるだろうけど、そうではない人たち、つまり“大きな変化のなかで不安とともに生きたたであろう、明治の人びとに目を向けてみたい”というのです。

この本は、明治時代と現代の格差社会(格差が拡大傾向で固定化しつつある社会)とを重ね合わせているところがあります。そして、このような「生きづらい明治」という見方を新鮮だと思う人も、多くいるのです。

この本の著者よりも上の中高年世代の、読書をする人たちのあいだでは、どちらかかというと、司馬遼太郎(1923~1996)的な「明るい明治」というイメージが有力でした。

たとえば司馬の代表作『坂の上の雲』(新聞連載1968~72)では、明治を精いっぱい前向きに生きて道をきりひらいた青年たちが描かれています。

「生きづらい明治時代」論は、そういうオジさんたちの明治像を否定するものです。

ただ、司馬史観的「明るい明治」というのも、さらに昔の(昭和の高度成長期、つまり1950~60年代までの)マルクス主義が非常に有力だった時代の明治像に対するアンチテーゼ(反論)という性格がありました。

当時のマルクス主義的な、よくある歴史観によれば、明治維新で成立したのは、地主や資本家が民衆を搾取する過酷な社会です。そしてその社会を、天皇を絶対君主とする非民主的で抑圧的な政府が支配しているということです。

「生きづらい明治」という見方は、往年のマルクス主義的な明治像を、装いを新たにして述べているような感じが、私にはします。

そして結局、古い世代も新しい世代も、歴史家たちの多くは、たとえ「マルクス主義は全否定する」という人でも、マルクス主義的な「生きづらい明治」という見方に、多かれ少なかれ影響を受けているように思います。

だから、さきほども述べたように、学者による明治維新の本を多少読んだとしても、「明治維新に希望を見出した民衆」というものは、まずみあたらないのです。政府に不満を持って抵抗する姿や、貧困に苦しむ様子のほうはあるのですが。

 

さいごに 

「生きづらい明治」論に対し、私はおおいに違和感があります。その違和感は、この記事の前半で批判した「善玉vs悪玉」の図式に対して抱く以上かもしれません。

「そんなにも不安で生きづらいばかりの社会なら、多くの人びとがさかんに子どもを産み育てるようになる、なんてありえない!」と思うからです。

松沢さんのような学者は、明治以降の人口増加については当然知っていますが、その重要性を無視している。

もちろん、人口が増え、経済が発展したからといって、その社会がバラ色だったなどということはありません。

明治の社会は、今の私たちからみれば目を覆いたくなるような悲惨や理不尽に満ちた、ひどい格差社会でした。明治維新は、それまでの身分社会とはちがう性質の、新たな格差を生んだのでしょう。その点では、松沢さんやかつてのマルクス主義者が描くことは、まちがっていないと思います。また、江戸時代の身分秩序が明治以降も影響を残したということも、ここでは立ち入りませんが、やはりいえると思います。

しかし、絶望的な時代だったかというと、そうではなかったのではないか。いろいろ苦しみや不安もある一方で、希望を持って前向きに生きた人も分厚くいた時代なのでは、と思います。

月並みかもしれませんが、やはりものごとの両面をみていくしかない。

そしてそもそも、江戸時代の身分社会のほうが、より多くの理不尽に満ちた究極の格差社会ではなかったか?

明治維新は、そのような旧い「身分社会」という、それまでの時代において人びとのエネルギーをおさえていた根幹の問題を解決したのだと、とらえることはできないでしょうか。それがつぎの新しい問題を生んだとしても、まずはその時代の大きな課題にこたえる、精一杯の問題解決を行ったのだと、評価すべきではないか。

「明治維新は、身分社会の解体によって人びとのエネルギーの解放をもたらした」

「そのことは人口の動きに端的にあらわれている」

この視点は、明治維新を理解するうえで、基礎になるものだと思います。ほかのくわしい知識よりも、先に知っておくといいです。

この視点は、多くの歴史の本では強調されません。でも、ひとつの「考慮すべき仮説」ということでもいいので、知っておいて損はないです。

仮に私の論調に賛成できなくて、この記事で私が批判した側のほうに共感するとしても、考えを深めるのに役立つはずです。

なお、明治維新については、その具体的な経緯をたどることも、本質を理解するうえで非常に大事ですが、別の機会にします。また、フランス革命などの海外のほかの革命との比較も重要なことですが、これもまたあらためて。今回は明治維新について「まず最初に知って欲しいこと」に絞って述べました。それでもずいぶん長くなりました。さいごまでおつきあいくださった方、ありがとうございます。

 

参考文献

とくに以下の本を参照し、その多くから引用しています。いずれも明治維新や日本史について知るうえでおすすめです。

ブログ記事でいうのも何ですが、明治維新についてはネット上の解説や見解をいろいろ読むことができますが、そういうのはほどほどにして、まずはできるだけここであげたような、有力な学者によるまとまった概説書を1冊は読んでみることをおすすめします。そのほうが豊富で正確な情報に触れることができ、理解が深まります。ちょっと読みづらいところもあるかもしれませんが、そこは読み飛ばしたっていいですから、まずは通して読んでみましょう。

明治維新の概説書は、いくつかあたりましたが、田中彰さんと中村哲さんの以下の本がおすすめです。少し昔のものですが、新しければいいとは限らない。少なくとも、今どきの本の議論の前提がわかります。中村哲さんの本は、経済史家によるものだけに、社会・経済の動きや統計的な情報についても多く触れているのが特徴です。 

  

この本は「ジュニア新書」なんですが、完全に大人向けです…

  

 

三谷博さんの明治維新論は、この記事のベース(のひとつ)ですので、もちろんおすすめです。『維新史再考』は、「明治維新論」ではありますが、オーソドックスに幕末以降の維新の経緯を詳しく追いつつその意味を考察するもので、全体の経緯を知るための概説書としても読めます。三谷さんの明治維新に対する見方は、論考集である『日本史からの問い』のほうが簡潔で主旨がわかりやすいです。

 

  

 

鬼頭宏さんによる日本の人口史、板倉聖宣さんの本 

  

 

ほかに、江戸時代の身分社会、とくに武家社会における格差や序列について知るには、この山本博文さんの本は、かなりわかりやすいです。それが明治以降どう変わったかについても、参考になります。江戸時代の制度的なことを具体的に述べた本はたいてい読みにくいですが、この本ならどうにか読めます。山本さんは江戸時代の制度や武家の暮らしなどに詳しい研究者です。 

 

批判的に取り上げた本も。 

 

 

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